行事風景
模範となる人
12日土曜日は、宮﨑神父様の71歳のお誕生日でした。
夜ミサで、花束をお渡ししてお祝いしました。
久留米教会に赴任して来られて6年です。
ちょっとコワモテですが、意外とチャーミングで素敵な神父様、まだまだよろしくお願いします!
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七五三のお祝いを、13日のミサのなかで行いました。
無邪気なこどもたちの様子を見ていると、いつも思います。
「教会で出会うわたしたち大人が、この子たちの模範となる存在でいたいな。」と。
愛する者よ、あなたは健全な教えに適うことを語りなさい。
年老いた男には、節制し、品位を保ち、分別があり、信仰と愛と忍耐の点で健全であるように勧めなさい。
同じように、年老いた女には、聖なる務めを果たす者にふさわしくふるまい、中傷せず、大酒のとりこにならず、善いことを教える者となるように勧めなさい。
そうすれば、彼女たちは若い女を諭して、夫を愛し、子供を愛し、分別があり、貞潔で、家事にいそしみ、善良で、夫に従うようにさせることができます。
これは、神の言葉が汚されないためです。
同じように、万事につけ若い男には、思慮深くふるまうように勧めなさい。
あなた自身、良い行いの模範となりなさい。
教えるときには、清廉で品位を保ち、非難の余地のない健全な言葉を語りなさい。
そうすれば、敵対者は、わたしたちについて何の悪口も言うことができず、恥じ入るでしょう。
(テトス2・1~8)新共同訳
あなたは、健全な教えにかなうことを語りなさい。
年老いた男性には、節制し、謹厳で、思慮深く、信仰と、愛と、忍耐においても健全なものであるように勧めなさい。
同じく、年老いた女性には、敬虔な生活を送る者にふさわしく振る舞い、人を謗ることも、酒におぼれることもなく、善いことを教える者となるように勧めなさい。
そうすれば、年老いた女性は、若い女性に、夫を愛し、子供を慈しみ、慎み深く、貞潔で、家事に勤しみ、親切で、夫に従うようにと、教え導くことができます。
これは神の言葉が謗られることのないためです。
若い男性も同じく、すべてにおいて慎み深くあるように勧めなさい。
あなた自身を善行の手本として示しなさい。
教える場合には、誠実で謹厳で、非の打ち所のない、健全な言葉を用いなさい。
そうすれば、反対する者は、一言も悪口を言うことができず、恥をかくことになります。
(同)フランシスコ会訳
新共同訳よりフランシスコ会訳の方が柔らかい書き方ですが、年老いた男、年老いた女、若い女、若い男、という分け方がストレートで分かりやすい!
現代人には多少、抵抗がある表現かもしれませんが、ストライクに正論ではないでしょうか。
年配の男性=忍耐深くあるように
年配の女性=善いことを教える者となるように
若い女性=家族を愛するように
若い男性=思慮深くふるまうように
(ストレスの多い女性にお酒の注意を促し、男性に忍耐を求める。昔からそうなのですね、、、。)
信者の場合、自分の信仰の模範となる人が代父、代母であることも多いかと思います。
わたしも、自分の代母をとても尊敬しています。
現代社会のさまざまな問題のなかでも、わたしが特に気になっているのがこどもの不登校です。
11日の西日本新聞朝刊の社説に、9年連続で不登校の小中学生の数が増加している、と書いてありました。
2021年度は24万4940人で、コロナ禍にあって臨時休校や活動制限もあり、学校を休むことへの抵抗感が薄れたことも影響している、とのことでした。
そして、3人に1人が誰にも相談せず、支援を受けていない現状なのだそうです。
久留米教会も、コロナ前のミサはこどもの参列がとても多かったのですが、家族の仕事の都合や感染のリスクを考えて、などの事情があり、最近はこどもたちの姿がめっきり減ってしまっています。
もしかしたら、教会のこどもたちにも不登校の問題を抱えている子がいるのでは、と心配になります。
このことを友人と話していたら、「うちの娘も小学校の時、5ヶ月不登校だったよ。弟の息子も不登校になって、転校したよ。」と、当時の話を聞かせてくれました。
あたらめて、この問題が身近なことなのだと痛感させられました。
そのとき、 ファリサイ派の人々が、神の国はいつ来るのかと尋ねたので、イエスは答えて言われた。
「神の国は、見える形では来ない。
『ここにある』『あそこにある』と言えるものでもない。
実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ。」
(ルカ17・20)
こどもが必要としているのは、必ずしも「模範となる大人」ではないかもしれません。
優しい親、素敵な家族であっても、大人もこどもも生きづらさを感じる世の中です。
それでも、わたしたち大人が担う役割は小さくはありません。
せめて姪たちには、模範、お手本となる存在であるよう、善いことを教えることができるように、わたし自身が生き方を見せることができるようにならなければ。
今、このことを強く感じながら過ごしています。
それぞれの家庭の中に、そして久留米教会の中に、神の国がありますように。
死と共に歩む
6日の午後、久留米教会のすべての死者のための追悼ミサが捧げられました。
わたしも、この数年のうちに親しかった人たちが天に召されたので、参列して祈りを捧げてきました。
侍者は、3人の女の子でした!
