行事風景

人間の本質

見なければいいのに、つい見てしまうのが「ネットニュース」と「SNS」

報道という言葉とは程遠い、質の低い(取材に基づかず、噂と想像と憶測とが入り混じっている)内容を見聞きするたびに、これは一種のいじめに近い気がするのです。

「いじめ」には、言葉、態度、精神的、暴力など、いろいろな種類があると定義されています。

判断基準は非常にシンプルで、「身体的・精神的にかかわらず、いじめられた本人が苦痛を伴うかどうか」です。

そして、被害者がいじめを受ける「きかっけ・動機」はあるものの、「原因」は見当たらない(少なくとも本人に心当たりはない)という特徴が、多くの場合に言えることです。

わたしも子どもの頃、心当たりなくいじめのようなことをされた経験があります。

いじめは、子どもの社会にだけある問題ではありません。
大人の社会のほうがむしろ、陰湿でしつこく、凶暴性を帯びているように思います。

 

イエス様の公生活は、苦難の日々だったと言えると思います。
ご自身が、「人々は理由もなく私を憎んだ」と言われています。

「これは一種のいじめ状態だったのだ」、とプロテスタントの牧師さんが書いておられるコラムがありました。
イエス様は「理由もなく憎まれ」、ユダヤ社会という閉塞集団の中で「いじめによる殺人」のような状況に追い詰められたのだ、そんな状況でも、イエス様が閉塞感や絶望感に蝕まれなかったのは、上の世界を見ておられたからなのだ、と。

わたしたちのように、目に見える世界に翻弄されることなく、この世界を創られた、神だけに目を向けておられたのです。 

神よ、わたしを救ってください。
水はわたしの首にまで達しました。
わたしは泥の深みに沈み、そこには足を掛ける所もありません。
わたしは水の深みにはまり、渦に巻き込まれました。
わたしは叫び疲れ、喉は嗄れました。
わたしの神よ、目は待ちわびて衰えました。
故なくわたしを憎む者は髪の毛よりも多く、わたしを欺く者は頭の毛よりもおびただしい。
(詩編69・2〜5)

だまし打ちを仕掛ける敵を喜ばせず、故なくわたしを憎む者が、目くばせし合うことのないようにしてください。
彼らは平和を語らず、国のうちに穏やかに住む者を欺こうと企みます。
(詩編35・19〜20)

ほかの誰も行わなかったような業を、わたしが彼らの間で行わなかったなら、彼らには罪はなかったであろう。
だが、今、彼らはその業を見たうえで、わたしとわたしの父を憎んでいる。
しかし、これは、『人々は理由なしにわたしを憎んだ』と彼らの律法に書かれている言葉が成就するためである。
(ヨハネ15・24~25)

人を憎んだり恨んだりするのは、ある種、人間の本質的なものかもしれません。

ガザで起きている惨劇は、ジェノサイドです。

ハマスから奇襲攻撃を受けたイスラエルがガザ攻撃を激化させたのに伴って、欧州や北米、オーストラリアなどでイスラエルへの批判とともに、反ユダヤ主義の動きが目立つようになっています。

また、アメリカ大統領の「ガザを所有」「住民を全員他国に一時的に移住させる」といった、トンデモ発言が新たな火種となっています。
実行されることはないでしょうが、この発想自体がジェノサイドです。

わたしがあなたと争う時に、正しいのは、主よ、あなたです。
それでも公正について、わたしはあなたと話したい。
なぜ、悪人の道が栄え、不忠実の極みの者がみな、安穏としているのですか。
あなたが彼らを植えられ、彼らは根を張り、成長して実を結びます。
あなたは彼らの口には近いのですが、腹には遠いのです。
主よ、あなたがわたしを知り、わたしを見、わたしを試みられると、わたしの心があなたとともにあることがお分かりになります。
(エレミヤ12・1〜3)

アウシュビッツの解放から1/27で80年となり、各国の首脳を招いた式典が開かれました。

当時を語ることができるホロコーストの生存者が減り、記憶の継承が課題となる一方、若者の間ではSNSを通じて「否定論」(ホロコーストは実際にはなかった、という考え)が広がっているそうです。

現在でもフランス語やスペイン語の聖書で、「焼き尽くす捧げ物」がホロコーストと表記されているものもあります。

奉納者が内臓と四肢を水で洗うと、祭司はその全部を祭壇で燃やして煙にする。
これが焼き尽くす献げ物であり、燃やして主にささげる宥めの香りである。
(レビ記1・9)

