行事風景

変わるとき

ニューヨーク市長選挙で当選したマムダニ氏(34歳)は、アフリカ中部ウガンダ出身でインド系のムスリム。
アーティストでシリア系の妻ラマ・ドワジさんとは、ミレニアル世代の定番である出会い系アプリで知り合ったのだそう。

日本では初めての女性総理が誕生し、連日、これまでの総理に関するものとはかなり違った報道(例えば服のセンスやバッグについて)が飛び交っています。

現状への不安と不満、新しい可能性への期待、革新的な変化を求める現代は、イエス様が担ぎ上げられた時代と同じなのだ、と感じます。

そして特徴的なのが、こうした現代の新しいリーダーたちはSNSを非常に上手く有効に活用し、自分自身のこと、自分の考えを広く発信することに長けている点です。

 

福音書を読むと、現代とは正反対のイエス様の様子がわかります。

当時のイスラエルも新しく強いリーダーを求めていたことは同じですが、人々の抱いた大きな希望がイエス様の言動とは程遠い方向を向いていたため、人々はすぐにイエス様を諦めました。

マルコには、イエス様が癒しと解放の力のある業を行うにもかかわらず、そのことが公にならないように繰り返し強く求める、「沈黙命令」の場面が数多く書かれています。

例えば、

「誰にも話さないように注意しなさい」(1・44)
イエスは、このことを誰にも知らせないようにと、きびしく命じた(5・43)
このことを誰にも言わないようにと人々を戒められたが、戒めれば戒めるほど、人々はかえってますます言い広めた。(7・36)

イエス様が公に宣教活動をしている間、あえて自分が誰であるか、力ある業を公にしないと主張することを「メシア的秘密」と言うそうです。

十字架の上で自らの命を捧げることが使命である、と自覚されていため、偽りで歪められた熱烈なメシア待望をもつ人々の期待感をますます助長するだけだ、と考えられていたのです。

熱狂した群衆だけではなく、弟子たちでさえ、イエス様の使命について理解することはできませんでした。

今わたしたちは福音書を読むとき、イエス様の意図するところ、そしてどのような結末を迎えるのかを全て知っています。

ですが、目で読んで知っているだけで、イエス様のお考えを心で本当に理解している、と言えない気もします。

イエス様の奇跡を行う様子、上手に譬え話をされることにばかり気を取られがちです。

新しいリーダーに期待する時も、同じかもしれません。

上手なスピーチ、聞こえの良い政策だけに心を留めるのではなく、そして、期待と違ったと身勝手に批判するのではなく、しっかりと理解するように努めたいものです。

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「ハウス・オブ・ダイナマイト」という映画がネットフリックスで公開されています。

核を搭載したICBM(大陸間弾道ミサイル)がアメリカ本土に向けて打ち上げられ、着弾までの19分間のアメリカ政府の緊迫と混乱を、軍司令部・ホワイトハウス・大統領の3つの視点から描き出しています。

あくまでも映画ではあるのですが、あまりにもリアルで、いつこの状況が現実になってもおかしくない世界だと思わされます。
映画の中で大統領が、「世界は爆薬が詰まった家のよう。壁は吹き飛ぶ寸前で、それでも住み続けるのだ」と言っていました。

この映画を観たのでしょうか、突然トランプ大統領が「核兵器の実験を国防総省に指示」しました。
核兵器が正常に機能して核爆発を起こせるのかを確認するため、なのだとか。

トランプ大統領が再選されたのは、彼が素晴らしいリーダーだからとかあの頃はよかったから、ではなかったでしょう。

「彼ならこの現状を劇的に変えてくれるかも!?」という極端な期待感の高まりのようなものがあった気がします。

 今、当時その選択をした人々が期待していた世界に向かっていると言えるでしょうか。

 

 マムダニ新市長に関する記事はこちら↓

https://www.huffingtonpost.jp/entry/story_jp_690944d9e4b0ca0a98d45516?origin=home-editors-choice-unit

 

