2025年6月の記事一覧

困難の中に

『レジリエンス』
困難をしなやかに乗り越え回復する力のことをいう、心理学の用語です。

ローマ皇帝 マルクス・アウレリウスは、すぐれた哲学者でもありました。

彼の哲学(自省録)は、現代のわたしたちもすぐに実践できる現実的な教えが詰まっています。

痛みや病気に対処する方法について、マルクスは自省録のなかでこのように書いています。

病気になったときのわたしが、肉体的な苦痛について話すことはありません。
見舞客が来てもそんな話はしません。
話題はいつもどおり、哲学についてです。特に、哀れな肉体の中で起こる動揺を心に認めながらも、なぜ、特定の善を保っていられるかについて議論します。
ですから、わたしの人生は今まで通り順調に、そして幸せに進んでいます。
(『自省録』9-41)

マルクスの哲学では、痛みや病気、その他のどんな逆境に際しても、知恵の追及に集中することによってその精神的苦痛から解放されると説きました。
肉体的苦痛や症状について愚痴ったり、くよくよ悩んだりするのは時間の無駄だ、と彼は考えていました。

耐えられぬ痛みはわたしたちを死に導くが、長引く痛みなら耐えることが出来る
(『自省録』7-33)

苦痛に対するわたしたちの態度が動揺の大きさを決めている、とマルクスは言います。
痛みや病気そのものではなく、そのことに対する自分の考えや思いが、自分の現実となってしまうのです。

4月くらいから足の調子が悪く、しょっちゅう転んでいました。
そしてとうとう、5月の頭におかしな転び方をしてしまい、左手の親指を骨折しました。
家事ができなくなるから、とギブスで固定はせずに、痛みに耐えながら暮らしています。
転ばないように恐る恐る歩いていて、身体がこわばったようになって首と肩も痛めています。

ですが、わたしの心は沈むことはなく、晴れやかなままなのです。

大好きなシラ書の聖句が、今の気分を表現してくれます。

善きにつけ悪しきにつけて、人の心はその顔つきを変える。
楽し気な顔つきは、幸福な心の徴
(13・25~26)

口を滑らすことがなく、罪の苦しみに悩まされることのない人は幸いである。
良心の責めに遭うことがなく、希望を失うことのない人は幸いである。
(14・1~2)

自分に対してきびしすぎる者が、どうして他人に対して親切にできようか。
(14・5)

食事を終えたとき、家族が「おいしかった!ごちそうさま!」と言ってくれると、痛みを忘れます。
病気でなかなかミサに来られない方に教会でお会いできると、嬉しくなります。
妹たち家族が楽しそうにしている様子を見聞きすると、安心します。
久しぶりに会った友人たちと近況報告をしあい、元気が出ました。
趣味を楽しむことができることに、感謝しています。

そしてさらに、2つの大きな出来事が、わたしの心を晴れやかにしてくれました。

このページを読むのを楽しみにしていて、いつも励まされている、というお手紙をいただきました。
お会いしたことのない方からのお手紙です。
そこに書かれたたくさんの素敵な言葉に、信仰で繋がる友情のような感覚を覚えました。

久しぶりに会った大学時代からの友人。
彼は講演で世界中を飛び回り、いつもキラキラしていると思っていました。
「急に体調が悪くなり、検査したら大きな病気が見つかった。来月手術するけど、どうせ入院するなら楽しんでやろうと思って、高い特別室を予約した!」と楽しそうに笑いながら話してくれました。

人間とは何ものなのか、彼は何の役に立つのだろうか。
その善、あるいはその悪は、どのような意味をもつのか。
人の寿命は百歳にまで及べばたいしたものである。
永遠の日に比べると、この僅かな寿命は、海の水の一滴、砂の一粒にすぎない。
それ故、主は人々を耐え忍び、その慈しみを彼らに注がれる。
主は人間のみじめな末路を見ており、知っておられる。
そこで、彼らにその赦しを豊かにお与えになる。
人の慈しみはその隣人に及ぶが、主の慈しみはすべての人に及ぶ。
(シラ書18・8~13)

 

日々の暮らしのなかで、抱えきれないほどのお恵みをいただいていることを、身体が不調なこの1か月ほどの間はいつも以上に感じ取ることが出来ている気がします。

健康で何も悩みのないときには、「もっと楽しいこと」「もっと良いこと」を追求してしまうのかもしれません。

マルクスは皇帝としての国務と哲学とに人生を捧げましたが、身近にいる人たちに愛される気さくで親しみやすい人物だったそうです。
厳粛ですが過度にではなく、謙虚だけど消極的ではなく、まじめだけど気難しいわけではなく、友人や家族と一緒にいることに大きな喜びを感じる人だった、と。

わたしは少し不自由なほうが、マルクスの言うようにお恵みの探究に心を研ぎ澄まして暮らせるようです。

これまでの人生で乗り越えてきたものと、徐々に蓄えてきた信仰心を通して、レジリエンスが身についているのかもしれません。