カテゴリ:聖書

今、ここで

先週は、集会祭儀司会者養成講座の2回目が大名町教会で開催され、参加しました。

今回はレナト神父様による、「みことばの食卓」と題された講義でした。

実に、神の言葉は生きていて、力があり、どんな両刃の剣よりも鋭く、魂と霊の、また、関節と骨髄の分かれ目まで指し通し、心の思いや考えを見分けることができます。
(ヘブライ4・12)

この聖句にある通り、福音書(聖書)は読み物ではなく『みことば』であることを意識しなければならない、とお話がありました。

わたしたちが祈るときには神に語りかけているように、読むときには神が自分に語りかけておられるのだ、と。

聖書朗読とは携帯を持ち歩くようにみことばに同伴されるもの、つまり自分の置かれている生活の中で実践するようにみことばが日常に結びつかなければならない、ともおっしゃいました。

みことばを日常生活で実践する、とはどういうことなのか、考えてみました。

ラテン語「ヒック エット ヌンク」(hic et nunc)という言葉をご存じでしょうか。

直訳すると「ここで、今」(here and now)という意味です。

過去は変えられないし、未来はまだ先のことです。
今ここに集中すること、を意味しているそうです。

どうすることもできない過去を悔やみ、どうなるのか今は分からない未来に怯えるのがわたしたち人間。

人は「今ここ」を疎かにしがちではないでしょうか。

今日わたしが命じるこれらの言葉を心に留め子供たちに繰り返し教え、家に座っているときも道を歩くときも、寝ているときも起きているときも、これを語り聞かせなさい。
(申命記6・6~7)

将来、あなたの子が、「我々の神、主が命じられたこれらの定めと掟と法は何のためですか」と尋ねるときには、あなたの子にこう答えなさい。
「我々はエジプトでファラオの奴隷であったが、主は力ある御手をもって我々をエジプトから導き出された。
主は我々の目の前で、エジプトとファラオとその宮廷全体に対して大きな恐ろしいしるしと奇跡を行い、
我々をそこから導き出し、我々の先祖に誓われたこの土地に導き入れ、それを我々に与えられた。
主は我々にこれらの掟をすべて行うように命じ、我々の神、主を畏れるようにし、今日あるように、常に幸いに生きるようにしてくださった。
我々が命じられたとおり、我々の神、主の御前で、この戒めをすべて忠実に行うよう注意するならば、我々は報いを受ける。」
(申命記6・20~25)

旧約の神は、「乳と蜜の流れる土地で大いに増える」と民に約束されました。

その条件は、エジプトから導き出された主を忘れず、主を試すようなことはせず、主の目にかなう正しいことを行い、常に幸せに生きることでした。

それは「約束の地」という文字通りの土地を所有できる権利ではなかったはずです。
与えられた土地で彼らがどう生きるのかを見ておられたのです。

「今日命じることを心に留める」「今日あるように幸せに生きる」、これが神様がわたしたち(イスラエルの民だけでなく)に教えてくださった生き方そのものなのです。

「今日」という日が過ぎ去らないうちに、毎日、互いに励まし合いなさい。
「今日、もし、あなたがたが神の声を聞くなら、心を頑なにしてはならない、神に背いた時のように」
(べブライ3・13、15、詩編95・7〜8)

「今日」「今ここ」は、神様が私たちに語りかけるあらゆる全ての瞬間のことです。

みことばを日々の生活の中で実践する、つまり「今、ここで」、今生きている瞬間を疎かにしない生き方が神様がわたしたちに求められていることなのではないでしょうか。

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大分教会と別府教会への巡礼に、久留米からバス2台で行ってきました。

大分教区の森山司教様は、司祭時代の最後の司牧教会である久留米の信徒からとても愛されています。

司教様と3人の司祭によるごミサは、わたしたちがどれほど恵まれ愛された信徒であるかを思い起こさせるものでした。 

 

 

