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平和の本質
ミラノオリンピックでの選手たちの躍動に、連日胸が踊ります。
開会式では、俳優で国連平和大使のシャリーズ・セロンさんがスピーチをされました。
「平和とは、単に争いがない状態を指すのではありません。
平和とは、人種、肌の色、信条、宗教、性別、階級、カースト、あるいはその他いかなる社会的な違いに関わらず、すべての人が繁栄できる環境を築くことです。
今日、このメッセージはこれまで以上に重要な意味を持っているように思えます。
ですから、これらの大会が単なるスポーツの祭典以上のものでありますように。
それが私たちに共通する人間性を思い起こさせ、互いへの敬意を確認し、そして世界中に響き渡る平和への力強い呼びかけとなりますように。」
ネルソン・マンデラの言葉を引用しつつ「平和の重要性」を強調し、戦争や争いのない世界をつくること=平和の本質を理解することが大切だと訴えました。
アメリカのテキサスからワシントンまでの3700キロの道のりを、徒歩で平和を訴えているベトナムの僧侶たちの「ウォーク・フォー・ピース(Walk for Peace)」という活動が話題になっています。
道中は、キリスト教の教会や大学のキャンパスなどで宿泊しながら、各地の人々に温かく見守られ、声援を受けているようです。
「これは抗議活動ではない。憎しみを捨て、自分自身の心の平和を探し続けよう」とおっしゃっていました。
平和の本質は、根本的には日常生活の中にこそ確率されるべきものでしょう。
先日、友人が「月刊誌・福音宣教に考えさせられる記事があった」と教えてくれました。
それは、旧約聖書の創世記33章にある、エサウとヤコブの兄弟の争いと和解のくだりに関するものです。
ヤコブが目を上げると、エサウが四百人の者を引き連れて来るのが見えた。(1)
ヤコブはそれから、先頭に進み出て、兄のもとに着くまでに七度地にひれ伏した。(3)
エサウは走って来てヤコブを迎え、抱き締め、首を抱えて口づけし、共に泣いた。(4)
ヤコブは言った。「いいえ。もし御好意をいただけるのであれば、どうぞ贈り物をお受け取りください。
兄上のお顔は、わたしには神の御顔のように見えます。このわたしを温かく迎えてくださったのですから。
どうか、持参しました贈り物をお納めください。
神がわたしに恵みをお与えになったので、わたしは何でも持っていますから。」
ヤコブがしきりに勧めたので、エサウは受け取った。(10~11)
この兄弟の争い、わたしがエサウならヤコブのことを一生赦すことはできないと思ってしまいます。
福音宣教の記事(聖書学者の魯 恩碩(ロ・ウンソク)氏)では、10節の「兄上のお顔は神の御顔のように見えます」という表現は、和解の始まりの瞬間に敵の顔の中に「神の似姿」が見えたのだ、と解説されています。
そして、その後の聖書には、エサウがヤコブに「一緒に行こう」と言いますがヤコブは断る、という驚きの展開が続きます。
和解した兄弟は、元の仲の良い双子の関係に戻ったのではなく、互いに別の道を歩むことで次のステップ=それぞれの平和を実現するのです。
ジェームス・ティソ「エサウとヤコブの再会」
教皇レオ14世は、アッシジの聖フランシスコ没後800年にあたって、次のように述べておられます。
平和が神のすべての善の総和であり、いと高きかたから降るたまものだということです。
人間の力だけで平和を築けると考えることは、なんという幻想でしょうか。
平和は日々、受け入れ、生きるべき、積極的なたまものです。
https://www.cbcj.catholic.jp/2026/01/20/36321/
平和の本質について、わかりやすく、簡潔に心に訴えかけられるお言葉です。
「日々受け入れて生きる賜物」
わたしたち一人ひとりが平和を生きなければならないのです。
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ニューヨークのJewish museumで買ったこの画集、旧約聖書の物語を絵にしたジェームス・ティソの一連の作品集です。
旧約を振り返るときに見返す、わたしの宝物です。
僧侶たちのWalk for Peaceについては↓こちら
https://www.jiji.com/jc/article?k=20260205048466a&g=afp
見送りのしきたり
大好きな大相撲が中日を迎えました。
国技である相撲には、さまざまなしきたりがあります。
番付によって、ある意味の格差が設けられています。
たとえば、土俵下で次の取り組みまで座って待っている力士は、それぞれの四股名が書かれたマイ座布団に座ります。
ですが、これは幕内力士にだけ許されたものであり、幕下以下は座布団は使えません。
また、土俵で取り組みを仕切る行司にも階級があり、幕下以下は素足、十両以上になると足袋を履いて、三役以上は草履を履くことが許されます。
今週、二人の友人のお父様が同じ日に亡くなられました。
「亡くなる」という言い方をしたのは、キリスト教の信者ではないからです。
「帰天」されたのよ、と友人を励ますために言うこともできたかもしれません。
「永眠」「逝去」「他界」といった表現が一般的です。
キリスト教では、神に与えられた命が神の御手に戻ることが死であると考え、「帰天」と表現しています。
人生の終わりが死ではなく、神のもとへ帰るという永遠の命の信仰があるからです。
仏式の葬儀では、お経が長い時間読まれます。
故人を偲び、遺族が心を整える時間をつくる役割があるそうです。
亡くなった方が迷わずに成仏できるように、故人の魂を安心させるためだけでなく、遺族や参列者の心を落ち着かせるために、低い調子で静かに読まれるのだ、ということです。
教会の葬儀では、聖書朗読と聖歌を歌い、ミサを捧げます。
あくまでも「帰天」を祝福する時間であり、悲しみを表現する(仏式の弔辞のような)ことは強調されません。
塵は元の大地に帰り、霊は与え主である神に帰る。
(コヘレト12・7)
