行事風景
1人の教えと多くの努力
北京オリンピック。
高梨沙羅さんと羽生結弦くんの、本番、4年に一度の大舞台で努力の成果を存分に発揮できなかった時の悔しさ、絶望感などを想像するだけで、胸が苦しくなります。
ついこの前まで、何種類の4回転を飛べるか、を期待されていたのに、4回転半、5回転と、人間の欲は止まることを知りません。
平野歩夢さんが決めた、彼にしかできない大技も「人類史上初の試みを成功させました!」とアナウンサーが絶叫していましたね。
もっと遠くへ、もっと早くと次から次へと期待するわたしたちの欲と、高みを目指して努力する選手たちの努力には、終わりはないのかもしれません。
4年に一度のチャンス、と簡単にわたしたちは口にしますが、平野選手は「前回大会で銀メダルを獲得した後のこの4年間は苦しかった」と言っていました。
彼らにとっての4年とは、どのような時間なのか、簡単に想像できるものではありません。
わたしたちは、イエスキリストという、一人の人がその言動で示した教えを信じています。
わたしたちにとって、信じるべきはたったひとりの人間です。
そして、わたしたちが信じている教えは、彼がひとりで思いついたこと、自分だけで作り上げたものではなかったはずだということも忘れてはならないでしょう。
イエス様は、敬虔なユダヤ教徒のヨセフ様とマリア様に育てられました。
30歳で公生活を始められるまで、当然、ユダヤ教の教えに従って生活されていたはずです。
ヨルダン川でヨハネから洗礼を受けられたのち、直ちにイエス様に試練が与えられます。
天から声がした、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者」。
霊はただちにイエスを 荒れ野に追いやった。
イエスは四十日の間そこに留まり、サタンによって試みられ、野獣とともにおられたが、み使いたちがイエスに仕えていた。
(マルコ1・11〜13)
出エジプト記のモーセたちの旅を思い起こします。
彼らは近道を通らず、紅海に沿った荒野の道を通るように神に導かれました。
主は彼らの前を行き、彼らが昼も夜も進むことができるよう、昼は雲の柱をもって彼らを導き、夜は火の柱をもって彼らを照らされた。
昼は雲の柱、夜は火の柱が、民の前から離れなかった。
(出エジプト13・21〜22)
イスラエルの民は神から選ばれ約束の地を目指したものの、四十年、荒れ野をさまよったのです。
イエス様の四十日に及ぶ断食と「試みる者」=悪魔(マタイ)による誘惑のストーリーが重なって見えます。
直接的にはこの2つの箇所には関連性はないのかもしれませんが、どちらも、常に神が片時も離れずに寄り沿い、導かれていたということに心が揺さぶられます。
聖書全体を通して語られる、常に神がわたしたちと共にいてくださるという教えは、こうして旧約の流れを汲んだものなのだということを感じさせてくれます。
同じように、エレミヤたちが繰り返し「主に立ち返れ」と回心を促していた旧約時代の教えを、イエス様は新しい言葉で「悔い改めなさい」と人々に問いかけられたのではないかと、以前書きました。
イエス様の公生活は1年半であった、とも3年近くであった、とも解釈されますが、いずれにせよほんの短期間です。
4年に一度のチャンスで成果を出すために、試練と向き合い続けているオリンピアンよりも短いのです。
イエス様は30数年の人生、というより、最後の数年で何かを成し遂げられたわけではない、というのが本当のところでしょう。
イエス様の時代に生きて直接その話を聞いたわけではないわたしたちが、今こうして信じているものはなんなのか。
ユダヤ教徒としてのご両親との慎ましい生活で育まれたイエス様の価値観をベースに、イエス様独特の言葉で語られた神への信頼、
死後の使徒たちによる命懸けの宣教、
後世の人のために文字として残され受け継がれてきた聖書という書物、
2000年以上続く後継者たちのたゆまない努力、
それらすべてがあって、わたしたちが今信じているキリスト教、イエス様の教えがあるのです。
この教えを、これからの世にも繋げていくことは、わたしたちキリスト者一人ひとりに課せられた使命でもあります。
幸福の目的
小雪が舞い、空気が澄み渡り、美しい青空を背景にしたお御堂が美しい日曜日でした。
美味しいものを食べた時、素敵なお店を見つけた時、素晴らしい映画に感動した時、わたしはいつも、誰かと分かち合いたくなります。
わたしの友人が務めている出版社の月刊誌『致知』に、古巣馨神父様の記事が掲載されました。
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彼女は、こうしたキリスト教関係の記事やわたしが好みそうな本、お菓子、文房具など、「好きそうだから」「美味しかったから」としょっちゅう送ってきてくれます。
わたしも、お礼のプレゼントを考えて送るのが楽しみです。
『美味しいものも楽しいことも、幸せは分かち合うほうがいい。』
これはわたしのモットーになっています。
「何をしているのか」と聞かれた3人の石工、というお話です。
一人は「これで食べている」と答え、一人は「国で一番の仕事をしている」と答え、一人は「教会を建てている」と答えました。
誰があるべき姿だと思いますか?
