カテゴリ:聖書

人間の弱さ

トルコ・シリアで起きた大地震の被害をニュースで見る度に、心が苦しくなります。
多くの命が犠牲になり、全容が完全に明らかになるには時間がかかるのでしょう。
トルコには各国からの支援が集まっているようですが、内戦状態のシリアには直接手を差し伸べられない現実。

福岡教区でも募金の受付を始めています。
皆様のご協力をお願いいたします。

・・・・・・・・・・・・・・

2月6~8日に西日本新聞に連載されていた、「プーチンの戦争-侵攻1年-」という記事。

プーチン大統領は大晦日の演説で、「祖国防衛は先人と子孫に対する神聖な義務だ」と言ったそうです。
1月末のインタビューで、ゼレンスキー大統領は「プーチンとの会談には興味がない」と発言したとも。
同じ面には、ウクライナの国防相が軍の食糧調達を巡っての汚職が原因で辞任、とのニュース。

人間とはなんと弱いのでしょうか。

自然の威力の前に、わたしたちは無力です。
今回の戦争で、いったい何人の兵士と市民が犠牲になったのでしょう。
その最中にあっても、自らの私腹を肥やす人間の存在。

 

「わたしが道をそれたのは、主のせいだ」と言うな。
主は決してご自分が憎むことをなさらないのだから。
「主ご自身がわたしを迷わした」と言うな。
主は罪深い者には用がないのだから。

主ご自身が始めに人間を造り、彼の手に判断を任された。
お前が欲するなら、掟を守ることができる。
これを忠実に守ることは、お前の決定するところである。
主は、お前の前に火と水を置かれた。
お前の欲しいものに手を差し伸べよ。
人の前に生と死とが置かれている。
いずれでも、欲するものが彼に与えられる。

主は、誰にも不敬な者になれと命じられず、誰にも罪を犯す許しを与えられたことはない。
(シラ15・11〜12、14〜17、20)

 

主は人間を土から造られ、彼を再び土に帰される。
主は彼らに判断力と舌と、目と耳とを与え、考えるための心をお与えになった。
主は知恵と知識で彼らを満たし、善と悪とを彼らに示された。
(シラ17・1、6〜7)

 

すべてのことを行う力は人間にはない。
人の子は不死身ではないのだから。
太陽に優って光り輝くものがあろうか。
しかし、太陽ですら欠けることがある。
肉と血からなるものは、悪を思い巡らす。
主は、いと高き天の大軍を見守られる。
しかし、人はみな、塵と灰にすぎない。
(シラ17・30〜32)

 

旧約聖書、大好きです。
紀元前2世紀初頭に書かれたとされるシラ書ですが、その教えは全く色褪せることなく現代のわたしたちの心にも染み透るものがあります。

シラ書は長い間その写本が失われていましたが、19世紀末にカイロの古いユダヤ教会堂で写本が見つかり、その後20世紀になってクムランとマサダの城壁からほぼ全ての写本が発見されたそうです。

 

クムランの洞窟とマサダの城壁です。

 

人間には自由が与えられました。

同時に、知恵もお与えになりました。

わたしたちは、弱いだけではなく、使い分けることのできる知恵と判断力を持ち合わせているはずです。

トルコとシリアへの支援と、ウクライナへの戦闘機の供与。
比べるべきものではないかもしれませんが、今、世界が目を向けるべき、手を差し伸べるべき対象と優先順位を見誤ることがありませんように。

 

わたしはバイオリンの演奏を聴くのがとても好きなのですが、1番好きなのはと聞かれたら、迷わず五嶋みどりさんを挙げます。

彼女は子どもの時から天才と言われ、11歳でデビュー後、10代のうちに世界的な評価を確立させました。
ですが、22歳のときに心身ともに不調をきたし、しばらくの間、表舞台から身を引いていました。
今はまた精力的に演奏活動をされていますが、その時の経験から「みどり教育財団」を立ち上げ、音楽を通して世界の若者のための活動も積極的に行ない、毎年、何千人もの恵まれない子どもたちに音楽教育プログラムを提供されています。
また、2007年に国連のピース・メッセンジャーに任命され、意欲的に世界を駆け巡り、音楽の持つ力で平和へのメッセージを伝える活動もされています。

