カテゴリ:聖書

1デナリオン

先週紹介した本から、もうひとつ。
マタイ20章にある、ぶどう園の主人と労働者の喩え話についてです。

1日につき1デナリオンで働くことを約束された労働者たち。
9時から働いた人だけでなく、5時ごろに雇われた人たちにも、主人は同じように1デナリオンを払うのです。

山本芳久さんの本には、教皇レオ14世はこの箇所についての説教で、気前の良い主人ではなく遅い時間まで広場に残されていた労働者に着目して話された、と書いておられます。

「彼らは、今日も仕事にありつけなかったという徒労感と無意味感、不安にさいなまれていたであろう。
ぶどう園の主人は、労働者を探すために、1日に何度も出かけるのだ。
わざわざ、5時にも。」

この疲れを知らない主人は、わたしたち一人ひとりの人生になんとしても価値を与えたいと望み、5時にも出かけるのです。
市場に残っていた労働者は、おそらくあらゆる希望を失っていたことでしょう。
それでも、なお彼らを信じていくれる誰かがいたのです。
人生で自分にできることはほとんどないように見える時でさえ、常に、人生にはやはり価値があるのです。
意味を見出す可能性は常に存在します。
なぜなら、神はわたしたちの人生を愛しておられるからです。
(2025/6/4、3回目の一般謁見講話より)

いつ働き始めても報酬が同じと分かっていたら、多い時間働く必要はない、と考えるのが普通かもしれません。

アウグスティヌスは説教の中でこのことに触れています。

「神の招きを感じたならば、呼ばれたときにすぐに行きなさい」
「いつ始めても報酬が同じだからといって始めるのを延期しているうちに、神からの招きに応答しないままに人生を終えることになってしまうかもしれない」
「いまここで神からの呼びかけに応え、あなたに与えられているかけがえのない役割を果たしなさい」

教皇様は、アウグスティヌスの言葉を引用しながらわたしたちに呼びかけられたのでした。

 

自分の日々の働きが無意味に感じることはありませんか?
家事、仕事、与えられた様々な役割をする中で、徒労感を感じる場面があるのは当然かもしれません。

来住英俊神父の9/8のnote、「年間第23主日の説教」の記事から少し抜粋してご紹介します。

洗礼を受けると予想しない苦しみを経験します。
次の例は、 教会で起こる典型的な苦しみではないかと思います。
最初は、キリストの受難に与ることを、ハードワークに耐えることと同一視しているものです。
頑張る覚悟はあるが、ある程度の評価と感謝を予想します。
そうなることもあります。

しかし、かなりの確率で周囲の人々は自分の頑張りを無視している、当然のことと思っているということに気がつきます。
不本意ではあるが、キリスト者なんですから、その無視に耐えようと思います。
しかし、その次に起こることは耐え難いものです。
自分は頑張っていると思っていたのが、他人から、周囲の人から批判されるていることに気がつくのです。
私は、いくつかの小教区でそういうことを聞きました。
それで教会に来なくなった人も結構います。
キリスト者生活をするにつれて、こういった予想もしない苦難を経験します。
「なんじゃ、これは!」と投げ出したくなります。
こんな取り扱いにも我慢しなければならないのかと思います。
ですから、キリスト者の旅路の途中で何度か、「腰を据えて考える」必要があるのです。
「 私はそれでも、この道を終わりまで歩む覚悟があるか。」
「自分の十字架を背負ってついてくる者でなければ、誰であれ、私の弟子ではありえない。」

わたしも、そして教会で役割を果たす誰もが、報酬(評価、感謝)を期待しているわけではありません。

もしも、報酬が与えられるとしたら、それはすでに与えられているからです。

それは、1デナリオンの価値以上の、信仰生活という人生に意味を見出すというご褒美です。
神様からの呼びかけを聞き、かけがえのない役割を果たすことができるという喜びを、いつも感じることができています。

終わりまで、腰を据えて考えながら導きに応えていきたい、それが全てです。

+++++++++++++++

ミサの中で敬老の祝福式が行われ、ミサの後にはささやかなお祝いの会を行いました。
先輩方の嬉しそうな楽しそうな様子に触れ、とても穏やかな気持ちで良い日曜日を過ごすことができました。 

 

 

 

「落ち着かない心」

わたしが大きな病気をしたとき、若かったこともあり、全く心配もせず、おおらかに前向きに生きていました。

ですが、ふと思ったのです。
当時、家族はどれほど不安な気持ちで、心配をしながら落ち着かない暮らしをしていたのだろうか、と。

神よ、あなたの名によってわたしを救い、
あなたの力で守ってください。
神よ、わたしの祈りを聞き、
わたしのことばに耳を傾けてください。

神よ、わたしはすすんでいけにえをささげ、
いつくしみ深いあなたの名をたたえる。
神はわたしの助け、わたしのいのちの支え、
あなたはすべての苦しみからわたしを救われる。
(詩編54・3~4,8~9)

母はカトリックの信仰を持っていましたので、おそらく毎日神様に祈り、聖書を開いていたことでしょう。

化学療法の治療中は、いつも母が枕元で聖書を読んでくれていました。
吐き気がひどい中、内容は頭に入ってきませんでしたが、それでも素敵な音楽が遠くから聞こえてくるような心地よさを感じていたことは忘れられない思い出です。

当時、抗がん剤の治療を終えて1週間は絶対に外出禁止でした。(免疫が極度に落ちているから)
数度目の治療の後、お散歩に出ていい、と言われて出かけたのは、お向かいのビルにある本屋さんでした。
インターネットなど普及していない時でしたから、何か本を読みたかったのです。

ですからその時以来、聖書を開くこと、そして読書は、わたしの最高の癒しとなっています。

久しぶりに、素敵な本に出会いました。
8月20日に出たばかりの、山本芳久さんの新刊です。

レオ14世教皇のお人柄やお考えが、ようやくスーッと心に入ってきた気持ちになれました。

主よ、あなたは私たちを、ご自身にむけてお造りになりました。
ですから私たちの心は、あなたのうちに憩うまで、安らぎを得ることができないのです。
(アウグスティヌス「告白」第1巻第1章)