生存者の方の訴え、「人間は忘れる。だからわたしは何度も言う。二度と同じ悲劇を繰り返すなと」「憎しみは憎しみを生むと警告する義務がある」という言葉は、非常に重いものでした。

人を憎み、恨み、相手を傷つけ、そして報復する。
負の連鎖が繰り返される中で、祈りの力はどこまで立ち向かえるでしょうか。

・・・・・・・・・・・・ 

詩編13『痛みに耐えかねた人の祈り』
主よ、いつまでですか、とこしえにわたしをお忘れになるのですか。
いつまでみ顔をお隠しになるのですか。
いつまでわたしは魂を悩ませ、心に痛みを抱けばよいのですか。
いつまで敵がわたしについて勝ち誇るのですか。
わたしの神、主よ、わたしを顧みて、わたしに答え、目に光を与えて、死の眠りに就かせないでください。
「わたしは勝った」と敵に言わせず、わたしの倒れるのを見て、敵を喜ばせないでください。
わたしは、あなたの慈しみに寄り頼み、わたしの心は、あなたの救いを喜びます。
わたしは歌います、主に。
恵みを与えてくださった主に向かって。

 

閉ざされた信仰

中世のスペイン王国・ポルトガル王国で、ユダヤ人でユダヤ教からキリスト教に改宗した人々のことを、「コンベルソ」(新キリスト教徒)と言います。

イベリア半島(現在のスペイン)は、ヨーロッパの中で最もユダヤ人が住む地域でしたが、キリスト教国とイスラム教国のせめぎあいの中で翻弄され、レコンキスタの最中に即位したカトリックの国王の迫害を逃れるために、多くのユダヤ人がキリスト教に改宗しました。

そのような中、1478年にローマ教皇の許可を得てドミニコ修道会が異端審問制度を始めます。
この異端審問所は、ユダヤ教徒やイスラム教徒に対してではなく、新キリスト教徒の中の背信者を取り締まるために設けられたのです。

1492年、国王はついにユダヤ教徒追放令を出し、キリスト教に改宗しないユダヤ人は国外に退去することを命じました。

ちなみに、レコンキスタとは、イスラム教徒から不当に領地を占領されたとして、その支配に抵抗するカトリックを信仰するスペイン人による領土奪還のことです。

レコンキスタ、とは19世紀に作られた造語で、当時の人々はそのような自覚(我々はスペイン人である、イベリア半島は統一すべき、というような)はなかったようです。

アメリカの新政権が打ち出した政策、「犯罪を犯した不法移民を国外退去か、グアンタナモの収容所に入れる」は、もちろん根本的には全く別のものですが、どこか似たような政策に感じます。

 

中世の当時、「スペイン」というひとつの国は存在せず、キリスト教・ユダヤ教・イスラム教という宗教カテゴリーごとに連帯するわけでもなかった。
当時の人々は各々の思惑を持って懸命に生きたのであって、その割り切れない生き様を単純化してしまってはならない。
国家や民族、信仰や善悪といった、後世の人々が創り出した「フィクション」で単純化して線引きすることが、どれほど多くの悲劇を生み出してきたか、そして生み出し続けているのかを、現代に生きる我々は痛感している。
「レコンキスタ ―「スペイン」を生んだ中世800年の戦争と平和」
黒田 祐我 著より

全く知らなかった、中世のスペインの歴史について、とても勉強になる本です。
そして、歴史上の大きな転換点には良くも悪くも、いつもカトリック教会(教皇)の深い関わりがあったことを、この本でも改めて認識させられました。

わたしは、聖書の基本理念はこの箇所に表されていると、いつも思います。

お前たちが自分の土地の刈り入れをするとき、お前は畑の隅まで刈り尽くしてはならない。
またお前の刈り入れの落ち穂を拾ってはならない。
お前のぶどう畑の実を取り尽くしてはならない。
お前のぶどう畑に落ちた実を拾ってはならない。
それらは貧しい人や他国の者のために、残して置かなければならない。
(申命記19・9〜10)

在留する他国の者や孤児の権利を侵してはならない。
やもめから衣服を質に取ってはならない。
エジプトで奴隷であったあなたを、あなたの神、主が贖われたことを思い起こしなさい。
畑で穀物の刈り入れをするとき、一束を畑に置き忘れたなら、それを取りに戻ってはならない。
それは在留する他国の者、孤児、やもめのためのものである。
そのように行えば、あなたの神、主はあなたのすべての業を祝福なさるであろう。
(申命記24・17〜19)