わたしの言葉を聞いて、父が死者を復活させて、命をお与えになるように、子もまた自分が望む者に、命を与えるからである。
父は誰をも裁かず、すべての裁きを子に委ねられた。
すべての人が、父を敬うように、子をも敬うようになるためである。
子を敬わない者は、子をお遣わしになった父をも敬わない。
よくよくあなた方に言っておく。
わたしの言葉を聞いて、わたしをお遣わしになった方を信じる者は、永遠の命を持っており、裁かれることなく、すでに死から命に移っている。
よくよくあなた方に言っておく。
死者が神の子の声を聞く時が来る。
いや、今がその時である。
その声を聞いた者は生きる。
父はご自分のうちに命をもっておられるように、子にも自分の内に命をもつようになさったからである。
(ヨハネ5・21~26)
友人の自宅に、葬儀前にお線香をあげに伺いました。
我が家と同じく彼女も3姉妹で、わたしも含めた4人でお父様の御遺体の前で賑やかに思い出話しで盛り上がりました。
葬儀会社の方が御棺のお顔の部分の蓋を閉じようとしたとき、3人揃って「開けておいてください。」「わたしのときも閉めないでね!」と姉妹で言い合ったりもして。
賑やかなお見送りに、「父がそのへんにまだいて、うるさいなぁって言ってる気がする」と笑い合いました。
文字通り、「天寿を全う」されたお父様でしたので、悲しみに沈むことなく明るく「帰天」を見送ることができました。
悲しみに打ちひしがれるお見送りもありますが(わたしは母の葬儀ミサの間、ずっと泣いていましたし、、、)、故人がどのように見送ってもらいたいか、も大切にしたいと思うのです。
教皇レオ14世は、今年1月1日にスイス南部、クラン・モンタナで起きた火災の犠牲者の遺族らとお会いになった際に、このようにお話になりました。
「キリストの愛から、そして苦しまれている皆さんの愛する方々、亡くなられた愛する方々から、皆さんを引き離すものは何もありません(参照 ローマ8,35)。
わたしたちの内に宿る信仰は、人生で最も暗く、最も苦しい瞬間を、かけがえのない光で照らし、勇気をもって目的地に向かって歩み続ける力を与えてくれます」
同じ日に帰天された友人2人のお父様の安息を祈りながら、友人家族の1日も早い心の平安を願う、これが、わたしなりのしきたりです。
朝日に照らされて壁に映り込む十字架とステンドグラスの風景が大好きです。
続くことの意味
箱根駅伝、今年も素晴らしかったですね!
お正月の楽しみのひとつですが、近年はわたしの母校の選手も頑張っているので、箱根には余計に力が入ります。
「なぜ、このチームだけが、人がどれだけ入れ替わっても勝ち続けられるのか?」
青山学院大学の原監督は、この質問に次のようにお答えになっています。
「人が入れ替わっても勝ち続けられる組織であるために、日常生活を徹底的に見直したことが現在の成果につながっている」
夫婦で部員たちと寮に住みこみ、練習だけでなく生活も共にされていることは有名ですが、大切にされているのは日々の生活だということのようです。
「なぜキリスト教(カトリック)は2000年以上も受け継がれてきたのか」
そう質問されて、自信を持って答えられるでしょうか。
先に起こったことを、思い起こしてはならない。
以前のことを、思い巡らしてはならない。
見よ、わたしは新しいことを行う。
今にもそれが芽生えているのを、お前たちは知らないのか。
わたしはまさに荒れ野に道を、荒れ地に川を設ける。
(イザヤ43・18~19)
大学の部活は、4年で卒業する生徒(才能)を入れ替えながらも、指導(伝統)の賜物で成果を出し続けています。
*箱根駅伝は、毎年だいたい同じ学校の名前が並びますね。
教会は、帰天される方、受洗される方が毎年おられますが、数年でメンバーが全て入れ替わるなんてことはありません。
日本のカトリック信者が増加している、とは言えない現実を直視しつつも、基盤となる教えに加え、その教会(司祭・信徒)なりの導きの賜物の成果として、新しい奉仕者が少しづつ出てきているのを感じています。
*そのことに気づかない教会も多いのではないでしょうか。
聖霊の賜物による、ある種の召し出しなしでは、教会共同体がこれからも続くことはありません。
新年にNHKで放送されていた、菊池枢機卿と若松英輔さんの対談を観ました。
その中で、菊池枢機卿のいくつかのお話が大変印象に残っています。
*現代社会において、それは夢物語だと言われようとしても自分の信念・確信を持つことの大切さ
*「答え」をすぐに求めたがるのが現代の人々だ。宗教にもそれを求めている。
宗教は方向性を示すことはできるが、その道を生きるのはその人なのだ。
母の胎にいた時からわたしに担われてきた者たち、
腹にいた時からわたしに背負われてきた者たちよ。
お前が老いるまで、わたしはその者である。
白髪になるまで、わたしは担う。
わたしは造り、わたしは背負う。
わたしは担い、わたしは救う。
(イザヤ46・3~4)
主なる神は、教えを受ける者の舌をわたしに与えてくださった。
疲れた者を言葉をもって支えることを知るために。
主は朝ごとに呼び覚まし、
わたしの耳を呼び覚まし、
教えを受ける者のように聞くようにしてくださった。
主なる神は、わたしの耳を開いてくださった。
わたしは逆らわず、背を向けて退くことはなかった。
(イザヤ50・4~5)
宗教が続いてきたこと、これからも続いていくこと、の意味はここにある気がします。
*聖霊に導かれて生きる、という自分の信念を確認して確信にすること
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2025年、聖年の扉が閉じられました。
教皇フランシスコは、聖年の開始を告げる大勅書「希望は欺かない」の冒頭でこう述べられています。
「すべての人は希望を抱きます。
明日は何が起こるか分からないとはいえ、希望は良いものへの願望と期待として、ひとり一人の心の中に宿っています」
わたしたち一人ひとりの中に希望が絶えずあり続けること、キリスト教がこれからも続き、人々の指針であるために大事なことではないでしょうか。
賢く、素直に
素直じゃないなぁ、、、と思ってしまうこと、ありませんか?