教皇就任ミサの冒頭にレオ14世が語ったのは、やはりアウグスティヌスの言葉でした。

わたしたちは皆、心の中に多くの問いを抱えて生きています。
聖アウグスティヌスはわたしたちの「落ち着かない心」についてしばしば語っています。
この落ち着かなさ、安らぎのなさは悪いものではありません。
わたしたちは、その火を消そうとしたり、自分が経験している諸々の緊張や困難を取り除いたり、麻痺させたりさえする方法を探すべきではありません。
むしろ、自分自身の心と向き合い、神がわたしたちの人生の中で、またわたしたちの人生を通して働かれること、そして他の人々にわたしたちを通して手を差し伸べることができることに気づくべきなのです。
(2025年6月14日シカゴでのビデオメッセージより)

わたしたちが抱えている、心の「落ち着かなさ」「安らぎのなさ」を悪しきものと判断して無理に克服しようとしなくていい、とおっしゃっています。

「落ち着かない心」「安らがない心」に促されるままに、自分の日々を深く歩むことが人生なのですよ、と。

他の人々に手を差し伸べることができるのは、自分が「落ち着かない心」を持っているからできるのだ、と。

このことを痛感する出来事がありました。
先週書いたように、色々と不安と心配事を抱えていて余裕のない心で過ごしていたのですが、もっと大変な心配事に覆われた友人がわたしを頼ってきたのです。 

「うん、わかるよ、その気持ち」

と、彼女の話を聞き、心が軽くなるならこうしてみたらどう?と伝えることができました。
自分が落ち着いている時ならば、「え?なんでそんなこと心配してるの!?」と笑い飛ばしたアドバイスをしていたかもしれません。

わたしも今、心の「落ち着かなさ」「安らぎのなさ」の中にいるので、かえって一緒に落ち着いて語り合えた気がするのです。

代々に、主に寄り頼め、まことに、主はとこしえの岩。
そうです、あなたの定め道にあって、主よ、わたしたちはあなたを待ち望みます。
あなたの名と、あなたの名を呼ぶことが、わたしたちの魂の望み。
わたしの魂は、夜、あなたを慕い求め、わたしの中の霊はあなたを慕います。
(イザヤ26・4、8〜9)

あなたはわたしを健やかにし、わたしを生かしてくださいました。
あなたの愛は、滅びの穴からわたしの魂を守ってくださいました。
生きている者、生きている者だけが、今日のわたしのように、あなたをほめたたえるのです。
主はわたしを救ってくださる。
わたしたちは命の日々のあるかぎり、主の家で楽を奏でよう。
(イザヤ38・16〜20抜粋)

38章のこの箇所、これが生きる意味なのだ、と聖書の師匠から教わりました。

聖書の文章は、本当に美しいです。
落ち着きと安らぎをわたしに与えてくれます。

 

山本さんは、こう書いておられます。

世界の中で日々起き続ける様々な出来事に揺り動かされ、「落ち着かない心」を抱き続けながら、「一致」と「平和」を目指して生きる一人ひとり(キリスト者であれ非キリスト者であれ)によって築かれる、「多様性」を前提としたうえでの「一致」の世界。
それこそがレオ14世がアウグスティヌスに深く依拠しながら実現を呼び掛けている世界の在り方なのである。

教皇様のお話に、これからはもっと注目したいと思わせる本です。 

 

閉ざされた信仰

中世のスペイン王国・ポルトガル王国で、ユダヤ人でユダヤ教からキリスト教に改宗した人々のことを、「コンベルソ」(新キリスト教徒)と言います。

イベリア半島(現在のスペイン)は、ヨーロッパの中で最もユダヤ人が住む地域でしたが、キリスト教国とイスラム教国のせめぎあいの中で翻弄され、レコンキスタの最中に即位したカトリックの国王の迫害を逃れるために、多くのユダヤ人がキリスト教に改宗しました。

そのような中、1478年にローマ教皇の許可を得てドミニコ修道会が異端審問制度を始めます。
この異端審問所は、ユダヤ教徒やイスラム教徒に対してではなく、新キリスト教徒の中の背信者を取り締まるために設けられたのです。

1492年、国王はついにユダヤ教徒追放令を出し、キリスト教に改宗しないユダヤ人は国外に退去することを命じました。

ちなみに、レコンキスタとは、イスラム教徒から不当に領地を占領されたとして、その支配に抵抗するカトリックを信仰するスペイン人による領土奪還のことです。

レコンキスタ、とは19世紀に作られた造語で、当時の人々はそのような自覚(我々はスペイン人である、イベリア半島は統一すべき、というような)はなかったようです。

アメリカの新政権が打ち出した政策、「犯罪を犯した不法移民を国外退去か、グアンタナモの収容所に入れる」は、もちろん根本的には全く別のものですが、どこか似たような政策に感じます。

 

中世の当時、「スペイン」というひとつの国は存在せず、キリスト教・ユダヤ教・イスラム教という宗教カテゴリーごとに連帯するわけでもなかった。
当時の人々は各々の思惑を持って懸命に生きたのであって、その割り切れない生き様を単純化してしまってはならない。
国家や民族、信仰や善悪といった、後世の人々が創り出した「フィクション」で単純化して線引きすることが、どれほど多くの悲劇を生み出してきたか、そして生み出し続けているのかを、現代に生きる我々は痛感している。
「レコンキスタ ―「スペイン」を生んだ中世800年の戦争と平和」
黒田 祐我 著より

全く知らなかった、中世のスペインの歴史について、とても勉強になる本です。
そして、歴史上の大きな転換点には良くも悪くも、いつもカトリック教会(教皇)の深い関わりがあったことを、この本でも改めて認識させられました。

わたしは、聖書の基本理念はこの箇所に表されていると、いつも思います。

お前たちが自分の土地の刈り入れをするとき、お前は畑の隅まで刈り尽くしてはならない。
またお前の刈り入れの落ち穂を拾ってはならない。
お前のぶどう畑の実を取り尽くしてはならない。
お前のぶどう畑に落ちた実を拾ってはならない。
それらは貧しい人や他国の者のために、残して置かなければならない。
(申命記19・9〜10)