 

ミレーは、この申命記の理念を表したルツ記の場面を取り入れて「落穂拾い」を描いたと言われています。

 

これは、キリスト教の教えではなく、旧約聖書に書かれている「全人類」への教えではないでしょうか。

レコンキスタの時代も、現代も、自分たちがそもそも寄留者に過ぎないことを完全に忘れているのです。

もちろん現代社会は、各国が定めた法律に則って暮らす義務と責任をだれもが持っていますが、「メキシコ湾」か「アメリカ湾」か、そのようなレベルの争いが未だに繰り広げられているのが現実です。

問題が拡大したのはテレビ局のせい、山火事が大規模で長期間にわたったのは前政権の予算配分のせい(気候変動対策に予算を割きすぎたから)、旅客機に軍のヘリが追突したのはFAAがDEI(多様性、公平性、包摂性)の推進のために「重度の知的障害や精神障害を持つ人々の雇用を進めた」せい、、、。
(もちろん、大統領の根拠のない発言です)

 

紹介した本によると、10世紀のアンダルス(現在のスペインの一部)では、どれか一つに統合されることのないハイブリッドな社会でした。

公用語はアラビア語、日常言語はラテン語が俗語化したロマンス諸語、ヘブライ語もユダヤ人の儀礼言語として用いられていました。
イスラムが実質的に支配していた10世紀の後ウマイヤ朝は、ユダヤ教徒もキリスト教徒も、その庇護のもとで自らのアイデンティティを維持しながら、それぞれの分野で活躍していたそうです。

「多様性に根差し、宗教的寛容によって形作られた非凡なる中世文化」と書かれています。

 2025年の今、そのような社会の形成を求めるのは理想主義すぎるでしょうか。
少なくともキリスト教を信仰するのであれば、信仰の根本を思い起こし、わたしたち一人ひとりがもっと寛容でなければならない、と痛感するこの頃です。

ミサ後の、わたしの大好きな光景です。
あちらこちらで、それぞれの日常を交換する信徒の皆さん。

わたしも、週に一度お会いする方々と言葉を交わす日曜日が大好きです。

 

女性の決断

めでたし聖寵充ち満てるマリア
主御身とともにまします
御身は女のうちにて祝せられ
御胎内の御子イエズスも祝せられたもう
天主の御母 聖マリア
罪人なるわれらのために
今も臨終のときも祈り給え
アーメン

わたしは、毎日の祈りはいまだにこの言い回しを使っています。
主の祈りもそうです。
(天にまします・・・・)

日々、誰に向かって、誰を想いながら祈りを捧げていますか?

神に祈るなら、神は聞いてくださる。
そして、あなたは自分の誓願を果たすことが出来よう。
(ヨブ22・27)

わたしは彼らが呼ぶ前に応え、
彼らがまだ語り続けている間に聞き入れる。
(イザヤ65・24)

 

映画「マリア」が、先月ネットフリックスで公開されました。
聖母マリアの幼少期から、聖家族のエジプト逃亡までを描いた物語です。

福音書(外典も含む)の記述にとても忠実でありながらも、新しい解釈を用いたストーリーです。

この映画では、ヨゼフ様も若い俳優が演じています。
「ヨゼフに声を与えて欲しい」と、親交の深かった司教からの言葉があったから、と監督がインタビューで答えていました。

カトリック信徒のダニエル・ジョン・カルーソ監督は、
「私はこの物語を伝えたいという強い意志があった。
マリアの物語は過小評価されていると感じた。
私たちはみなキリスト降誕の物語を知っているが、彼女の視点からこの物語を伝えるというアイデアにとても心を動かされた。
マリアの立場になって、幼少期からキリストの誕生、そしてその後まで、このすべてを経験するのはどんな感じだったか、この若い女性は逆境に直面し、疑いや恐れを抱きながらも、最終的にはこの美しい『フィアット(fiat)』、つまり神からの恩寵を受け入れた」
と語っています。

 

 

監督は、「私たちはマリア様に祈ることが大好きで、マリア様を執り成し手として受け入れている。」とおっしゃっています。

マリア様は、象徴的で、美しく、聖なる母であり、私たち皆が崇敬している存在ですが、同時に若い女性でもあったのです。
若いというより、まだ少女でした。

彼女はその中で大きな決断を下し、前に進まなければなりませんでした。
そして、若いヨゼフ様もまた、困難な決断を下したのでした。

フランシスコ教皇は、先週の一般謁見のお説教で、次のように話されています。

「マリアの心には信頼の光が灯った。
神に委ね、従い、自分を明け渡した。
マリアは御言葉をその肉に受け、こうして、一人の女性、人間にこれまで託されたことのない、最大の使命に飛び込んだのである。」

