行事風景
心の断食
18日の灰の水曜日から、今年も四旬節が始まりました。
定期的にファスティング(プチ断食)をしている友人がいます。
ダイエットのためではなく、身体と心をリセットして整えるために効果的なのだそうです。
ネットで「断食」と検索すると、精神的な効果があると書いてあります。
*心をクリアにし、雑念を取り除く
*集中力を向上させ、思考を研ぎ澄ます
*自己肯定感の向上
*ストレスの軽減とメンタルヘルスの向上
*日ごろの食事への感謝
最近ではデジタルデトックス(情報断食)といって、スマホ・パソコン・テレビを一定期間手放すやり方もよく耳にします。
次のことは、お前たちが永久に守るべき掟である。
すなわち、第七の月の十日には、お前たちは、自らを苦しめ、いかなる仕事もしてはならない。
この日には、お前たちを清めるための贖いが行われるからである。
主の前で、お前たちはすべての罪から清められる。
この日はお前たちにとって完全な安息の日である。
お前たち自らを苦しめなければならない。
これは、永久に守るべき掟である。
(レビ記16・29~31)
祭司たちよ、粗布をまとって嘆け、祭壇に仕える者たちよ、泣き叫べ。
断食を布告し、聖なる集会を召集せよ。
(ヨエル書1・13,14)
断食し、嘆き悲しみながら、心をこめてわたしに立ち返れ。
お前たちの衣服ではなく、心を引き裂き、お前たちの神、主に立ち返れ。
(ヨエル書2・12~13)
この時代、贖罪の日には「断食を布告する」ことで、断食を聖なる儀式として行っていました。
飲食しないだけでなく、仕事を中断し、ぜいたく品を避け、身体に油を塗ることもしませんでした。
嘆き、泣き叫んで罪を悔い改め、心を引き裂くほど心をこめて、主への信頼を改めて確認するのです。
わたしには到底及ばない、神への絶対的な信仰、力強さを感じます。
「断食する時、偽善者のように暗い顔つきをしてはならない。
彼らは断食していることを人々に見せるために、浮かぬ顔をする。
あなた方によく言っておく。彼らはすでに報いをうけている。
断食する時には、頭に油を塗り、顔を洗いなさい。
それは、断食していることを、人々には知られず、隠れたところにおられるあなたの父に知っていただくためである。
そうすれば、隠れたことをご覧になるあなたの父が報いてくださる」。
(マタイ6・16~18)
現代のわたしたちは、何のために大斎・小斎を守るのでしょうか。
食事を普段よりも制限し、好きなコーヒーやワインを我慢して、自己満足に終わっていないでしょうか。
決まってるからやる、という「習慣」になっていませんか。
「食事を減らすことで慎み、心身を清めるもの」
「イエスの思いや貧しい人々の思いを少しでも共感するため」
このように教えられていますが、レビ記、ヨエル書の記述のような神への信頼が、今のわたしたちのベースにあるでしょうか。
レビ記はBC1400年頃に、ヨエル書はBC800年以降(諸説あり)に書かれたとされています。
マタイ福音書はAD80年ほどですので、わたしたちが現在行なっている食事の断食は、3500年くらいの歴史ある信仰のしきたりなのです。
今年の四旬節、教皇様の力強いメッセージは、「耳を傾ける、断食する」というものです。
「断食」の仕方のひとつとして、このようにおっしゃっています。
きわめて具体的でありながらあまり評価されていない一つのかたちの自制を行うように皆様を招きます。
すなわち、隣人を攻撃し、傷つけることばを控えることです。
ことばの武装を取り除くことから始めようではありませんか。
辛辣なことば、性急な判断、その場におらず弁解できない人の悪口をいうこと、中傷することをやめようではありませんか。
むしろ、ことばを慎み、優しさをはぐくむことを学ぶために努力しようではありませんか。
家庭の中で、友人の間で、職場で、〈ソーシャルメディア〉において、政治的な議論において、メディアにおいて、キリスト教共同体において。
そうすれば、多くの憎しみのことばは希望と平和のことばに代わることでしょう。
わたしはこれを、「心の断食」だと理解しました。
軽々しい会話ややり取りで、わたしたちは日常的に人を不用意な言葉で傷つけています。