そういうことに惑わされて、負の感情に陥ることなく自分の心を守るためには、善悪を見分ける賢さが必要です。
守るべきものすべてにも増してあなたの心を保て。
命はそこから来る。
(箴言4・23)
「ところで、あなたたちはどう思うか。ある人に息子が二人いたが、彼は兄のところへ行き、『子よ、今日、ぶどう園へ行って働きなさい』と言った。
兄は『いやです』と答えたが、後で考え直して出かけた。
弟のところへも行って、同じことを言うと、弟は『お父さん、承知しました』と答えたが、出かけなかった。
この二人のうち、どちらが父親の望みどおりにしたか。」彼らが「兄の方です」と言うと、イエスは言われた。
「はっきり言っておく。徴税人や娼婦たちの方が、あなたたちより先に神の国に入るだろう。
なぜなら、ヨハネが来て義の道を示したのに、あなたたちは彼を信ぜず、徴税人や娼婦たちは信じたからだ。
あなたたちはそれを見ても、後で考え直して彼を信じようとしなかった。」
(マタイ21・28~32)
イエス様は、誰にでもわかるように、日常生活を喩えにして教えられました。
このマタイにある喩え話も、現代のわたしたちにもとても納得できる、「よくあること」ではないでしょうか。
ひねくれた人、返事は良い人、周りにもいます。
同じように、素直だと思っていた人が、心の中では全く逆の感情を持っていることが分かることも。
ある信徒の方から相談を受けました。
終活として、家の中のものを整理されているようで、「長年、全力をかけて」集めてきた本をどこかに寄贈したいので、考えて欲しい、とのことでした。
おそらく、よく知らない方々からは、「偏屈な風変わりな頑固者」だと思われている方です。
見た目も結構アレですし、、、、。
わたしは、その方が洗礼を受ける前から共に聖書の勉強会に参加していて、洗礼を受けることになる流れなども色々と知っていますし、一緒にイスラエル巡礼にも行きました。
「嫌です」、と答えたなら絶対に行かないタイプの方です。
「離れて暮らす娘がカトリック教会に行っていると聞いたので、どういう教えなのかを自分で確かめたいから」、と教会に通うようになり、聖書を勉強したという素直な方です。
随分年上の方ですが、わたしは信徒友だちだと思っています。
以前、わたしがここに書いた記事の内容に反論するような意見を言ってきた方がいました。
わたしはとても落ち込み、素直に「そういう考えもあるのだ」とは受け止められずに、うじうじと悩みの日々を過ごしたことがあります。
その時、その素直な信徒友だちのおじさまにどう思うか意見を聞いて、いろいろとやり取りをして、思慮深くよく考えてアドバイスをくださったことを思い出します。
わたしが数年前に初めてミサの先唱をした時も、「きれいな声で司会をされていて驚きました。とても素敵で、聡明で、ミサが楽しいひと時でした」と素直な感想メールをくれました。
絶対そんな素敵なメールをくれるような風貌ではないので、この話をしたら皆さん驚いていました。
あなたがたは蛇のように賢く、鳩のように素直になりなさい。
(マタイ10・16)
「賢く」と訳されている語は、原文のギリシャ語では「分別のある、思慮深い、賢明な」などの意味をもつ言葉です。
「蛇のように賢い」ことと、「鳩のように素直である」こと。
どちらか一方だけではなく、その両方が必要なのだとイエス様が教えてくださいます。
わたしの日々の生活に欠かせないのは、音楽。
心の底から素直に喜びを感じることができます。
先日バチカンで教皇様主催で開催された、マイケル・ブーブレのコンサート。
美しい歌声を、教皇様も多くの信徒と共に楽しまれていました。
良い降誕祭をお迎えください。
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みこころレター第16号を発行しました。
事情があり教会に来ることのできない信徒、カトリックに関心をお持ちのお知り合いなどにもお渡しください。
罪と罰
先日、洗礼を受けて間もない方に、「もうすぐ待降節ですから、初めての告解をしてみてください」とお伝えしたら、「どのような罪が告解に値するのかわかりません」とおっしゃいました。
告解するのは犯罪ではなく、日常生活で「あの時の自分は間違っていた」などといった『自分の罪』と感じたことでいいのですよ、とお答えしました。
それ以来、罪と赦しについて考えていました。
数日後、たまたま目にした新聞で、「死刑になる罪 国ごとに違う」という記事を読みました。
国際人権団体によると、2024年度に世界で施行された死刑の内、4割が薬物犯罪関連だったそうです。
そして、何を犯罪とするかは、その国の価値観を反映しているのです。
「現在の刑事司法制度は、国が加害者にどんな罰を科すか、という考え方=『応報的司法』が中心です。
しかし、わたしは被害の修復=『修復的司法』こそ必要だと考えています。
薬物犯罪には明確な被害者はいません。ではいったい誰のための死刑なのか。
国の秩序や体制の維持、つまりは為政者のためです。」
と、早稲田大学の高橋名誉教授が書いておられました。
『修復的司法』の例として、オーストラリア・ドイツ・カナダ・イタリアで制度化されている、被害者や加害者、両家の家族や友人らが集まって解決策を話し合う、「家族集団会議」という制度が紹介されていました。
見よ、主の手が短すぎて救えないのではない。
その耳が遠すぎて聞こえないのではない。
お前たちと神との間を隔てたのは、まさにお前たちの悪行、み顔を隠させ、聞かれなくしたのは、お前たちの罪なのだ。
まことに、お前たちの手は血で、指は悪行で汚れ、唇は偽りを語り、舌は邪なことを発する。
正しく訴える者もなければ、信じるに足る弁護をする者もなく、空虚なものに頼り、むなしい言葉を語り、労苦を孕み、不正を産む。
(イザヤ59・1~4)
わたしは自分の罪をあなたに告げ、罪咎を隠しませんでした。
わたしは言いました、
「いと高き方よ、ありのままに申します、主よ、わたしの咎を」。
そのとき、あなたはわたしの罪と咎を赦してくださいました。
(詩編32・5)
自分の過ちを隠す者が栄えることはない、
それを言い表して、それと手を切る人は憐れみを受ける。
(箴言28・13)
数年前に観た映画、「対峙」(原題:Mass)を思い出し、もう一度観てみました。
