カテゴリ:聖書

家庭における愛

新年あけましておめでとうございます。

お正月を家族とともに過ごす、というのは日本の良き伝統ですね。
我が家には中学生の甥が一人だけ帰省してくれたので、「初詣に行こう!」と教会に連れて行き、一緒に座って祈ることができました。
素晴らしい一年のスタートが切れた気分です。

今年はどのような一年にしたいですか?
今年の抱負、どのように考えていらっしゃいますか。

新年最初に、トビト記を読みました。

トビト(義人としてトビトと息子のトビア、その嫁のサラ)への神の絶えざる保護、苦難や迫害にあっても神に忠実に生きる姿が物語形式で描かれています。

わたしは4人の姪甥に、「人からして欲しいことを人にもしなさい(マタイ7・12、ルカ6・31)」と常々話しています。
トビト記には、その由来とも言える教えが書かれています。

目が見えなくなり、生きていることが辛く、死にたい、と嘆き暮らすトビト
嫁いだ夫7人が次々と亡くなり、何のために生きているのかわからない、この世から解き放って欲しい、と願うサラ

二人を繋いだのは、神の使いラファエルでした。

息子よ、日ごとに主を思い起こしなさい。
息子よ、できるかぎり施しをしなさい。
息子よ、すべてのみだらな行いから身を守りなさい。
息子よ、お前の兄弟たちを愛しなさい。
子よ、すべての行いに注意し、すべての振る舞いに節度を守りなさい。
お前自身が嫌うことを他人にしてはならない。
(トビト記4章抜粋)

この4章の教えは、現代でも親が子どもに伝えるべき全てではないかと思わされます。
兄弟、とは、この時代は親族(従兄弟など)を指しており、家族を大切にすることを意味しています。

ラファエルを伴ってトビアが旅に出る際、息子にこう語りかけるトビト

息子よ、旅に必要なものを整え、兄弟と一緒に出発しなさい。
天におられる神が、お前たちを守り、無事にわたしのもとに連れ戻してくださるように。
息子よ、神の使いが、お前たちとともにいて、無事に旅をすることができるように。
(5・17)

7人もの夫に(結婚したその夜に)死なれた娘サラがトビアと結婚することになり、翌朝トビアが無事に生きていることを知ったサラの父の祈り

「神よ、あなたは、あらゆる清く尊い賛歌をもってたたえられますように。
あなたのすべての聖者と被造物とが、いく千夜にわたって、あなたを賛美しますように。
主よ、彼らに憐れみと救いを与え、彼らの一生が喜びと憐れみに満たされますように」。
(8・15〜17)

二人の父の、こどもに対する愛情と神への賛歌が感動的で、ここも、現代の親のこどもへの願いの全てではないでしょうか。

サラの家での婚礼期間を終えて家に戻る際に、トビアが義理の両親へかける言葉も、親へのこどもからの愛の全てです。

「主がわたしに一生の日々、あなた方を敬う恵みを与えてくださいますように」。
(10・14)

ラファエルが神の使いであることを明かし、トビトたちに向けてこう言います。

日ごとに神を賛美し、かつ神に向かって歌いなさい。
(12・18)

ふと開いたトビト記には、わたしの今年の抱負の全てが詰まっていました。

家族への愛、親子の慈しみ合い、こどもへ伝えたい大切なこと、これがすべての家庭において大切にされれば。

改めて、家庭がすべての愛の根幹であることを、新年から再確認することができました。

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2025年の聖年は、次の教会への巡礼が推奨されています。

福岡教区 巡礼指定教会

浄水通 教会(福岡県)
大名町 教会(福岡県)
久留米 教会(福岡県)
小 倉 教会(福岡県)
佐 賀 教会(佐賀県)
島 崎 教会(熊本県)
八 代 教会(熊本県)
大 江 教会(熊本県)

久留米教会にも多くの方が巡礼に来られるかと思います。

初めて久留米教会に来られる方には、聖堂入り口に、「わたしたちのあゆみ(久留米教会の歴史)」「はじめて教会に来られた方へ(未信者向け)」という2種類のパンフレットと、12月に発行したみこころレターを置いております。