神様への応答

今場所の推しは、伯桜鵬です。

スポーツは、団体競技であれ個人種目であれ、ひとりで戦うものではありません。
例えば、相撲は部屋があり親方がいて、ともに稽古する同志がいて、指導してくれる先輩力士がいなければ、土俵で戦うことはできません。

教会の運営も、同じです。

ベネディクト16世教皇が書き上げ、フランシスコ教皇が手を入れて、2人のコラボレーションによって発表された回勅『信仰の光』の中には、次のような一節があります。

信仰は、招きに対する応答として表現されます。
わたしたちはこの招きの言葉を聞かなければなりません。

それはわたしに由来するものではないからです。
だから信仰は対話の一部であって、個人から生まれる純粋な告白だけではありません。
一人称で「わたしは信じます」と応答することができるのは、わたしがより大きな交わりに属しており、「わたしたちは信じます」とも言えるからなのです。
(第39節)

◇信仰とは、単なる個人の内面的確信ではなく、「共に信じること」から力を得ている
◇信仰は孤立した自己完結的行為ではなく、「他者との交わりにおいて」のみ本来の形を取る
◇信仰の本質は、「神からの招きへの応答」であり、共同体の交わりのなかで生きるもの

この回勅が出た11年前には、こんな風に自分の中に入ってきませんでした。

ベネディクト16世がわたしたちに伝えてようとされたことが、今のわたしには染みわたるような感覚です。

 

↑この写真、素敵だと思いませんか?

先月、教区100周年記念誌作成のための原稿と写真の提出を教区から求められていたので、もう一人の広報担当に「いいカメラ持ってるみたいだから、写真お願い!」と頼んで撮影してもらったうちの一枚です。

共に神様の招きに応えて働く仲間です。

愛する者よ、あなたは、年が若いということで、だれからも軽んじられてはなりません。
むしろ、言葉、行動、愛、信仰、純潔の点で、信じる人々の模範となりなさい。
わたしが行くときまで、聖書の朗読と勧めと教えに専念しなさい。
あなたの内にある恵みの賜物を軽んじてはなりません。
その賜物は、長老たちがあなたに手を置いたとき、預言によって与えられたものです。

これらのことに努めなさい。
そこから離れてはなりません。

そうすれば、あなたの進歩はすべての人に明らかになるでしょう。
自分自身と教えとに気を配りなさい。
以上のことをしっかりと守りなさい。

そうすれば、あなたは自分自身と、あなたの言葉を聞く人々とを救うことになります。
(テモテ4・12~16)

*フランシスコ会訳聖書の解説には、「当時、年が若い=30〜40歳までの者を指した」とありました!!(;'∀')

年寄りを責めてはなりません。
むしろ、自分の父親と思って勧めなさい。
また、若い男は弟と思い、年老いた女性は母親と思い、若い女性に対しては完全な純潔をもって、妹と思って勧めなさい。
(テモテ5・1~2)

あなた方の行うことはすべて、人間のためではなく主のためと思って、精魂をこめて果たしなさい。
(コロサイ3・23)

人の語るあらゆる言葉に、いちいち心を留めてはならない。
さもないと、あなたの悪口を言う僕の言葉を聞くことになるだろう。
あなた自身もまた、しばしば他人の悪口を言ったことを、あなたの心は知っているからである。
(コヘレト7・21〜22)

聖書には人生に必要な教えが全て網羅されています。

聖書を一人で読むだけではなく、ここにこうして紹介することで、読んでくださっている方々と分かち合っている気持ちになれます。

良いもの、素敵なこと、嬉しいことは、人と分かち合うことで数倍の価値になる気がするのです。

最初にご紹介した回勅『信仰の光』には、こうも書かれています。

信じる者は独りきりではないのです。
だから信仰は広められ、他の人を喜びへと招くことを目指すのです。
信仰を受けた人は、自分の「自我」が広がり、自らのうちに人生を豊かにする関係が生まれたことを見いだします。

