行事風景
目覚めのタイミング
降誕祭まで10日となりました。
心穏やかに過ごせる日々に感謝しています。
(最大の理由は、赦しの秘跡を受けたから!)
わたしは不毛の高原に大河を開き、
谷あいの野に泉を湧き出させる。
荒れ野を湖とし、乾いた地を水の源とする。
荒れ野に杉やアカシヤ、ミルトスやオリーブの木を植え、
荒れ地に糸杉、樅、つげの木を共に茂らせる。
彼らはこれを見て、悟り、互いに気づかせ、目覚めさせる。
主の御手がこれを成し遂げ、
イスラエルの聖なる神がこれを創造されたことを。
(イザヤ41・18~20)聖書協会共同訳
友人の言動に、ハッとさせられ、学びと気づきを得ることがあります。
先日、友人の担当する仕事でミスが分かり、落ち込んでいるだろうなと思って連絡をしました。
彼女からの返答は、
「とてもとても嬉しく、カトリック信者同志の絆を感じ、幸せな気持ちでいっぱいになります。
でも、それに慣れたくはないので、もうしばらくどっぷり落ち込んで、しっかり頭にたたき込まないと!ね。」
別の友人は、自分の子どものこと、実家の両親のこと、仕事のこと、いつもたくさんの悩み(問題)を抱えています。
頻繁に話しを聞くのですが、いつも全く落ち込む様子がなく、「とにかく何とかするわ!」と言うのです。
果たして、わたしが彼女たちの立場だったとして、こんな風に応えることができるだろうか、と考えさせられます。
この友人二人に共通して感じるのは、会って話すと元気をもらえる、ということです。
すべてにおいて神様からの気づきの機会だと捉え、与えられたお恵みに満ちた境遇を常に悟ることの大切さを、イザヤ書の言葉に感じました。
アッシジの聖フランシスコはこう言いました。
「悪魔が何より喜ぶのは、神の僕から心の平安を盗み取るときだ」
なにがあっても、不安や悩みに支配されることなく、神様への信頼と心の平安を自分の中に落ち着かせておけばよいのだ、と忘れかけていた大切なことを思い出しました。
先月、神父様にお時間を取っていただいて赦しの秘跡に与りました。
心の中の棘が取れ、それ以来ずっと穏やかな落ち着いた心で過ごしてきたのですが、今朝、仕事のことで心が騒ぐ(腹の立つ)ことがありました。
心の中で「だめだめ、悪魔を喜ばせてなるものか!」と、息を飲み込みました。
怒りや苛立ちが湧き上がる時が、目覚める絶好のタイミングです。
イエスは言われた。
「なぜ、取り乱しているのか。どうして、心に疑いを抱くのか」。
(ルカ24・38)
イエス様は、わたしたちみなの間、わたしたち一人ひとりの中におられ、いつもわたしたちのことを想ってくださっています。
先週ご紹介したブレナン・マニングの本、5月27日のページにはこうあります。
正しい人には闇の中にも光が昇る
恵みに満ち、憐れみ深く、正しい光が。
(詩編112・4)
主イエスの栄光は、主の弱さともろさ、一見すると失敗に見えることの中にあります。
失敗に見えることとは、私たち主の弟子に「私に付いて来なさい」と言ったことです。
主は私たちに、十字架を背負って主の後を追い、主の十字架の死を自らも体験することを求めます。
つまり、憐れみ深く生きることを命じているのです。
5月28日のページには、ハッとさせられました。
苦しむ人の日々はつらいもの
喜ばしい心は常に宴。
(箴言15・15)
「40歳を過ぎたら自分の顔に責任を持たねばならない。」
顔は、機嫌を写す鏡です。
40年も生きれば、感情を制し、穏やかな表情を保つことができるまでに成熟しているはずです。
私がこんなことを書いているのは、ある人に今朝「どうしてそんなに不機嫌なの?」と尋ねられたからです。
時々、携帯を触っていて、間違って自撮りモードになったときに見た自分の顔に驚くことがあります。
「心穏やかに過ごしている」と思っていても、表情が伴わなければ無意味ですね!
今年が終わるまでの後2週間あまり、穏やかな心と表情を保つようにしたいと決意を新たにしました。
前夜からの冷たい雨の後、澄んだ空気の中に、綺麗な虹に向かってミサに向かうことができた日曜日でした。
自分との和解
教会の花壇のお花や植木にも、お世話をしてくださっている方々が意味と愛を込めていらっしゃること、お気づきですか?