巡礼のスタンプラリーのためのスタンプも準備しております。
どうぞ、ごゆっくりお祈りください。

皆様にとって、2025年が希望豊かな一年となりますように。

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聖年の祈り

天の父よ、
あなたは、わたしたちの兄弟、御子イエスにおいて信仰を与え、
聖霊によってわたしたちの心に愛の炎を燃え上がらせてくださいました。
この信仰と愛によって、
神の国の訪れを待ち望む、祝福に満ちた希望が、
わたしたちのうちに呼び覚まされますように。
あなたの恵みによって、わたしたちが、
福音の種をたゆまず育てる者へと変えられますように。
この種によって、新しい天と新しい地への確かな期待をもって、
人類とすべてのものが豊かに成長していきますように。
そのとき、悪の力は打ち払われ、
あなたの栄光が永遠に光り輝きます。

聖年の恵みによって、
希望の巡礼者であるわたしたちのうちに、
天の宝へのあこがれが呼び覚まされ、
あがない主の喜びと平和が全世界に行き渡りますように。
永遠にほめたたえられる神であるあなたに、
栄光と賛美が世々とこしえにありますように。
アーメン。

聖年の日程表

https://www.cbcj.catholic.jp/wp-content/uploads/2024/04/JPN-CAL.pdf

 

後悔を晴らす

次の日曜日まで、聖書週間となっています。
皆さんは、どのようなタイミングで聖書を開いていますか?

いつも何か、1冊の本を読むようにしています。
信仰に関する本でなくとも、気になった箇所があればそこに関連するかもしれない聖書の箇所を探します。
ニュースも、気になる内容があれば聖書にその応えがないか開いてみます。

わたしにとって、聖書を開くのは習慣となっています。

昨日お話しした方は、「眠れない時や、夜中に目が覚めてしまった時に、聖書を開いて読んでいます」とおっしゃっていました。

聖書を家で一人で読んでも、「理解」することは難しいかもしれません。
ですが、聖書を家で開いて斜め読みすることは、テレビをつけっぱなしにしておくよりもずっと善い「習慣」になるでしょう。

ぜひ、今週は心掛けてみてください。

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先週紹介した、米田神父様の『イエスは四度笑った』を読んでいて、ある記憶が蘇りました。

18歳、大学一年生の冬の忘れられない記憶です。

終電での帰りの車内。
満員でギュウギュウ詰めに近かったのですが、ドア付近にいた若い男性に、酔っていて立ったまま寝ていたおじいさんが寄りかかっていました。
若い男性は何度もおじいさんを押して自分から離していましたが、すぐにまた寄りかかってきます。
その時、駅に到着し、ドアが開いた途端、若い男性はおじいさんをホームに突き倒したのです。
降りる人も乗り込む人も、一様に驚いていましたし、近くに立っていたみんなが(わたしを含め)あっけにとられました。
そして、ドアは閉まり、何事もなかったように電車は動き出しました。

すぐに、一人の女性が大きな声でその男性に向かって「あなた、サイテー!!」と言い放ちました。
すると、2人くらいが続けて「ホントだよ、あのおじいさん、頭打ってケガしてたらどうすんだよ!」「サイテーなやつだな!」などと非難を始めたのです。

終電でした。
降りて介抱するか、乗らずにおじいさんを助ければ、帰りの電車はもうありません。
わたしも含め、誰もそうしなかったのです。

米田神父様は、こう書いておられます。

イエスが生涯かけて身をもって示したこと、それは人間性の回復である。
困っている他者、悲しんでいる他者に近づき、他者のために惜しみなく時間を空け、他者の必要をすべて満たしつつ、その人の友人になりなさい、という内容こそ、「よきサマリア人」の譬え話である。

18歳のわたしが、洗礼を受けていたら、ホームに突き倒されたおじいさんに駆け寄って、介抱したのでしょうか。
当時、「よきサマリア人」の教えのことをきちんと理解していたら、おじいさんを助けたでしょうか。