アメリカの高校での銃乱射事件後、加害者と被害者の両親が6年後に教会の一室で対話する様子を描いた作品です。
先ほど紹介した、「集団家族会議」の制度を利用したのです。
事件によって息子を失った両親、そして自殺した犯人の少年の両親が互いに向き合い、深い悲しみ、喪失を共有し、赦しに挑みます。
全編を通し、教会の談話室のような一室だけ、登場人物も(冒頭に教会の職員とコーディネーターが部屋を準備するために登場する以外は)二組の夫婦だけです。
最初は冷静だった被害者の両親は、加害者の両親を責め立てていきます。
観ているこちらまで、息が詰まるような苦しみを錯覚します。
そして次第に、加害者の両親も大切な息子を失った悲しみを抱え、喪失感、罪悪感だけでなく、世間からの非難にも苦しんでいることを理解し始めます。
とても重い内容の映画ですが、テーマは「赦し」と「和解」です。
「あなた方が残りの人生を苦しみのまま過ごす罰を与えたかった
でも、このままでは生きられない
わたしは心からお二人を赦します、そして、彼を赦します」
ラストシーンで教会から聞こえてくる聖歌隊の歌う聖歌の歌詞に、思わず涙がこぼれます。
わたし自身、告解すべきことがあり、心に棘として突き刺さっています。
近いうちに。
この↓noteの記事が、映画についてとてもよく伝わってきます。
https://note.com/kazuya2511/n/n446ce019c403
生きる者のための祈り
11/2死者の日が主日と重なりました。
宮﨑神父様がおっしゃった、「今日は自分の死について考える日でもあります」というお言葉が心にこだましています。
死者の月、自分を大切にしてくれていた方々のために祈るよう推奨されますが、今年はいつもと少し違う気持ちです。
11月になると、アウグスティヌスの「告白」のこの個所を読み返します。
おそらく、以前記事にしたことがあるのですが、それは母モニカの死に際の箇所です。
「わが子よ、私はといえば、この世の中にもう自分をよろこばせるものは何もない。
この世でまだ何をすべきか、何のためにこの世にいなければならないか、知らない。
この世ののぞみはもう十分にはたしてしまったのですもの。
この世にまだしばらく生きていたいとのぞんでいた一つのことがありました、それは死ぬ前に、カトリックのキリスト者になったおまえを見たいということだった。
神さまはこの願いを十分にかなえてくださった。
おまえが地上の幸福をすてて、神さまのしもべとなったすがたまで私は見たのだもの。
もうこの世の中で何をすることがありましょう。」
(「告白」第9巻第10章)
「このからだはどこにでも好きなところに葬っておくれ。
そんなことに心をわずらわさないでおくれ。
ただ一つ、お願いがある。
どこにいようとも、主の祭壇のもとで私を想い出しておくれ。」
(「告白」第9巻第11章)
この場面には、いつも胸が熱くなります。
「告白」を初めて読んだのは、10数年前だったと思います。
当時、母を亡くし、日々の暮らしや会社のことで途方に暮れていたわたしは、母の死について神様が与えられた意味を模索していました。
そしてしばらくして、モニカのように、自分たちの死について妹たちと話すようになりました。
決して悲観的な意味合いからではなく、モニカと同じ気持ちだということをお互いに語り合いました。
父とわたしたち3姉妹は、いつも天国の母に心配をかけるような人生です。
でも、本当に聞こえるのです、母がどっしり構えてこう言っているのを。
「神様のお導きを信じなさい、大丈夫だから」
人は常に死者を心にとめ、自らの関心と気遣いと愛情を通して、彼らにいわば第二のいのちを与えようと努めます。
わたしたちはある意味で彼らの人生経験を残そうと努めます。
そして、わたしたちは逆説的にも、彼らがどう生き、何を愛し、何を恐れ、何を望み、何を憎んだかを、まさに墓地に集まって彼らを記念するときに見いだします。
墓地を訪れて、亡くなった愛する人々のために愛情と愛をこめて祈るとき、永遠のいのちへの信仰を勇気と力をもって更新するよう招かれます。
そればかりか、この偉大な希望をもって生き、世にこの偉大な希望をあかしするよう招かれます。
これは、故ベネディクト16世のお説教でのお言葉の一部です。
モニカを亡き父の傍らに葬りたいと考えていたアウグスティヌスの気持ちは、母のためというよりも、「そうしてあげたい」という息子の愛の気持ちでした。
そして彼は、母の死に際して、彼女の生き方や愛、希望などについて思いを馳せる機会を与えられたのです。
死者のために祈ることは、生きる者のために祈っていることなのだ、と感じています。
死者の月にいつも以上に自分の死について考えています。
そして、それはすなわち、生かされている今をいかに大切にするか、ということだと痛感するのです。
本音の信仰
宮﨑神父様はよくお説教で、「行いの伴わない信仰」について喝を入れてくださいます。
『本音と建て前』を使い分けて隣人と関わっていないか、今一度よく考えてみなさい、と先日お話されました。
誰にでも「苦手な人」がいるかと思います。
以前、意見の食い違いがあり、わたしが一方的に嫌な気持ちになった人がいました。
それ以来、苦手な人だわと思っていた方と先日お会いする機会があったのですが、会ってすぐに「義足の調子が悪いですか?歩き方が前よりも悪くなっていませんか?」と声をかけてくださったのです。
あなたが馬鹿にされるとき、それは風となるのです。
あなたが怒るとき、それは波となるのです、
だから風が吹き、波が高まるとき、舟は危険に陥り、あなたの心は危険にさらされ、あなたの心は行ったり来たり激しく揺さぶられるのです。
馬鹿にされると、あなたは仕返しをしたいと思います。
しかし復讐は、難破という別の種類の災難をもたらします。
なぜでしょうか。
なぜなら、キリストはあなたの内で眠ったままだからです。
私は、あなたがキリストを忘れているということを言っているのです。
だから、キリストを目覚めさせなさい。キリストを思い出しなさい。
キリストをあなたの内に目覚めさせなさい。
キリストを心に留めなさい。
この方は一体どなたですか。風や波さえも彼に従うそのお方とは。
(アウグスティヌス『説教』より)
偶然、読んでいた本でこの箇所が目に留まりました。
(先週のyoutubeのビデオもそうですが、いつもこうして求めているものが与えられるのです!)