待降節の今、イエス様のご降誕を待つわたしたちのために、紫・白のシクラメンやピンクのお花、もみの木の若枝などで、その気持ちと季節を表してくださっています。
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11/19に広島で開催された第27回日韓司教交流会ミサ説教で、イ・ヨンフン司教(韓国司教協議会会長)がこのようにおっしゃいました。
今、私たちの最も重要な課題は、今回の会議のテーマのように、若い世代のために平和の架け橋を築くことです。
私たちがこの交流を続ける理由は、ただ、過去の記憶にとどまらず、未来を担う世代に和解と平和の遺産を委ね任せていくためなのです。
この架け橋は、形式的な宣言や文書では作ることはできません。
絶え間ない祈りと交流、実践と分かち合いを通してのみ、少しずつ、しかし、確実に作られなければならないのです。
https://www.cbcj.catholic.jp/2025/11/25/35551/
レオ14世は、11/28にトルコ北西部の都市イズニクで行われたニカイア公会議1700周年記念式典に出席されました。
バチカンによると、式典には東方正教会やプロテスタント教会など、様々な宗派の指導者も出席しました。
11世紀にカトリック教会と分裂した東方正教会。
双方の融和に向けた「歴史的な出来事」だと報道されていました。
カトリック信者に対しては信仰を結集し、「民族、国籍、宗教、あるいは個人の見解に関わらず」他者と団結するよう強く促した。
また信者に対し、異なるコミュニティー間の「対話と協力」を促進し、他者の中の人間性を認識するよう呼びかけた。
国同士、人同士の分断は、いつの時代も神様を悩ます問題でしょう。
日韓の交流、過去に分裂した各キリスト教会との連帯、こうした取り組みは信徒が知っておくべきことだと思います。
わたしたちは常に前を向いて進んでいるのです。
先日のサンパウロ出張販売で、素敵な本を見つけました。
ブレナン・マニングは、アルコール依存症を患いながらも、神の愛と自己への思索を深めた霊性の作家です。
若い頃はフランシスコ会司祭として働いていたのですが、50歳を前に退会しました。
この本の紹介文には次のように書かれています。
アルコール依存症を患う自分の弱さや失敗を、隠すことなく語ったことで知られたマニング。
本書が初の邦訳です。
神の前にある自分の貧しさを知り、ただ主に憐れみを乞う人に注がれる、神の大きく激しい愛を語ります。
わたしにとって、「心の貧しい人」というのは自分自身の大切なキーワードです。
ことに大事だと思うのは、自分自身との和解だからです。
イスラエル巡礼のとき、毎日毎日「わたしは心の貧しい人」だと思っていました。
それは、悲観的な意味合いでした。
そして今、「わたしは心の貧しい人」という感覚は、とても前向きなものとなっています。
いつも自分との和解に努め、少しずつ「神の前で自分の貧しさを知って憐れみを乞う」「神の前にためらいなく身を委ねる」ことができるようになってきたからです。
この本は、365日を聖書の言葉とともに黙想できるように構成されています。
クリスマスプレゼントにお薦めです。
本のあとがきには、このように書かれています。
飲酒の問題は、2013年に死去するまで、終生マニングを苦しめました。
マニングは、依存症についてだけでなく、数々の自分の失敗を隠さずに語ることを通して、弱さに満ちた私たちに対する、神の激しい愛と恵みを宣べ伝えました。
人生のどん底から語られるマニングの言葉には、教派を問わず、多くの共感が集まっています。
自分の弱さを認め、神様に身を委ねることができる、それがわたしにとっての「心の貧しい人」です。
残りの日々を
2025年12月の教皇様の祈りの意向は「紛争地域のキリスト者」です。
「戦争や紛争が起きている地域、特に中東で暮らすキリスト者が、平和、和解、希望の種となることができますように」と祈るようにとメッセージが出されました。
日本に暮らしていると、実際に戦争で命の危険に晒されることは想像できないため、この祈りの意向が現実的に受け止められないかもしれません。
わたしは、ナイジェリアで誘拐されたままの、300名近いカトリックの学校の生徒と先生たちのことが頭から離れません。
今年も、アドベントクランツを作りました。
世界各地の紛争地域のこと、佐賀関の大規模火災で年の瀬に住まいを無くした方々のこと、香港のマンション火災でいまだに行方不明のままの方々とそのご家族などのこと、1日も早く心の平安が訪れることを祈りながら、一本づつ枝を差しました。
この災害の被害に遭った方々のためにも、今月の教皇様の意向に沿って祈りを捧げたいと強く感じています。
わたしは光として世に来た。
わたしを信じる人がみな、闇の中にとどまることのないためである。
わたしの言葉を聞いて、それを守らない人がいても、わたしはその人を裁かない。
わたしが来たのは、世を裁くためではなく、世を救うためである。
(ヨハネ12・46〜47)
待降節、わたしたちはイエス様の誕生を待ち望みながら、今年の残りの日々をいかに過ごすかを問われています。
辛い境遇に置かれた方、寂しい思いをしている方、悲しみに打ちひしがれている方、わたしたち一人ひとりが希望の光として遠くからで良いので、特にこの残りの日々、心に寄り添えたらと思うのです。
