カテゴリ:聖書

友の存在

最近、友人たちと会う機会が多くありました。

割と頻繁に会って話す友人もいれば、年に数回、年に一度会えるかどうか、という友人もいます。

わたしにとって友人とは、何についてでもお互いの考えを語り合い、励まし合い、一緒に笑い、時には涙することができる相手のことです。

そして、長年友情を育んでいく中で、それぞれが様々な人生経験を積み、変化していることを感じます。

これまで感じていたお互いのイメージが変わってきたことも、感じる場面があります。

 

また弟子たちに仰せになった、「ともしびを持って来るのは、升の下や寝台の下に置くためであろうか。
燭台の上に置くためではないか。
まことに、隠されているもので露わにされないものはなく、また、秘密にされたもので、公にならないものはない。
聞く耳があれば、聞きなさい」。
また仰せになった、「注意して話を聞きなさい。
あなた方が量るその升で、あなた方にも量り与えられ、しかも、さらに増し加えられる。
持っている人はさらに与えられ、持たない人は、持っているものまでも取り上げられる」。
(マルコ4・21~25)

メアリー・ヒーリーの解説書には、こうあります。

*まだ機も熟していないうちに、イエスが誰であるのか公にされると、彼がメシアであることが誤解される危険があった。

*隠れた状態にある時がイエスの復活と共に終焉を迎えるという事実を暗示している。

*神の国は、教会の福音宣教に伴うさまざまな試練や挫折のうちにいまだに隠されているが、最終的には神が明らかにしようと望まれることはすべて、白日の下に晒される運命にある。

*イエスの教えにどれほど注意を払うのか、その度合い(升)に応じて、イエスの教えが益となる。

*心を開き、向学心を持ってイエスに応じる人は誰でも、もっとさらに物事を見抜く力を与えられることになる。

どうでしょうか。
マルコのこの部分は、違うように理解されがちではないでしょうか。

とくに、下線を引いた解説は、わたしは全く違った解釈で受け取っていました。

20代のころには、読んでも理解できなかった(特にヒーリーの解説書など)聖書の教えも、いまならスーッと心に響いてきます。

マルコの並行箇所、マタイにはこのようにあります。

「あなた方は世の光である。
山の上にある町は、隠れることはできない。
ともしびをともして、升の下に置く人はいない。燭台の上に置く。
こうすれば、家にいるすべての人々のために輝く。
このように、あなた方の光を人々の前に輝かせなさい。
そうすれば、人々はあなた方の善い行いを見て、天におられるあなた方の父をほめたたえるであろう」。
(マタイ・14~16)

マタイの方は、もしかしたら文字通りの並行箇所と理解しなくてもよいのかも知れません。

難しい解説に頼らずとも、素直に書かれている通りに受け止めてよい気がします。

若い頃、この箇所を自分の指針にしていました。

「わたしは世の光として周囲を照らしたい」

今は、そんな偉そうなことは思っていません。。。

友人たちとの付き合いのように、人生経験を糧に前に進んでいると、聖書の教えも受け止め方が変わってくるようです。

ただ、昔からずっと変わらないことがあります。
それは、日曜日のミサで手に取る『聖書と典礼』にその時求めていた言葉や教えが必ず書いてある、ということです。

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将棋界のレジェンド、加藤一二三さんが帰天されました。

ネットのニュースで加藤さんのエピソードが紹介されていました。

取材した方が、「天国に行かれても、大好きな将棋を指し続けたいですか」と質問したら、加藤さんは真顔で「天国に将棋はありません。向こうに行ったら、永遠に神の栄光をたたえるのです」とお答えになったとか。

天国で、わたしたちがよく知っているあの笑顔で祈りの日々を送っていらっしゃるお姿が目に浮かぶようです。

 

教会の花壇には小さな春が訪れています。

 

自らの行い

今年の抱負はうっすら決めていたのですが、詳細を詰め切れずにいました。

昨年末、自分の信仰に疑問を投げかけられた出来事があり、「信仰の姿勢を見直そう」と考え始めました。

それから、イエスは群衆と弟子たちにお話しになった。
律法学者たちやファリサイ派の人々は、モーセの座に着いている。
だから、彼らが言うことは、すべて行い、また守りなさい。
しかし、彼らの行いは、見倣ってはならない。
言うだけで、実行しないからである。
彼らは背負いきれない重荷をまとめ、人の肩に載せるが、自分ではそれを動かすために、指一本貸そうともしない。
そのすることは、すべて人に見せるためである。
聖句の入った小箱を大きくしたり、衣服の房を長くしたりする。
宴会では上座、会堂では上席に座ることを好み、また、広場で挨拶されたり、『先生』と呼ばれたりすることを好む。
(マタイ23・1~7)