在留する他国の者や孤児の権利を侵してはならない。
やもめから衣服を質に取ってはならない。
エジプトで奴隷であったあなたを、あなたの神、主が贖われたことを思い起こしなさい。
畑で穀物の刈り入れをするとき、一束を畑に置き忘れたなら、それを取りに戻ってはならない。
それは在留する他国の者、孤児、やもめのためのものである。
そのように行えば、あなたの神、主はあなたのすべての業を祝福なさるであろう。
(申命記24・17〜19)

 

ミレーは、この申命記の理念を表したルツ記の場面を取り入れて「落穂拾い」を描いたと言われています。

 

これは、キリスト教の教えではなく、旧約聖書に書かれている「全人類」への教えではないでしょうか。

レコンキスタの時代も、現代も、自分たちがそもそも寄留者に過ぎないことを完全に忘れているのです。

もちろん現代社会は、各国が定めた法律に則って暮らす義務と責任をだれもが持っていますが、「メキシコ湾」か「アメリカ湾」か、そのようなレベルの争いが未だに繰り広げられているのが現実です。

問題が拡大したのはテレビ局のせい、山火事が大規模で長期間にわたったのは前政権の予算配分のせい(気候変動対策に予算を割きすぎたから)、旅客機に軍のヘリが追突したのはFAAがDEI(多様性、公平性、包摂性)の推進のために「重度の知的障害や精神障害を持つ人々の雇用を進めた」せい、、、。
(もちろん、大統領の根拠のない発言です)

 

紹介した本によると、10世紀のアンダルス(現在のスペインの一部)では、どれか一つに統合されることのないハイブリッドな社会でした。

公用語はアラビア語、日常言語はラテン語が俗語化したロマンス諸語、ヘブライ語もユダヤ人の儀礼言語として用いられていました。
イスラムが実質的に支配していた10世紀の後ウマイヤ朝は、ユダヤ教徒もキリスト教徒も、その庇護のもとで自らのアイデンティティを維持しながら、それぞれの分野で活躍していたそうです。

「多様性に根差し、宗教的寛容によって形作られた非凡なる中世文化」と書かれています。

 2025年の今、そのような社会の形成を求めるのは理想主義すぎるでしょうか。
少なくともキリスト教を信仰するのであれば、信仰の根本を思い起こし、わたしたち一人ひとりがもっと寛容でなければならない、と痛感するこの頃です。

ミサ後の、わたしの大好きな光景です。
あちらこちらで、それぞれの日常を交換する信徒の皆さん。

わたしも、週に一度お会いする方々と言葉を交わす日曜日が大好きです。

 

家庭における愛

新年あけましておめでとうございます。

お正月を家族とともに過ごす、というのは日本の良き伝統ですね。
我が家には中学生の甥が一人だけ帰省してくれたので、「初詣に行こう!」と教会に連れて行き、一緒に座って祈ることができました。
素晴らしい一年のスタートが切れた気分です。

今年はどのような一年にしたいですか?
今年の抱負、どのように考えていらっしゃいますか。

新年最初に、トビト記を読みました。

トビト(義人としてトビトと息子のトビア、その嫁のサラ)への神の絶えざる保護、苦難や迫害にあっても神に忠実に生きる姿が物語形式で描かれています。

わたしは4人の姪甥に、「人からして欲しいことを人にもしなさい(マタイ7・12、ルカ6・31)」と常々話しています。
トビト記には、その由来とも言える教えが書かれています。

目が見えなくなり、生きていることが辛く、死にたい、と嘆き暮らすトビト
嫁いだ夫7人が次々と亡くなり、何のために生きているのかわからない、この世から解き放って欲しい、と願うサラ

二人を繋いだのは、神の使いラファエルでした。

息子よ、日ごとに主を思い起こしなさい。
息子よ、できるかぎり施しをしなさい。
息子よ、すべてのみだらな行いから身を守りなさい。
息子よ、お前の兄弟たちを愛しなさい。
子よ、すべての行いに注意し、すべての振る舞いに節度を守りなさい。
お前自身が嫌うことを他人にしてはならない。
(トビト記4章抜粋)

この4章の教えは、現代でも親が子どもに伝えるべき全てではないかと思わされます。
兄弟、とは、この時代は親族(従兄弟など)を指しており、家族を大切にすることを意味しています。

ラファエルを伴ってトビアが旅に出る際、息子にこう語りかけるトビト

息子よ、旅に必要なものを整え、兄弟と一緒に出発しなさい。
天におられる神が、お前たちを守り、無事にわたしのもとに連れ戻してくださるように。
息子よ、神の使いが、お前たちとともにいて、無事に旅をすることができるように。
(5・17)

7人もの夫に(結婚したその夜に)死なれた娘サラがトビアと結婚することになり、翌朝トビアが無事に生きていることを知ったサラの父の祈り

「神よ、あなたは、あらゆる清く尊い賛歌をもってたたえられますように。
あなたのすべての聖者と被造物とが、いく千夜にわたって、あなたを賛美しますように。
主よ、彼らに憐れみと救いを与え、彼らの一生が喜びと憐れみに満たされますように」。
(8・15〜17)

二人の父の、こどもに対する愛情と神への賛歌が感動的で、ここも、現代の親のこどもへの願いの全てではないでしょうか。

サラの家での婚礼期間を終えて家に戻る際に、トビアが義理の両親へかける言葉も、親へのこどもからの愛の全てです。

「主がわたしに一生の日々、あなた方を敬う恵みを与えてくださいますように」。
(10・14)

ラファエルが神の使いであることを明かし、トビトたちに向けてこう言います。

日ごとに神を賛美し、かつ神に向かって歌いなさい。
(12・18)

ふと開いたトビト記には、わたしの今年の抱負の全てが詰まっていました。

家族への愛、親子の慈しみ合い、こどもへ伝えたい大切なこと、これがすべての家庭において大切にされれば。

改めて、家庭がすべての愛の根幹であることを、新年から再確認することができました。

・・・・・・・・・・・・・・

2025年の聖年は、次の教会への巡礼が推奨されています。

福岡教区 巡礼指定教会

浄水通 教会(福岡県)
大名町 教会(福岡県)
久留米 教会(福岡県)
小 倉 教会(福岡県)
佐 賀 教会(佐賀県)
島 崎 教会(熊本県)
八 代 教会(熊本県)
大 江 教会(熊本県)