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12月の意向・黙想のための祈り
平和の神よ、
御子の血によって、世界を御自身と和解させてくださった方、
今日、戦争と暴力の中に生きるキリスト者のために、あなたに祈ります。
苦しみの只中にいても、
どうか彼らが、あなたの優しいいつくしみと、
信仰の兄弟姉妹たちの祈りを感じ続けることができますように。
なぜなら、あなたを通してのみ、
そして、兄弟愛の絆によって強められてこそ、
彼らは和解の種となり、
大小さまざまな方法を通して、
希望を築き、ゆるし、前進し、分裂を乗り越え、
いつくしみをもって正義を求める者となることができるからです。
平和のために働く者を、幸いと呼ばれたイエスよ、
調和が不可能に見える場所においても、
わたしたちをあなたの平和の道具としてください。
聖霊よ、
最も暗い時代の希望の源よ、
苦しむ者たちの信仰を支え、彼らの希望を強めてください。
わたしたちを無関心に陥らせず、
イエスのように一致の建設者にしてください。
アーメン。
弁明の方法
自分の伝えたことが、全然相手に伝わらない。
何度も伝えたのに、全く伝わっていない。
よかれと思って言ったことが、相手に少しも響いていなかった。
そういう気持ちに陥っていました。
ある記事に、「相手に自分の考えを伝えるには」ということについて、こう書いてありました。
◇相手の感情を一方的に否定しないこと。
◇感情の軽視や正論の押し付けといったような態度が伴う接し方は避ける。
◇対話の機会があるのであれば、あくまで相手の背景にある価値観や感情を尊重する姿勢を保ちつつ、建設的な会話を心掛けることが重要。
最近のわたしに足りない、わたしが出来ていないことばかりです。。。
あなたがたの抱いている希望について説明を要求する人には、いつでも弁明できるように備えていなさい。
それも、穏やかに、敬意を持って、正しい良心で弁明するようにしなさい。
(1ペトロ3・15~16)
そんな悶々とした気持ちでいたところ、来住神父様のnoteの記事に励まされました。
信仰の弁明とは、自分の抱いている「希望」を説明することです。
宗教論争をして「論破」することではありません。
私が抱いている心からの希望は、「どんな反対者でも、対抗も反論もできない」ものです。
私の説明によって相手が納得しなくても、たとえ嘲笑したとしても、私が落ち着いて説明することができれば、証しになっているのです。
しかし、その希望をどう表現するかは、日頃から考えておかなければなりません。
態度が必要以上に戦闘的になります。
「穏やかに、敬意を持って」話すことが難しくなるのです。
その時その場にふさわしい言葉と口調で語るには、聖霊の導きが必要です。
(記事より抜粋、アンダーラインはわたしが付けています)
来住神父様は、「信仰の弁明」について記事にしておられたのですが、今のわたしが求めていたお話でしたので、とても嬉しくなりました。
(宗像の黙想の家が閉鎖される前の月に、来住神父様が最後に行われた黙想会に参加しました。
参加者は、わたしともう一人だったので、いろいろなお話をゆっくり伺うことができ、その後もメールのやり取りなどをさせていただきました。
noteで記事を読むことができるのは、本当に嬉しいです。)
先週末、3回目の「集会祭儀司会者養成講座」に参加しました。
その中で講師の櫻井神父様が、「自分が教会を背負っているという意識を持つ必要がある」「自分が共同体を任されている一員であるという自覚を持つ」とお話されました。
ただし、それが過剰になると「自分のことしか考えていない」ことになるのだ、とも。
(神父様のお話の意図は、この気持ちがないから、気に入らないことがあると別の教会に行く人のこと、でした。)
最近のわたしは、神父様のおっしゃった意識と自覚が過剰だった気がしています。
すべて人を裁く者よ、弁解の余地はない。
あなたは、他人を裁きながら、実は自分自身を罪に定めている。
あなたも人を裁いて、同じことをしているからです。
神はこのようなことを行う者を正しくお裁きになると、わたしたちは知っています。
このようなことをする者を裁きながら、自分でも同じことをしている者よ、あなたは、神の裁きを逃れられると思うのですか。
あるいは、神の憐れみがあなたを悔い改めに導くことも知らないで、その豊かな慈愛と寛容と忍耐とを軽んじるのですか。
(ローマ2・1~4)
何をするにも、人に対してではなく、主に対してするように、心から行いなさい。
(コロサイ3・23)
いつも、塩で味付けされた快い言葉で語りなさい。
そうすれば、一人一人にどう答えるべきかが分かるでしょう。
(コロサイ4・6)
いつも、いろいろな気づきを与えてくださる方々に感謝しています。
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夏に開催していた納涼祭を、今年は猛暑を避けて秋のファミリーデイとして開催しました。
ロザリオ作り、手話の体験コーナー、フィリピンコミュニティが提供してくれた食事とおやつ・パンのコーナー、有志の女性たちの手作りの豚汁とぜんざいなど、大人も子どもも楽しめた、とても良い交流の時間をもつことができました。
ファミリーデイについては、来月発行のみこころレターで詳しく報告します!
