カテゴリ:聖書

道しるべ

経営者である友人が高校の出前講座で授業をする、ということで、原稿を見せてくれました。

「経営者としてどんな人と仕事をしたいか」という項目に、彼はこう書き並べています。

1)努力することを当たり前だと思っている人
2)他責にしない人
3)誠実な人
4)数字に強い人
5)行動が速い人

大人からみれば当然のようにも思えますが、まだ社会を知らない高校生にはどのように響いてくれるでしょうか。

将来「高校の時にそう言ってたおじさんがいたなぁ。ほんとだったなぁ!」と思い出す日がくることを願います。

箴言21章には、友人が伝えようとしていることが書かれています。

勤勉な人はよく計画して利益を得
あわてて事を行う者は欠損をまねく。

(5)

不遜な者を罰すれば、浅はかな者は知恵を得る。
知恵ある人を目覚めさせるなら
彼は知識を得る。
(11)

弱い人の叫びに耳を閉ざす者は
自分が呼び求める時が来ても答えは得られない。
(13)

自分の口と舌を守る人は
苦難から自分の魂を守る。
(23)

欺いて語る証人は滅びる。
聞き従う人の言葉はとこしえに堪える。
(28)

多感な年ごろに、素敵な大人と接する機会があるのは本当に宝物です。

当時はよくわかっていませんでしたが、中学高校の年代に吸収する大人の振る舞いと言葉は、その後にとても大きく影響をもたらします。

わたしは高校2年、3年と同じシスターが担任でした。
わたしが16歳のとき、シスターは52歳

本当に素敵な女性で、当時のわたしには憧れの大人でした。

聖書を教えてくれるだけでなく、おしゃれ(修道服の下に彼女なりのおしゃれを楽しんでいらっしゃったし、ベールを脱ぐと軽くパーマがかかっていました)についても、今思えば「品よく楽しむ」ことを彼女から学びました。

キリスト教研究会という部活の顧問で、美味しいケーキを囲んでの勉強会ではいろいろなことを話してくださいました。

大学時代のBFのお話、スポーツの楽しみ方、社会人を経てシスターになったいきさつなど、いつもワクワクしながら聞いていたのを思い出します。

大学に行くことも、大人になることも、シスターの話を聞いて楽しみに感じていた記憶があります。

間違いなく、わたしのその後の人生に大きな良い影響を与えてくれた最初の「大人」です。

 

わが子よ、聞け。わたしの言葉を受け入れよ。
そうすれば、お前の命の年は増し加えられる。
わたしは、お前を知恵の道に導き、お前を正しい道に歩ませた。
歩く時も、お前の歩みは妨げられず、走る時も、つまずくことはない。
(箴言4・10~13)

わが子よ、わたしの言うことをよく聞け。
わたしの言葉に耳を傾けよ。
それをお前の目から離さず、おまえの心のうちに保て。
それを見出す者には、それは命となり、その全身を健やかにする。
用心深くお前の心を守れ。
そこから、命の泉が湧き出る。
ひねくれたことを言う口を、お前から取り去り、曲がったことを言う唇を、お前から遠ざけよ。
お前の目は前を見つめ、お前の視線を、お前の前に注ぐようにせよ。
お前の足の歩みに心を配り、お前のすべての道を堅く固めよ。
右にも左にもそれるな。
お前の足を悪から遠ざけよ。
(箴言4・20~27)

高校時代には旧約聖書を学ぶ機会はありませんでした。

旧約の魅力は、大人になってからでないとわからないでしょう。

若いころにどのような大人を「素敵だ」と思っていたかによって、大人になるステップが変わります。

わたしが東京の大学に行っていた時、シスターは東京の姉妹校に転勤していらしたので、一緒にイグナチオ教会の勉強会に参加したりミサに参列していました。
今も、時々電話でお話します。

道しるべとなる大人との出会いが、すべての子どもたちにありますように。

 

 

魅力的な本

宮﨑神父様の異動が正式に発表され、寂しい気持ちが日に日に増しています。

久留米に来られて、10年目の春です。

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本を選ぶとき、いつもどうしていますか?