今年の四旬節は、教皇様のおっしゃる「心の断食」を特に意識してみようと思います。
人を批評することをやめるのです。
https://www.cbcj.catholic.jp/2026/02/16/36674/
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22日のごミサでは、4/4の復活徹夜祭で洗礼を受ける6名の洗礼志願式が執り行われました。
とても嬉しい日曜日となりました。
平和の本質
ミラノオリンピックでの選手たちの躍動に、連日胸が踊ります。
開会式では、俳優で国連平和大使のシャリーズ・セロンさんがスピーチをされました。
「平和とは、単に争いがない状態を指すのではありません。
平和とは、人種、肌の色、信条、宗教、性別、階級、カースト、あるいはその他いかなる社会的な違いに関わらず、すべての人が繁栄できる環境を築くことです。
今日、このメッセージはこれまで以上に重要な意味を持っているように思えます。
ですから、これらの大会が単なるスポーツの祭典以上のものでありますように。
それが私たちに共通する人間性を思い起こさせ、互いへの敬意を確認し、そして世界中に響き渡る平和への力強い呼びかけとなりますように。」
ネルソン・マンデラの言葉を引用しつつ「平和の重要性」を強調し、戦争や争いのない世界をつくること=平和の本質を理解することが大切だと訴えました。
アメリカのテキサスからワシントンまでの3700キロの道のりを、徒歩で平和を訴えているベトナムの僧侶たちの「ウォーク・フォー・ピース(Walk for Peace)」という活動が話題になっています。
道中は、キリスト教の教会や大学のキャンパスなどで宿泊しながら、各地の人々に温かく見守られ、声援を受けているようです。
「これは抗議活動ではない。憎しみを捨て、自分自身の心の平和を探し続けよう」とおっしゃっていました。
平和の本質は、根本的には日常生活の中にこそ確率されるべきものでしょう。
先日、友人が「月刊誌・福音宣教に考えさせられる記事があった」と教えてくれました。
それは、旧約聖書の創世記33章にある、エサウとヤコブの兄弟の争いと和解のくだりに関するものです。
ヤコブが目を上げると、エサウが四百人の者を引き連れて来るのが見えた。(1)
ヤコブはそれから、先頭に進み出て、兄のもとに着くまでに七度地にひれ伏した。(3)
エサウは走って来てヤコブを迎え、抱き締め、首を抱えて口づけし、共に泣いた。(4)
ヤコブは言った。「いいえ。もし御好意をいただけるのであれば、どうぞ贈り物をお受け取りください。
兄上のお顔は、わたしには神の御顔のように見えます。このわたしを温かく迎えてくださったのですから。
どうか、持参しました贈り物をお納めください。
神がわたしに恵みをお与えになったので、わたしは何でも持っていますから。」
ヤコブがしきりに勧めたので、エサウは受け取った。(10~11)
この兄弟の争い、わたしがエサウならヤコブのことを一生赦すことはできないと思ってしまいます。
福音宣教の記事(聖書学者の魯 恩碩(ロ・ウンソク)氏)では、10節の「兄上のお顔は神の御顔のように見えます」という表現は、和解の始まりの瞬間に敵の顔の中に「神の似姿」が見えたのだ、と解説されています。
そして、その後の聖書には、エサウがヤコブに「一緒に行こう」と言いますがヤコブは断る、という驚きの展開が続きます。
和解した兄弟は、元の仲の良い双子の関係に戻ったのではなく、互いに別の道を歩むことで次のステップ=それぞれの平和を実現するのです。
ジェームス・ティソ「エサウとヤコブの再会」
教皇レオ14世は、アッシジの聖フランシスコ没後800年にあたって、次のように述べておられます。
平和が神のすべての善の総和であり、いと高きかたから降るたまものだということです。
人間の力だけで平和を築けると考えることは、なんという幻想でしょうか。
平和は日々、受け入れ、生きるべき、積極的なたまものです。
https://www.cbcj.catholic.jp/2026/01/20/36321/
