行事風景
恵まれた人々
久留米教会の、わたしが1番好きな風景です。
ミサの後、あちらこちらで語り合うみなさんの様子。
コロナ前は、ミサの後にはコーヒーが振る舞われ(バザーとして)、たくさんの方々が集まって語り合っていました。
今は、こうした形ではありますが、大切な時間だと思います。
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特異な才能を持つ子どもたちの能力を伸ばすための教育の必要性が、日本でも議論され始めている、とニュースで知りました。
小学校低学年で大学レベルの教科書を理解している、とか、ある科目だけは抜きんでた理解力を持っている、など、特定分野に顕著に高い能力のある子どもを『ギフティッド』と呼ぶそうです。
そうした子どもたちのためのギフティッド教育は、生まれつき特別な才能を持つ子どもたちの能力を伸ばすための教育手法で、アメリカでは40年以上前から実践されています。
「ある教育研究所の調査によれば、小学校で学校教育についていけない『落ちこぼれ』は約15%いるといわれるが、それとほぼ同じ比率の約13%が『吹きこぼれ』、授業が簡単すぎてつまらないと感じる子どもたちが存在する」とニュースの記事に書いてありました。
『吹きこぼれ』という呼び方には少し抵抗を感じますが、『ギフトが与えられた子ども』giftedという表現は、心に響きます。
自分の子どもが「学校の授業がつまらない」と言ったら、「うちの子は落ちこぼれだろうか」と心配になるでしょう。
でも、「うちの子はギフティッドなのかも」と思えたら。
イエス様が好んで関わられた人々、障害のある人たちのことをイエス様は「ギフティッド」だとおっしゃいました。
ヨハネ9章の、「生まれつき目の見えない人」は「神の業がこの人に現れるためである」というように。
わたしが大きな病気をすることになったのは、もしかしたら生まれた時からの運命だったのかもしれない、と思っています。
そしてそこのこと自体が「ギフト」なのだ、と思ってずっと生きてきました。
わたしはお前を永遠の愛をもって愛してきた。
それ故、わたしはお前に慈しみを示し続ける。
まことに主はこう仰せになる、
見よ、わたしは彼らを北の地から連れ戻し、彼らを地の果てから集める。
彼らの中には目の見えない者、体の不自由な者、身籠った女と臨月を迎えた女もともにおり、彼らは大きな群れを成してこの地に帰る。
彼らは嘆きながら帰ってくる。
わたしは哀願する彼らを導く。
わたしは彼らを水の流れのほとり、滑らかな道を行かせる。
彼らはつまずくことはない。
(エレミヤ31・3、8〜9)
バビロン捕囚からの帰還を、大きな喜びのうちに主を讃える31章です。
神様は、社会的弱者と言われる人々をいつも心に留めてくださいます。
誰もが大切な存在であること、ギフティットであるのだということが、旧約の時代、遥か昔から言い伝えられてきているのです。
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教皇フランシスコはカナダを訪問されました。
「カトリック教会が運営していた寄宿学校で先住民の子供が虐待されていた問題をめぐり、謝罪することが目的」と報道されていました。
85歳のパパ様は、10時間のフライトを経て車いすで空港に降り立たれ、謝罪のための訪問をされたのです。
「私が話している間にも、古い記憶を呼び起こし不快になる人がいると思う。それでも、思い出さねばならない。忘却は無関心につながるからだ」と述べられ、さらなる実態調査を行う意向を示されました。
カナダでのミサでは、こうお話されました。
「わたしたちは守るべき歴史の子である。
わたしたちは孤立した存在ではない。
誰一人、世界と切り離されて生まれる人はいない。
わたしたちが生まれた時に受け取ったルーツと愛、わたしたちが育った家庭は、ただ一つしかない歴史の一部である。
それはわたしたちが受けた恵み、守るようにと召された恵みである」
カナダの先住民の子どもたちが受けた被害は、壮絶なものです。
現在でも、 白人でなければ暴行を受ける、遊園地でキャラクターに扮した大人から差別を受ける、歩いていていきなり殴られる、などといったニュースは絶えることがありません。
差別や暴力はなくならないでしょう。
宮﨑神父様がお説教で仰いました。
「自分さえ良ければ、という生き方をする者は愚か者と呼ばれる。