 

映画の中で、誠実なユダヤ教徒の両親ヨアキムとアンナへのお告げに従って、マリア様は幼少期から神殿の中で育てられます。(外典:ヤコブの福音書に沿っています)

両親、マリア様、マリア様を見初めて結婚を申し込むヨゼフ様は、大事な場面ではその都度、天使ガブリエルから導きを受けます。

わたしは「神様のお導き」を強く信じていますが、その「神様」とは、わたしにとってはイエス様だけを指しているのではない気がしています。

なにか、聖なるものの集合体とでもいうか、イエス様の足元に集うマリア様を始めとする聖なるかたまり(天国の母も含む)が頭に浮かぶのです。

イエスは、常に生きて、人々のために神に執りなしをしておられるので、ご自分を通して神に近づく者を、完全に救うことがおできになります。
(ヘブライ7・25)

わたしたちは神の前に確信をもっています。
それは、わたしたちが神のみ旨にかなうことを求めるのであれば、神は聞き入れてくださるということです。
わたしたちのどんな願いをも神が聞き入れてくださることが分かるなら、わたしたちが神に願い求めたことはすでにかなえられていることも分かります。
(1ヨハネ5・14~15)

ヘロデ王をアンソニー・ホプキンズ、マリア様・ヨゼフ様は若くて美しいイスラエルの俳優が演じていたのも素晴らしかったです。

(アンソニー・ホプキンズは映画「2人のローマ教皇」でベネディクト教皇を演じていましたので、そのギャップがすごかったし、マリア様は他の映画ではたいていヨーロッパの白人俳優が演じていますから。)

ヨーロッパ第2のカトリックメディア、ポーランドのカトリック情報局KAIの特派員であるJJ神父(パウロ・ヤノチンスキー神父、ドミニコ会)のnoteの記事を参考にさせていただきました

 ・・・・・・・・・・・・・

アメリカ大統領は、就任後にワシントン大聖堂で礼拝に参加することが慣例となっています。

聖公会のマリアン・エドガー・バディ主教が、就任したばかりのトランプ大統領に説教壇からLGBTQと不法移民のために訴えたことがニュースになっていました。

バディ主教は、「大統領閣下、どうか慈悲をお与えください」と静かに語り、米国全体で「恐怖」が感じられるとおっしゃっていました。

(当然、トランプ大統領や側近たちは不満そうな表情で、後日、謝罪を求める声明を出してた。)

奇しくも一致祈祷週間の中でしたので、世界中が注目する中でこうした発言をハッキリなさった女性の主教様の行動力には感服させられました。

「女性だから」「女性なのに」というのは不適切な時代ですが、やはり女性の決断力と行動力はものすごいパワーを持っている気がします。

https://www.afpbb.com/articles/-/3559308?pno=3&pid=doc-36V64DR_1_2395207_preview

 

時代に沿った祈り

今年のご復活祭はいつか、ご存じでしょうか。

なんとなく3月末から4月上旬、という固定概念がありますが、今年は4月20日とかなり遅いご復活なのです。

1/18から1/25までの期間は、キリスト教一致祈祷週間となっています。
1968年以来、教皇庁キリスト教一致推進評議会と世界教会協議会が、毎年テーマを決めてともに祈る期間として続けられてきたものです。

その冊子には次のように書かれています。

今年は、西暦325年に二ケアで最初の公会議が開かれてから1700年目にあたります。
この会議には、伝承によれば、318人の教父が出席しました。
そのほとんどが東方教会の教父だったようです。
教会は、異なる文化的・政治的背景の中で同じ信仰を共有することがいかに難しいかを経験し始めていました。

二ケア公会議は復活祭の日付の計算方法を定めましたが、その後さまざまな解釈が生じたことにより、東方教会と西方教会では大抵は異なる日に復活祭が祝われるようになりました。
わたしたちは、毎年共通の日に復活祭を祝う日が再び来ることを待ち望んでいますが、偶然にも2025年の記念の年は、同じ日にこの大祝日を祝うのです。

キリスト教一致祈祷週間は、二ケア公会議当時のキリスト教世界よりもさらに多様化している、現代の文化に沿ったかたちで再解釈する機会です。

聖年の今年に、二ケア公会議から1700年の記念の年に、なんということでしょう。
今年の四旬節は、こうした大きな意味があることを心に刻んだうえで過ごし、例年以上に有意義な日々としたいものです。