久留米教会にも多くの方が巡礼に来られるかと思います。

初めて久留米教会に来られる方には、聖堂入り口に、「わたしたちのあゆみ(久留米教会の歴史)」「はじめて教会に来られた方へ(未信者向け)」という2種類のパンフレットと、12月に発行したみこころレターを置いております。

巡礼のスタンプラリーのためのスタンプも準備しております。
どうぞ、ごゆっくりお祈りください。

皆様にとって、2025年が希望豊かな一年となりますように。

・・・・・・・・・・・・

聖年の祈り

天の父よ、
あなたは、わたしたちの兄弟、御子イエスにおいて信仰を与え、
聖霊によってわたしたちの心に愛の炎を燃え上がらせてくださいました。
この信仰と愛によって、
神の国の訪れを待ち望む、祝福に満ちた希望が、
わたしたちのうちに呼び覚まされますように。
あなたの恵みによって、わたしたちが、
福音の種をたゆまず育てる者へと変えられますように。
この種によって、新しい天と新しい地への確かな期待をもって、
人類とすべてのものが豊かに成長していきますように。
そのとき、悪の力は打ち払われ、
あなたの栄光が永遠に光り輝きます。

聖年の恵みによって、
希望の巡礼者であるわたしたちのうちに、
天の宝へのあこがれが呼び覚まされ、
あがない主の喜びと平和が全世界に行き渡りますように。
永遠にほめたたえられる神であるあなたに、
栄光と賛美が世々とこしえにありますように。
アーメン。

聖年の日程表

https://www.cbcj.catholic.jp/wp-content/uploads/2024/04/JPN-CAL.pdf

 

後悔を晴らす

次の日曜日まで、聖書週間となっています。
皆さんは、どのようなタイミングで聖書を開いていますか?

いつも何か、1冊の本を読むようにしています。
信仰に関する本でなくとも、気になった箇所があればそこに関連するかもしれない聖書の箇所を探します。
ニュースも、気になる内容があれば聖書にその応えがないか開いてみます。

わたしにとって、聖書を開くのは習慣となっています。

昨日お話しした方は、「眠れない時や、夜中に目が覚めてしまった時に、聖書を開いて読んでいます」とおっしゃっていました。

聖書を家で一人で読んでも、「理解」することは難しいかもしれません。
ですが、聖書を家で開いて斜め読みすることは、テレビをつけっぱなしにしておくよりもずっと善い「習慣」になるでしょう。

ぜひ、今週は心掛けてみてください。

・・・・・・・・・・

先週紹介した、米田神父様の『イエスは四度笑った』を読んでいて、ある記憶が蘇りました。

18歳、大学一年生の冬の忘れられない記憶です。

終電での帰りの車内。
満員でギュウギュウ詰めに近かったのですが、ドア付近にいた若い男性に、酔っていて立ったまま寝ていたおじいさんが寄りかかっていました。
若い男性は何度もおじいさんを押して自分から離していましたが、すぐにまた寄りかかってきます。
その時、駅に到着し、ドアが開いた途端、若い男性はおじいさんをホームに突き倒したのです。
降りる人も乗り込む人も、一様に驚いていましたし、近くに立っていたみんなが(わたしを含め)あっけにとられました。
そして、ドアは閉まり、何事もなかったように電車は動き出しました。

すぐに、一人の女性が大きな声でその男性に向かって「あなた、サイテー!!」と言い放ちました。
すると、2人くらいが続けて「ホントだよ、あのおじいさん、頭打ってケガしてたらどうすんだよ!」「サイテーなやつだな!」などと非難を始めたのです。

終電でした。
降りて介抱するか、乗らずにおじいさんを助ければ、帰りの電車はもうありません。
わたしも含め、誰もそうしなかったのです。

米田神父様は、こう書いておられます。

イエスが生涯かけて身をもって示したこと、それは人間性の回復である。
困っている他者、悲しんでいる他者に近づき、他者のために惜しみなく時間を空け、他者の必要をすべて満たしつつ、その人の友人になりなさい、という内容こそ、「よきサマリア人」の譬え話である。

18歳のわたしが、洗礼を受けていたら、ホームに突き倒されたおじいさんに駆け寄って、介抱したのでしょうか。
当時、「よきサマリア人」の教えのことをきちんと理解していたら、おじいさんを助けたでしょうか。

おそらく、出来なかったでしょう。

この後悔は、長い間ずっとわたしの心に刺さったままでした。
電車が動き始めてから若い男性の行為を非難した人たちとわたしは、全く同じなのだ、という恥ずかしい気持ちです。

「よきサマリア人」の話は、ルカ福音書だけに書かれています。

ですが、米田神父様によると、共観福音書すべてに出てくる「最も重要な掟は何か」(マルコ12・28,マタイ22・36)、「何をすれば永遠の命を受け継ぐことができるか」(ルカ10・25)が前提となっている話です。

イエス様の時代、「隣人」というのははっきりとした概念があり、選ばれたイスラエルの民に属していて、ユダヤ教の掟に忠実で敬虔な仲間内のことを指していました。

ですが、この譬え話の結論としてイエス様が伝えようとしているのは、「隣人」の定義でもあるのです。

「隣人とはだれか?」と問われて、「隣人とは誰々である」と答えることは、隣人の枠を定めることになります。

イエス様は、まずその枠を取り払いなさい、とおっしゃっているのです。
枠や壁を打ち破り、苦しんでいる人、悲しんでいる人に自分から近づいていき、その人の隣人になりなさい、という教えなのです。

イスラエルよ、聞け。
わたしたちの神、主こそ、唯一の主である。
心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして、あなたたちの神、主を愛しなさい。
今日、わたしがあなたに命じるこれらの言葉を心に留め、子供たちにそれらを繰り返し教え、あなたが家に座っている時も道を歩く時も、寝ている時も起きている時も、この言葉を語り聞かせなさい。
(申命記5・4〜7)

「第二の掟はこれである。
『隣人をあなた自身のように愛せよ』
この二つの掟よりも大事な掟はない」。
(マルコ12・31)