神の前に豊かに生きる者は、愛を実践する者だ。」
わたしたち一人ひとりが、生まれた時に神様から与えられたギフトがあるのだと自覚し、尊厳をもって生きていくことができたら。
誰もがギフティッドなのだということを理解し、互いを尊重しあって生きていくことができたら。
愛の実践、とはそういう生き方ではないでしょうか。
ギフトは必ず与えられています。
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ギフティッド教育についての記事です。
https://news.yahoo.co.jp/articles/dfe53fc94f699a687dc9d25f6307483c14e9c01a
現代における平和
教皇フランシスコは、「今日の危険はウクライナの悲劇を忘れること」と先週おっしゃっていました。
争いやテロによって、一般市民が苦しい思いや悲劇的な日常を強いられているのは、何もウクライナだけではありません。
21世紀はテロとの戦いに象徴される、と誰かが言っていましたが、わたしたちにできるのはせめて「忘れないで祈ること」かもしれません。
2022年平和旬間(8/6~15)が近づいてきました。
菊地 功大司教のメッセージは、このように始まります。
「平和が暴力的に踏みにじられた年になりました。
いのちの尊厳がないがしろにされ、その保護が後回しにされる年になりました。」
そして、このように締めくくられています。
「平和旬間を迎え、わたしたちはさまざまな角度から平和について学び行動する時を与えられています。
「すべての戦争は全人類に影響を与え、死別や難民の悲劇、経済危機や食糧危機に至るまで、さまざまな後遺症をもたらします」。
そう述べたうえで教皇フランシスコは、復活祭メッセージを次のような呼びかけで締めくくっています。
「兄弟姉妹の皆さん、キリストの平和において勝利を収めましょう。
平和は可能です。
平和は義務です。
平和はすべての人が責任をもって第一に優先するべきものです」。
皆さん、この平和旬間に、暴力によらない平和は可能だと、連帯こそが平和を生み出すのだと、あらためて声を上げ行動しましょう。」
毎年8月になると、原爆投下の慰霊祭と終戦記念日のニュースが連日報道され、わたしたちに戦争と平和について考える機会が与えられます。
ですが、日本人にとっての戦争は第二次世界大戦のことだけなのか、とどうしても感じてしまうのです。
今年は特に、連日のようにウクライナの戦況について見聞きしながらこの5ヶ月ほどを過ごして来ましたので、若い世代に戦争と平和について掘り下げて伝えることができるのではないでしょうか。
「あの悲劇(第二次世界大戦で犠牲になった日本人)を繰り返してはならない。」
だけではなく、
「今もなお、世界の至るところで戦争によって苦しんでいる人々がいることを心に留め、考えてみよう。」
そう、子どもたちにより現実的に伝えることが大切でしょう。
24日のミサは、こどもとともに捧げるミサでした。
「神様、ひろい心、やさしい心、平和を強く求める心、
そしていつも神様にむかう心を与えてください。
けんかや争いのない、きょうだいの心を持つことができますように。」
宮﨑神父様がお説教でおっしゃいました。
「祈りは信仰の心臓とも言えるものです。
そして、祈りは自分のためにするものではありません。」
旅行中の友達のために、真夜中に友達のところへ「友よ、パンを三つ貸してください」と頼みに行った人のように、わたしたちは、家族のため、友のため、誰かのために祈りを捧げるのです。
それしかできなくても、続けるのです。
「あなたがたに平和があるように」(ルカ24・36)
「あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。」(ヨハネ20・21)
福岡教区でも、平和を祈る集いが企画されています。
信実を祈りのうちに
今年は久留米の夏が戻ってきた!という感じがしています。
毎週土曜日には夜市が賑わっているようですし、この提灯を見ると心が踊ります。
教皇フランシスコは、7/10の正午の祈りで「善きサマリア人」についてのお説教をされました。
主の道に従う弟子は、その考え方や行動の仕方が次第に師のそれと似てくることに気づく。
キリストの後を歩むことで、自分も旅人となり、このサマリア人のように、見ること、憐れむことを学ぶ。
主の道に従うことで、まず、見ることを学ぶ。