誰が一番幸福だと思いますか?
2番目の石工は、自分の仕事の目的を見失っています。
3番目の石工は、していることの目的、目標、使命を示したのです。
幸福になれるかどうか、それは心のレベルで決まる。
私たちがどれだけ利己的な欲望を抑え、他の人に善かれかしと願う「利他」の心を持てるかどうか、このことが幸福の鍵となる。
こう言ったのは稲盛和夫さんです。
稲盛さんは臨済宗・在家得度をされている熱心な仏教徒です。
ある友人に、「あなたが人のことを思ってあげられるのは、あなた自身に心のゆとりがあるからよ。」と言われたことがあります。
心の中のゆとりを持つだけではなく、福音を多くの人に身をもって広めたいと願うキリスト者として生きるわたしたちは、いつも幸福の目的を他者に向けるべきだと思います。
今週の朗読では、レギオンを宿していた人(悪霊に取り憑かれていた人)への奇跡物語が読まれました。
(マルコ5・1〜20)
レギオンはローマの軍隊のことですが、この場合は多数の悪霊の群団の比喩として表現され、ユダヤ人が穢れていると考えている豚の群れにに移って 溺れ死ぬ、というお話です。
奇跡物語では、いわゆる「沈黙命令」と言って、イエス様は「このことを誰にも知らせないように」とおっしゃいます。
ですがこのレギオンの場面では、「主があなたを憐れみ、あなたにどれほど大きなことを行なわれたかを、ことごとく告げなさい」と言われています。
その人は立ち去り、イエスがどれほど大きなことを自分に行ってくださったかを、デカポリス地方で宣べ伝え始めた。人々はみな驚嘆した。
(マルコ5・20)フランシスコ会訳
なぜでしょうか。
当時のユダヤ人たちを苦しめていたローマによる圧政、そのことへの勝利を意味するこのストーリーは、他者と分かち合うこと、広く知らせることに意義があったのではないでしょうか。
「あの噂のイエスに自分の中の悪霊を追い出しもてらった!すごいやろ!」と自慢して言いふらしたのではないのです。
イエス様が奇跡を行なわれた、ということ自体が強調されるのではなく、この人は「宣べ伝え始めた」のです。
福音を多くの人に知らせた、分かち合ったのではないか、そうわたしは理解しています。
聖書に、「わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入るわけではない。わたしの天の父の御心を行う者だけが入るのである」という一説があります。
神の思いを生きる人とは、「あなたの敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい」という教えをただ説いている人ではなく、それを生きる人のことを言います。
古巣神父様の記事に、そう書いてありました。
この記事はぜひ多くの方に読んでほしいと思い、コピーして何人かの方にお渡ししました。
(この月刊誌は書店にはなく、定期購読しなければ手に入らないのです。)
フランシスコ教皇さまは、「無関心のウィルスというもう一つのパンデミック」というたとえを度々されています。
いま、他者とのつながり、自己自身との真のつながりを回復するための格好の機会である、ともおっしゃっています。
自分が幸福であるかどうかは、他者とのつながりの中に見出すことができるものです。
自分が幸福であるかどうかは、「自分の幸福の目的は、他者の幸せを願いながら生きることだ」と実感できた時にわかります。
感動したこと、神父様方から教わったこと、学んだことをひとりでも多くの方と分かち合いたい、と思ってこうして書かせていただいていること。
これはわたしの幸せです。
イエス様の方を向く
宮﨑神父様にゆるしの秘跡をしていただきました。
自分のおかした罪を認め、告白し、アドバイスをいただき、神様に代わって赦しをいただく。
もう同じ過ちをおかさないように、心に、そして神様に誓う。
これは、「悔い改め」なのか「回心」なのか。
南山大学の名誉教授でもあった故 浜口神父様の論文に、以下のように書かれています。
教会は最初の回心を思い起こして、再び神に立ち返る方途と機会を保持している。
それが「ゆるしの秘跡」である。
罪に陥った信者が再び神と和解することができるという神の無限の憐れみを宣言するのは、「再回心(re-conversio)」である。