洗礼を受けたから、信仰を持っていると自覚しているから、「隣人を自分のように愛する」ことができるわけではありません。

人生の中で、幾つものつまずきを経験し、失敗を糧に進み、後悔を挽回すべく努力する。
そうした積み重ねによって形成されてきた、自分の人間性。

「酸いも甘いも」ではありませんが、若い頃には分からなかったこと、気づかなかったこと、出来なかったことを、人生を重ねるうちに理解し、自分の糧としていく。

今の自分の姿を、神様の前で自信を持って「努力していますので、これからもよろしくお願いします」、と言えるようにしたいものです。

先日、とても嬉しいお言葉をいただきました。

「いつも読ませてもらっています。
先日の記事で、とても救われました。
ありがとうございました。」

本当に嬉しく、「一人の方を励ますことができた」としたら、わたしの過去の後悔も神様に少しは許してもらえるかも、、、、と思えたのです。

 ・・・・・・・・・・・・

いつも、花壇を美しく整えてくださって、ありがとうございます。

 

イエス様のユーモア

突然ですが、大人に必要な、一番大事な人間性は「ユーモア」のセンスだと、常々思っています。

「ユーモア」とは、人を意図して笑わせる能力ではありません。

辞書によると、
広辞苑:上品な洒落やおかしみ
三省堂:人間味のある、上品な・おかしみ
大辞林:思わず微笑させるような、上品で機知に富んだしゃれ
大辞泉:人の心を和ませるようなおかしみ、上品で笑いを誘うしゃれ

などと表現されています。

「ユーモアは感情的なものであり、自分を客観視して笑いのめす余裕と、他者を完全に突き放すことなく、愛情によって自分と結びつける能力を兼ね備えてこそ、真のユーモアの持ち主になれる。
こうしたユーモアに欠かせない要素をイエスは誰よりも豊かに身につけている。
ユーモアとは、他者を思いやる懐が深い人間、他者のみならず自己に対しても寛大である人間のみが備え得る特性であり、人生の悲しみや苦しみを潜り抜け、汗と涙で生き抜いてきた者こそが身に帯びる感覚である。」

 

 

カナダとスイスで10年にわたって徹底的に聖書と神学の研究をされた著者の米田神父様は、この本のタイトルを「意表をついてみた」とおっしゃっています。

事実、わたしもタイトルに魅せられて(よく内容も知らずに)、この本を購入しました。

本の導入で、1970年代に発見されたグノーシス主義者による「ユダの福音書」(発見されたのは写本で、書かれたのは2世紀ではないか、とのこと)について紐解いています。
この福音書には、「イエス様が笑った」場面が4カ所あります。
カトリックでは異端とされた教義ですが、この中での最初のイエス様の笑いは、ミサを捧げている弟子たちを嘲笑した笑いです。

一世紀後半から始まった、正統派教会とグノーシス派との論争のなかで、イエス様は人為的に笑わされたのです。

ですが、米田神父様は「正統派による聖書の正典化に拍車がかかった」、「今日、不動の如く整理された聖書やミサ、教義の上にあぐらをかくのではなく、長い歴史の中での学問的論争を通じての一つの実りであることを認識」すべきだ、とおっしゃっています。

米田神父様が紙幅を割いたのはこの4つの笑いのことではなく、「大食漢の大酒飲み、取税人や罪人の仲間」と正典の福音書が記すイエス様の、ユーモアと隠れた笑いの読み解きのほうです。

その中でひとつ、最も心に響いた箇所をご紹介します。

だれも、織りたての布から布切れを取って、古い服に継ぎを当てたりはしない。そんなことをすれば、新しい布切れが古い服を引き裂き、破れはいっそうひどくなる。
また、だれも、新しいぶどう酒を古い革袋に入れたりはしない。そんなことをすれば、ぶどう酒は革袋を破り、ぶどう酒も革袋もだめになる。新しいぶどう酒は、新しい革袋に入れるものだ。
(マルコ2・21~22)

この箇所、わたしは全く誤解、というか、理解していなかったと自分で驚きました。

米田神父様によると、「古くて硬い入れ物に今まさに発酵中の新しいぶどう酒を注ぐと、その生命力、膨張力によって、古い革袋は持ち堪えられなくなる。
この比喩を通して、イエスの漲る生命力を指し示している。
今まさに新しく生まれつつある力が、古い殻を、古い体質を、古い壁を打ち破ってゆく、自分はまさにその力であるという、イエスの力強い積極的な意欲がここでは語られている。
マタイとルカは、「誰も、古いぶどう酒を飲んだ後で、新しいぶどう酒を欲しがりはしない。『古いものが善い』と言うからである」と付け加えている。
マルコが伝える真意を十分理解できなかったのかもしれないが、思わず笑ってしまう。
イエスなら言いそうな、まさにユーモアが感じられれる。
まあ、そうは言っても現実はそう甘いもんじゃないよ、そうはうまく行かないよ、と茶目っ気たっぷりに言い足したのかもしれない。」

その他にも、わたしたちがよく知っている福音書のエピソードを紐解いて、隠された(知らなかった)イエス様のユーモアが解き明かされていきます。

 

「米国の多様な社会を行き過ぎと感じる有権者は地方を中心に多い。
黒人かつアジア系の女性という多様性を体現するハリス氏の存在そのものが、保守層のみならず、無党派層の一部に忌避された面は否めない。」
読売新聞のアメリカ総局長が、記事にこう書いていました。

多様性を訴え続け、世界をリードしてきたかにみえた国の、これが現実です。

品がなく、他者を愚弄するユーモアのセンスの持ち主が勝つ、これが現実です。
(応援している方、ごめんなさい)

今週は、「ウィットに飛んでいる」「面白い」とは違う、「ユーモアのセンス」を身につけたい!と改めて決意を新たにしました。

・・・・・・・・・・・・・・・

10日のごミサは、3人の神父様と4人の侍者と、七五三のお祝い、という贅沢なお恵みの時間でした。

 

 

 

時代に求められる資質

9/11に行われたアメリカ大統領選挙の討論会を観ました。

表情をほとんど変えずに、時にはイラついた様子で、(虚言も多かった印象ですが)相手を非難したり自身の主張を述べていたトランプ氏

一方で、相手の発言がひどい際には(それは、ほとんどの発言であり、わたしでさえ「根拠がなさそう」と思った)、口の動きは「It's not true.(事実ではない)」とあきれ顔をするハリス副大統領