平和の本質について、わかりやすく、簡潔に心に訴えかけられるお言葉です。
「日々受け入れて生きる賜物」
わたしたち一人ひとりが平和を生きなければならないのです。
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ニューヨークのJewish museumで買ったこの画集、旧約聖書の物語を絵にしたジェームス・ティソの一連の作品集です。
旧約を振り返るときに見返す、わたしの宝物です。
僧侶たちのWalk for Peaceについては↓こちら
https://www.jiji.com/jc/article?k=20260205048466a&g=afp
学びの休日
カトリック中央協議会のHPにNHK文化センター特別講座の案内が掲載されているのを見つけて、すぐに申し込みました。
「神はどこにいるのか 世界の痛みと平和への道」と題された、菊地功枢機卿と山本芳久さんの対談の講座にzoomで参加しました。
戦争や格差の拡大、分断に満ちた不条理な世界の中で「神」はどこにいるのでしょうか。
苦しみの中で問われる根源的問いに、新教皇レオ十四世選出の現場を知る菊地枢機卿と、哲学者の山本教授が向き合い対談します。
講座の紹介にこう書いてありました。
わたしたちは、イエス様のお話を直接聞いたわけではないのに、こうしてキリスト者として信仰を持っています。
ですがやはり、直接、しかも生配信で(zoomの普及はコロナ禍が現代にもたらした唯一の素晴らしい副産物ですね)お話を伺える機会は格別のものがあります。
年末のNHKテレビでの菊池枢機卿と若松英輔さんの対談もそうでしたが、本やニュースの記事(文字)ではなく、実際にお話になっている様子に接することができるのは、貴重な学びの体験です。
2時間の講演でしたので、さまざまなお話がありましたが、わたしが特に心に残っていることをご紹介します。
*信仰を持っているわたしたちには神が見えている(教会共同体の中に神がいるから)のに、世の中にそれを示すことができていない。
信仰がない人でも「なぜこのような災害や戦争で人が苦しむのか」と問いを持つでしょう。
ですが、菊池枢機卿は「なぜか、と理由を問うのではなく、苦しんでいる人に寄り添うことが大切なのだ」、とおっしゃいました。
「問いの答えは、『わからない』のだ。
何をするか、何ができるか、を考えるのではなく、人とどう関わるかが重要。」
*多様性の一致について最近の政治を見ていても難しい現代だが、キリスト教はそもそもずっとこのことを言い続け、実践してきた。
似たような考えの人とは簡単に繋がれるが、相入れない人、異質な人と関わりを作っていくことが重要なのだ、というお話もありました。
例えば、日本は司教が17人なので、問題に際して意見を一致させることができる(「時には難しいが」笑)けれど、アメリカには350人の司教がいて、トランプ政権の移民政策へ物申すにも、一致団結できずに困難を極めている、のだそう。
アメリカ人だがアメリカで働いた経験のない教皇も、近い将来アメリカに行ってこの問題と対峙されるだろう、と。
*ラテン語や文語体での祈りが身体化して染み付いている。現代語化は必要だったのか?との山本さんの問い
現代語化したのは、当時のバチカンの規則に則って世界中で翻訳が見直されたから。
今は、それぞれの国で良いと認めた言葉でOKとなった。
わたしも、今でも「天にまします」「めでたし聖寵みちみてるマリア」と唱えます。
菊池枢機卿は、アンジェラスの祈りはラテン語でしかいまだにできない、と。
頭と心ではなく、身体に染み付いた祈りの方が心の底から祈ることができますし、天に届く気がします。
講演の冒頭ではコンクラーベの舞台裏のお話があり、他にもキリスト教学校教育の問題、アフリカの土着宗教を認めた上でのカトリックの布教のお話など、本当に興味深いたくさんのテーマのお話がありました。
全体を通して、最も強く伝わってきたのは、「人とどう関わるか」について何度もお話しされたことでした。
考えの違う人との関わりが苦手なわたしは、とても考えさせられるポイントです。