生きる者のための祈り

11/2死者の日が主日と重なりました。

宮﨑神父様がおっしゃった、「今日は自分の死について考える日でもあります」というお言葉が心にこだましています。

死者の月、自分を大切にしてくれていた方々のために祈るよう推奨されますが、今年はいつもと少し違う気持ちです。

11月になると、アウグスティヌスの「告白」のこの個所を読み返します。

おそらく、以前記事にしたことがあるのですが、それは母モニカの死に際の箇所です。

「わが子よ、私はといえば、この世の中にもう自分をよろこばせるものは何もない。
この世でまだ何をすべきか、何のためにこの世にいなければならないか、知らない。
この世ののぞみはもう十分にはたしてしまったのですもの。
この世にまだしばらく生きていたいとのぞんでいた一つのことがありました、それは死ぬ前に、カトリックのキリスト者になったおまえを見たいということだった。
神さまはこの願いを十分にかなえてくださった。
おまえが地上の幸福をすてて、神さまのしもべとなったすがたまで私は見たのだもの。
もうこの世の中で何をすることがありましょう。」
(「告白」第9巻第10章)

「このからだはどこにでも好きなところに葬っておくれ。
そんなことに心をわずらわさないでおくれ。
ただ一つ、お願いがある。
どこにいようとも、主の祭壇のもとで私を想い出しておくれ。」
(「告白」第9巻第11章)

この場面には、いつも胸が熱くなります。

「告白」を初めて読んだのは、10数年前だったと思います。
当時、母を亡くし、日々の暮らしや会社のことで途方に暮れていたわたしは、母の死について神様が与えられた意味を模索していました。

そしてしばらくして、モニカのように、自分たちの死について妹たちと話すようになりました。
決して悲観的な意味合いからではなく、モニカと同じ気持ちだということをお互いに語り合いました。

父とわたしたち3姉妹は、いつも天国の母に心配をかけるような人生です。
でも、本当に聞こえるのです、母がどっしり構えてこう言っているのを。

「神様のお導きを信じなさい、大丈夫だから」

 

人は常に死者を心にとめ、自らの関心と気遣いと愛情を通して、彼らにいわば第二のいのちを与えようと努めます。
わたしたちはある意味で彼らの人生経験を残そうと努めます。
そして、わたしたちは逆説的にも、彼らがどう生き、何を愛し、何を恐れ、何を望み、何を憎んだかを、まさに墓地に集まって彼らを記念するときに見いだします

墓地を訪れて、亡くなった愛する人々のために愛情と愛をこめて祈るとき、永遠のいのちへの信仰を勇気と力をもって更新するよう招かれます。
そればかりか、この偉大な希望をもって生き、世にこの偉大な希望をあかしするよう招かれます。

これは、故ベネディクト16世のお説教でのお言葉の一部です。

モニカを亡き父の傍らに葬りたいと考えていたアウグスティヌスの気持ちは、母のためというよりも、「そうしてあげたい」という息子の愛の気持ちでした。

そして彼は、母の死に際して、彼女の生き方や愛、希望などについて思いを馳せる機会を与えられたのです。

死者のために祈ることは、生きる者のために祈っていることなのだ、と感じています。

死者の月にいつも以上に自分の死について考えています。
そして、それはすなわち、生かされている今をいかに大切にするか、ということだと痛感するのです。

 

 

ヨハネのように

チンパンジーが道具を作り・使うことを発見した動物行動学の権威であり、自然環境の保護と次世代教育の重要性を説き世界中を飛び回り続けた女性、ジェーン・グドール博士が10/1に91歳で亡くなりました。

しなやかな強さ、決して諦めない精神、寛大さ、ユーモアを持ち合わせた人でした。

「誰にとっても不可能に見えることでも、諦めて受け入れるより戦っていたい」
「どうせ変わらない」と諦めるのではなく、「きっと変えられる」と信じて「行動する」こと。
「希望」が人々を動かし、団結させ、未来を変える。

上記の3つの言葉は、グドール博士のお考えを象徴するものです。

特に環境破壊が人間にもたらしている現状について、嘆くのではなく行動する必要について繰り返し講演で世界中に訴えておられました。

講演活動のために滞在していたホテルの部屋で静かに息を引き取られるまで、行動し、諦めずに希望を伝え続けていたのです。

わたしが大学に入学したころ、環境問題がさかんにクローズアップされ始めていました。
世界的な環境問題のNGOの日本支部のひとつの事務所に、18歳のわたしはボランティアとして足を運んでいました。

ある時、その団体の船が日本の船(捕鯨船だったと記憶していますが)にわざと体当たりして進路妨害したことがニュースになっていました。
わたしは「なぜあのような行動に出たのでしょうか、船が壊れて重油が漏れ出すほうが問題なのではないでしょうか」と質問してみたところ、「あれくらい強硬な手段を取らないと問題解決は前に進まないからね」との返答でした。

疑問と不安を抱いたわたしは、それ以来、お手伝いには行かなくなりました。
当時は、「あの団体のやり方はおかしい」と不満でしたが、その後環境問題について何も行動せずに諦めてしまった自分を、今は恥じています。