声をかけてくださったこともですし、わたしの足のことを以前から気にかけてくださっていたこと、その変化に気づいてくださったこと、とても嬉しかったのです。
建て前で信徒としてのお付き合いをしていくのは嫌でしたので、帰り際に話しかけて、いろいろとお話してみました。
いまさらながら(当然のことだったのですが)、わたしは馬鹿にされていたわけではないと分かり恥ずかしくなりました。
「言葉は、あなたの近くにあり、あなたの口、あなたの心にある」。
これは、わたしたちが宣べ伝えている信仰を生み出す言葉です。
口で、イエスは主であると宣言し、心で、神はイエスを死者の中から復活させたことを信じるなら、あなたは救われるからです。
人は心で信じることによって義とされ、口で宣言することによって救われるのです。
(ローマの信徒への手紙10・8~10)
キリスト者であると自負し、毎週主日のミサに与っていたとしても、言葉と生き方に信仰が現れていないことが往々にしてあるのではないでしょうか。
言葉や行動に信仰がついていかない場合もあります。
クリスチャンらしい振る舞いはできても、心がそこに伴わないのです。
ミサ中に「主の平和」と笑顔で周囲とあいさつを交わすとき、本音で本心からそうしていますか?
福音書朗読の際に額・口・胸で十字をきるとき、頭と言動で福音書を賛美することは本音ですか?
「わが愛する子らよ、わたしは主においてあなたがたに挨拶を送る。
わたしは主に祈り求める。
主があなたがたをすべての災いから守ってくださるように。
主が、ヨブのような忍耐と、ヨセフのような恵みと、モーセのような優しさと、ヌンの子ヨシュアのような戦いにおける勇気と、士師たちのような優れた知識と、ダビデ王とソロモン王のような敵を屈服させる力と、イスラエルの民のような地に実りをもたらす力を、あなたがたに与えてくださるように。
主が、手足の萎えた体をいやしてくださったように、あなたがたのすべての罪をゆるしてくださるように。
主が、ペトロにしたようにあなたがたを荒波から助け、パウロや使徒たちにしたようにあなたがたを苦難から救い出してくださるように。
主があなたがたを、主のまことの子として、すべての災いから守ってくださるように。
そして、そのみ名によって、魂と体の益となるために、あなたがたが心から求めるものを与えてくださるように。アーメン」
ガザのバルサヌフィオス(パレスチナのバルサヌフィオスとも表記される)は6世紀に生きた隠者で、ガザの修道院の院長でした。
識別の知恵に優れていたので、修道士や聖職者、信徒が教えを乞うために訪れました。
上記の祈りは、ある一人の修道士が自分と仲間のために祈ってくれるように、バルサヌフィオスに願った際の答えです。
人のためにこのような気持ちで祈ることができるか、立ち止まって考えさせられる祈りのことばです。
守護天使
秋は一番好きな季節です。
この季節は窓を開けて、朝の澄んだ、ひんやりした空気を吸い込むと、それだけで「今日はいい日になる」気がします。
ここで何度か引用したことのある本、メアリー・ヒーリー「マルコによる福音書」の解説を翻訳したのは、東京大司教区の田中 昇神父様です。
その田中神父様は、日本で唯一のエクソシストです。
悪魔による憑依現象は現代ではほとんどが精神疾患とされていますが、それでもカトリック教会は人や場所への悪魔の憑依を認めています。
エクソシズムは、悪霊に取り憑かれた人、ないし悪霊の誘いを受けている人が、神の絶対的な支配を認め、信仰を荘厳に宣言するものであり、本来的には悪魔に誘惑されている人の心と身体、その人の全体を神に向け直すことを教会が助けることによって救いをもたらすものであると言えるのです。
(「エクソシストは語る-エクソシズムの真実」田中 昇神父 著より)
旧約聖書には、悪魔憑きのエピソードはありません。
その存在を感じさせるものは登場しますが、悪霊に憑かれた人や病気の原因が悪魔や悪霊のせいにされている例は描かれていないのです。
悪魔のねたみによって死がこの世に入り、悪魔の仲間に属する者が死を味わうのである。
(知恵の書2・24)
一方、新約聖書には、イエスが悪魔や悪霊を人から追い払うシーンが数多くあります。
ナザレのイエス、かまわないでくれ。
我々を滅ぼしに来たのか。
正体はわかっている。神の聖者だ。
(マルコ1・24)
イエス様が地上にやってきた以上は、この世はすでに神の支配が始まっていることを悪霊は理解していました。
イエス様を神だと認識しているのです。
弟子たちは当時、イエス様のことをまだよく理解していなかったのに、悪霊・悪魔のほうがイエス様の存在を恐れて命令に従っています。
田中神父様は本のなかで、「彼らはもともと神に近い存在、天使であったから」だと書いています。
悪魔ももともとは神が創った天使でした。
天使の本来の役割は、神への賛美と奉仕です。
しかし、あるときから高慢と嫉妬のために神に反逆する天使たちが現れました。
彼らは神に罰せられ、天界を追放されます。
その追放された天使たち、すなわち堕天使たちが悪魔や悪霊だとされています。
神は被造物である天使にも堕落し神に反逆する自由意志をあたえているのです。
(173頁)
バビロン捕囚期以後に、異国からの宗教感覚がユダヤ教徒に浸透していく中で、悪魔とその働きが信じられるようになっていったようです。
そして、イエス様が活動していた時代には、多民族からもたらされた悪霊に対抗する必要がある、とユダヤ民族は信じていたのです。
悪魔は、暴力によって人を傷つけるのではなく、人を欺き、そそのかして理性を狂わせ、神の愛と真理から遠ざけて破滅に向かわせるように誘惑する者のことです。
洗礼を受けたわたしたちは、キリストとともに悪魔に打ち勝った(1ヨハネ2・13)のですが、自らの不信仰・不従順によって悪魔に罪へと誘われないよう、いつも心がけておかなければなりません。
あなたが主を逃れ場とし、いと高き方を隠れ所とするなら、不幸はあなたに臨まず、災いはあなたの天幕に近づかない。
主の羽があなたを覆い、あなたはその翼のもとに逃れる。
主はみ使いたちに命じ、あなたの進むすべての道であなたを守らせる。
あなたの足が石につまづかないように、彼らは手であなたを支える。
(詩編91・4,9~12)
田中神父様は、神を信じているからこそ悪魔の存在も信じることができる、おっしゃっています。
わたしは、悪魔の誘惑を感じたことはありますが、天使の存在を感じたことはありませんでした。
みなさんはご自分の守護聖人をお持ちですか?
