続くことの意味

箱根駅伝、今年も素晴らしかったですね!

お正月の楽しみのひとつですが、近年はわたしの母校の選手も頑張っているので、箱根には余計に力が入ります。

「なぜ、このチームだけが、人がどれだけ入れ替わっても勝ち続けられるのか?」

青山学院大学の原監督は、この質問に次のようにお答えになっています。

「人が入れ替わっても勝ち続けられる組織であるために、日常生活を徹底的に見直したことが現在の成果につながっている」

夫婦で部員たちと寮に住みこみ、練習だけでなく生活も共にされていることは有名ですが、大切にされているのは日々の生活だということのようです。

 

「なぜキリスト教(カトリック)は2000年以上も受け継がれてきたのか」

そう質問されて、自信を持って答えられるでしょうか。

先に起こったことを、思い起こしてはならない。
以前のことを、思い巡らしてはならない。
見よ、わたしは新しいことを行う。
今にもそれが芽生えているのを、お前たちは知らないのか。
わたしはまさに荒れ野に道を、荒れ地に川を設ける。
(イザヤ43・18~19)

大学の部活は、4年で卒業する生徒(才能)を入れ替えながらも、指導(伝統)の賜物で成果を出し続けています。

*箱根駅伝は、毎年だいたい同じ学校の名前が並びますね。

教会は、帰天される方、受洗される方が毎年おられますが、数年でメンバーが全て入れ替わるなんてことはありません。
日本のカトリック信者が増加している、とは言えない現実を直視しつつも、基盤となる教えに加え、その教会(司祭・信徒)なりの導きの賜物の成果として、新しい奉仕者が少しづつ出てきているのを感じています。

*そのことに気づかない教会も多いのではないでしょうか。

聖霊の賜物による、ある種の召し出しなしでは、教会共同体がこれからも続くことはありません。

 

新年にNHKで放送されていた、菊池枢機卿と若松英輔さんの対談を観ました。

その中で、菊池枢機卿のいくつかのお話が大変印象に残っています。

*現代社会において、それは夢物語だと言われようとしても自分の信念・確信を持つことの大切さ

*「答え」をすぐに求めたがるのが現代の人々だ。宗教にもそれを求めている。
 宗教は方向性を示すことはできるが、その道を生きるのはその人なのだ。

 

 

母の胎にいた時からわたしに担われてきた者たち、
腹にいた時からわたしに背負われてきた者たちよ。
お前が老いるまで、わたしはその者である。
白髪になるまで、わたしは担う。
わたしは造り、わたしは背負う。
わたしは担い、わたしは救う。
(イザヤ46・3~4)

主なる神は、教えを受ける者の舌をわたしに与えてくださった。
疲れた者を言葉をもって支えることを知るために。
主は朝ごとに呼び覚まし、
わたしの耳を呼び覚まし、

教えを受ける者のように聞くようにしてくださった。
主なる神は、わたしの耳を開いてくださった。
わたしは逆らわず、背を向けて退くことはなかった。
(イザヤ50・4~5)

 

宗教が続いてきたこと、これからも続いていくこと、の意味はここにある気がします。

*聖霊に導かれて生きる、という自分の信念を確認して確信にすること

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2025年、聖年の扉が閉じられました。

教皇フランシスコは、聖年の開始を告げる大勅書「希望は欺かない」の冒頭でこう述べられています。

「すべての人は希望を抱きます。
明日は何が起こるか分からないとはいえ、希望は良いものへの願望と期待として、ひとり一人の心の中に宿っています」

わたしたち一人ひとりの中に希望が絶えずあり続けること、キリスト教がこれからも続き、人々の指針であるために大事なことではないでしょうか。