わたしは、
1.読んでいる本のなかに紹介・引用されていた
2.表紙のデザイン・タイトルに惹かれた
3.Amazonの紹介文に興味を引かれた

などが決め手ですが、1は当たり(好みの本)が多く、2と3は外れ(期待と違う本)のことがあります。
思っていた内容ではなかった、読んでいて頭に入ってこない文章(翻訳のことが多い)だったなどで、最後まで読むことが出来ずに放置している本もかなりあります。

今回お勧めする本は、1~3どれでもなく、サンパウロの出張販売で見つけて購入したものです。

表紙もタイトルも(失礼ながら)素敵ではないし、誰かに勧められたわけでもなく、急いでいたけれどどうしても1冊買いたくて適当に選んだ本でした。

ところが。
読み進めていると、「そうなのか!」「しらなかった!」「なるほど!」と思わされることが多い、当たりの本だったのです。

現代における他の宗教との融和が大きなテーマで、前半は、旧約と新約における異教徒(ユダヤ教以外、キリスト教以外)の扱いについて書かれています。

その一つが、ヨナ書についてです。
ヨナ書は、「ユダヤ教の排他主義に対する批判でもある慈愛と寛容の精神」(フランシスコ会訳聖書の解説)を表したひとつの物語です。
紀元前5〜4世紀までには書かれていたとされています。

ヨナ書、わたしはあまりこれまで意識して心に留めていませんでした。

主の言葉が、アミタイの子ヨナに臨んで仰せになった、「立って、あの大きな町ニネベに行き、町に向かって叫べ。彼らの悪がわたしにまで達したからだ」。
しかし、ヨナは立ち上がると、主の前からタルシュシュに逃れようとヨッパに下った。
(1・1〜3)

この始まりについて、本にはこのように書かれています。

ヨナは、旧約聖書の中で最も有名な「外国人への宣教師」であり、かつて神から逃げようとした預言者である。
神がイスラエルの民を選んだのは、地上のすべての人に救いをもたらすためであり、他の国々への光となるためであった。
ヨナも含めて、イスラエルの多くの人はこの目的を忘れていた。
ヨナ書が書かれたのは、イスラエルの人々に諸民族に対する態度を改めさせるためであったとされる。

こんな深い物語だったとは!目から鱗でした。

しかも、こうも書いてあります。

異邦人に対するペトロの態度は、ユダヤ系キリスト教徒の見解をよく表している。
彼は、初代教会に異邦人を受け入れることを躊躇していた。
初代教会の信者たちは、自分たちはユダヤ教のなかのひとつのグループのメンバーであると思っていた。
ペトロも同様であったが、百人隊長コルネリウスに出会ってから変わった。
コルネリウスはペトロから洗礼を授かった最初の異邦人である。
(使徒言行録10章参照)

ペトロはコルネリウスに会う直前に、異邦人と関わりたくない態度を示し、岸沿いの町ヤッファにいた。
旧約では神はイスラエル以外の民族を救うために預言者ヨナをニネベに遣わしたが、ヨナはこの使命を拒んで反対方向へ行き、ヤッファ(ヨッパ)から逃げようとした。
このように、ヤッファ(現在のイスラエルの中心都市、デルアビブ)は異邦人への宣教の象徴的な出発点となったのである。

こうした意図を理解した上て改めてヨナ書を読み、ヤッファがいかに今日まで象徴的な町であるのかに思いを馳せています。

2019年の巡礼の最後の日に、ヤッファを訪れました。
それまで巡っていたエルサレムやガリラヤ湖畔の町、死海周辺の町、聖書の香りがあちらこちらに漂う町とヤッファは、全く違う世界でした。

様々な人種、様々な宗教、東アジアとヨーロッパどちらの影響も色濃く感じられる現代都市でした。

おそらく、当時の港町ヤッファもそうであったはずです。

 