おそらく、出来なかったでしょう。

この後悔は、長い間ずっとわたしの心に刺さったままでした。
電車が動き始めてから若い男性の行為を非難した人たちとわたしは、全く同じなのだ、という恥ずかしい気持ちです。

「よきサマリア人」の話は、ルカ福音書だけに書かれています。

ですが、米田神父様によると、共観福音書すべてに出てくる「最も重要な掟は何か」(マルコ12・28,マタイ22・36)、「何をすれば永遠の命を受け継ぐことができるか」(ルカ10・25)が前提となっている話です。

イエス様の時代、「隣人」というのははっきりとした概念があり、選ばれたイスラエルの民に属していて、ユダヤ教の掟に忠実で敬虔な仲間内のことを指していました。

ですが、この譬え話の結論としてイエス様が伝えようとしているのは、「隣人」の定義でもあるのです。

「隣人とはだれか?」と問われて、「隣人とは誰々である」と答えることは、隣人の枠を定めることになります。

イエス様は、まずその枠を取り払いなさい、とおっしゃっているのです。
枠や壁を打ち破り、苦しんでいる人、悲しんでいる人に自分から近づいていき、その人の隣人になりなさい、という教えなのです。

イスラエルよ、聞け。
わたしたちの神、主こそ、唯一の主である。
心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして、あなたたちの神、主を愛しなさい。
今日、わたしがあなたに命じるこれらの言葉を心に留め、子供たちにそれらを繰り返し教え、あなたが家に座っている時も道を歩く時も、寝ている時も起きている時も、この言葉を語り聞かせなさい。
(申命記5・4〜7)

「第二の掟はこれである。
『隣人をあなた自身のように愛せよ』
この二つの掟よりも大事な掟はない」。
(マルコ12・31)

洗礼を受けたから、信仰を持っていると自覚しているから、「隣人を自分のように愛する」ことができるわけではありません。

人生の中で、幾つものつまずきを経験し、失敗を糧に進み、後悔を挽回すべく努力する。
そうした積み重ねによって形成されてきた、自分の人間性。

「酸いも甘いも」ではありませんが、若い頃には分からなかったこと、気づかなかったこと、出来なかったことを、人生を重ねるうちに理解し、自分の糧としていく。

今の自分の姿を、神様の前で自信を持って「努力していますので、これからもよろしくお願いします」、と言えるようにしたいものです。

先日、とても嬉しいお言葉をいただきました。

「いつも読ませてもらっています。
先日の記事で、とても救われました。
ありがとうございました。」

本当に嬉しく、「一人の方を励ますことができた」としたら、わたしの過去の後悔も神様に少しは許してもらえるかも、、、、と思えたのです。

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いつも、花壇を美しく整えてくださって、ありがとうございます。

 

イエス様のユーモア

突然ですが、大人に必要な、一番大事な人間性は「ユーモア」のセンスだと、常々思っています。

「ユーモア」とは、人を意図して笑わせる能力ではありません。

辞書によると、
広辞苑:上品な洒落やおかしみ
三省堂:人間味のある、上品な・おかしみ
大辞林:思わず微笑させるような、上品で機知に富んだしゃれ
大辞泉:人の心を和ませるようなおかしみ、上品で笑いを誘うしゃれ

などと表現されています。

「ユーモアは感情的なものであり、自分を客観視して笑いのめす余裕と、他者を完全に突き放すことなく、愛情によって自分と結びつける能力を兼ね備えてこそ、真のユーモアの持ち主になれる。
こうしたユーモアに欠かせない要素をイエスは誰よりも豊かに身につけている。
ユーモアとは、他者を思いやる懐が深い人間、他者のみならず自己に対しても寛大である人間のみが備え得る特性であり、人生の悲しみや苦しみを潜り抜け、汗と涙で生き抜いてきた者こそが身に帯びる感覚である。」

 

 