真に罪を痛悔する者は、たとえその痛悔が不完全なものであっても、真にキリストに向かっているのである。
「改め」、だと「改心する」という言葉のように、罪を認めて心を入れ替える意味になります。
Googleで「かいしん」と検索するとわかりますが、「回心=キリスト教で神の道に心を向けること」と表示されます。
新約聖書で「悔い改め」の意味で使われるメタノイア( meta・noia /μετανοια )は、古いギリシャ語を起源とする言葉で、直訳すると「視座の転換」という意味となるそうです。
悔い改めなさい。
めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。
そうすれば、賜物として聖霊を受けます。
この約束は、あなたがたにも、あなたがたの子供にも、遠くにいるすべての人にも、つまり、わたしたちの神である主が招いてくださる者ならだれにでも、与えられているものなのです。
(使2・38~39)
また、マルコ福音書の中で最初にイエス様が口を開く場面でおっしゃった、
「時は満ち、神の国は近づいた。
悔い改めて福音を信じなさい」
(マルコ1・15)
この「悔い改め」にあたる単語がメタノイアです。
本田哲郎神父様は、「『時は満ち、神の国はすぐそこに来ている』から、『低みに立って見直しなさい』(メタノエイテ)という。悔い改めなさいではありません。」とおっしゃっています。
メタノイアに対応するヘブライ語はニッハムという単語で、「痛み、苦しみを共感・共有する」という意味だそうです。
「つまり、メタノイアとは、人の痛み、苦しみ、さびしさ、悔しさ、怒りに、共感・共有できるところに視座・視点を移すこと」と本田神父様の著書にあります。
ムリリョ「パウロの回心」
以前、HPの記事に以下のように書きました。
E.P.サンダースの著書「イエス その歴史的実像に迫る」によると、
「ルカと使徒行伝の著者が悔い改めを強調することをとりわけ好んだ。
そして、それはイエス自身の教えの重要なテーマではなかった。
イエスは悔い改めに関心を持つ改革者ではなかった。」
福音書に語られる「悔い改め」の概念は、旧約時代にはもっといろいろな意味を持つ曖昧なものでした。
いくつもの単語がそれにあたるとされていますが、もっとも多く出てくるヘブライ語の単語の意味は、「道を変える」「引き返す」「立ち戻る」というものだそうです。
つまり、悪から遠ざかって神に向かう姿勢を意味し、「生き方を変えて生活全体を新しい方向に向ける」ということです。
エレミヤは、繰り返し「立ち返れ」と民に呼びかけています。(エレミヤ書3章)
契約の神の愛に立ち戻りなさい、と言うのです。
つまり、旧約時代の教えをイエス様の新しい言葉で問われたのが、この「悔い改めなさい」というものなのではないかと思うのです。
神の教えを確かなものとして受け入れ(アーメン)、自分の凝り固まった考え方、惰性に陥った生活、そうしたものの視点を変えなさい(回心)。
神の方に今一度、自分を向き直しなさい。
それが、「回心=悔い改め」なのだ。
そう、この一週間で学びました。
キリストに出会う前のサウロのように、わたしたちも方向を変え、習慣になっていることや楽な道から戻る必要があります。
それは、主がわたしたちに示される、謙遜ときょうだい愛と祈りの道を見出すためです。
1/26教皇フランシスコTwitter
友のために祈る
宮﨑神父様から聞かれました。
「あなたは一日にどのくらい祈りますか?」
「友のために祈っていますか?」
祈りの時間と言えるのは寝る前くらいですが、朝起きてすぐから一日中、しょっちゅう神様に話しかけるように祈っています。
でも、友だちのために祈っている、とは言えないとハッとさせられました。
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『人はだれも自分ひとりだけが幸せになる権利はない。』という名言でも知られるラウル・フォレロー(1903~1977年)は、ハンセン病患者の支援と差別の撤廃に尽力したフランスの人物です。
詩人でもあった彼の、『ともに生きる恵みを願う祈り』という有名な祈りがあります。
主よ、教えてください。