主はわたしたちにこう命じておられます、『わたしはあなたを異邦人の光として立てた、あなたが地の果てまでも救いをもたらすために』」。
異邦人たちはこれを聞いて喜び、主の言葉をたたえた。
そして、永遠の命にあずかるように定められていた人々はみな、信仰に入った。
このようにして、主の言葉はその地方全体に広まった。
(使徒言行録13・47〜49)

 

 

ヤッファの丘の上にある、聖ペトロ修道院からの眺めと、聖堂内部の写真です。

今なら、なぜこの地にペトロの名を冠した修道院があるのか、よく理解できます。

 

 

テルアビブも攻撃を受けており、イスラエル上空は飛行禁止区域となっています。

もう安心してイスラエル巡礼に行ける日は来ないのかもしれません。

2500年経っても異教徒の排斥がこのような形で起きているのかと思うと、胸が痛くなります。

 

友の存在

最近、友人たちと会う機会が多くありました。

割と頻繁に会って話す友人もいれば、年に数回、年に一度会えるかどうか、という友人もいます。

わたしにとって友人とは、何についてでもお互いの考えを語り合い、励まし合い、一緒に笑い、時には涙することができる相手のことです。

そして、長年友情を育んでいく中で、それぞれが様々な人生経験を積み、変化していることを感じます。

これまで感じていたお互いのイメージが変わってきたことも、感じる場面があります。

 

また弟子たちに仰せになった、「ともしびを持って来るのは、升の下や寝台の下に置くためであろうか。
燭台の上に置くためではないか。
まことに、隠されているもので露わにされないものはなく、また、秘密にされたもので、公にならないものはない。
聞く耳があれば、聞きなさい」。
また仰せになった、「注意して話を聞きなさい。
あなた方が量るその升で、あなた方にも量り与えられ、しかも、さらに増し加えられる。
持っている人はさらに与えられ、持たない人は、持っているものまでも取り上げられる」。
(マルコ4・21~25)

メアリー・ヒーリーの解説書には、こうあります。

*まだ機も熟していないうちに、イエスが誰であるのか公にされると、彼がメシアであることが誤解される危険があった。

*隠れた状態にある時がイエスの復活と共に終焉を迎えるという事実を暗示している。

*神の国は、教会の福音宣教に伴うさまざまな試練や挫折のうちにいまだに隠されているが、最終的には神が明らかにしようと望まれることはすべて、白日の下に晒される運命にある。

*イエスの教えにどれほど注意を払うのか、その度合い(升)に応じて、イエスの教えが益となる。

*心を開き、向学心を持ってイエスに応じる人は誰でも、もっとさらに物事を見抜く力を与えられることになる。

どうでしょうか。
マルコのこの部分は、違うように理解されがちではないでしょうか。

とくに、下線を引いた解説は、わたしは全く違った解釈で受け取っていました。

20代のころには、読んでも理解できなかった(特にヒーリーの解説書など)聖書の教えも、いまならスーッと心に響いてきます。

マルコの並行箇所、マタイにはこのようにあります。

「あなた方は世の光である。
山の上にある町は、隠れることはできない。
ともしびをともして、升の下に置く人はいない。燭台の上に置く。
こうすれば、家にいるすべての人々のために輝く。
このように、あなた方の光を人々の前に輝かせなさい。
そうすれば、人々はあなた方の善い行いを見て、天におられるあなた方の父をほめたたえるであろう」。
(マタイ・14~16)

マタイの方は、もしかしたら文字通りの並行箇所と理解しなくてもよいのかも知れません。

難しい解説に頼らずとも、素直に書かれている通りに受け止めてよい気がします。

若い頃、この箇所を自分の指針にしていました。

「わたしは世の光として周囲を照らしたい」

今は、そんな偉そうなことは思っていません。。。

友人たちとの付き合いのように、人生経験を糧に前に進んでいると、聖書の教えも受け止め方が変わってくるようです。

ただ、昔からずっと変わらないことがあります。
それは、日曜日のミサで手に取る『聖書と典礼』にその時求めていた言葉や教えが必ず書いてある、ということです。

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将棋界のレジェンド、加藤一二三さんが帰天されました。

ネットのニュースで加藤さんのエピソードが紹介されていました。

取材した方が、「天国に行かれても、大好きな将棋を指し続けたいですか」と質問したら、加藤さんは真顔で「天国に将棋はありません。向こうに行ったら、永遠に神の栄光をたたえるのです」とお答えになったとか。