枢機卿は「ベネディクト16世がよく言っていた通り、人と人との関わり・繋がりからしか希望は生まれない」とおっしゃいました。
人の話を聞く、という学びがとても好きなのです。
このようにお話を直接聞ける機会は東京での開催が多いので、zoomで参加できるのは本当に嬉しいことでした。
もっと学びたい欲が、今年も沸々と湧き上がっています。
友の存在
最近、友人たちと会う機会が多くありました。
割と頻繁に会って話す友人もいれば、年に数回、年に一度会えるかどうか、という友人もいます。
わたしにとって友人とは、何についてでもお互いの考えを語り合い、励まし合い、一緒に笑い、時には涙することができる相手のことです。
そして、長年友情を育んでいく中で、それぞれが様々な人生経験を積み、変化していることを感じます。
これまで感じていたお互いのイメージが変わってきたことも、感じる場面があります。
また弟子たちに仰せになった、「ともしびを持って来るのは、升の下や寝台の下に置くためであろうか。
燭台の上に置くためではないか。
まことに、隠されているもので露わにされないものはなく、また、秘密にされたもので、公にならないものはない。
聞く耳があれば、聞きなさい」。
また仰せになった、「注意して話を聞きなさい。
あなた方が量るその升で、あなた方にも量り与えられ、しかも、さらに増し加えられる。
持っている人はさらに与えられ、持たない人は、持っているものまでも取り上げられる」。
(マルコ4・21~25)
メアリー・ヒーリーの解説書には、こうあります。
*まだ機も熟していないうちに、イエスが誰であるのか公にされると、彼がメシアであることが誤解される危険があった。
*隠れた状態にある時がイエスの復活と共に終焉を迎えるという事実を暗示している。
*神の国は、教会の福音宣教に伴うさまざまな試練や挫折のうちにいまだに隠されているが、最終的には神が明らかにしようと望まれることはすべて、白日の下に晒される運命にある。
*イエスの教えにどれほど注意を払うのか、その度合い(升)に応じて、イエスの教えが益となる。
*心を開き、向学心を持ってイエスに応じる人は誰でも、もっとさらに物事を見抜く力を与えられることになる。
どうでしょうか。
マルコのこの部分は、違うように理解されがちではないでしょうか。
とくに、下線を引いた解説は、わたしは全く違った解釈で受け取っていました。
20代のころには、読んでも理解できなかった(特にヒーリーの解説書など)聖書の教えも、いまならスーッと心に響いてきます。
マルコの並行箇所、マタイにはこのようにあります。
「あなた方は世の光である。
山の上にある町は、隠れることはできない。
ともしびをともして、升の下に置く人はいない。燭台の上に置く。
こうすれば、家にいるすべての人々のために輝く。
このように、あなた方の光を人々の前に輝かせなさい。
そうすれば、人々はあなた方の善い行いを見て、天におられるあなた方の父をほめたたえるであろう」。
(マタイ・14~16)
マタイの方は、もしかしたら文字通りの並行箇所と理解しなくてもよいのかも知れません。
難しい解説に頼らずとも、素直に書かれている通りに受け止めてよい気がします。
若い頃、この箇所を自分の指針にしていました。
「わたしは世の光として周囲を照らしたい」
今は、そんな偉そうなことは思っていません。。。
友人たちとの付き合いのように、人生経験を糧に前に進んでいると、聖書の教えも受け止め方が変わってくるようです。
ただ、昔からずっと変わらないことがあります。
それは、日曜日のミサで手に取る『聖書と典礼』にその時求めていた言葉や教えが必ず書いてある、ということです。
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将棋界のレジェンド、加藤一二三さんが帰天されました。
ネットのニュースで加藤さんのエピソードが紹介されていました。
取材した方が、「天国に行かれても、大好きな将棋を指し続けたいですか」と質問したら、加藤さんは真顔で「天国に将棋はありません。向こうに行ったら、永遠に神の栄光をたたえるのです」とお答えになったとか。