ハリス副大統領は、トランプ氏には「事実を混同しない気質や能力」がないと主張していました。

兵庫県知事、2つの党の党首選のニュースも含め、最近のニュースは「誰が、どのような人がリーダーとして相応しいか」を考えさせるきっかけになっています。

リーダーにはいろいろな要素が求められますが、時代、国、現状によって、相応しいリーダー像は当然変わっていきます。

旧約に描かれたリーダーも、状況に応じていろいろなタイプがいます。

そこで、モーセとアロンは、集会の前から離れて会見の幕屋の入り口に行き、ひれ伏した。
すると、主の栄光が彼らに現れた。
主はモーセに次のように告げられた、「杖を取れ。そして、お前と兄弟のアロンは会衆を集め、彼らの目の前で岩に命じて水を出させよ。こうしてお前は岩から水を湧き出でさせ、会衆とその家畜に水を飲ませよ」。
モーセは主が命じられたとおり、主の前から杖を取った。
そして、モーセとアロンは集会を岩の前に召集して言った、「反逆する者たちよ、聞け。お前たちのためにわたしたちはこの岩から水を湧き出させることができるのだろうか」。

モーセは手を上げ、杖で岩を二度打った。すると、水が豊かに湧き出てきたので、会衆もその家畜も飲んだ。
 (民数記20・6~11)

会衆たちにとって、モーセは自分たちを約束の地に引き連れてくれる、信頼すべきリーダーでした。
途中で「肉が食べたい」などと文句を言っても、こうして必要な時に水を豊かに湧き出させることができる彼は、主に導かれた理想のリーダーに映ったことでしょう。

ですが、この場面に続いて、主は怒りを露わにします。

「お前たちは、わたしを信じようとはせず、イスラエルの子らの目の前でわたしの聖なることを示さなかった。
それ故、お前たちはこの集会を、わたしが彼らに与えた土地に導くことはできない」。

主への信頼があれば、言われた通りに岩に命じればよかったのです。
そして、いらだって岩を二度も打つ必要はなかったのです。

その後、ほどなくしてアロンがホル山で死に、モーセもネボ山で召され(申命記32・48~52)、兄弟は約束の地に入ることは出来ませんでした。

「あなたの神、主が部族ごとに与えてくださる、あなたのすべての町に、裁き手と役人を任命しなければならない。
彼らは公正な裁きをもって民を裁かなければならない。
あなたは裁きを曲げてはならない。
人を分け隔てしてはならない。
賄賂を受け取ってはならない。
賄賂は賢い者の目を眩ませ、正しい者の言い分をゆがめるからである。
ひたすら正義を追い求めなさい。
そうすれば、あなたは生き永らえ、あなたの神、主が与えてくださる土地を所有することができる」。
(申命記16・18~20)

リーダーに求められるのは、いつの時代も「信頼」と「正義」

やはり、聖書にはすべての答えが書かれています。

・・・・・・・・・・・ 

WOWOWのドラマ「0.5の男」をネットフリックスで観ました。
(最近はネットフリックスで日本のドラマが充実しています!)

このドラマは、ざっと以下のテーマが網羅されています。

・引きこもり
・家庭内暴力
・いじめ
・職場でのパワハラ
・育休後の女性の働き方
・老後の暮らし方

すべて現代社会を反映している問題であり、その対策が国のリーダーに求められていることです。

なんだか、重くて暗い展開を想像されるかもしれませんが、俳優陣の演技の賜物もあり、軽快で明るく、ホロリとさせられる、とっても楽しいドラマでした。

この、現代の社会問題のすべてを解決するキーワードは、「家族」でした。

現実はそう単純なものではないでしょうが、親子の関わり方、兄弟姉妹の関係性、孤立した人への接し方など、いろいろな点において「知れてよかった」と思える内容でした。

人間関係の根本はやはり、家族なのです。
そしていつの時代も、やっぱり家族のリーダーは「お母さん」なのです!!
(このドラマ、かなりお薦めです!)

 

聖書を楽しむ日

台風10号は、進路が刻一刻と予報から変わり、想定されていなかったであろう地域にも被害をもたらしました。

逆に久留米は、予想されていた暴風雨がほとんどありませんでした。

人間はコンピュータのデータ計算によって何事も予測できるようになったと思っていますが、自然の力はわたしたちの次元とは全く異なり、災害からは逃れることはできない、という無力さを痛感します。

教皇様の9月の祈りの意向は「地球の叫びのために」

私たち一人ひとりが、地球の叫びに、また、環境災害や気候変動の犠牲者の叫びに心の耳を傾け、私たちの住む世界を大切にする生き方へと導かれますように。

・・・・・・・

台風の影響を考慮して、金曜日は仕事を休みにしていましたので、ゆっくりと聖書を開いて読み返していました。

列王記のエリシャの召し出しと活躍のあたり、いつもワクワクさせられます。

エリヤはシャファトの子エリシャを見つけた。
彼は十二軛の牛を先に立て、畑を耕しており、自分は十二番目の牛とともにいた。
エリヤはそばに行き、自分のマントをエリシャに投げかけた。
エリシャは牛を残したまま、エリアの後を追って言った、「わたしの父と母に別れの口づけをさせてください。それからあなたに従います」。
エリシャは一軛の牛を取って犠牲としてささげ、牛の引き具を燃やして肉を調理し、人々に振る舞い食べさせた。
それから彼は立ってエリヤに従い、彼に仕えた。
(列王記上19・19〜21)

12という数字
自分のマントを投げる行為
牛を残したまま後を追う様子
両親への別れの口づけ

新約へのつながりを感じます。 

列王記は、北イスラエルと南ユダ、両王国の王の不誠実さとその滅亡という悲劇的な史実を描いているのですが、その中に挿入されている、反バアル礼拝の主唱者である預言者エリヤと、その弟子エリシャの信頼関係が際立っています。