 

光は暗闇の中で輝いている。
暗闇は光に打ち勝たなかった。

神から遣わされた人がいた。その名はヨハネである。
この人は証しをするために来た。
光について証しをし
、彼によってすべての人が信じるようになるためである。
彼は光ではなかった。
光について証しをするために来た。

すべての人を照らすまことの光はこの世に来た。
(ヨハネ1・5~9)

今に至るまで、その時代に必要な光(存在)が常に輝いてきました。
彼女もそのお一人だったと思います。

インタビュー動画『FAMOUS LAST WORD』がNetflixで配信されています。

「私たちは自然の一部であり、地球が暗い時でも希望が存在する」
「闇の時代に生きるわれわれには、希望がなければならない」
「闇の時代に希望の光をともすために、わたしはこの世に遣わされたと思っている」

彼女の言葉が胸を打ちまます。

このインタビューを観て思いました、彼女は現代のヨハネのようだわ、と。

わたしたちは、夜道を照らす月のように、他者を導くことができます。
迷っている友人、困っている隣人に寄り添うことができます。
イエス様と言う光で照らされたわたしたちは、その光を外に向けて生きるのです。

わたしを知りたもう者よ、御身を知らしめたまえ。
わたしが御身に知られているように、御身をわたしに知らしめたまえ。
わが魂の力よ。魂のうちにはいれ。
この魂を御身にふさわしきものとなし、御身がそれを汚れなく皴なく保ちうるようにせよ。
それこそはわが希望(のぞみ)。
そのためにこそわたしは語り、すこやかなよろこびをもってよろこぶとき、わたしはいつもその希望においてよろこぶ。
(アウグスティヌス「告白」第十巻 第一章)

わたしたち一人ひとりが、誰かにとっての希望、社会の中の小さな希望、家族の大きな光であり続けますように。

グドール博士について知るには、↓この記事がお薦めです。

https://www.vogue.co.jp/fashion/article/jane-goodall-the-book-of-hope

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26日のミサの中で、4名の幼児洗礼式が行われました。

この子たちは、わたしたちの希望の象徴です。

 

本音の信仰

宮﨑神父様はよくお説教で、「行いの伴わない信仰」について喝を入れてくださいます。

『本音と建て前』を使い分けて隣人と関わっていないか、今一度よく考えてみなさい、と先日お話されました。

誰にでも「苦手な人」がいるかと思います。

以前、意見の食い違いがあり、わたしが一方的に嫌な気持ちになった人がいました。

それ以来、苦手な人だわと思っていた方と先日お会いする機会があったのですが、会ってすぐに「義足の調子が悪いですか?歩き方が前よりも悪くなっていませんか?」と声をかけてくださったのです。

あなたが馬鹿にされるとき、それは風となるのです。
あなたが怒るとき、それは波となるのです、
だから風が吹き、波が高まるとき、舟は危険に陥り、あなたの心は危険にさらされ、あなたの心は行ったり来たり激しく揺さぶられるのです。
馬鹿にされると、あなたは仕返しをしたいと思います。
しかし復讐は、難破という別の種類の災難をもたらします。
なぜでしょうか。
なぜなら、キリストはあなたの内で眠ったままだからです。
私は、あなたがキリストを忘れているということを言っているのです。
だから、キリストを目覚めさせなさい。キリストを思い出しなさい。
キリストをあなたの内に目覚めさせなさい。
キリストを心に留めなさい。
この方は一体どなたですか。風や波さえも彼に従うそのお方とは。
(アウグスティヌス『説教』より)

偶然、読んでいた本でこの箇所が目に留まりました。

(先週のyoutubeのビデオもそうですが、いつもこうして求めているものが与えられるのです!)

声をかけてくださったこともですし、わたしの足のことを以前から気にかけてくださっていたこと、その変化に気づいてくださったこと、とても嬉しかったのです。

建て前で信徒としてのお付き合いをしていくのは嫌でしたので、帰り際に話しかけて、いろいろとお話してみました。

いまさらながら(当然のことだったのですが)、わたしは馬鹿にされていたわけではないと分かり恥ずかしくなりました。

 

「言葉は、あなたの近くにあり、あなたの口、あなたの心にある」。
これは、わたしたちが宣べ伝えている信仰を生み出す言葉です。

口で、イエスは主であると宣言し、心で、神はイエスを死者の中から復活させたことを信じるなら、あなたは救われるからです。
人は心で信じることによって義とされ、口で宣言することによって救われるのです。
(ローマの信徒への手紙10・8~10)

キリスト者であると自負し、毎週主日のミサに与っていたとしても、言葉と生き方に信仰が現れていないことが往々にしてあるのではないでしょうか。

言葉や行動に信仰がついていかない場合もあります。
クリスチャンらしい振る舞いはできても、心がそこに伴わないのです。

ミサ中に「主の平和」と笑顔で周囲とあいさつを交わすとき、本音で本心からそうしていますか?
福音書朗読の際に額・口・胸で十字をきるとき、頭と言動で福音書を賛美することは本音ですか?