 

二ケア公会議までの数十年の間に、キリスト者は意見の相違による対立が深刻になっていました。

一致祈祷週間の冊子によると、次のようなことで対立が深まっていたそうです。

・父なる神との関係におけるキリストの本性
・復活祭を同じ日付で祝うこと
・ユダヤ教の過越祭との関係について
・異端とみなされる神学的見解にたいする異議
・初期の迫害時代に棄教した人を再び教会に迎え入れる手順

イエス様は、こうしたことについてひとこともおっしゃってはいなかったのに、、、、。

イザヤは言った、「ダビデの家よ、聞け。あなたたちは、人間を煩わせるだけでは足りず、わたしの神までも煩わせるのか。それ故、主ご自身が、あなたたちに徴を与えられる。
見よ、おとめが身籠って男の子を産み、その名をインマヌエルと呼ぶ。
その子は、悪を退け善を選ぶことを学ぶまで、凝乳と蜂蜜を食べるであろう。
(イザヤ7・13〜15)

「聖書」(わたしたちが旧約と呼んでいるもの)は、当時のイスラエルの人々が待ち望んでいる救い主が必ず現れると言うことを預言しています。

その解釈がユダヤ教とは異なったため、「キリスト教」という新しい教えが確立されました。

わたしたちが信じている「カトリック」の教えも、この2000年以上もの間にさまざまに発展してきました。

わたし、主は、正義をもってお前を呼び、お前の手を取り、お前を守り、お前を民の契約、諸国の光とした。
見えない目を開き、囚われ人を牢獄から、闇に住む人々を獄舎から連れ出すためである。
(イザヤ42・6〜7)

主は仰せになる、「お前がわたしの僕として、ヤコブの諸部族を立ち上がらせること、イスラエルの生き残った者を帰らせることだけでは足りない。
わたしはお前を諸国の光とし、地の果てに至るまでの、わたしの救いとする」。
(イザヤ49・6)

この救いは、あなたが万民の前に備えられたもの、異邦人を照らす光、あなたの民イスラエルの栄光です。
(ルカ2・31〜32)

イザヤ書の中で、40〜55章の第2イザヤと呼ばれる箇所は、キリスト教ではメシア預言とされていて重視されています。 

わたしたちの信仰の根底にユダヤ教の教え、旧約聖書があることを忘れてはいけないといつも思います。

つまり、西方教会も東方教会も、カトリックもプロテスタントも、大切にしている教えは同じ源流であることを忘れてはならないのです。

現代において、キリスト教のさまざまな宗派が一致して祈る、しかも同じ祈祷文を使って祈る期間が設けられていることは、本当に素晴らしいことです。

特に、今のように各地で世界を巻き込んだ戦争が起きている時には、なおさら宗派で争っている場合ではありません。 

キリスト教一致祈祷週間については、↓こちらをご覧ください。

https://www.cbcj.catholic.jp/2024/12/19/31132/

・・・・・・・・・・・・・

かなり余談

西序二段70枚目の醍醐桜(16歳)は、円形脱毛症により髪がほとんど抜けてしまったため、きれいに頭をそり上げて今場所に臨んでいます。

相撲協会の「相撲規則」では、頭髪について「十枚目(十両)以上の力士は、出場に際して大銀杏(おおいちょう)に結髪しなければならない」と記載されていますが、厳密にこれに準ずるなら、スピード出世で今場所初めて大銀杏を結った大関大の里も規則違反だったことになります。

伝統を重んじる相撲界も「まげのない力士も個性だ」と、多様性を尊重する時代となったようです。 

 

答えをさがすために

先日、ある教会の信徒の方といろいろなお話をするなかで、その方がこうおっしゃいました。

「家庭の問題について神父様に相談したけれど、求めているような答えをいただけなかった。
結婚していらっしゃらないし、お子さんもいないので、やはりそういう問題には、、、なのでしょうか」

神父様方にはたいへん失礼ながら、信徒がそういう疑問を持つのは仕方のないことかもしれません。

その際に、(若輩者で未婚で子なしのわたしが)このようにお答えしました。

「神父様は、神様とわたしたちを繋ぐ仲介者のような存在なのではないでしょうか。
問題の答えを求めるのではなく、自分で答えを見つけるきっかけを与えてもらえることを期待してはどうでしょう。」

 