現実に目を開き、自分の考えに閉じこもって目をつぶらないことを学ぶ。
一方、祭司とレビ人は、災難にあったこの人を見ても、見ぬふりをして通り過ぎてしまった。
福音は見ることを教え、先入観や教条主義を乗り越え、正しく現実を理解するように、わたしたち一人ひとりを導く。
また、イエスに従うことは、憐れみを持つこと、他者、特に苦しむ人や助けを必要とする人を受け入れることを教える。
そして、このサマリア人のように行動することを教えてくれる。
以前、神父様から教わりました。
祭司とレビ人(彼らは下級祭司であり、神殿に仕えていた)が「見ぬふり」をしたのは、当時のユダヤ教の戒律(血や死体に触れることは穢れるとされていた)によるものであり、単純に非難できるものではない、と。
祭司とレビ人のことを非難して、「こんな風であってはならない」と思うことには疑問を感じます。
旧約の時代から、サマリア人は非難され続けていました。
いつの時代も、誰かが誰かを非難し続けています。
問題点は、「見ぬふりをして通り過ぎる人であってはならない」「助けを必要とする人のために行動すること」であり、祭司とレビ人を見下すことでも、サマリア人がユダヤ人の敵であることでもありません。
「隣人を自分自身のように愛すること」
この、旧約で最も重要な教えを伝えるお話です。
神に従う者の行く道は平らです。
あなたは神に従う者の道をまっすぐにされる。
主よ、あなたの裁きによって定められた道を歩み、わたしたちはあなたを待ち望みます。
あなたの御名を呼び、たたえることは、わたしたちの魂の願いです。
わたしの魂は夜あなたを捜し、わたしの中で霊はあなたを捜し求めます。
あなたの裁きが地に行われるとき、世界に住む人々は正しさを学ぶでしょう。
(イザヤ26・7~9)
「定められた道」とは、主がご自分の民に正しい生活を送らせるように啓示された指示を意味する、とフランシスコ会訳聖書の注釈にあります。
正しい生活、を現代のわたしたちに置き換えて考えてみるとどうでしょうか。
「神に従う者」は、フランシスコ会訳では「正しい者」となっています。
正しさの定義は、現代社会では多岐に渡り、自分の正しさを振りかざすことは他者を非難することにつながる恐れがあります。
わたしが自分の1番の問題点だと思っていることです。
ついつい、自分の尺度で人を判断してしまいます。
正しい者の正しい生活とは、神に従うこと。
自分の判断で人を裁くことは、最も不毛な行為だとわかっているのに、、、、。
①「わたしの魂は、夜、あなたを慕い求め、わたしの中の霊はあなたを慕います。」(フランシスコ会訳)
美しい表現だと思いませんか?
毎晩、この聖句を祈りの中に取り入れようと思います。
そのとき、イエスは言われた。
疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。
休ませてあげよう。
わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。
そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。
わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。
(マタイ11・28~30)
重荷とは、単に貧困や病気を指していただけではなく、当時の人々が律法に縛られていたこと、ローマ帝国の圧政の意味も含んでいます。
そして、イエス様がご自分を「柔和で謙遜な者」とおっしゃった真意は、大きな力で権力者から押さえつけられている気持ちが分かる、ということです。
どのように辛い状況にあっても、「天地の主である父よ、あなたをほめたたえます。」という気持ちを忘れてはならない、そうおっしゃっているのです。
妹家族が滞在している間、遊んでばかりいて、世の中にあまり目を向けていなかった間にも、世界や身近なところでいろいろな大変なことが起きていました。
コロナウィルス感染の波が、再び世界を覆っています。
サル痘というウィルスが、ヨーロッパを中心に広がり始めているようです。
スリランカは国家として「破産」しました。
食料や衣料品、燃料といった生活に欠かせないものが手に入らず、警備にあたる軍や警察と一般の人々による衝突が絶えず起きているようです。
紅茶が手に入りにくくなるかも!?というニュースもありました。
世界の至るところで、心を騒がせるような、不安な出来事が起こり続けています。