7/27〜8/5まで、「青年の祝祭」ローマ巡礼に参加した彩天さんが、共に参加した友人と一緒に報告会をしてくれました。
彼女たちもまた、神様からの招きに応答し、共に交わり、共に信仰に確信を得た青年たちです。

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教皇レオ14世は、9月17日、バチカンで行われた一般謁見の席で、パレスチナ・ガザ地区の情勢に言及された。
恐怖の中で生活を続け、受け入れ難い状況を生き延び、自らの土地から再び強制的に移動させられる、ガザのパレスチナの人々に、ご自身の深い寄り添いを伝えられた。
平和と正義の夜明けが一刻も早く訪れるようにとの、ご自身の心からの祈りに一致してほしいと、すべての人々を招かれた。
(バチカンニュースより)

皆で心を一つにして祈れば戦争が終わる、わけではありません。
戦争を始めるのも止めるのも、人間です。

皆で一致して心から平和を祈る、そのことに意味があるように思います。

 

1デナリオン

先週紹介した本から、もうひとつ。
マタイ20章にある、ぶどう園の主人と労働者の喩え話についてです。

1日につき1デナリオンで働くことを約束された労働者たち。
9時から働いた人だけでなく、5時ごろに雇われた人たちにも、主人は同じように1デナリオンを払うのです。

山本芳久さんの本には、教皇レオ14世はこの箇所についての説教で、気前の良い主人ではなく遅い時間まで広場に残されていた労働者に着目して話された、と書いておられます。

「彼らは、今日も仕事にありつけなかったという徒労感と無意味感、不安にさいなまれていたであろう。
ぶどう園の主人は、労働者を探すために、1日に何度も出かけるのだ。
わざわざ、5時にも。」

この疲れを知らない主人は、わたしたち一人ひとりの人生になんとしても価値を与えたいと望み、5時にも出かけるのです。
市場に残っていた労働者は、おそらくあらゆる希望を失っていたことでしょう。
それでも、なお彼らを信じていくれる誰かがいたのです。
人生で自分にできることはほとんどないように見える時でさえ、常に、人生にはやはり価値があるのです。
意味を見出す可能性は常に存在します。
なぜなら、神はわたしたちの人生を愛しておられるからです。
(2025/6/4、3回目の一般謁見講話より)

いつ働き始めても報酬が同じと分かっていたら、多い時間働く必要はない、と考えるのが普通かもしれません。

アウグスティヌスは説教の中でこのことに触れています。

「神の招きを感じたならば、呼ばれたときにすぐに行きなさい」
「いつ始めても報酬が同じだからといって始めるのを延期しているうちに、神からの招きに応答しないままに人生を終えることになってしまうかもしれない」
「いまここで神からの呼びかけに応え、あなたに与えられているかけがえのない役割を果たしなさい」

教皇様は、アウグスティヌスの言葉を引用しながらわたしたちに呼びかけられたのでした。

 

自分の日々の働きが無意味に感じることはありませんか?
家事、仕事、与えられた様々な役割をする中で、徒労感を感じる場面があるのは当然かもしれません。

来住英俊神父の9/8のnote、「年間第23主日の説教」の記事から少し抜粋してご紹介します。

洗礼を受けると予想しない苦しみを経験します。
次の例は、 教会で起こる典型的な苦しみではないかと思います。
最初は、キリストの受難に与ることを、ハードワークに耐えることと同一視しているものです。
頑張る覚悟はあるが、ある程度の評価と感謝を予想します。
そうなることもあります。

しかし、かなりの確率で周囲の人々は自分の頑張りを無視している、当然のことと思っているということに気がつきます。
不本意ではあるが、キリスト者なんですから、その無視に耐えようと思います。
しかし、その次に起こることは耐え難いものです。
自分は頑張っていると思っていたのが、他人から、周囲の人から批判されるていることに気がつくのです。
私は、いくつかの小教区でそういうことを聞きました。
それで教会に来なくなった人も結構います。
キリスト者生活をするにつれて、こういった予想もしない苦難を経験します。
「なんじゃ、これは!」と投げ出したくなります。
こんな取り扱いにも我慢しなければならないのかと思います。
ですから、キリスト者の旅路の途中で何度か、「腰を据えて考える」必要があるのです。
「 私はそれでも、この道を終わりまで歩む覚悟があるか。」
「自分の十字架を背負ってついてくる者でなければ、誰であれ、私の弟子ではありえない。」