カナダとスイスで10年にわたって徹底的に聖書と神学の研究をされた著者の米田神父様は、この本のタイトルを「意表をついてみた」とおっしゃっています。

事実、わたしもタイトルに魅せられて(よく内容も知らずに)、この本を購入しました。

本の導入で、1970年代に発見されたグノーシス主義者による「ユダの福音書」(発見されたのは写本で、書かれたのは2世紀ではないか、とのこと)について紐解いています。
この福音書には、「イエス様が笑った」場面が4カ所あります。
カトリックでは異端とされた教義ですが、この中での最初のイエス様の笑いは、ミサを捧げている弟子たちを嘲笑した笑いです。

一世紀後半から始まった、正統派教会とグノーシス派との論争のなかで、イエス様は人為的に笑わされたのです。

ですが、米田神父様は「正統派による聖書の正典化に拍車がかかった」、「今日、不動の如く整理された聖書やミサ、教義の上にあぐらをかくのではなく、長い歴史の中での学問的論争を通じての一つの実りであることを認識」すべきだ、とおっしゃっています。

米田神父様が紙幅を割いたのはこの4つの笑いのことではなく、「大食漢の大酒飲み、取税人や罪人の仲間」と正典の福音書が記すイエス様の、ユーモアと隠れた笑いの読み解きのほうです。

その中でひとつ、最も心に響いた箇所をご紹介します。

だれも、織りたての布から布切れを取って、古い服に継ぎを当てたりはしない。そんなことをすれば、新しい布切れが古い服を引き裂き、破れはいっそうひどくなる。
また、だれも、新しいぶどう酒を古い革袋に入れたりはしない。そんなことをすれば、ぶどう酒は革袋を破り、ぶどう酒も革袋もだめになる。新しいぶどう酒は、新しい革袋に入れるものだ。
(マルコ2・21~22)

この箇所、わたしは全く誤解、というか、理解していなかったと自分で驚きました。

米田神父様によると、「古くて硬い入れ物に今まさに発酵中の新しいぶどう酒を注ぐと、その生命力、膨張力によって、古い革袋は持ち堪えられなくなる。
この比喩を通して、イエスの漲る生命力を指し示している。
今まさに新しく生まれつつある力が、古い殻を、古い体質を、古い壁を打ち破ってゆく、自分はまさにその力であるという、イエスの力強い積極的な意欲がここでは語られている。
マタイとルカは、「誰も、古いぶどう酒を飲んだ後で、新しいぶどう酒を欲しがりはしない。『古いものが善い』と言うからである」と付け加えている。
マルコが伝える真意を十分理解できなかったのかもしれないが、思わず笑ってしまう。
イエスなら言いそうな、まさにユーモアが感じられれる。
まあ、そうは言っても現実はそう甘いもんじゃないよ、そうはうまく行かないよ、と茶目っ気たっぷりに言い足したのかもしれない。」

その他にも、わたしたちがよく知っている福音書のエピソードを紐解いて、隠された(知らなかった)イエス様のユーモアが解き明かされていきます。

 

「米国の多様な社会を行き過ぎと感じる有権者は地方を中心に多い。
黒人かつアジア系の女性という多様性を体現するハリス氏の存在そのものが、保守層のみならず、無党派層の一部に忌避された面は否めない。」
読売新聞のアメリカ総局長が、記事にこう書いていました。

多様性を訴え続け、世界をリードしてきたかにみえた国の、これが現実です。

品がなく、他者を愚弄するユーモアのセンスの持ち主が勝つ、これが現実です。
(応援している方、ごめんなさい)

今週は、「ウィットに飛んでいる」「面白い」とは違う、「ユーモアのセンス」を身につけたい!と改めて決意を新たにしました。

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10日のごミサは、3人の神父様と4人の侍者と、七五三のお祝い、という贅沢なお恵みの時間でした。

 

 

 

時代に求められる資質

9/11に行われたアメリカ大統領選挙の討論会を観ました。

表情をほとんど変えずに、時にはイラついた様子で、(虚言も多かった印象ですが)相手を非難したり自身の主張を述べていたトランプ氏

一方で、相手の発言がひどい際には(それは、ほとんどの発言であり、わたしでさえ「根拠がなさそう」と思った)、口の動きは「It's not true.(事実ではない)」とあきれ顔をするハリス副大統領