このような時だからこそ、わたしが大切にしたい信実を、落ち着いて祈ることのうちに見出したいと思います。
主日のミサで、ハッとさせられた答唱詩編の一節。
②ことばで人を傷つけず
悪を行わず、隣人をはずかしめない。
神を捨てた者を戒め、神をおそれる者をとうとぶ。
このようにふるまう人は、とこしえにゆらぐことがない。
人を傷つけず
はずかしめず
ゆらがないこと。
宮﨑神父様のお説教で、ハッとさせられたこと。
③「イエス様のみことばにしっかりと根付いた行動、日常を心がけること。」
今週の祈りの際の格言が3つできました。
遣わされたもの
私事ですが、今、3年ぶりに妹と姪がNYから帰省しています。
コロナで分断された世界中の家族が、こうして久しぶりの再会と団欒を楽しんでいるのでしょうか。
わたしは言った。「わたしがここにおります。わたしを遣わしてください。」
(イザヤ6・8)
いつも考えています。
わたしは何のために今、この場に遣わされているのか、と。
こうして家族と過ごしていて、確信するのです。
家族の平安と愛、彼女たちの幸せのために。
そして、自らが幸せであることで、周囲に平安をもたらす存在となれるように、と。
そのとき、イエスは使徒たちに言われた。
「わたしはあなたがたを遣わす。
それは、狼の群れに羊を送り込むようなものだ。
だから、蛇のように賢く、鳩のように素直になりなさい。
(マタイ10・16〜)
わたしたちは、キリスト者として存在している意味を、常に自問する必要があります。
政治信条に関わらず、殺された元首相のために祈りを捧げることは、決して間違ったことではありません。
わたしたちが遣わされている意義を、今、このような時に素直に周囲に示すことができるのではないでしょうか。
平時には一見敵対しているかに思える諸外国も、今はわたしたちに寄り添って、弔意を示してくださっています。
そうしたニュースを見聞きすると、感謝と感動で涙が溢れます。
弱った手に力を込め、よろめく膝を強くせよ。
(イザヤ35・3)
今、わたしたちは 自らに自信を持ち、遣わされたものとしての役割をどのように果たすかについて思いを巡らせる機会でもあるのではないか、とこの数日考えています。
傷ついたものを介抱し、弱いものを力づける。
(エゼキエル34・16)
この聖句は、森山司教様が選ばれたものだと先週ご紹介しました。
自分の存在と言動が、周囲の力となれるとしたらどうでしょうか。
もしも、わたしが誰かを励ますことができ、悲しんでいる人を慰めて力づけることができるとしたら。
何のために洗礼を授かっているのか。
誰かのためなのか。
自分自身だけのためなのか。
もしくは、その意味を見出すように仕向けられているのではないか。
こうした思いを巡らせることは、いつもわたしたち自身のためになるはずだと思いませんか?
わたしはこの一週間を、安倍元総理の安息のために捧げたいと思います。
森山司教様 誕生
2022年7月3日、森山司教様が叙階されました。
2014~2017年まで、主任司祭として久留米教会に来てくださいました。
司教様にとって、最後に赴任された小教区です。
信徒一同、心からお祝い申し上げます。
今日は、少しだけセンチメンタルに、思い出に浸っています。
森山神父様(そう呼ばせてください)らしい聖句を選ばれたと感じました!!
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毎年、女性の会で楽しく新年会をしていました。
その時に、1月生まれの神父様のお誕生日会も!
毎週、聖書の勉強会をしていただき、「聖書100週間」で学んだメンバーは、2019年にイスラエル巡礼に連れて行ってもらいました。
洗礼を授けてもらった信徒も大勢です。
コロナもなかった時代ですので、ご復活のミサのあとは、こうして賑やかに懇談していたのですね。
ゴールデンウィークにはバーベキューをし、6月には熊本地震の被災地で田植えを!
久留米のフィリピン人コミュニティが、タグレ枢機卿をお招きしました。
枢機卿と一緒に、まるでジャニーズのアイドルのようにもみくちゃにされている様子です。
子どもが大好きで、子どもたちも神父様が大好きでした。
「隣の県にいますよ。東京より近いですよ。」
そうおっしゃっていましたが、やはり、隣の県の司教様は遠くに感じてしまいます。
司教様のご健康とご活躍、神様のお導きを心よりお祈り申し上げます。