自分だけを愛さないことを、
身内だけを愛さないことを、
仲間だけを愛さないことを。
人のことも考え、
だれからも 愛されない人を優先して愛することを。
主よ、教えてください。
わたし自身も苦しむことを、
人と共に苦しむことを。
主よ、あわれんでください。
苦しむ人々をいわれもなく退けた、このわたしをゆるしてください。
幸せをひとりじめにすることを、わたしにさせないでください。
全世界の苦悩を、わたしにも感じさせてください。
主よ、利己主義からの解放こそ、あなたはお望みになるのです。
(抜粋)
自分自身のため、家族のために祈ることは誰にでもできますが、友だち、ましてや他人のために祈るとなると、わたしは形式的な祈りになってしまっていると分かっていました。
キリスト教一致祈祷週間について2回にわたり書いてみましたが、そのさなかに神父様から冒頭の質問をされ、よく考えてみる機会となりました。
この聖週間の間、特にひとりの友人のために祈り続けています。
彼女は旦那様が病気で早くに天に召され、ひとりで2人の子どもを育てています。
家族の問題や子育ての悩みを抱えていて、わたしは聞くことしかできませんが、とにかく聞き役に徹してきました。
その彼女のために祈っています。
「多くのストレスを抱える彼女が、うまく問題と向き合い、少しでもストレスが軽くなるようお恵みをお与えください。彼女をお導きください。」
友のために祈りを続けてみて、「会って話を聞きたい」 「会いに行きたい」という気持ちを強く抱いています。
コロナ禍にあって、自由に気軽に遠方の友人に会いに行くことは躊躇われ、LINEで会話することを「話した」と錯覚し、随分あっていないのに分かってあげていると思い込んでいました。
アウグスティヌスが「神の国」でこう述べています。
憐れみとはわれわれの心のうちで他人の苦しみmiseriaを共に苦しむことcompassioであり、それによってわれわれは、もし可能であれば、助けにおもむくようにかりたてられているのである。
「憐れみ」misericordiaは、ある人が他人の苦しみについて「苦しい心」miserum corを抱く、というところから来ている。
最近、気に入って唱えている祈りです。
『自己からの解放』
主よ、わたしは信じきっていました。
わたしの心が愛にみなぎっていると。
でも、胸に手を当ててみて、本音に気づかされました。
わたしが愛していたのは他人ではなく、
他人の中の自分であった事実に。
主よ、わたしが自分自身から解放されますように。
主よ、わたしは思いこんでいました、
わたしは与えるべきことは何でも与えていたと。
でも、胸に手を当ててみて、真実がわかったのです。
わたしのほうこそ与えられていたのだと。
主よ、わたしが自分自身から解放されますように。
主よ、わたしは信じきっていました、
自分が貧しいものであることを。
でも、胸に手をあててみて本音に気づかされました。
実は思いあがりとねたみの心に、
わたしがふくれあがっていたことを。
主よ、わたしが自分自身から解放されますように。
主よ、お願いいたします。
わたしの中で天の国と、この世の国ぐにとがまぜこぜになってしまうとき、
あなたの中にのみ、真の幸福と力添えを見出しますように。
キリスト教一致祈祷週間のこの機会に、キリスト者だけでなく、もっと身近な人々のために祈りを捧げていこうと思っています。
自分を試してみる
キリスト教一致祈禱週間は明日から25日までの8日間です。
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主なる神はご自分の民とともに歩み、彼らを保護し、昼も夜も見守っておられることが、聖書には何度も記されています。
道は必ずしも真っすぐとは限りません。
同じ道をたどったり、違う道を通って戻ったりするよう仕向けられることもあります。
いかし、生涯を通じて旅を続ける間中、わたしたちは「まどろむことなく、眠ることもない」神が、わたしたちの足がよろめき倒れてしまわないよう、見守ってくださると信じることができます。
(キリスト教一致祈祷週間 小冊子40ページ)
この聖週間の最終日、8日目の黙想の祈りは「別の道を通って自分たちの国へ帰って行った」(マタイ2・12)博士たちがテーマです。