列王記下の2章では、エリヤが主に遣わされて遠くへ行くので、何度もエリシャに「あなたはここに留まりなさい」と言います。

ですがエリシャは、「生ける主と生けるあなたに誓って申します。わたしはあなたから離れません」。と何度も答えるのです。

イエス様から弟子が逃げるように離れて行った場面を思い起こすと、このエリヤとエリシャの場面はとても感動的です。

「わたしがあなたのもとから取り去られる前に、あなたのために何をすればよいか、言いなさい」。
エリシャは答えた、「あなたの霊の二倍の分け前を継がせてください」。
(列王記下2・9)

エリシャにはエリヤの霊が強く留まり、水が悪くて流産が多いと嘆くエリコの町で、水源の水を癒します。
(列王記下2・19〜)

この『エリシャの泉』は、聖書にある通り、今現在もきれいな水が湧き出で続けています。

 

 

2019年の巡礼の際に毎日書いていた記録を読み返してみると、コーディネーターの牧師さんから教わったことを、次のように記していました。

エリコは地中海の海面より250m低い。
亜熱帯的な気候と泉から、BC9000年頃から人類が定住した地として、世界最古の記録がある。
BC7000年の時代の城壁で囲まれた町の跡が発見された。
新約の時代のエリコは別の町。
1994年のオスロ合意でパレスチナ自治区となる。
日本のODA支援で、病院、学校、工場が建てられた。 

 

悲劇を悲観的に捉えるのではなく、その不忠実さを悔い改めを呼びかけるためにあえて楽観的に締めくくられているのが列王記です。

こうして旧約聖書を読むことは、イエス様の教えの根本を知る、大切なことだと教わってきました。

巡礼の手帳の最初には、指導してくださった森山神父様(現、大分教区司教)が事前説明会でおっしゃった言葉を記していました。

わたしたちは、2000年後のキリスト教を受け取っている。
この巡礼は、2000年前のイエス様の言葉を受け取る旅。
新約に書かれたイエス様の言葉の元である旧約を理解し、イエス様と一人ひとりが出会う旅。
イエス様と近しくなるための巡礼の旅。
(2019・7・22コレジオにて)

旧約聖書を読みながら、イスラエルの風景を思い出す休日でした。

 

強く賢く

毎年、「今年の夏は暑さが厳しくなります」「10年に一度の大雨」といったニュースを耳にしますが、今年は記録の残る126年間で「1番暑い7月」だったとか。
イスラエルのマサダ遺跡を歩いたときの気温を思い出す、猛暑を超えた酷暑の久留米です。

(マサダの山頂で、携帯の気温計は47℃だったのです!)


 

福音書には、イエス様のたとえ話に登場したり、男性使徒たちよりも重要な場面に遭遇する女性たちの姿が生き生きと描かれています。

イエス様は、女性の活躍の場は家に限定されるという考え方を覆すような教え、社会生活・信仰生活のなかにも女性の活躍の場があること、を示してくださいました。

女性がたとえ話の中で良いお手本として描かれ、イエス様の死に立ち会い、復活後に空になった墓を見つけたり。
イエス様の生きた時代は、女性は数に数えることすらされないような存在でしたのに、女性に対するイエス様の考え方だけでなく、福音史家の受けた教えがそれを物語っています。
(パンと魚の奇跡で、5000人が満腹したという数字は、男性だけの数でした。)

あなたがたは皆、真実によって、キリスト・イエスにあって神の子なのです。
キリストにあずかる洗礼(バプテスマ)を受けたあなたがたは皆、キリストを着たのです。
ユダヤ人もギリシア人もありません。奴隷も自由人もありません。男と女もありません。
あなたがたは皆、キリスト・イエスにあって一つだからです。

あなたがたがキリストのものであるなら、とりもなおさず、アブラハムの子孫であり、約束による相続人です。
(ガラテヤ3・26~29)

松田聖子さんのコンサートに行ってきました。
世界に遅ればせながら、女性でも目標のためにはどんな努力も惜しまない姿を日本でも見せつけた、初めての女性アイドルではないでしょうか。

一度狙いを定めると、目的を遂げるまでは決してあきらめない彼女の姿勢と行動力は、20世紀末の日本にあっては非難の対象でしかなかったように思います。

憧れの人と恋愛をし、アメリカデビューのためにすざましい努力をし、結婚、出産、離婚、恋愛、再婚、そして永遠のアイドルとしての存在。

もう25年も、ほぼ毎年コンサートに行っています!

62歳になった彼女は、わたしたちファンには今でも「聖子ちゃん」なのです。
彼女は、わたしたちにとってずっと、「尊敬の対象」です。

 

旧約聖書には、
ペルシャの王妃に選ばれたエステルが、ユダヤ人を救うために知恵と信念をもって行動する姿
ダビデに進言し、無益な争いをやめるよう思いとどまらせたアビゲイルの思慮深い行動
こうした、活躍する多くの女性たちの生き生きとした物語が多くあり、読んでいてワクワクさせられます。

彼女たちの物語は、信仰、指導、母性、勇気、知恵、そしてさまざまな人間の側面を示しています。

オンライン上の論文、『Woman of Faith in the Gospels』(「福音書に登場する信仰の女性たち」著者 ピーター・アムステルダム氏)には、このように書かれていました。

最初期の弟子全員がイエス復活の証人であり、十字架刑のあとにイエスが生きておられるのを見ましたが、最初の目撃者は女性たちでした。
墓が空であることを最初に発見したのが女性である、と福音書著者たちが告げているということは、福音書の記述が真実であることを示す、重要な根拠として挙げられることがよくあります。
1世紀においては、女性は一般に信頼できる証人とはみなされていなかったので、福音書の著者たちは、それが真実でない限り、最初の目撃者として女性に注目を向けたりはしないだろうからです。

・どうして使徒として描かれているのは男性12人に限定されているのだろう。

・そういう時代だったとしても、聖書に描かれている女性たちの方がずっと重要な役割を果たし、男性使徒たちよりもずっと強くて賢いように思うのに。

そう思っていましたが、この文章を読んで腑に落ちた気がしました。

誰が一番弟子かを争い、嘘をつき、一番大事な場面で逃げ、十字架につけられたイエス様の足元にすらおらず(いたのは一人だけ)、そうした弟子たちの不甲斐なさと比べ、女性たちの献身ぶりは際立っています。