「神ってる」という感じの言葉は好きではないのですが、彼女の演奏は、音だけでなくその姿、小さな体全体で演奏する様子はまさに「神がかり」です。

同い年の彼女を見ていると、人間は弱くてもいい、立ち上がれるのだ、と背中を押してもらえる気がします。

 

 

 

導きに委ねる

2月になり、立春とはよく言ったもので、春めいた暖かさが続いています。
昔の人は、季節を素晴らしいタイミングで暦に表したものだと感心しますね!

差し込む光も、気分的に柔らかなものに感じます。

これこそ、わたしが選ぶ断食ではないのか。
不正の鎖を解き、軛の結び目を解き、虐げられた人を解放して自由の身にし、軛をすべて、打ち砕くこと。
飢える人にお前のパンを分かち与え、家のない貧しい人々に宿を与え、裸を見れば、着物を着せ、お前の同胞に対してみて見ぬ振りをしないこと。
その時、お前の光は暁のように輝き出で、お前の癒しは速やかに生じる。
お前の正しさがお前の先を行き、主の栄光が背後の守りとなる。
その時、お前が呼べば、主は応え、
叫べば、『わたしはここにいる』と仰せになる。
お前の光は闇の中に輝き出で、お前の暗闇は真昼のようになる。
(イザヤ58・6~10)

(これが本来の「断食」を意味する箇所である、と教わりました。)

わたしは悩みの中から主を呼び求め、主は答えて、わたしを広々とした所に移してくださった。
主はわたしの味方、わたしには恐れがない。
人はわたしに何をなしえよう。
主はわたしの味方、わたしの助け。
主に寄り頼むことは、人にすがるよりも善い。
(詩編118・5〜8)

「わたしは決してあなたを見放すことも、見捨てることもない」と神は仰せになりました。
イエス・キリストは、きのうも、今日も、いつまでも変わることはありません。
(ヘブライ13・5、8)

心強い聖句ばかりだと思いませんか?

神様がわたしの問い掛けに答え、祈りに応えてくださるのは、無条件にではありません。
わたしの行動が伴っていれば、です。

神様がわたしを導いてくださると信じるのは、成り行きに任せているのとは違います。
わたしが神様を信頼し、自分に今できることをやったうえで、です。

この2つのことは、わたしが自分に言い聞かせてきたことです。

 

先日、子どもの頃からの友達と会い、いろいろと話をしました。
カトリック信者であり、恵まれた家庭環境で育ち、一見何不自由ない幸せな人生を歩んできたわたしたち。

ですが、それぞれの人生を歩んできた中で、彼女もまた大きな問題を抱えて悩んでいました。

わたしなりの経験からできるアドバイスは、上記の聖句に基づいて、自分にできることは何かを考えて実行しながら、神様のお導きに委ねる、ということです。

悩みや問題を抱えている。

生きていれば当たり前のことですが、それにどう向き合うかが大事なのだと思っています。

5日の主日ミサで、宮﨑神父様がおっしゃいました。

「あなた方は地の塩・世の光である、というのは、地上での生活の中で信者としてどう生きるかが問われているのです。
人生の登り坂、下り坂の場面だけでなく、まさか!という時にそれをどう受け止め、どう対処するか。
さらには、信者として、自分を必要としている人のために希望の光となることが求められているのです。」

 

 

今月のパパ様カレンダーのお言葉です。

イエスは、「見せかけの信心深さ」を望んでおられません。
心からの信仰を望んでおられるのです。

 

受験生が太宰府天満宮にお参りし、お守りを買って「神頼み」をしたとしても、本人が必死に勉強することが大前提です。

それと同じです。

本来の意味の「断食」(犠牲、努力)をすることなく、自分の願いばかりを神様に祈りすがっても、応えてもらえないでしょう。

いつも、このことを肝に銘じるように努めています。

今自分にできることは?
今自分がすべきことは?
そして、神様を信頼しているのであれば、やたらに不安を抱かずに、神様のお導きに委ねよう、と。

 

今ここにあるお恵み

ご家族やご友人などと、賑やかで楽しいお正月を過ごされましたか?