ザビエルがキリスト教布教の許可を得たのが1549年9月29日。
この日は聖ミカエルの祝日だったことから、ザビエルは大天使ミカエルを日本の守護聖人にしたそうです。
(そのザビエルを、日本は自分たちの守護聖人としたのです)
余談ですが、妹の洗礼名はミカエルで、結婚した相手(アメリカ人)はマイケルという名前です。
わたしは特別に守護聖人を意識したことはないのですが、先月末からのいくつかの心配事が立て続けに2つ解決に向かってきたのは、天使の守護があるのではないか、と感じているところです。
日々の祈り、神様と母の導きのお恵みだけでなく、聖霊が道を示し、わたしの周りを天使が守ってくれているような感覚があるのです。
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この本はタイトルがどうも引っかかっていて、(失礼ながら、出版社の売るため戦略に感じられて、、、)ずっとAmazonのカートに入れっぱなしでした。
ですが、やはり気になって購入して読んでみて良かった!
第1部は田中神父様のエクソシストとしての活動やエクソシズム、悪魔について、第2部としてご自身の召命と神学校時代、ローマ留学時代について、現在のキリスト教の問題点についてじっくりと書かれています。
読書の秋にお薦めの一冊です。
信仰は希望
めずらしく、気持ちの落ち込みと不安に覆われてしまっていた1週間でした。
月曜日に一つ目の心配事
水曜日に二つ目の心配事
金曜日にそれらがさらに悪化
人にアドバイスするときには、「心配してもしょうがないから、神様のお導きを信じて!」などと立派な声掛けをしているわたしですが、まれにかなり深みにハマって這い上がれないこともあります。
20代初めの頃、人生の方向性を模索して悩んでいた時、いつもこの聖句を心に留めていました。
だから、あなた方も用意していなさい。
思わぬ時に、人の子は来るからである。
(マタイ24・42)
だから、目を覚ましていなさい。
あなた方はその日、その時を知らないからである。
(マタイ25・13)
聖書をちゃんと学んでいなかったので、本来の意味するところを理解してはいなかったのですが、このみ言葉は当時のわたしにとって「いつか、きっと必ず神様が道を示してくださるから、自分にできる努力をしながら待ちなさい」という意味だと勝手に解釈していました。
そして、それは今でも変わらない気持ちです。
今わたしが抱えている不安は、祈り続ければ神様が解決してくださる、というようなことではありません。
わたしの人生に与えられた試練です。
「与えられた」というと神様の計らいのようですが、そして、「試練」というと神様に試されているようですが、こうした苦難はわたしたちが人生を歩むにあたって必要なことなのです。
痛みや苦しみ悲しみなどと対峙しながら人生を積み重ねる。
乗り越えられなくとも、その経験が人格を形成していく。
そして、日曜日に教会に行って、色々な方と言葉を交わし、担っている役割をいくつか実行し、 そうして神様からのメッセージを受け取りました。
兄弟のみなさん、わたしたちは、どんなに窮乏し、苦難の中にあっても、あなた方のお陰で励まされています。
あなた方の信仰のお陰です。
あなた方が主に結ばれてしっかりと立っているかぎり、わたしたちは、今、まさに生きていると実感するからです。
(1テサロニケ3・7〜8)
知っていたこと、わかっていたこと、つまり、神様は乗り越えられない試練は与えられないということ・そのために進むべき道をも同時に与えてくださるのだということを、日曜日に教会に行って思い出しました。
キリスト教でなくても、信仰という希望を持てることは最大の救いです。
月曜日から金曜日まで心配事に襲われても、日曜日には光を与えてくださる。
いつも、本当に不思議なのです。
日曜日に教会でいつもの席に座って祈り始めた途端に、神様と母がわたしに近づいてきてくれるのです。
毎週、わたしの横に座ってくれるのを感じるのです。
レオ14世教皇は、前教皇よりも説教の言い回しが少し難しく感じられますが、今回のこのお話は、今のわたしにとても深く刺さりました。
わたしたちも、御父のいつくしみ深いみ旨に身をゆだね、自分の人生を、与えられた善いものヘの答えとしていただけることを学ぼうではありませんか。
人生において、すべてをコントロールする必要はありません。
日々、自由をもって愛することを選択するだけで十分です。
試練の暗闇の中でも、神の愛がわたしたちを支え、永遠のいのちの実をわたしたちのうちで育ててくださっていることを知ること――これこそがまことの希望です。
教皇レオ十四世 2025年8月27日一般謁見演説より
応援する姿
15日のマリア様の被昇天の祝日、今年最後(希望)の40℃に迫る酷暑の朝でした。
この季節は、甲子園球児たちを応援するのが楽しみの一つです。
プロ野球も好きですが、大人の利害やスポンサーといったものがなく、純粋に野球に打ち込む彼らの姿は、本当に清々しくて気持ちの良いものです。
毎年、わたしがテレビで見て応援しているのは、グランドの選手だけでなく、スタンドで応援しているユニフォームを着た選手たちです。
スタメンに入れず、それでも満面の笑みを浮かべて全身全霊で応援歌を歌い踊る彼ら。
汗だく・泥だらけになってプレーする選手たちと同じように、彼らもまた、甲子園の舞台で精一杯に躍動しているのです。
さて、彼らは、ひたすら使徒たちの教えを守り、兄弟的交わり、パンを裂くこと、祈りに専念していた。
信じる人たちはみな一つになり、すべての物を共有にし、財産や持ち物を売り、それぞれの必要に応じて、みなにそれを分配していた。
また、日々、心を一つにして、絶えず神殿に参り、家ではパンを裂き、喜びと真心をもって食事をともにし、神を賛美していた。
彼らは民全体から好意を得ていた。