当時存在したファリサイ派の学者たちは新約聖書中で、イエス様から詭弁的、形式主義的であるとして度々指摘されています。

*わたしの信仰はここに立派なことを書くだけで、実行できていないのかも
*ひとに褒めてもらおうとばかり、心の中では考えているのかも

昨年末、そう思わせられたのです。

 

律法学者とファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。
やもめの家を食い物にし、見せかけの長い祈りをする。
(マタイ23・14)

律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。
薄荷、いのんど、茴香の十分の一は献げるが、律法の中で最も重要な正義、慈悲、誠実はないがしろにしているからだ。
(マタイ23・23)

律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。
白く塗った墓に似ているからだ。
外側は美しく見えるが、内側は死者の骨やあらゆる汚れで満ちている

(マタイ23・27)

 

悶々とした日々を送っていました。

そんな中、先日の友人のお父様の葬儀会場で、お声をかけてくださった方がいました。
失礼ながら、お顔に見覚えがなかったのですが、こうおっしゃったのです。

「久留米教会で、あなたに何度もよくしていただきました」

 

あなたがたはこの世に倣ってはなりません。
むしろ、心を新たにして自分を造り変えていただき、何が神の御心であるのか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるのかをわきまえるようになりなさい。
(ローマ12・2)

わたしは覚えていなかったのですが、その方はわたしに何か「よくしてもらった」ことを嬉しく思ってくださっていたのでしょう。

宮﨑神父様が、ミサのお説教でこうおっしゃいました。

「 何が正しくて何が間違いかを考える時、神の御心に沿っているのか、イエス様の教えに相応しいかをよく考えてみるのです。
神のはからいによって行うことには、無意味で無駄なことはありません。」

このお言葉を聞いた時、わたしの今年の抱負が決まりました。

*自分が正しいと思うことではなく、神様がそのことを望まれているのかを、立ち止まって考えて行動すること。

 

パウロはキリスト者たちを撲滅しようとしていたファリサイ派でしたが、復活のイエス様に会って回心しました。

わたしは、いつの間にか間違った正義感を振りかざすファリサイ派の信徒になっていたかもしれません。
自分なりに正しいと思ったことを頑張ろう、と無理をしていたのかもしれません。

パウロのように、目からうろこが取れた思いです。
うろこを取り払ってくれたのは、葬儀会場で出会った方でした。

キリスト者である、というのはどういうことか、よく考えることができたこの悩みの日々に感謝です。

 

 

目覚めのタイミング

降誕祭まで10日となりました。

心穏やかに過ごせる日々に感謝しています。
(最大の理由は、赦しの秘跡を受けたから!)

わたしは不毛の高原に大河を開き、
谷あいの野に泉を湧き出させる。
荒れ野を湖とし、乾いた地を水の源とする。
荒れ野に杉やアカシヤ、ミルトスやオリーブの木を植え、
荒れ地に糸杉、樅、つげの木を共に茂らせる。
彼らはこれを見て、悟り、互いに気づかせ、目覚めさせる。
主の御手がこれを成し遂げ、
イスラエルの聖なる神がこれを創造されたことを。
(イザヤ41・18~20)聖書協会共同訳

友人の言動に、ハッとさせられ、学びと気づきを得ることがあります。

先日、友人の担当する仕事でミスが分かり、落ち込んでいるだろうなと思って連絡をしました。
彼女からの返答は、

「とてもとても嬉しく、カトリック信者同志の絆を感じ、幸せな気持ちでいっぱいになります。
でも、それに慣れたくはないので、もうしばらくどっぷり落ち込んで、しっかり頭にたたき込まないと!ね。」

別の友人は、自分の子どものこと、実家の両親のこと、仕事のこと、いつもたくさんの悩み(問題)を抱えています。
頻繁に話しを聞くのですが、いつも全く落ち込む様子がなく、「とにかく何とかするわ!」と言うのです。

果たして、わたしが彼女たちの立場だったとして、こんな風に応えることができるだろうか、と考えさせられます。

この友人二人に共通して感じるのは、会って話すと元気をもらえる、ということです。

すべてにおいて神様からの気づきの機会だと捉え、与えられたお恵みに満ちた境遇を常に悟ることの大切さを、イザヤ書の言葉に感じました。

 

アッシジの聖フランシスコはこう言いました。

「悪魔が何より喜ぶのは、神の僕から心の平安を盗み取るときだ」

なにがあっても、不安や悩みに支配されることなく、神様への信頼と心の平安を自分の中に落ち着かせておけばよいのだ、と忘れかけていた大切なことを思い出しました。

先月、神父様にお時間を取っていただいて赦しの秘跡に与りました。

心の中の棘が取れ、それ以来ずっと穏やかな落ち着いた心で過ごしてきたのですが、今朝、仕事のことで心が騒ぐ(腹の立つ)ことがありました。

心の中で「だめだめ、悪魔を喜ばせてなるものか!」と、息を飲み込みました。

怒りや苛立ちが湧き上がる時が、目覚める絶好のタイミングです。

イエスは言われた。
「なぜ、取り乱しているのか。どうして、心に疑いを抱くのか」。
(ルカ24・38)