わたしも、そして教会で役割を果たす誰もが、報酬(評価、感謝)を期待しているわけではありません。

もしも、報酬が与えられるとしたら、それはすでに与えられているからです。

それは、1デナリオンの価値以上の、信仰生活という人生に意味を見出すというご褒美です。
神様からの呼びかけを聞き、かけがえのない役割を果たすことができるという喜びを、いつも感じることができています。

終わりまで、腰を据えて考えながら導きに応えていきたい、それが全てです。

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ミサの中で敬老の祝福式が行われ、ミサの後にはささやかなお祝いの会を行いました。
先輩方の嬉しそうな楽しそうな様子に触れ、とても穏やかな気持ちで良い日曜日を過ごすことができました。 

 

 

 

「落ち着かない心」

わたしが大きな病気をしたとき、若かったこともあり、全く心配もせず、おおらかに前向きに生きていました。

ですが、ふと思ったのです。
当時、家族はどれほど不安な気持ちで、心配をしながら落ち着かない暮らしをしていたのだろうか、と。

神よ、あなたの名によってわたしを救い、
あなたの力で守ってください。
神よ、わたしの祈りを聞き、
わたしのことばに耳を傾けてください。

神よ、わたしはすすんでいけにえをささげ、
いつくしみ深いあなたの名をたたえる。
神はわたしの助け、わたしのいのちの支え、
あなたはすべての苦しみからわたしを救われる。
(詩編54・3~4,8~9)

母はカトリックの信仰を持っていましたので、おそらく毎日神様に祈り、聖書を開いていたことでしょう。

化学療法の治療中は、いつも母が枕元で聖書を読んでくれていました。
吐き気がひどい中、内容は頭に入ってきませんでしたが、それでも素敵な音楽が遠くから聞こえてくるような心地よさを感じていたことは忘れられない思い出です。

当時、抗がん剤の治療を終えて1週間は絶対に外出禁止でした。(免疫が極度に落ちているから)
数度目の治療の後、お散歩に出ていい、と言われて出かけたのは、お向かいのビルにある本屋さんでした。
インターネットなど普及していない時でしたから、何か本を読みたかったのです。

ですからその時以来、聖書を開くこと、そして読書は、わたしの最高の癒しとなっています。

久しぶりに、素敵な本に出会いました。
8月20日に出たばかりの、山本芳久さんの新刊です。

レオ14世教皇のお人柄やお考えが、ようやくスーッと心に入ってきた気持ちになれました。

主よ、あなたは私たちを、ご自身にむけてお造りになりました。
ですから私たちの心は、あなたのうちに憩うまで、安らぎを得ることができないのです。
(アウグスティヌス「告白」第1巻第1章)

教皇就任ミサの冒頭にレオ14世が語ったのは、やはりアウグスティヌスの言葉でした。

わたしたちは皆、心の中に多くの問いを抱えて生きています。
聖アウグスティヌスはわたしたちの「落ち着かない心」についてしばしば語っています。
この落ち着かなさ、安らぎのなさは悪いものではありません。
わたしたちは、その火を消そうとしたり、自分が経験している諸々の緊張や困難を取り除いたり、麻痺させたりさえする方法を探すべきではありません。
むしろ、自分自身の心と向き合い、神がわたしたちの人生の中で、またわたしたちの人生を通して働かれること、そして他の人々にわたしたちを通して手を差し伸べることができることに気づくべきなのです。
(2025年6月14日シカゴでのビデオメッセージより)