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皆さん、あなたがたに幾らかでも、キリストによる励まし、愛の慰め、“霊”による交わり、それに慈しみや憐れみの心があるなら、同じ思いとなり、同じ愛を抱き、心を合わせ、思いを一つにして、わたしの喜びを満たしてください。
何事も利己心や虚栄心からするのではなく、へりくだって、互いに相手を自分よりも優れた者と考え、めいめい自分のことだけでなく、他人のことにも注意を払いなさい。
(フィリピ2・1~4)
普段のごミサももちろん、皆で心を一つに祈るのですが、「死者のためのミサ」の祈りの一体感はまた違ったものを感じます。
心を合わせ、天に召された近しい人々のために思いを一つにして祈る時間には、特別な力があると思います。
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映画監督のジャン=リュック・ゴダールさん(91)がスイスの自宅で「安らかに息を引き取った」というニュースをご覧になったでしょうか。
「スイスで法的支援を受けて自発的に旅立った」という声明でしたが、スイスでは状況によっては自殺幇助が合法なのだそうです。
オーストラリアの環境・植物学者デイビッド・グドールさん(104)も、2018年にスイスの医療機関でこの措置によって死を選択しています。
現在、10カ国以上の国・地域で自殺ほう助が認められています。
伝統的にカトリック教徒の国だったスペインでも昨年、右派政党やカトリック教会の強い反対を押し退けて「死ぬ権利」が合法化され、積極的安楽死も認められるようになりました。
「カトリック教会は、神の法に触れるとして死を手助けすることに反対しており、フランシスコ教皇も医師に対し、死を手助けしたいという誘惑を退けるよう促していた。」
と、CNNのニュースサイトに書いてありました。
教皇様は「私たちは死と共に歩んで行くもの。死を挑発したり、いかなる類いの自殺も支持したりしてはならない。」とコメントされています。
日本ではそれ自体が罪として罰せられていますし、倫理的な観点からもこの制度が導入されることはおそらくないように思います。
そもそも、人間の「倫理」とは何なのでしょうか。
基準があるとすれば、それはどのようなものなのでしょうか。
死とは、望んで得るものではなく、神様に(天に)その命を託すこと、身を委ねることであってほしいと思います。
「今、わたしの心はかき乱されている。
何と言おうか。
『父よ、わたしをこの時から救ってください』
と言おうか。
いや、このために、この時のためにこそ、わたしは来たのである。
父よ、み名の栄光を現してください」。
(ヨハネ12・27)
死を目前にして、イエス様が心を騒がせた様子が、ここに書かれています。
「この時」は、イエス様のようにわたしたちに示されることはないでしょう。
イエス様は、全ての人を導く光としての役割を担っていました。
「もうしばらくの間、光はあなた方のうちにある。
闇に追いつかれないように、光のあるうちに歩きなさい。
闇の中を歩く人は、自分がどこに行くのかを知らない。
あなた方は光のあるうちに、光の子となるために光を信じなさい」。
(ヨハネ12・35〜36)
教皇様のお言葉のとおり、わたしたちは「死と共に歩む」人生を送っています。
自分に残された、この世での時はわからないのですから、神様の導かれる光に従って歩んでいくしかないのです。
主は信頼に値する方です。
必ず、あなた方を強め、あなた方を「邪悪なもの」から守ってくださいます。
どうか、主が、あなた方の心を神の愛とキリストの忍耐へと導いてくださいますように。
(2テサロニケ3・3、5)
生きることは時に、忍耐を必要とします。
特に、病に苦しむ人にとっては、生きることは大変な苦痛を伴うでしょう。
この死者の月には、そうした方々のためにも祈るように導かれているように思います。
「悲しみ」の意味
コロナ禍においては、信仰の有無に関わらず、多くの人が「生と死」について考えを巡らせたでしょう。
今はどうでしょうか。
あれほど世界中が大混乱に陥れられ、見えない感染症に怯えて暮らしていたのが、もう過去のことのような気がしてしまいます。
コロナウィルスで亡くなられる方が、家族に看取られることなくお骨になって自宅に戻る。
これは、今現在も少なからず起きている、旅立ちの現実です。
これまでに、全世界で658万人の方がこのウィルスの犠牲になったと報道されていました。