ハリス副大統領は、トランプ氏には「事実を混同しない気質や能力」がないと主張していました。

兵庫県知事、2つの党の党首選のニュースも含め、最近のニュースは「誰が、どのような人がリーダーとして相応しいか」を考えさせるきっかけになっています。

リーダーにはいろいろな要素が求められますが、時代、国、現状によって、相応しいリーダー像は当然変わっていきます。

旧約に描かれたリーダーも、状況に応じていろいろなタイプがいます。

そこで、モーセとアロンは、集会の前から離れて会見の幕屋の入り口に行き、ひれ伏した。
すると、主の栄光が彼らに現れた。
主はモーセに次のように告げられた、「杖を取れ。そして、お前と兄弟のアロンは会衆を集め、彼らの目の前で岩に命じて水を出させよ。こうしてお前は岩から水を湧き出でさせ、会衆とその家畜に水を飲ませよ」。
モーセは主が命じられたとおり、主の前から杖を取った。
そして、モーセとアロンは集会を岩の前に召集して言った、「反逆する者たちよ、聞け。お前たちのためにわたしたちはこの岩から水を湧き出させることができるのだろうか」。

モーセは手を上げ、杖で岩を二度打った。すると、水が豊かに湧き出てきたので、会衆もその家畜も飲んだ。
 (民数記20・6~11)

会衆たちにとって、モーセは自分たちを約束の地に引き連れてくれる、信頼すべきリーダーでした。
途中で「肉が食べたい」などと文句を言っても、こうして必要な時に水を豊かに湧き出させることができる彼は、主に導かれた理想のリーダーに映ったことでしょう。

ですが、この場面に続いて、主は怒りを露わにします。

「お前たちは、わたしを信じようとはせず、イスラエルの子らの目の前でわたしの聖なることを示さなかった。
それ故、お前たちはこの集会を、わたしが彼らに与えた土地に導くことはできない」。

主への信頼があれば、言われた通りに岩に命じればよかったのです。
そして、いらだって岩を二度も打つ必要はなかったのです。

その後、ほどなくしてアロンがホル山で死に、モーセもネボ山で召され(申命記32・48~52)、兄弟は約束の地に入ることは出来ませんでした。

「あなたの神、主が部族ごとに与えてくださる、あなたのすべての町に、裁き手と役人を任命しなければならない。
彼らは公正な裁きをもって民を裁かなければならない。
あなたは裁きを曲げてはならない。
人を分け隔てしてはならない。
賄賂を受け取ってはならない。
賄賂は賢い者の目を眩ませ、正しい者の言い分をゆがめるからである。
ひたすら正義を追い求めなさい。
そうすれば、あなたは生き永らえ、あなたの神、主が与えてくださる土地を所有することができる」。
(申命記16・18~20)

リーダーに求められるのは、いつの時代も「信頼」と「正義」

やはり、聖書にはすべての答えが書かれています。

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WOWOWのドラマ「0.5の男」をネットフリックスで観ました。
(最近はネットフリックスで日本のドラマが充実しています!)

このドラマは、ざっと以下のテーマが網羅されています。

・引きこもり
・家庭内暴力
・いじめ
・職場でのパワハラ
・育休後の女性の働き方
・老後の暮らし方

すべて現代社会を反映している問題であり、その対策が国のリーダーに求められていることです。

なんだか、重くて暗い展開を想像されるかもしれませんが、俳優陣の演技の賜物もあり、軽快で明るく、ホロリとさせられる、とっても楽しいドラマでした。

この、現代の社会問題のすべてを解決するキーワードは、「家族」でした。

現実はそう単純なものではないでしょうが、親子の関わり方、兄弟姉妹の関係性、孤立した人への接し方など、いろいろな点において「知れてよかった」と思える内容でした。

人間関係の根本はやはり、家族なのです。
そしていつの時代も、やっぱり家族のリーダーは「お母さん」なのです!!
(このドラマ、かなりお薦めです!)