こうして、主は日々、救われる人々を仲間に加えてくださった。
(使徒言行録2・42〜47)
今年の甲子園でも色々と注目ポイントがありますが、話題として取り上げられているのが、県立岐阜商業の横山選手。
彼は、生まれつき左手の指が全て欠損しているのですが、レギュラーとして大活躍しています。
打席に立つたびにひときわ大きな歓声が上がり、投打に活躍する姿に大きな拍手が送られています。
「ハンデを持っているから注目されている。その分活躍したいし、勝利に貢献しなければいけない」とインタビューに答えていました。
以前も書いたことがありますが、教会とは、日曜日にミサに与るために来るだけのところではありません。
共同体を運営するために奉仕する、さまざまな役割を担う信徒の支えがあるからこそ、脈々と受け継がれてきたのです。
長年、お1人で納骨堂の管理をしてこられた方からその役割を引き継ぎ、今後の運営のあり方について打ち合わせをしました。
色々と提案をさせていただき、お話をする中で、「これまではお一人しか管理の仕方がわからなかったことも、こうしてわたしたちが引き継いで、そしてわたしもさらに引き継ぐ人を見つけていきますね」とお伝えしたところ、涙を浮かべて喜んでくださいました。
神を愛する人々、すなわち、ご計画に従って神に召された人々のために益となるように、すべてが互いに働き合うことをわたしたちは知っています。
(ローマ8・28)
わたしは与えられた恵みによって、あなた方1人ひとりに言います。
自分は当然このようなものだと思う以上に自分を過大に評価せず、神が各々に与えてくださった信仰の度合いに応じて自分を評価し、程よく見積もるようにしなさい。
(ローマ12・3)
わたしは植え、アポロは水をやりました。
しかし、成長させてくださったのは神です。
ですから、植える者も水をやる者も取るに足らず、成長させる神こそ大切な方なのです。
植える者も水をやる者も一致して働いていますが、それそれその働きに応じて自分の報酬を受けるのです。
わたしたちは神の協力者であり、あなた方は神の畑、神の建物なのです。
(1コリント3・6〜9)
レギュラーになれなくても応援する姿に感動し、その彼らを応援したい
ハンデがあるから余計に応援したい
これまで担ってこられた役割を引き継ぐわたしたちを、応援してくださる先輩方がいる
野球も教会も、ある意味チームプレイです。
心をひとつにし、仲間を増やし、働き合って成長する。
各々に与えられたお恵みをそれぞれが最大限に発揮して、互いに応援し合う。
ちょっと強引かもしれませんが、連日の甲子園の試合を応援していると、教会での役割についてもっと役立ちたいという気持ちになったお盆休みでした。
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17日のごミサは、イエズス会の中井神父様の司式でした。
その後に、ご自分の多岐にわたる活動についてのお話をお聞かせくださいました。
また改めて記事にしたいと思います。
祈りの時間
NYと横浜から帰省している妹たち家族と過ごしていました。
思い出深い夏になりましたが、、、聖書を開く時間も余裕もありませんでした。
それでも、寝る前に今日1日の感謝と、家族のことを導いてくださっていることへの感謝の祈りだけは欠かさないように努めています。
普段は、静かな落ち着いた生活ができているので、神様と天国の母に話しかけたり聖書を開いたり、日常のちょっとした隙間に、そうした時間を持てるのですが、今改めて、子どもの面倒を見ているお母さんたちの気持ちがよくわかります。
久しぶりにごミサに与りました。
贅沢にも、妹・姪たちと毎日遊び疲れて、どうしてもリフレッシュのため、心と身体を落ち着かせるために教会に行って、ミサだけでなく、信徒仲間たちと会って話したかったのです。
今までなぜか気づかなかったのですが、ガラス越しに見える青々と茂った緑の木々さえも、今日は美しく感じることができました。
「日曜日のミサに子どもを連れた親の姿が少ない」
そういう声は、どの教会でも聞かれることかと思います。
特に、夏休みの子どもたちは忙しい!、ということを実感しています。
一度も姪たちを教会に連れて行けませんでした。
今回の国政選挙の結果を見ていて、感じたことがあります。
人々は「わかりやすさ」を求めているようです。
カトリックの教えは、信仰を持たない人にとっては難しく、ハードルの高いものに感じられている気がします。
ですが、この夏の日々の中で痛切に実感しました。
わたしたちキリスト者の信仰は、シンプルに「祈り」に集約されるのではないでしょうか。
わたしたちには、「祈りの時間」が必要です。
今日のごミサでは、宮﨑神父様が「祈りの時間」の大切さについてお話になりました。
洗礼を受けただけの人、普段教会に来ない人、日常の中で祈らない人、そういう人(わたしの妹)のためにも祈りを続けなければと決意を新たにしました。
神父様は、祈りは霊的呼吸だ、とおっしゃいました。
神を信じる者の信仰生活は、祈りによって支えられていることを忘れてはならない、と。
いつもは、ミサ前には入り口に立って皆さんをお迎えし、色々とお声がけするのですが、今日はしばらくじっと座って祈り、ロザリオを唱えていました。
それだけで、心の中のスポンジに水が染み渡る気持ちでした。
さて、イエスはある所で祈っておられた。
祈りが終わると、弟子の1人がイエスに言った、「主よ、ヨハネも弟子たちに教えたようにわたしたちに祈りを教えてください」。
そこで、イエスは仰せになった、「祈る時には、こう言いなさい。
『父よ、み名が聖とされますように。
み国が来ますように。
わたしたちの日ごとの糧を、日ごとにお与えください。
わたしたちの罪をお赦しください。
わたしたちに負い目のある人をみな、わたしたちも赦します。
わたしたちを誘惑に遭わせないでください』」。