わたしは妹家族が帰省していましたので、それはそれは賑やかな(騒々しい)年末年始でした。
大騒ぎしながらみんなで鍋を囲んでいるときに、思わず涙ぐんでしまいました。

「何という幸せだろう。
今ここに、神様がいてくださっているんだ。」

心からそう思いました。

主の御国が来ますように。マラナタ、マラナタ。

頭の中で、聖歌がぐるぐると鳴り響いていました。

「神の国」

その時に、このテーマで記事を書こう、と思ったのです。
いつもこのように、日々の些細な出来事や、目にした、耳にしたニュースから聖書の言葉が浮かび、iPadに向かって聖書を開くのが、わたしのここ数年の日課となっています。

今読んでいる本はこれ。
クロッサン
「最も偉大な祈り 主の祈りを再発見する」

 

主の祈りのワンフレーズずつが章になっていて、広く深く考察された、クロッサン独特の洞察力による解説です。

この中の、神の国の到来についての下りによると、ヨハネは神の国は『神による世界の大掃除』であり、今にも起きるかもしれないが未来のことである、と語っていました。
一方でイエスは、すでに今ここに現臨していると語りました。

わたしが神の指(神の力)で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなた方の所にすでに来ている。
(ルカ11・20)

律法と預言者はヨハネの時までである。
それ以来、神の国の福音が宣べ伝えられ、あらゆる人が力ずくで、そこに入ろうとしている。
(ルカ16・16)

神の国は目に見える形で来るのではない。
また、『見なさい、ここに』とか、『あそこに』とか言えるものでもない。
神の国は、実にあなた方の間にあるのだから。
(ルカ17・20〜21)

当時の人々にとって、神の国がすでに存在していると言われても、理解することができなかったことは容易に想像できます。

クロッサンによると、イエス様の言いたかったのは次のようなことなのです。

あなたがたは神を待っているが、実際には神の方があなたがたを待っているのだ。
どうりで何も起こっていないわけだ。
あなたがたは神の介入を求めているが、神があなたがたの協力を求めているのだ。
神の王国はここにある。
あなたがたがそれを認めて、その中に入り、それを生き、そしてそれを築きさえすれば。

イエスは、神の介入ではなく、神への参与を説いたのです。
神による世界の大掃除は、人が神によって力づけられて参与し、超越的な力に動かされて協力しなければ開始せず、完成しないのです。

わたしにとって、この考え方は新しく斬新で、とても腑に落ちました。

神の国は、人の協働がなければ始まらない。
神の介入だけでは神の国の実現は起こらない。

主の祈りが、神に対する祈りの前半と、わたしたちの祈りの後半で構成され、均等にかつ相関的に成り立っているように。

 

どんなことであれ、もしあなた方のうち二人が心を一つにして地上で願うなら、天におられるわたしの父はそれをかなえてくださる。
二人また、三人がわたしの名によって集まっている所には、わたしもその中にいる。
(マタイ18・19〜20)

わたしたち現代人にとっては、イエス様のこの言葉が1番「神の国」のイメージに近いのではないでしょうか。

わたしたちの間に、今ここに神様がいてくださる。
互いが思いやりを持って愛し合っている場に、神様の愛がある。

 

わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪のために、贖いの供え物として、御子を遣わされました。
ここに愛があるのです。
いまだかつて神を見た者はいません。
しかし、わたしたちが互いに愛し合うなら、神はわたしたちに留まり、神の愛はわたしたちのうちに全うされているのです。
(1ヨハネ4・10、12)

神の国は、わたしたち次第でわたしたちのうちに実現するお恵みです。

 

飛行機から見る景色にも、神様の現存を感じます。

 