家族や大切な友人の最期を見送ることができる、見送ってもらえることは、とても恵まれたことです。
終活、という言葉がありますが、自分がいつ天に戻されることになっても良いように備えておけることも、また恵まれた状況でしょう。
残される人をできるだけ悲しませないように、煩わせないように、と準備しておくことと同様に、日頃からわたしたち自身が心と生活において豊かに構えることが必要です。
わたしたちは皆何らかの形で悲嘆を経験しているだろう。
問題は、それにどのように耐えるかである。
なぜなら、悲しみにもわたしたちにとって重要な意味があり、そこから性急に逃れようとするならば、その意味を見失う恐れがあるからである。
悲嘆や心痛を望む人はいない。
誰もが常に喜びにあふれ、陽気で、満足した生活を望んでいる。
しかし、それは不可能であるばかりか、わたしたちのためになることとも言えない。
「悲しみを読む」ことを学ぶのは大切である。
今日、それはどちらかというとネガティブなことのように考えられている。
ところが、悲しみはわたしたちの人生に不可欠な非常ベルのようなものであり得ると同時に、より豊かな心の風景を旅させるものでもある。
わたしたちが孤独と悲嘆を開かれ目覚めた心で体験するならば、人間的・霊的により強められてそこから脱することができるだろう。
わたしたちの限界を超える試練はない。
(教皇フランシスコ10/26のバチカン一般謁見での講話より)
悲しみを読む。
その中に意味を見出す作業もまた大切なことなのだ、というパパ様のお言葉に感動しました。
悲しみはたいていの場合、突然わたしたちを覆い尽くします。
悲しさに支配されないようにするには、普段の生活の仕方が大事なのだと教えられています。
「いつも目を覚ましていなさい。」
イエス様がそうおっしゃっていたとおり、いざという時のために日頃から備えておきたいものです。
明日から11月、死者の月です。
個人的に、一年で一番大切に想っている祈りの月です。
「亡くなった人のことは心配しなくていい。
神様のところにいるのだから。」
11年前、そう言ってもらったことで心の底から救われました。
それから数年後、悲しみがようやく癒やされたと感じることが出来た時から今日までの、豊かな心の風景の旅路を振り返りながら感謝する、そんな時がわたしの11月です。
御前では、全宇宙は秤をわずかに傾ける塵、
朝早く地に降りる一滴の露にすぎない。
全能のゆえに、あなたはすべての人を憐れみ、
回心させようとして、人々の罪を見過ごされる。
あなたは存在するものすべてを愛し、
お造りになったものを何一つ嫌われない。
憎んでおられるのなら、造られなかったはずだ。
あなたがお望みにならないのに存続し、
あなたが呼び出されないのに存在するものが
果たしてあるだろうか。
命を愛される主よ、すべてはあなたのもの、
あなたはすべてをいとおしまれる。
あなたの不滅の霊がすべてのものの中にある。
主よ、あなたは罪に陥る者を少しずつ懲らしめ、
罪のきっかけを思い出させて人を諭される。
悪を捨ててあなたを信じるようになるために。
(知恵 11・22〜12・2)
「暗闇からの祈り」と題された詩編88を、死者の月に心に留めたいと思います。
わたしの救いの神、主よ、わたしは叫びます。
昼も夜も、あなたに向かって。
わたしの祈りをみ前に至らせ、わたしの叫びに耳を傾けてください。
わたしの魂は悩みに満ち、わたしの命は陰府に近づきました。
わたしは穴に下る者のうちに数えられ、
力尽きた者のようになりました。
わたしの床は死者のうちにあり、わたしの寝床は墓の中にあります。
わたしは刺し殺された者のようです。
あなたはもはや死者を心に留められず、彼らはあなたの愛から切り離されています。
主よ、わたしは日ごと、あなたに呼び求め、
あなたに向かって手を伸べました。
あなたは死者のために不思議な業を行われるでしょうか。
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どこにも出掛けられなくて悲しいな、、、、と思っていたら、イタリアに出張中の妹がたくさん写真を送ってくれました。
少し旅行に行けたような、幸せなお裾分けでした。
Basilica di Santa Maria Novella(サンタマリアノヴェッラ聖堂)
Duomo(ドゥオモ)
Basilica di San Lorenzo-Cappelle medicee(メディチ家の礼拝堂)
マリア像byミケランジェロ
このマリア像は初めて見ました!