イエス様は、わたしたちみなの間、わたしたち一人ひとりの中におられ、いつもわたしたちのことを想ってくださっています。

 

先週ご紹介したブレナン・マニングの本、5月27日のページにはこうあります。

正しい人には闇の中にも光が昇る
恵みに満ち、憐れみ深く、正しい光が。
(詩編112・4)

主イエスの栄光は、主の弱さともろさ、一見すると失敗に見えることの中にあります。
失敗に見えることとは、私たち主の弟子に「私に付いて来なさい」と言ったことです。
主は私たちに、十字架を背負って主の後を追い、主の十字架の死を自らも体験することを求めます。
つまり、憐れみ深く生きることを命じているのです。

 

5月28日のページには、ハッとさせられました。

苦しむ人の日々はつらいもの
喜ばしい心は常に宴。
(箴言15・15)

「40歳を過ぎたら自分の顔に責任を持たねばならない。」
顔は、機嫌を写す鏡です。
40年も生きれば、感情を制し、穏やかな表情を保つことができるまでに成熟しているはずです。
私がこんなことを書いているのは、ある人に今朝「どうしてそんなに不機嫌なの?」と尋ねられたからです。

時々、携帯を触っていて、間違って自撮りモードになったときに見た自分の顔に驚くことがあります。

「心穏やかに過ごしている」と思っていても、表情が伴わなければ無意味ですね!

今年が終わるまでの後2週間あまり、穏やかな心と表情を保つようにしたいと決意を新たにしました。

前夜からの冷たい雨の後、澄んだ空気の中に、綺麗な虹に向かってミサに向かうことができた日曜日でした。

 

 

変わるとき

ニューヨーク市長選挙で当選したマムダニ氏(34歳)は、アフリカ中部ウガンダ出身でインド系のムスリム。
アーティストでシリア系の妻ラマ・ドワジさんとは、ミレニアル世代の定番である出会い系アプリで知り合ったのだそう。

日本では初めての女性総理が誕生し、連日、これまでの総理に関するものとはかなり違った報道(例えば服のセンスやバッグについて)が飛び交っています。

現状への不安と不満、新しい可能性への期待、革新的な変化を求める現代は、イエス様が担ぎ上げられた時代と同じなのだ、と感じます。

そして特徴的なのが、こうした現代の新しいリーダーたちはSNSを非常に上手く有効に活用し、自分自身のこと、自分の考えを広く発信することに長けている点です。

 

福音書を読むと、現代とは正反対のイエス様の様子がわかります。

当時のイスラエルも新しく強いリーダーを求めていたことは同じですが、人々の抱いた大きな希望がイエス様の言動とは程遠い方向を向いていたため、人々はすぐにイエス様を諦めました。

マルコには、イエス様が癒しと解放の力のある業を行うにもかかわらず、そのことが公にならないように繰り返し強く求める、「沈黙命令」の場面が数多く書かれています。

例えば、

「誰にも話さないように注意しなさい」(1・44)
イエスは、このことを誰にも知らせないようにと、きびしく命じた(5・43)
このことを誰にも言わないようにと人々を戒められたが、戒めれば戒めるほど、人々はかえってますます言い広めた。(7・36)

イエス様が公に宣教活動をしている間、あえて自分が誰であるか、力ある業を公にしないと主張することを「メシア的秘密」と言うそうです。

十字架の上で自らの命を捧げることが使命である、と自覚されていため、偽りで歪められた熱烈なメシア待望をもつ人々の期待感をますます助長するだけだ、と考えられていたのです。

熱狂した群衆だけではなく、弟子たちでさえ、イエス様の使命について理解することはできませんでした。

今わたしたちは福音書を読むとき、イエス様の意図するところ、そしてどのような結末を迎えるのかを全て知っています。

ですが、目で読んで知っているだけで、イエス様のお考えを心で本当に理解している、と言えない気もします。

イエス様の奇跡を行う様子、上手に譬え話をされることにばかり気を取られがちです。

新しいリーダーに期待する時も、同じかもしれません。

上手なスピーチ、聞こえの良い政策だけに心を留めるのではなく、そして、期待と違ったと身勝手に批判するのではなく、しっかりと理解するように努めたいものです。

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「ハウス・オブ・ダイナマイト」という映画がネットフリックスで公開されています。

核を搭載したICBM(大陸間弾道ミサイル)がアメリカ本土に向けて打ち上げられ、着弾までの19分間のアメリカ政府の緊迫と混乱を、軍司令部・ホワイトハウス・大統領の3つの視点から描き出しています。