わたしたちが抱えている、心の「落ち着かなさ」「安らぎのなさ」を悪しきものと判断して無理に克服しようとしなくていい、とおっしゃっています。

「落ち着かない心」「安らがない心」に促されるままに、自分の日々を深く歩むことが人生なのですよ、と。

他の人々に手を差し伸べることができるのは、自分が「落ち着かない心」を持っているからできるのだ、と。

このことを痛感する出来事がありました。
先週書いたように、色々と不安と心配事を抱えていて余裕のない心で過ごしていたのですが、もっと大変な心配事に覆われた友人がわたしを頼ってきたのです。 

「うん、わかるよ、その気持ち」

と、彼女の話を聞き、心が軽くなるならこうしてみたらどう?と伝えることができました。
自分が落ち着いている時ならば、「え?なんでそんなこと心配してるの!?」と笑い飛ばしたアドバイスをしていたかもしれません。

わたしも今、心の「落ち着かなさ」「安らぎのなさ」の中にいるので、かえって一緒に落ち着いて語り合えた気がするのです。

代々に、主に寄り頼め、まことに、主はとこしえの岩。
そうです、あなたの定め道にあって、主よ、わたしたちはあなたを待ち望みます。
あなたの名と、あなたの名を呼ぶことが、わたしたちの魂の望み。
わたしの魂は、夜、あなたを慕い求め、わたしの中の霊はあなたを慕います。
(イザヤ26・4、8〜9)

あなたはわたしを健やかにし、わたしを生かしてくださいました。
あなたの愛は、滅びの穴からわたしの魂を守ってくださいました。
生きている者、生きている者だけが、今日のわたしのように、あなたをほめたたえるのです。
主はわたしを救ってくださる。
わたしたちは命の日々のあるかぎり、主の家で楽を奏でよう。
(イザヤ38・16〜20抜粋)

38章のこの箇所、これが生きる意味なのだ、と聖書の師匠から教わりました。

聖書の文章は、本当に美しいです。
落ち着きと安らぎをわたしに与えてくれます。

 

山本さんは、こう書いておられます。

世界の中で日々起き続ける様々な出来事に揺り動かされ、「落ち着かない心」を抱き続けながら、「一致」と「平和」を目指して生きる一人ひとり(キリスト者であれ非キリスト者であれ)によって築かれる、「多様性」を前提としたうえでの「一致」の世界。
それこそがレオ14世がアウグスティヌスに深く依拠しながら実現を呼び掛けている世界の在り方なのである。

教皇様のお話に、これからはもっと注目したいと思わせる本です。 

 

閉ざされた信仰

中世のスペイン王国・ポルトガル王国で、ユダヤ人でユダヤ教からキリスト教に改宗した人々のことを、「コンベルソ」(新キリスト教徒)と言います。

イベリア半島(現在のスペイン)は、ヨーロッパの中で最もユダヤ人が住む地域でしたが、キリスト教国とイスラム教国のせめぎあいの中で翻弄され、レコンキスタの最中に即位したカトリックの国王の迫害を逃れるために、多くのユダヤ人がキリスト教に改宗しました。

そのような中、1478年にローマ教皇の許可を得てドミニコ修道会が異端審問制度を始めます。
この異端審問所は、ユダヤ教徒やイスラム教徒に対してではなく、新キリスト教徒の中の背信者を取り締まるために設けられたのです。

1492年、国王はついにユダヤ教徒追放令を出し、キリスト教に改宗しないユダヤ人は国外に退去することを命じました。

ちなみに、レコンキスタとは、イスラム教徒から不当に領地を占領されたとして、その支配に抵抗するカトリックを信仰するスペイン人による領土奪還のことです。

レコンキスタ、とは19世紀に作られた造語で、当時の人々はそのような自覚(我々はスペイン人である、イベリア半島は統一すべき、というような)はなかったようです。

アメリカの新政権が打ち出した政策、「犯罪を犯した不法移民を国外退去か、グアンタナモの収容所に入れる」は、もちろん根本的には全く別のものですが、どこか似たような政策に感じます。