天国で、わたしたちがよく知っているあの笑顔で祈りの日々を送っていらっしゃるお姿が目に浮かぶようです。
教会の花壇には小さな春が訪れています。
自らの行い
今年の抱負はうっすら決めていたのですが、詳細を詰め切れずにいました。
昨年末、自分の信仰に疑問を投げかけられた出来事があり、「信仰の姿勢を見直そう」と考え始めました。
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それから、イエスは群衆と弟子たちにお話しになった。
律法学者たちやファリサイ派の人々は、モーセの座に着いている。
だから、彼らが言うことは、すべて行い、また守りなさい。
しかし、彼らの行いは、見倣ってはならない。
言うだけで、実行しないからである。
彼らは背負いきれない重荷をまとめ、人の肩に載せるが、自分ではそれを動かすために、指一本貸そうともしない。
そのすることは、すべて人に見せるためである。
聖句の入った小箱を大きくしたり、衣服の房を長くしたりする。
宴会では上座、会堂では上席に座ることを好み、また、広場で挨拶されたり、『先生』と呼ばれたりすることを好む。
(マタイ23・1~7)
当時存在したファリサイ派の学者たちは新約聖書中で、イエス様から詭弁的、形式主義的であるとして度々指摘されています。
*わたしの信仰はここに立派なことを書くだけで、実行できていないのかも
*ひとに褒めてもらおうとばかり、心の中では考えているのかも
昨年末、そう思わせられたのです。
律法学者とファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。
やもめの家を食い物にし、見せかけの長い祈りをする。
(マタイ23・14)
律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。
薄荷、いのんど、茴香の十分の一は献げるが、律法の中で最も重要な正義、慈悲、誠実はないがしろにしているからだ。
(マタイ23・23)
律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。
白く塗った墓に似ているからだ。
外側は美しく見えるが、内側は死者の骨やあらゆる汚れで満ちている。
(マタイ23・27)
悶々とした日々を送っていました。
そんな中、先日の友人のお父様の葬儀会場で、お声をかけてくださった方がいました。
失礼ながら、お顔に見覚えがなかったのですが、こうおっしゃったのです。
「久留米教会で、あなたに何度もよくしていただきました」
あなたがたはこの世に倣ってはなりません。
むしろ、心を新たにして自分を造り変えていただき、何が神の御心であるのか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるのかをわきまえるようになりなさい。
(ローマ12・2)
わたしは覚えていなかったのですが、その方はわたしに何か「よくしてもらった」ことを嬉しく思ってくださっていたのでしょう。
宮﨑神父様が、ミサのお説教でこうおっしゃいました。
「 何が正しくて何が間違いかを考える時、神の御心に沿っているのか、イエス様の教えに相応しいかをよく考えてみるのです。
神のはからいによって行うことには、無意味で無駄なことはありません。」
このお言葉を聞いた時、わたしの今年の抱負が決まりました。
*自分が正しいと思うことではなく、神様がそのことを望まれているのかを、立ち止まって考えて行動すること。
パウロはキリスト者たちを撲滅しようとしていたファリサイ派でしたが、復活のイエス様に会って回心しました。
わたしは、いつの間にか間違った正義感を振りかざすファリサイ派の信徒になっていたかもしれません。
自分なりに正しいと思ったことを頑張ろう、と無理をしていたのかもしれません。
パウロのように、目からうろこが取れた思いです。
うろこを取り払ってくれたのは、葬儀会場で出会った方でした。
キリスト者である、というのはどういうことか、よく考えることができたこの悩みの日々に感謝です。