聖書の楽しみ方

紅葉が美しいですね。

聖書は、すべての人を心にかけてくださる神の愛といつくしみを示す本であり、そのかかわりの中に生きるように人間を招く本です。
聖書は、「内容を覚える」教科書ではなく、人生を支える「糧」です。
だからこそ、わたしたちの心に響きます。

これは、今年の聖書週間(11/20~27)のリーフレットに寄稿された、アベイヤ司教様のお言葉です。

リーフレット『聖書に親しむ』
https://www.cbcj.catholic.jp/wp-content/uploads/2022/08/bibleweek2022.pdf

 

「新約聖書外典」を読みました。
正典から排除された(正式に採用されなかった)文書を、外典と言います。

以前、ある神父様が「昔は神学校で『これは読んではいけない』と言われていたようですが、面白いので読んでみました。」とおっしゃったので、いつか読もうと思って買ったまま、ほこりをかぶっていました。

たとえば、ラファエロの「聖母の結婚」という絵をご覧になると、聖書のどこにこのエピソードが?と思われるでしょう。

外典のヤコブ原福音書にあるのは、次のような物語です。

マリアは神殿で育てられていました。
大祭司ザカリアの夢に天使が現れ、マリアの結婚相手にふさわしい人を集めて、その手に持った杖に徴があらわれた人を夫とするように、と告げられました。
ヨセフの杖から鳩が出てヨセフの頭にとまるという徴があり、マリアを引き取って保護したのです。
この物語では、「結婚した」とはなっていません。
というのも、この時マリアは12歳、男やもめだったヨセフには息子が何人かいて、自分はマリアの夫には年を取りすぎていると思っていたからです。
マリアがイエス様を産んだ時は、16歳になっていました。

(このストーリーは福音書には書かれていませんので、2人の年齢、ヤコブが2度目の結婚だと知っていたと思われた方は、この物語を知っていらしたのです。)

この絵は、1504年に描かれました。
わたしたちが外典として普段読むことの無い書物は、キリスト教徒の中で人気のある大衆文学作品として広く親しまれていたのです。

次の写真は、イスラエルに行ったときに撮影した、ナザレの聖ヨセフ教会のステンドグラスです。
ヨセフの杖にユリの花が咲いている、という徴が表現されています。 

この教会は1914年に建てられたそうですので、長い間に浸透した福音書と外典の物語が、自然と融合したことが分ります。

冒頭にご紹介した、今年の聖書週間のリーフレットの2ページ目は、若松英輔さんのコラムです。
わたしが一番好きな彼の著書は、「イエス伝」です。
その中に、こういう記述があります。

ある若きインド人はこう語り始めた。
「もし皆さんがキリスト教徒になりたいと希望するなら、キリストが生まれたのはエルサレムかベツレヘムのどちらかといったことや、 山上の説教が語られた正確な日時を知る必要なない。
もとめられているのは、ただ山上の説教を感じることである。
説教がなされた時期を論じるために書かれた数多くの言葉を読む必要はない。
それらはすべて学者たちのたのしみにすぎない。
そうしたことは彼らに任せておこう。
私たちは『マンゴ』を食べようではないか。」

マンゴとは、この場合「聖典」を意味している。
キリスト者に求められているのは「山上の説教」について知ろうとすることではなく、そこで語られる言葉を「感じる」ことだというのである。
何かについて知ろうとすることに留まるものは、空腹にもかかわらず『マンゴ』を目の前にいつまでもその生態を調べているような者だというのである。

聖書の楽しみ方は、ぞれぞれにいろいろとあるかと思いますが、わたしは絵画や音楽の中に聖書のエピソードを見つけてその箇所を読むのが好きです。 

聖書を読んでもわからないことが多い、と思っている方には、わたしが聖書を学んだ師匠がおっしゃった言葉をお伝えします。

「イスラエルの人々の体験を通して神様を知るために、聖書があるのです。」

・・・・・・・・・・・・・・

死者の月、毎日の祈りの中で、特に親しかった方々のことを想っています。
大好きなマックス・リヒターのNovember(11月)という曲があります。
最近気に入っている、マリ・サムエルセンの北京での演奏は、何度聴いても涙がこぼれます。
天国の皆さんのことを想いながら、聴いてみてください。