 

中世の当時、「スペイン」というひとつの国は存在せず、キリスト教・ユダヤ教・イスラム教という宗教カテゴリーごとに連帯するわけでもなかった。
当時の人々は各々の思惑を持って懸命に生きたのであって、その割り切れない生き様を単純化してしまってはならない。
国家や民族、信仰や善悪といった、後世の人々が創り出した「フィクション」で単純化して線引きすることが、どれほど多くの悲劇を生み出してきたか、そして生み出し続けているのかを、現代に生きる我々は痛感している。
「レコンキスタ ―「スペイン」を生んだ中世800年の戦争と平和」
黒田 祐我 著より

全く知らなかった、中世のスペインの歴史について、とても勉強になる本です。
そして、歴史上の大きな転換点には良くも悪くも、いつもカトリック教会(教皇)の深い関わりがあったことを、この本でも改めて認識させられました。

わたしは、聖書の基本理念はこの箇所に表されていると、いつも思います。

お前たちが自分の土地の刈り入れをするとき、お前は畑の隅まで刈り尽くしてはならない。
またお前の刈り入れの落ち穂を拾ってはならない。
お前のぶどう畑の実を取り尽くしてはならない。
お前のぶどう畑に落ちた実を拾ってはならない。
それらは貧しい人や他国の者のために、残して置かなければならない。
(申命記19・9〜10)

在留する他国の者や孤児の権利を侵してはならない。
やもめから衣服を質に取ってはならない。
エジプトで奴隷であったあなたを、あなたの神、主が贖われたことを思い起こしなさい。
畑で穀物の刈り入れをするとき、一束を畑に置き忘れたなら、それを取りに戻ってはならない。
それは在留する他国の者、孤児、やもめのためのものである。
そのように行えば、あなたの神、主はあなたのすべての業を祝福なさるであろう。
(申命記24・17〜19)

 

ミレーは、この申命記の理念を表したルツ記の場面を取り入れて「落穂拾い」を描いたと言われています。

 

これは、キリスト教の教えではなく、旧約聖書に書かれている「全人類」への教えではないでしょうか。

レコンキスタの時代も、現代も、自分たちがそもそも寄留者に過ぎないことを完全に忘れているのです。

もちろん現代社会は、各国が定めた法律に則って暮らす義務と責任をだれもが持っていますが、「メキシコ湾」か「アメリカ湾」か、そのようなレベルの争いが未だに繰り広げられているのが現実です。

問題が拡大したのはテレビ局のせい、山火事が大規模で長期間にわたったのは前政権の予算配分のせい(気候変動対策に予算を割きすぎたから)、旅客機に軍のヘリが追突したのはFAAがDEI(多様性、公平性、包摂性)の推進のために「重度の知的障害や精神障害を持つ人々の雇用を進めた」せい、、、。
(もちろん、大統領の根拠のない発言です)

 

紹介した本によると、10世紀のアンダルス(現在のスペインの一部)では、どれか一つに統合されることのないハイブリッドな社会でした。

公用語はアラビア語、日常言語はラテン語が俗語化したロマンス諸語、ヘブライ語もユダヤ人の儀礼言語として用いられていました。
イスラムが実質的に支配していた10世紀の後ウマイヤ朝は、ユダヤ教徒もキリスト教徒も、その庇護のもとで自らのアイデンティティを維持しながら、それぞれの分野で活躍していたそうです。

「多様性に根差し、宗教的寛容によって形作られた非凡なる中世文化」と書かれています。

 2025年の今、そのような社会の形成を求めるのは理想主義すぎるでしょうか。
少なくともキリスト教を信仰するのであれば、信仰の根本を思い起こし、わたしたち一人ひとりがもっと寛容でなければならない、と痛感するこの頃です。

ミサ後の、わたしの大好きな光景です。
あちらこちらで、それぞれの日常を交換する信徒の皆さん。

わたしも、週に一度お会いする方々と言葉を交わす日曜日が大好きです。