天国で、わたしたちがよく知っているあの笑顔で祈りの日々を送っていらっしゃるお姿が目に浮かぶようです。

 

教会の花壇には小さな春が訪れています。

 

自らの行い

今年の抱負はうっすら決めていたのですが、詳細を詰め切れずにいました。

昨年末、自分の信仰に疑問を投げかけられた出来事があり、「信仰の姿勢を見直そう」と考え始めました。

それから、イエスは群衆と弟子たちにお話しになった。
律法学者たちやファリサイ派の人々は、モーセの座に着いている。
だから、彼らが言うことは、すべて行い、また守りなさい。
しかし、彼らの行いは、見倣ってはならない。
言うだけで、実行しないからである。
彼らは背負いきれない重荷をまとめ、人の肩に載せるが、自分ではそれを動かすために、指一本貸そうともしない。
そのすることは、すべて人に見せるためである。
聖句の入った小箱を大きくしたり、衣服の房を長くしたりする。
宴会では上座、会堂では上席に座ることを好み、また、広場で挨拶されたり、『先生』と呼ばれたりすることを好む。
(マタイ23・1~7)

当時存在したファリサイ派の学者たちは新約聖書中で、イエス様から詭弁的、形式主義的であるとして度々指摘されています。

*わたしの信仰はここに立派なことを書くだけで、実行できていないのかも
*ひとに褒めてもらおうとばかり、心の中では考えているのかも

昨年末、そう思わせられたのです。

 

律法学者とファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。
やもめの家を食い物にし、見せかけの長い祈りをする。
(マタイ23・14)

律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。
薄荷、いのんど、茴香の十分の一は献げるが、律法の中で最も重要な正義、慈悲、誠実はないがしろにしているからだ。
(マタイ23・23)

律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。
白く塗った墓に似ているからだ。
外側は美しく見えるが、内側は死者の骨やあらゆる汚れで満ちている

(マタイ23・27)

 

悶々とした日々を送っていました。

そんな中、先日の友人のお父様の葬儀会場で、お声をかけてくださった方がいました。
失礼ながら、お顔に見覚えがなかったのですが、こうおっしゃったのです。

「久留米教会で、あなたに何度もよくしていただきました」

 

あなたがたはこの世に倣ってはなりません。
むしろ、心を新たにして自分を造り変えていただき、何が神の御心であるのか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるのかをわきまえるようになりなさい。
(ローマ12・2)

わたしは覚えていなかったのですが、その方はわたしに何か「よくしてもらった」ことを嬉しく思ってくださっていたのでしょう。

宮﨑神父様が、ミサのお説教でこうおっしゃいました。

「 何が正しくて何が間違いかを考える時、神の御心に沿っているのか、イエス様の教えに相応しいかをよく考えてみるのです。
神のはからいによって行うことには、無意味で無駄なことはありません。」

このお言葉を聞いた時、わたしの今年の抱負が決まりました。

*自分が正しいと思うことではなく、神様がそのことを望まれているのかを、立ち止まって考えて行動すること。

 

パウロはキリスト者たちを撲滅しようとしていたファリサイ派でしたが、復活のイエス様に会って回心しました。

わたしは、いつの間にか間違った正義感を振りかざすファリサイ派の信徒になっていたかもしれません。
自分なりに正しいと思ったことを頑張ろう、と無理をしていたのかもしれません。

パウロのように、目からうろこが取れた思いです。
うろこを取り払ってくれたのは、葬儀会場で出会った方でした。

キリスト者である、というのはどういうことか、よく考えることができたこの悩みの日々に感謝です。

 

 

目覚めのタイミング

降誕祭まで10日となりました。

心穏やかに過ごせる日々に感謝しています。
(最大の理由は、赦しの秘跡を受けたから!)