 

 

 

 

毎日を生きる

1ヶ月ぶりにごミサに与ることが出来ました。
今求めていた聖句に出会えるのも、ミサの醍醐味であると思っています。

自分を正しい人間であると思い込み、ほかの人をさげすむ人々に、イエスは喩えを語られた。
(ルカ18・9)

「思い込み」新共同訳では「うぬぼれて」、つまり自分自身に頼る人々とは、「むしろイエスの弟子たちのことであろう」と聖書と典礼の注釈にありました。

「胸を張って立ち、心の中で祈ったファリサイ派の人」と、「遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら声に出して言った徴税人」。

とてもハッとさせられました。

 

私は聖書が私を理解し、私を説明してくれているのを感じます。
聖書は私が切望していたことや恐れていたことを私に指摘し、待望と期待のかぎを与えてくれます。
聖書は神を探す人、真理と人生の意味を探す人、絶望や恐怖から逃れようとする人にとって、自分を見せてくれる鏡です。
聖書は人間に人間自身、その種々の望み、その目的を啓示し、復活されたかたのことばは、ほんとうに世の救いの歴史のなかで行われつつあるすべてのことの上に押された神の封印であるということを悟らせてくれます。
(「宣教者をそだてるイエス」カルロ・マリア・マルティーニ著より)

 

世界にはまだキリストを知らない人がたくさんいます。
日本でもわたしたちはキリストを知らない人たちに囲まれて生きています。
キリストを伝えることである宣教は、神の子ども、キリストの弟子となったわたしたち皆に与えられている使命です。
(カトリック中央協議会 「日本の祈願日における解説」より)

 

世界宣教の日にあたり、自分自身をきちんと見直し、信仰を持っていることをうぬぼれず、自分を通して宣教できるようになるためには、もう少し謙虚にならなければいけないと強く思った日曜日でした。

 

今回の入院中も、1日に一度は聖書を開いて読んでいました。

昔、入院していた時に母がしてくれていたように、目をつぶり、パッと開いたページを読むのが好きです。
抗がん剤の治療中に吐き気を少しでも忘れることができるように、と、母がそうやってわたしに聖書を読んでくれていました。

死者の月を前に、「生」についてのいくつかの聖句をピックアップしてみました。

生きるということはこういうことである、と、聖書ではさまざまな表現でわたしたちに問いかけています。

 

永遠の命とは、
唯一のまことの神であるあなたを知り、
また、あなたがお遣わしになったイエス・キリストを知ることです。
(ヨハネ17・3)

たとえ、誰かが自分は信仰をもっていると言っても、行いを伴わないなら、何の役に立つでしょう。
人は行いによって義とされるのであって、信仰だけによるものではありません。
息をしない体が死んだものであるのと同じように、行いの伴わない信仰もまた死んだものです。
(ヤコブの手紙2・14、24、26)

この箇所は、いつも胸にグサッと刺さります。
行いの伴わない信仰では、誰にも宣教することはできません。

 

地の塵の中に眠っている多くの者が目を覚ます。
ある者は永遠の命に。
ある者は永遠の恥とさげすみに至る。
懸命な者たちは、大空の光のように輝き、
多くの者を義へと導いた人々は星のように夜々限りなく輝く。
(ダニエル書12・2〜3)

これは、旧約聖書中の最初の復活信仰に関する記述なのだそうです。
紀元前2世紀ごろに書かれたこの文の美しさに、現代のわたしたちも感動させられます。

 

お前は最後までお前の道を行き、憩いに入りなさい。
その時の終わりに、定められた分を受けるために、お前は立ち上がるであろう。
(ダニエル書12・13)

「立ち上がる」、すなわち復活を意味します。
最後まで自分の役割を果たす生き方をしなさい、と言われているような気がします。

 

毎日をより良く生きていくために、こうした聖書のことばはわたしにとって欠かすことのできないものです。

秋の夜長に、聖書を開いてみませんか?
きっと、聖書がわたしを理解してくれている、と感じることができると思います。