帰り道が行きと違っても、彼らの旅を照らした同じ光が別の道・別の選択肢を示したのだ、と小冊子に書かれています。
あわれみ深い神、
わたしたちが一つの道しか知らず、
同じ道を戻らなければならないと思っているときにも、
すべての道が行き詰まり、絶望しているときにも、
あなたはいつもいてくださいます。
約束を新たにされる神よ、
あなたは、わたしたちには思いもよらない道を切り開いてくださいます。
あなたに心から感謝いたします。
わたしたちの期待をはるかに超えてくださることを。
(47ページ)
朝起きてからのすべての行動にルーティンを設けていて、それをこなすのが好きなわたしにとって、行きと帰りの道が違うのは不安でしかありません。
小さなことですが、例えば教会の帰り、行きと違うルートを試してみる、というのは好きな楽しみでもあります。
また、思い通りにいかない時に普段は好まない別の選択肢を選んでみると、思いがけない気づきを得られること、思いもよらない展開に恵まれることもあります。
労働が人間生活にとって本質的要素であると同時に、聖性への道でもあることは、あまり理解されていない。
働くとは、生計を立てるためだけではなく、自分自身を表現し、人に役立ち、具体性を学ぶ場として、霊的生活を助けるものである。
また、仕事は、人と関わることを必要とするその性質によって、わたしたちの人間性を表すと同時に、それぞれの創造性を活かす場でもある。
イエスご自身も働き、まさに聖ヨセフから仕事を学んだということ、それは素晴らしいことに思われる。
今日、わたしたちは、仕事の価値を取り戻すために何ができるかを、考えなくてはならない。
仕事が利益だけの論理から解放され、人間の尊厳を表し高める、基本的な権利・義務として体験されるよう、努力しなくてはならない。
(教皇フランシスコ 1/12一般謁見でのお説教より)
現代の若者のなりたい職業のトップ5に入るのは、ユーチューバーだそうです。
最近は、ティックトッカーという仕事も脚光を浴びています。
わたしが子どものころにはなかった職業です。
仕事をする、というのは、会社に勤めたり商店を営むことだという固定概念を持っていましたが、もうそのような時代ではないのです。
ですが一方では、イエス様の時代から「働くとは生計を立てるためだけのものではない」ものだ、と教皇様はおっしゃいます。
自分自身を表現すること
人の役に立つこと
具体性を学ぶ場
さらに、人と関わることである、という点も重要なのです。
ひとりきりで自分の部屋で編集したビデオをオンライン上に公開する、そういうユーチューバーであっても、誰か、他者に向けて自分の表現を発信して相互のコミュニケーションを求めているのですから、人と関わるということなのでしょう。
成人の日に取材を受けていた新成人たちをテレビで観て、間違いなくわたしがハタチの頃よりもみんなしっかり自分を持っているな、と思いました。
「最近の若いもんは・・・」、は少し前は否定的な言い回しの枕詞でした。
「最近の若者たち」は、自己表現に長けていて、人の役に立ちたいという意志を持ち、具体的な仕事を望む傾向が強いように感じます。
自分の可能性を試してみる、という冒険を恐れない勇気は素晴らしいお恵みです。
親の価値観を押し付けられた子どもが反発し、親の望みとは全く違う人生を歩んでいる、という話はよく聞きます。
すべてがそうではないとしても、違う道、別の選択肢に神様のお導きがあることに気づくことができるのも、それ自体が素晴らしいお恵みでしょう。
☆たとえ自分たちのやり方や道が行き詰っても、永遠の神、光を与えてくださるかたが、つねに前に進む道を見つけてくださると信じる。
☆いつでも新たに出発できる。
☆新しい方向を探して未来に目を向ける。
☆新たな熱意をもって福音の光を輝かす。
(46ページ)
行きと帰りの道が違うと普通は不安に感じるものですが、試してみる価値はあると思いませんか?
わたしも、今年はもう少し自分を試す行動を取ることを抱負として掲げてみました。
いつもと同じ、ばかりではなく、人との関係においても、教会での役割への熱意においても、神様のお導きをもっと強く感じて信じて、今年は新しい方へも進んでいこうと決意したところです。