 

「わが愛する子らよ、わたしは主においてあなたがたに挨拶を送る。
わたしは主に祈り求める。
主があなたがたをすべての災いから守ってくださるように。
主が、ヨブのような忍耐と、ヨセフのような恵みと、モーセのような優しさと、ヌンの子ヨシュアのような戦いにおける勇気と、士師たちのような優れた知識と、ダビデ王とソロモン王のような敵を屈服させる力と、イスラエルの民のような地に実りをもたらす力を、あなたがたに与えてくださるように。
主が、手足の萎えた体をいやしてくださったように、あなたがたのすべての罪をゆるしてくださるように。
主が、ペトロにしたようにあなたがたを荒波から助け、パウロや使徒たちにしたようにあなたがたを苦難から救い出してくださるように。
主があなたがたを、主のまことの子として、すべての災いから守ってくださるように。
そして、そのみ名によって、魂と体の益となるために、あなたがたが心から求めるものを与えてくださるように。アーメン」

ガザのバルサヌフィオス(パレスチナのバルサヌフィオスとも表記される)は6世紀に生きた隠者で、ガザの修道院の院長でした。
識別の知恵に優れていたので、修道士や聖職者、信徒が教えを乞うために訪れました。

上記の祈りは、ある一人の修道士が自分と仲間のために祈ってくれるように、バルサヌフィオスに願った際の答えです。

人のためにこのような気持ちで祈ることができるか、立ち止まって考えさせられる祈りのことばです。

 

天国はどこにあるか

10/19は世界宣教の日となっています。

日本の守護聖人であるフランシスコザビエル。

来航を記念して、大分市の遊歩公園内に建立された像です。

左手に十字架を持ち、右手を掲げたザビエルの像で、彫刻家佐藤忠良氏による1969年(昭和44年)の作品です。

背後には、世界地図のレリーフにザビエルのヨーロッパから日本にいたる航路を描き込んだモニュメントも設置されていました。

1549年に鹿児島に上陸したザビエルは、1551年に日本での宣教の許可を正式に「日本国王」からもらうために京へ赴きます。
天皇への拝謁は許可されず、山口へと退きます。

豊後国府内(現在の大分県大分市)にポルトガル船が来着したとの話を聞きつけたザビエルは、山口での宣教をトーレスに託し、1551年9月に豊後国に到着して守護大名・大友義鎮(後の宗麟)に迎えられ、その保護を受けて宣教活動をしました。

ザビエルの「山口問答」という出来事について知りました。

ザビエルが来日した1549年当時の神学では、「洗礼を受けていない人は天国に行けない」とされていました。

ある時、山口で宣教していたザビエルは、信者たちに「私たちの先祖は救われますか?」と聞かれました。
その質問に対してザビエルは、「救われない」と答えるしかありませんんでした。

ザビエルの死から400年後の第二バチカン公会議においてようやく、キリスト教以外の様々な宗教の真理についても認める、とされました。

つまり、キリストを信じる機会がないまま亡くなった人も、その生き方が神のみこころにかなうものであったら救われる、と教会憲章に明記されたのです。

カトリックの神学者たちは、天国が場所なのか状態なのかについて推測してきました。

ヨハネ・パウロ2世は、天国は「抽象的なものでも雲の中の物理的な場所でもない、聖なる三位一体との生きた個人的な関係である」と述べました。

 

先週、叔父が89歳で突然、天に召されました。
朝までいつも通りに過ごしていたのに、ソファに座ったままで、だったそうです。

カトリック信者ではありませんが、わたしは叔父も今は「天国」にいる、と信じています。
優しく穏やかで、勤勉な、家族思いの叔父でした。

先に「天国」に行った母が、「義兄さん、ようこそ!」と出迎えている姿が目に浮かぶようです。

天国、とはどこにあるのか。

うまく表現できませんが、答えを偶然youtubeで見つけました。