罪と罰
先日、洗礼を受けて間もない方に、「もうすぐ待降節ですから、初めての告解をしてみてください」とお伝えしたら、「どのような罪が告解に値するのかわかりません」とおっしゃいました。
告解するのは犯罪ではなく、日常生活で「あの時の自分は間違っていた」などといった『自分の罪』と感じたことでいいのですよ、とお答えしました。
それ以来、罪と赦しについて考えていました。
数日後、たまたま目にした新聞で、「死刑になる罪 国ごとに違う」という記事を読みました。
国際人権団体によると、2024年度に世界で施行された死刑の内、4割が薬物犯罪関連だったそうです。
そして、何を犯罪とするかは、その国の価値観を反映しているのです。
「現在の刑事司法制度は、国が加害者にどんな罰を科すか、という考え方=『応報的司法』が中心です。
しかし、わたしは被害の修復=『修復的司法』こそ必要だと考えています。
薬物犯罪には明確な被害者はいません。ではいったい誰のための死刑なのか。
国の秩序や体制の維持、つまりは為政者のためです。」
と、早稲田大学の高橋名誉教授が書いておられました。
『修復的司法』の例として、オーストラリア・ドイツ・カナダ・イタリアで制度化されている、被害者や加害者、両家の家族や友人らが集まって解決策を話し合う、「家族集団会議」という制度が紹介されていました。
見よ、主の手が短すぎて救えないのではない。
その耳が遠すぎて聞こえないのではない。
お前たちと神との間を隔てたのは、まさにお前たちの悪行、み顔を隠させ、聞かれなくしたのは、お前たちの罪なのだ。
まことに、お前たちの手は血で、指は悪行で汚れ、唇は偽りを語り、舌は邪なことを発する。
正しく訴える者もなければ、信じるに足る弁護をする者もなく、空虚なものに頼り、むなしい言葉を語り、労苦を孕み、不正を産む。
(イザヤ59・1~4)
わたしは自分の罪をあなたに告げ、罪咎を隠しませんでした。
わたしは言いました、
「いと高き方よ、ありのままに申します、主よ、わたしの咎を」。
そのとき、あなたはわたしの罪と咎を赦してくださいました。
(詩編32・5)
自分の過ちを隠す者が栄えることはない、
それを言い表して、それと手を切る人は憐れみを受ける。
(箴言28・13)
数年前に観た映画、「対峙」(原題:Mass)を思い出し、もう一度観てみました。
アメリカの高校での銃乱射事件後、加害者と被害者の両親が6年後に教会の一室で対話する様子を描いた作品です。
先ほど紹介した、「集団家族会議」の制度を利用したのです。
事件によって息子を失った両親、そして自殺した犯人の少年の両親が互いに向き合い、深い悲しみ、喪失を共有し、赦しに挑みます。
全編を通し、教会の談話室のような一室だけ、登場人物も(冒頭に教会の職員とコーディネーターが部屋を準備するために登場する以外は)二組の夫婦だけです。
最初は冷静だった被害者の両親は、加害者の両親を責め立てていきます。
観ているこちらまで、息が詰まるような苦しみを錯覚します。
そして次第に、加害者の両親も大切な息子を失った悲しみを抱え、喪失感、罪悪感だけでなく、世間からの非難にも苦しんでいることを理解し始めます。
とても重い内容の映画ですが、テーマは「赦し」と「和解」です。
「あなた方が残りの人生を苦しみのまま過ごす罰を与えたかった
でも、このままでは生きられない
わたしは心からお二人を赦します、そして、彼を赦します」
ラストシーンで教会から聞こえてくる聖歌隊の歌う聖歌の歌詞に、思わず涙がこぼれます。
わたし自身、告解すべきことがあり、心に棘として突き刺さっています。
近いうちに。
この↓noteの記事が、映画についてとてもよく伝わってきます。
https://note.com/kazuya2511/n/n446ce019c403