 

聖書を楽しむ日

台風10号は、進路が刻一刻と予報から変わり、想定されていなかったであろう地域にも被害をもたらしました。

逆に久留米は、予想されていた暴風雨がほとんどありませんでした。

人間はコンピュータのデータ計算によって何事も予測できるようになったと思っていますが、自然の力はわたしたちの次元とは全く異なり、災害からは逃れることはできない、という無力さを痛感します。

教皇様の9月の祈りの意向は「地球の叫びのために」

私たち一人ひとりが、地球の叫びに、また、環境災害や気候変動の犠牲者の叫びに心の耳を傾け、私たちの住む世界を大切にする生き方へと導かれますように。

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台風の影響を考慮して、金曜日は仕事を休みにしていましたので、ゆっくりと聖書を開いて読み返していました。

列王記のエリシャの召し出しと活躍のあたり、いつもワクワクさせられます。

エリヤはシャファトの子エリシャを見つけた。
彼は十二軛の牛を先に立て、畑を耕しており、自分は十二番目の牛とともにいた。
エリヤはそばに行き、自分のマントをエリシャに投げかけた。
エリシャは牛を残したまま、エリアの後を追って言った、「わたしの父と母に別れの口づけをさせてください。それからあなたに従います」。
エリシャは一軛の牛を取って犠牲としてささげ、牛の引き具を燃やして肉を調理し、人々に振る舞い食べさせた。
それから彼は立ってエリヤに従い、彼に仕えた。
(列王記上19・19〜21)

12という数字
自分のマントを投げる行為
牛を残したまま後を追う様子
両親への別れの口づけ

新約へのつながりを感じます。 

列王記は、北イスラエルと南ユダ、両王国の王の不誠実さとその滅亡という悲劇的な史実を描いているのですが、その中に挿入されている、反バアル礼拝の主唱者である預言者エリヤと、その弟子エリシャの信頼関係が際立っています。

列王記下の2章では、エリヤが主に遣わされて遠くへ行くので、何度もエリシャに「あなたはここに留まりなさい」と言います。

ですがエリシャは、「生ける主と生けるあなたに誓って申します。わたしはあなたから離れません」。と何度も答えるのです。

イエス様から弟子が逃げるように離れて行った場面を思い起こすと、このエリヤとエリシャの場面はとても感動的です。

「わたしがあなたのもとから取り去られる前に、あなたのために何をすればよいか、言いなさい」。
エリシャは答えた、「あなたの霊の二倍の分け前を継がせてください」。
(列王記下2・9)

エリシャにはエリヤの霊が強く留まり、水が悪くて流産が多いと嘆くエリコの町で、水源の水を癒します。
(列王記下2・19〜)

この『エリシャの泉』は、聖書にある通り、今現在もきれいな水が湧き出で続けています。

 

 

2019年の巡礼の際に毎日書いていた記録を読み返してみると、コーディネーターの牧師さんから教わったことを、次のように記していました。

エリコは地中海の海面より250m低い。
亜熱帯的な気候と泉から、BC9000年頃から人類が定住した地として、世界最古の記録がある。
BC7000年の時代の城壁で囲まれた町の跡が発見された。
新約の時代のエリコは別の町。
1994年のオスロ合意でパレスチナ自治区となる。
日本のODA支援で、病院、学校、工場が建てられた。 

 

悲劇を悲観的に捉えるのではなく、その不忠実さを悔い改めを呼びかけるためにあえて楽観的に締めくくられているのが列王記です。

こうして旧約聖書を読むことは、イエス様の教えの根本を知る、大切なことだと教わってきました。

巡礼の手帳の最初には、指導してくださった森山神父様(現、大分教区司教)が事前説明会でおっしゃった言葉を記していました。

わたしたちは、2000年後のキリスト教を受け取っている。
この巡礼は、2000年前のイエス様の言葉を受け取る旅。
新約に書かれたイエス様の言葉の元である旧約を理解し、イエス様と一人ひとりが出会う旅。
イエス様と近しくなるための巡礼の旅。
(2019・7・22コレジオにて)

旧約聖書を読みながら、イスラエルの風景を思い出す休日でした。