わが子よ、もしお前が、わたしの言葉を受け入れ、わたしの命令を心に蓄え、知恵に耳を傾け、英知に心を配るなら、そうだ、もし知性を呼び求め、英知を求めて声をあげ、あたかも銀のように、知恵を求め、あたかも隠れた宝のように、知恵を探すなら、その時、お前は主を畏れることを悟り、神を知ることを見出すだろう。
主は知恵を与え、その口から出る知識と英知を与えてくださるのだから。
主は正直な人々のために健全な知恵を蓄え、誠実に歩む人々の盾となり、公正な人々の行く道を保ち、その聖なる人の道を守ってくださる。
(箴言2・1~8)

甲乙つけがたいのですが、箴言は旧約のなかでトップ3に入る、とても好きな聖書です。
その方にも、「箴言を読んでみてください、探している答えのヒントが見つかりますよ!」とお話しました。

わたしに耳を傾け、日々、わたしの門の戸口で見張り、わたしの門の柱の傍らで番をしている者は幸いだ。
わたしを見出す者は命を見出し、主の恵みにあずかる。
(8・34~35)

人の心は自分の道を思い巡らす。
しかし、その歩みを導くのは主である。
(16・9)

いつの頃からか、わたしは人に悩みを相談しなくなりました。
(もちろん、心を軽くしたくて愚痴を聞いてもらうことはあります)

たとえ似たような境遇で、似たような悩みを持っている友人であったとしても、必要としている(求めている)答えが同じだとは思わないのです。

◇ミサでの神父様のお説教に、必ず一つの(その時点でのわたしにとっての)キーワードを見出す

◇聖書を読んで心を落ち着ける&導きを探す

(それでもだめなら、ワインを飲んで早くベッドに入る!)

 

神は、わたしたちがどのような苦難にある時でも慰めてくださいます。
そこで、わたしたちも、自分たちが神から慰めていただくその慰めによって、あらゆる苦難の中にある人を慰めることができるのです。
わたしたちが苦しみに遭うとするなら、それは、あなた方が慰められ救われるためですし、わたしたちが慰められるとするなら、それは、あなた方がわたしたちも受けているのと同じ苦しみを耐え忍ぶにあたって、力を発揮する慰めがあなた方に与えられるためです。
(2コリント1・4~6)

パウロたち、初期の使徒たちが受けていた迫害、苦難を基にしたことばですが、現在のわたしたちそれぞれの悩み・苦しみに重ねて読んでみてはどうでしょうか。

悩み・苦しみは様々にわたしたちに降りかかってきます。
人生とは、そのようなことの連続ともいえます。

ミサの時に偶然となりに座った方も、おそらく何かを乗り越えた方か、現在悩みの中におられるか、だと想像してみるのです。

そうすると、自分は一人ではない、誰もが神様のお導きを探しているのだ、と思えるのです。 

誰かに答えを教えてもらいたい、と思うのは自然なことです。
わたしたちキリスト者であれば、なおさら、神父様に助けを求めるでしょう。

亡くなった母が、当時通っていた聖書勉強会の神父様に悩みを打ち明けていました。

「わたしはまだ洗礼を受けていませんが、亡くなった義母と同じお墓に入りたくないのです。どうしたらいいでしょうか。」

その神父様は、秒速の返答でした。

「あなたの信仰はあなたの心のものです。
死んだ後の骨がどうなるかなど、心配する必要はありません。
あなたは今の信仰を大切にし、骨のことは残された家族に任せなさい。」

あっぱれなご回答に、母が大変喜んでいたのをよく覚えています。

わたしが人に相談しないのは、悲観的な意味ではなく、答えは外にはない、と実感したからだと思います。
そして、全ての思い煩いは神様の導きに委ねるしかないのだ、と痛感しているからです。

お前が呼べば、主は答え、叫べば、『わたしはここにいる』と仰せになる。
(イザヤ58・9)

「わたしが来たのは、あなたがわたしを呼び求めたからである。
あなたの涙、あなたの念願、あなたの謙遜、あなたの心の痛悔がわたしを動かし、あなたのもとに来させたのだ」。
(「キリストを生きる」第3巻第21章6)

『わたしはここにいる』とは、なんて心強いフレーズでしょう。
呼び求めれば近くに来てくださる、と知っていれば、これ以上に心強いことがあるでしょうか。

わたしは、人から悩みの相談を受けるのは好きです。
その方が、自分なりの答えを見つけられるよう、アドバイスができたら幸いだといつも思っています。