心豊かな一週間になりますように。
毎日を生きる
1ヶ月ぶりにごミサに与ることが出来ました。
今求めていた聖句に出会えるのも、ミサの醍醐味であると思っています。
自分を正しい人間であると思い込み、ほかの人をさげすむ人々に、イエスは喩えを語られた。
(ルカ18・9)
「思い込み」新共同訳では「うぬぼれて」、つまり自分自身に頼る人々とは、「むしろイエスの弟子たちのことであろう」と聖書と典礼の注釈にありました。
「胸を張って立ち、心の中で祈ったファリサイ派の人」と、「遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら声に出して言った徴税人」。
とてもハッとさせられました。
私は聖書が私を理解し、私を説明してくれているのを感じます。
聖書は私が切望していたことや恐れていたことを私に指摘し、待望と期待のかぎを与えてくれます。
聖書は神を探す人、真理と人生の意味を探す人、絶望や恐怖から逃れようとする人にとって、自分を見せてくれる鏡です。
聖書は人間に人間自身、その種々の望み、その目的を啓示し、復活されたかたのことばは、ほんとうに世の救いの歴史のなかで行われつつあるすべてのことの上に押された神の封印であるということを悟らせてくれます。
(「宣教者をそだてるイエス」カルロ・マリア・マルティーニ著より)
世界にはまだキリストを知らない人がたくさんいます。
日本でもわたしたちはキリストを知らない人たちに囲まれて生きています。
キリストを伝えることである宣教は、神の子ども、キリストの弟子となったわたしたち皆に与えられている使命です。
(カトリック中央協議会 「日本の祈願日における解説」より)
世界宣教の日にあたり、自分自身をきちんと見直し、信仰を持っていることをうぬぼれず、自分を通して宣教できるようになるためには、もう少し謙虚にならなければいけないと強く思った日曜日でした。
・
今回の入院中も、1日に一度は聖書を開いて読んでいました。
昔、入院していた時に母がしてくれていたように、目をつぶり、パッと開いたページを読むのが好きです。
抗がん剤の治療中に吐き気を少しでも忘れることができるように、と、母がそうやってわたしに聖書を読んでくれていました。
死者の月を前に、「生」についてのいくつかの聖句をピックアップしてみました。
生きるということはこういうことである、と、聖書ではさまざまな表現でわたしたちに問いかけています。
永遠の命とは、
唯一のまことの神であるあなたを知り、
また、あなたがお遣わしになったイエス・キリストを知ることです。
(ヨハネ17・3)
たとえ、誰かが自分は信仰をもっていると言っても、行いを伴わないなら、何の役に立つでしょう。
人は行いによって義とされるのであって、信仰だけによるものではありません。
息をしない体が死んだものであるのと同じように、行いの伴わない信仰もまた死んだものです。
(ヤコブの手紙2・14、24、26)
この箇所は、いつも胸にグサッと刺さります。
行いの伴わない信仰では、誰にも宣教することはできません。
地の塵の中に眠っている多くの者が目を覚ます。
ある者は永遠の命に。
ある者は永遠の恥とさげすみに至る。
懸命な者たちは、大空の光のように輝き、
多くの者を義へと導いた人々は星のように夜々限りなく輝く。
(ダニエル書12・2〜3)
これは、旧約聖書中の最初の復活信仰に関する記述なのだそうです。
紀元前2世紀ごろに書かれたこの文の美しさに、現代のわたしたちも感動させられます。
お前は最後までお前の道を行き、憩いに入りなさい。
その時の終わりに、定められた分を受けるために、お前は立ち上がるであろう。
(ダニエル書12・13)
「立ち上がる」、すなわち復活を意味します。
最後まで自分の役割を果たす生き方をしなさい、と言われているような気がします。
毎日をより良く生きていくために、こうした聖書のことばはわたしにとって欠かすことのできないものです。
秋の夜長に、聖書を開いてみませんか?
きっと、聖書がわたしを理解してくれている、と感じることができると思います。
みなさんの役割
美しい空、澄んだ空気、可憐な草花、美味しい果物、秋は本当に素晴らしい季節です!