わたしは不毛の高原に大河を開き、
谷あいの野に泉を湧き出させる。
荒れ野を湖とし、乾いた地を水の源とする。
荒れ野に杉やアカシヤ、ミルトスやオリーブの木を植え、
荒れ地に糸杉、樅、つげの木を共に茂らせる。
彼らはこれを見て、悟り、互いに気づかせ、目覚めさせる。
主の御手がこれを成し遂げ、
イスラエルの聖なる神がこれを創造されたことを。
(イザヤ41・18~20)聖書協会共同訳

友人の言動に、ハッとさせられ、学びと気づきを得ることがあります。

先日、友人の担当する仕事でミスが分かり、落ち込んでいるだろうなと思って連絡をしました。
彼女からの返答は、

「とてもとても嬉しく、カトリック信者同志の絆を感じ、幸せな気持ちでいっぱいになります。
でも、それに慣れたくはないので、もうしばらくどっぷり落ち込んで、しっかり頭にたたき込まないと!ね。」

別の友人は、自分の子どものこと、実家の両親のこと、仕事のこと、いつもたくさんの悩み(問題)を抱えています。
頻繁に話しを聞くのですが、いつも全く落ち込む様子がなく、「とにかく何とかするわ!」と言うのです。

果たして、わたしが彼女たちの立場だったとして、こんな風に応えることができるだろうか、と考えさせられます。

この友人二人に共通して感じるのは、会って話すと元気をもらえる、ということです。

すべてにおいて神様からの気づきの機会だと捉え、与えられたお恵みに満ちた境遇を常に悟ることの大切さを、イザヤ書の言葉に感じました。

 

アッシジの聖フランシスコはこう言いました。

「悪魔が何より喜ぶのは、神の僕から心の平安を盗み取るときだ」

なにがあっても、不安や悩みに支配されることなく、神様への信頼と心の平安を自分の中に落ち着かせておけばよいのだ、と忘れかけていた大切なことを思い出しました。

先月、神父様にお時間を取っていただいて赦しの秘跡に与りました。

心の中の棘が取れ、それ以来ずっと穏やかな落ち着いた心で過ごしてきたのですが、今朝、仕事のことで心が騒ぐ(腹の立つ)ことがありました。

心の中で「だめだめ、悪魔を喜ばせてなるものか!」と、息を飲み込みました。

怒りや苛立ちが湧き上がる時が、目覚める絶好のタイミングです。

イエスは言われた。
「なぜ、取り乱しているのか。どうして、心に疑いを抱くのか」。
(ルカ24・38)

イエス様は、わたしたちみなの間、わたしたち一人ひとりの中におられ、いつもわたしたちのことを想ってくださっています。

 

先週ご紹介したブレナン・マニングの本、5月27日のページにはこうあります。

正しい人には闇の中にも光が昇る
恵みに満ち、憐れみ深く、正しい光が。
(詩編112・4)

主イエスの栄光は、主の弱さともろさ、一見すると失敗に見えることの中にあります。
失敗に見えることとは、私たち主の弟子に「私に付いて来なさい」と言ったことです。
主は私たちに、十字架を背負って主の後を追い、主の十字架の死を自らも体験することを求めます。
つまり、憐れみ深く生きることを命じているのです。

 

5月28日のページには、ハッとさせられました。

苦しむ人の日々はつらいもの
喜ばしい心は常に宴。
(箴言15・15)

「40歳を過ぎたら自分の顔に責任を持たねばならない。」
顔は、機嫌を写す鏡です。
40年も生きれば、感情を制し、穏やかな表情を保つことができるまでに成熟しているはずです。
私がこんなことを書いているのは、ある人に今朝「どうしてそんなに不機嫌なの?」と尋ねられたからです。

時々、携帯を触っていて、間違って自撮りモードになったときに見た自分の顔に驚くことがあります。

「心穏やかに過ごしている」と思っていても、表情が伴わなければ無意味ですね!

今年が終わるまでの後2週間あまり、穏やかな心と表情を保つようにしたいと決意を新たにしました。

前夜からの冷たい雨の後、澄んだ空気の中に、綺麗な虹に向かってミサに向かうことができた日曜日でした。