同時に、その後の弟子たちを命がけの宣教に駆り立てたのは、自分たちの不出来さへの後悔と反動もあったでしょうし、女性たちの物心両面の支えがあってのことでしょう。

イエス様も福音史家たちも、男女の役割と能力、その影響をよく理解されていたのだわ、と思うのです。

 

パリオリンピックでは、 平均年齢が41.5歳で、自身らがつけたチームの異名「初老ジャパン」でも話題になった馬術が、92年ぶりのメダルとなる銅メダルを獲得しました。
「体力面では男性にかなわない女性であっても、馬との信頼関係を築き、馬に正しく指示することができれば、互角に勝負することができるのが馬術」ということで、五輪では唯一男女が同じステージで戦う種目でもあるのです。

わたしはフェミニストではありませんが、やはり、強く賢い女性が活躍する姿を見るのは嬉しいものです。

 

聖書の読み比べ

先日のミサのの朗読で、「あぁ、ここは素敵。帰って聖書を開いて前後を読んでみよう」と思う個所がありました。
家に帰って聖書を開くと、あまりにも訳が違うことに気づきました。

それで、わたしたちはいつも心強いのですが、体を住みかとしているかぎり、主から離れていることも知っています。
目に見えるものによらず、信仰によって歩んでいるからです。
わたしたちは、心強い
そして、体を離れて、主のもとに住むことをむしろ望んでいます。

(2コリント5・6〜8 新共同訳)

そこで、わたしたちはいつも安心しているのですが、この体に住みついている間は、主のもとを離れているのだと知っています。
見えるものによってではなく、信仰によってわたしたちは生活しているからです・・・・。
わたしたちは安心しているのですが、体の住まいを離れて主のもとに住みつくほうがいいと思っています。
(フランシスコ会訳)

それで、私たちはいつも安心しています。
もっとも、この体を住みかとしている間は、主から離れた身であることも知っています。
というのは、私たちは、直接見える姿によらず、信仰によって歩んでいるからです。
それで、私たちは安心していますが、願わくは、この体という住みかから離れて、主のもとに住みたいと思っています。
(聖書協会共同訳)

読み比べてみて、いかがですか?
わたしは普段、フランシスコ会訳聖書を読んでいるのですが、この部分は断然、新共同訳の言い回しが好きです。
3つ目の聖書の文章はどうですか?
読みやすく、文章が綺麗だと思いませんか?

新共同訳の「わたしたちは、心強い」という部分は、英語聖書では「We are courageous.」です。

聖書と典礼で使用されているのは、新共同訳聖書です。
18年の歳月をかけて1987年に生まれた、現代日本の代表的翻訳です。
カトリック教会とプロテスタント教会の聖書学者の英知を結集した国内初の共同訳。
中央協議会の教皇メッセージ日本語訳は、新共同訳聖書を引用しています。

わたしが普段読んでいるのは、フランシスコ会訳聖書です。
これは、カトリックの聖書です。
(カトリックの学校時代から、この訳に親しんでいます。)

そして、1番新しい訳の聖書が、 聖書協会共同訳聖書。
次世代の標準となる日本語訳聖書を目指して2010年に翻訳を開始し、2018年12月に初版が発行されました。
カトリックとプロテスタント諸教会の支援と協力による共同の翻訳事業です。
国内の聖書学者および歌人などの日本語の専門家によって翻訳されました。
翻訳にあたり「礼拝での朗読にふさわしい」文章にすることを目的にして訳され、格調高く美しい日本語訳になっています。

 

翻訳の微妙なニュアンスの違いによって、頭と心にどのように入ってくるか、その違いをいつも感じています。

時には、「あ〜、やっぱり慣れ親しんだフランシスコ会訳がいい」と思うこともあれば、今回のように、「新共同訳の方がストレートに伝わるな」と思ったり。

それでも疑問に感じる時は、英語の聖書を開いて自分なりに納得したり、しながら読んでいます。

今回、聖書協会共同訳の聖書を手に入れたので、ますます読むのが楽しくなりました。

 

例えば、ガラテヤ6・9〜10の新共同訳

たゆまず善を行いましょう。
飽きずに励んでいれば、時が来て、実を刈り取ることになります。
ですから、今、時のある間に、すべての人に対して、善を行いましょう。

これに対して、フランシスコ会訳は次のとおり。

倦まず弛まず善を行いましょう。
飽きずに励めば、時が来たとき、わたしたちは刈り取ることになります。
ですから、機会のあるごとに、すべての人に、善を行いましょう。

さらに、聖書協会共同訳ではこうなります。

たゆまず善を行いましょう。
倦むことなく励んでいれば、時が来て、刈り取ることになります。
それゆえ、機会のある度に、すべての人に対して、特に信仰によって家族になった人々に対して、善を行いましょう。

 

「 たゆまず」ではなく、フランシスコ会訳の「倦まず弛まず」という言い方は、ひらがなで表記することの多い聖書の訳の中でも一際強調されたことを感じる表現です。

パウロが伝えたかったのは、「ずっと善を行いましょう」ではなく、「たるまずに(倦まず弛まず)、しっかりとして」善を行うように、なのだろう、とよく理解できます。

 

サンパウロ修道会の神父様の面白いコラムを見つけました。

パウロの勧めは、単に「時のある間に」とか、「機会が訪れれば」とかいう意味ではなく、まさに今がその「機会」、「特別な時」なのだから、という意味です。
わたしたちは、善を行うための「特別な時」、「重要な時」を実感し、行動に移すよう招かれているのです。

訳文の違いから聖書を味わい直す | 聖パウロ修道会 サンパウロ 公式サイト

第4回 機会のあるごとに、すべての人に、善を行いましょう――訳文の違いから聖書を味わい直す
https://www.sanpaolo.jp/14296

読み比べる読み方、これもまたお勧めです。

・・・・・・・・・・

聖書はすべて神の霊感を受けて書かれたもので、人を教え、戒め、矯正し、義に基づいて訓練するために有益です。
こうして、神に仕える人は、どのような善い行いをもできるように、十分に整えられるのです。
(2テモテ3・16〜17 聖書協会共同訳)