あくまでも映画ではあるのですが、あまりにもリアルで、いつこの状況が現実になってもおかしくない世界だと思わされます。
映画の中で大統領が、「世界は爆薬が詰まった家のよう。壁は吹き飛ぶ寸前で、それでも住み続けるのだ」と言っていました。

この映画を観たのでしょうか、突然トランプ大統領が「核兵器の実験を国防総省に指示」しました。
核兵器が正常に機能して核爆発を起こせるのかを確認するため、なのだとか。

トランプ大統領が再選されたのは、彼が素晴らしいリーダーだからとかあの頃はよかったから、ではなかったでしょう。

「彼ならこの現状を劇的に変えてくれるかも!?」という極端な期待感の高まりのようなものがあった気がします。

 今、当時その選択をした人々が期待していた世界に向かっていると言えるでしょうか。

 

 マムダニ新市長に関する記事はこちら↓

https://www.huffingtonpost.jp/entry/story_jp_690944d9e4b0ca0a98d45516?origin=home-editors-choice-unit

 

今、ここで

先週は、集会祭儀司会者養成講座の2回目が大名町教会で開催され、参加しました。

今回はレナト神父様による、「みことばの食卓」と題された講義でした。

実に、神の言葉は生きていて、力があり、どんな両刃の剣よりも鋭く、魂と霊の、また、関節と骨髄の分かれ目まで指し通し、心の思いや考えを見分けることができます。
(ヘブライ4・12)

この聖句にある通り、福音書(聖書)は読み物ではなく『みことば』であることを意識しなければならない、とお話がありました。

わたしたちが祈るときには神に語りかけているように、読むときには神が自分に語りかけておられるのだ、と。

聖書朗読とは携帯を持ち歩くようにみことばに同伴されるもの、つまり自分の置かれている生活の中で実践するようにみことばが日常に結びつかなければならない、ともおっしゃいました。

みことばを日常生活で実践する、とはどういうことなのか、考えてみました。

ラテン語「ヒック エット ヌンク」(hic et nunc)という言葉をご存じでしょうか。

直訳すると「ここで、今」(here and now)という意味です。

過去は変えられないし、未来はまだ先のことです。
今ここに集中すること、を意味しているそうです。

どうすることもできない過去を悔やみ、どうなるのか今は分からない未来に怯えるのがわたしたち人間。

人は「今ここ」を疎かにしがちではないでしょうか。

今日わたしが命じるこれらの言葉を心に留め子供たちに繰り返し教え、家に座っているときも道を歩くときも、寝ているときも起きているときも、これを語り聞かせなさい。
(申命記6・6~7)

将来、あなたの子が、「我々の神、主が命じられたこれらの定めと掟と法は何のためですか」と尋ねるときには、あなたの子にこう答えなさい。
「我々はエジプトでファラオの奴隷であったが、主は力ある御手をもって我々をエジプトから導き出された。
主は我々の目の前で、エジプトとファラオとその宮廷全体に対して大きな恐ろしいしるしと奇跡を行い、
我々をそこから導き出し、我々の先祖に誓われたこの土地に導き入れ、それを我々に与えられた。
主は我々にこれらの掟をすべて行うように命じ、我々の神、主を畏れるようにし、今日あるように、常に幸いに生きるようにしてくださった。
我々が命じられたとおり、我々の神、主の御前で、この戒めをすべて忠実に行うよう注意するならば、我々は報いを受ける。」
(申命記6・20~25)

旧約の神は、「乳と蜜の流れる土地で大いに増える」と民に約束されました。

その条件は、エジプトから導き出された主を忘れず、主を試すようなことはせず、主の目にかなう正しいことを行い、常に幸せに生きることでした。

それは「約束の地」という文字通りの土地を所有できる権利ではなかったはずです。
与えられた土地で彼らがどう生きるのかを見ておられたのです。

「今日命じることを心に留める」「今日あるように幸せに生きる」、これが神様がわたしたち(イスラエルの民だけでなく)に教えてくださった生き方そのものなのです。

「今日」という日が過ぎ去らないうちに、毎日、互いに励まし合いなさい。
「今日、もし、あなたがたが神の声を聞くなら、心を頑なにしてはならない、神に背いた時のように」
(べブライ3・13、15、詩編95・7〜8)

「今日」「今ここ」は、神様が私たちに語りかけるあらゆる全ての瞬間のことです。

みことばを日々の生活の中で実践する、つまり「今、ここで」、今生きている瞬間を疎かにしない生き方が神様がわたしたちに求められていることなのではないでしょうか。

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大分教会と別府教会への巡礼に、久留米からバス2台で行ってきました。

大分教区の森山司教様は、司祭時代の最後の司牧教会である久留米の信徒からとても愛されています。

司教様と3人の司祭によるごミサは、わたしたちがどれほど恵まれ愛された信徒であるかを思い起こさせるものでした。