教会の前庭も、いつもの季節を知らせる香りが漂い始めています。
むせ返るような香り!(だそうです!!)
こんな気持ちの良い気候の中、自宅で療養生活を送っていますが、妹が家事をしに来てくれているので本当に助かっています。
やはり、こう言う時に頼りになるのは姉妹ですね。
家族にはそれぞれの役割があり、いつどんな時にも助け合える関係を日頃から築いておくのはとても大切なことだ、と、こういう時にしみじみと感じます。
ところで、わたしたち一人ひとりに、キリストから受けた賜物の種類に応じた恵みが与えられました。
そして、この方ご自身がある人を使徒、ある人を預言者、ある人を福音宣教者、ある人を教師または牧者として与えてくださいました。
それは、聖なる人々を奉仕の働きができるように準備させ、キリストの体を築きあげるためです。
(エフェソ4・7、11〜12)
お知らせでご案内した通り、10月から久留米教会の各種役割を担う委員会が新体制となりました。
当然のことながら、教会はミサを行うだけではなく、様々な裏方さんたちの役割分担があって維持されています。
今回の新体制では、
■典礼奉仕(毎週の典礼、侍者、オルガン体制の調整)
■各種行事(復活祭、初聖体、冠婚葬祭など)
■渉外・広報(宣教司牧委員会、外国籍の方々との連携)
■営繕(教会、信徒会館、駐車場、墓地の管理)
■財務(毎週の献金・予算決算の管理)
大きく分けてこの5つの役割に、8人の委員が割り振られました。
このキリストによって体全体は、必要なものをもたらす互いのあらゆる触れ合いを通して、また、各部分の役割に従った働きに応じて一つに組み合わされ、結び合わされて大きく成長し、愛に基づいて自分を築きあげていくのです。
(エフェソ4・16)
フランシスコ会訳聖書の注釈には、「ここで強調されているのは、ご自分の体の異なった各部分の相互の触れ合いと愛の交流を通して、キリストは教会を成長させるという点である。」と書いてあります。
これらの役割を担う人の働きと、それをサポートする共同体の皆さんの助けがあってはじめて、わたしたちの教会が築き上げられていくのです。
5つの仕事以外にも、
■女性の会
■ヨゼフ会
■納骨堂維持管理
■日曜学校
■手話の会
■フードドライブなどの福祉活動
■正義と平和を考える会
といった活動が活発に行われているのが久留米教会です。
わたしたちはこのわざに参与することが、恵みとして、キリストの賜物の量りに従って与えられます。
わたしたちが、それを復活された方から絶えまなく与えられる恵みであり、賜物であると認めている限り、この御父とキリストのわざへの参与は、重荷や苦しみとしてではなく、むしろ情熱と創意の泉としてわたしたちのうちに、新鮮で湧き出るような自由なものとしてとどまるのです。
わたしたちを刺激して、自らの立場を本当に見直し、再考し、機会あるごとに新しい目で眺め、わたしたちがしていることの意義と理由、および、どうしたらいっそうよく実行できるかを問うように刺激します。
(「宣教者をそだてるイエス」カルロ・マリア・マルティーニ著より)
久留米教会は登録信徒が1000人近く、毎週のごミサには延べ400人ほどが参列する大きな共同体です。
当然ながら、8人の委員だけでは維持管理は困難です。
教会という共同体をより良く築きあげるためには、信徒の皆さんのご協力、アドバイス、ご指導が欠かせないのです。
かつて、あなた方は闇でしたが、今は、主に結ばれて光となっています。
「光の子」として歩みなさい。
ー 実に、光が結ぶ実は、あらゆる善意、正義、真実を備えたものです。ー
主に喜んでいただけることは何か見極めなさい。
(エフェソ5・8〜10)
霊に満たされ、互いに詩編や、賛美の歌、霊的な歌をもって語り合い、主に向かって心から歌い、琴を奏でなさい。
わたしたちの主イエス・キリストの名において、いつも、父である神にすべてのことを感謝し、キリストを畏れ敬う心をもって互いに従いなさい。
(エフェソ5・19〜21)
新しく任命された委員は、平均年齢50歳ほどのメンバーです。
知らないこと、気づかないこと、見落としていること、足りないことが多々あるかと思います。
どうぞ、遠慮なくご指摘いただきたいと思います。
共により良い久留米教会共同体を築きあげていきましょう。
よろしくお願いいたします。