(ルカ11・1〜4)
主の祈りも、ルカのこの言い回しが心に染み透ります。
祈る=神様と天国のみなさんに語りかける、感謝の気持ちを伝える、家族を導いてくださるよう願う、、、そうした時間を毎日、何度も持つことが、どれほど自分にとって必要なひと時かを改めて実感する夏になりました。
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日本カトリック司教協議会が推薦する映画「長崎〜閃光の影で」が8/1から全国で公開されます。
久留米では、Tジョイでご覧になれます。
思いやりの行動
トップページの画像を替えました。
少しでも涼しい気持ちになってもらえたら。
ディスレクシア(読字障害)という障害があります。
これは、知的能力や一般的な理解能力などに特に異常がないにもかかわらず、文字の読み書きに著しい困難を抱えるもので、学習障害の要因となることがあります。
トム・クルーズ、ジェニファー・アニストン、キアヌ・リーヴス、など、有名な俳優さんたちもこの障害を持つと告白している人が多くいます。
数々の大作を世に生み出してきたスティーブン・スピルバーグ監督は、60歳のころにディスレクシアと診断されたそうです。
文字が読めず授業についていけないため、小学校を2年遅れで卒業。
いじめを受け、「地獄のような幼少期」だったそうです。
今でも、脚本を読むのに人の2倍の時間がかかるそうです。
ブラッド・ピットは、相貌失認(そうぼうしつにん)や失顔症と呼ばれる、他人の顔が識別できない病気だそうです。
実際は会った人を覚えていたいのに、覚えられないことを恥ずかしく思っている、何度も会った人を認識できないので失礼な奴だと思われている、とインタビューで語っていました。
ディスレクシアや失顔症、いわゆる学習障害と言われる障害は、他者からは分からないものです。
社会生活に困難を感じるのは、身体に不自由があるからだけではないのです。
お前の友を虐げてはならない。
耳の聞こえない人を呪ってはならない。
目の見えない人の前につまずきとなる物を置いてはならない。
(レビ記19・13〜14)
忘れられない思い出があります。
昔、NYの地下鉄に乗って座っていたときに、見るからに身体が不自由そうな人が乗ってきました。
わたしはとっさに「ここに座ってください」とその人に席を譲ったのですが、わたしの動く様子から足が不自由だとわかったのか、離れたところに座っていた2人の人(別々のところに座っていた、どちらも若い人)が「わたしの席に座って!」と駆け寄ってきてくれたのです。
東京で電車に乗っていても、座っている人はとても疲れた様子で眠っているか、携帯を必死に見ていて気付いてもらえないかで、席を譲ってもらった経験はほとんどありません。
逆に、年配の女性から「若いんだから、座らないで席を譲って!」と怒られたことはあります。(笑)
外見でわかるかどうかに関わらず、ちょっとした気遣いが人の役に立つことを心に留めておきたいものです。
そして、いつも他者を思いやる行動ができれば、と思うのです。
寛大な人は満たされる。
人を潤す者は自分も潤される。
(箴言11・25)
ミサで先唱したり、質問を受けたり、初めての方をご案内したり、といつもお役目をいただいています。
「ごくろうさま。いつもありがとう。」
今まで何度、いろいろな方にこう言ってもらったことか。
ちょっとした気遣いを行動に移したことで、人から感謝(=気遣い)の言葉をもらえると、心が潤されます。
人は、その口から出る言葉によって、善いものに満ち足りる。
また、人は、その手の働きによって、報いを受ける。
(箴言12・14)
年齢のせいか、ときおり自分でも意味不明なイラ立ちが湧き上がることがあります(・・;)
そういうとき、「今日これから出会う人全員に優しく丁寧に対応する」と決めて過ごすようにしてみます。
そうすると、不思議なくらい相手からも気持ちの良い態度が返ってくるのです。
これはお薦めのリフレッシュの方法です。
もし、キリストに結ばれていることによって、それがあなた方にとって励ましとなり、また、神に愛されていることが慰めとなり、あなた方に、霊による交わりがあり、人に対する思いやりの心があるなら、どうか、互いに同じ思いを抱き、同じ愛をもち、心を合わせ、思いを一つにして、わたしを喜びで満たしてください。
各々、自分のことだけでなく、他人のことにも目を向けなさい。
(フィリピ2・1~4)
飛行機から見る空が1番好きです。
心が洗われる思いがします。
女性の生き方
早くも夏真っ盛りです。
夏の暑さは嫌いではありません。空が本当に綺麗ですから!
映画鑑賞も趣味のひとつで、これまでの人生でトップ3の映画のうちのひとつが「モナリザ・スマイル」(2003)です。
1953年、アメリカでもっとも保守的と言われる名門女子大で、ジュリア・ロバーツ演じる新任の教師は彼女たちに自立心を育てる教育をしようと奮闘します。
ですが、もともとエリートとの結婚が幸せだと信じて疑わない生徒たちは、その方針に反発します。
『Mrs.Degree』(ミセス学位)という言葉を聞いたことはありますか?
Mrs. Degreeとは、1950年代前後のアメリカ社会で、勉強やキャリアのためではなく結婚相手を探すために大学へ進学したとされる女性たちを揶揄する言葉です。
これは死語ではなく、超保守の男性にとっては、いまだに存在している概念なのです。
イエス様の時代、女性は数に数えられることもないほどの扱いでした。
それにも関わらず、マリア様は知的な女性として認識されていると思いませんか?
受胎告知の絵画では、ルネサンス期には聖書を手にする(読んでいる)マリア様の姿が好んで描かれました。
ロベール・カンパン《メロード祭壇画》
この絵の解説で、こう書いてあるものを見つけました。
「マリアが読むのを止めたテーブルの上の本が旧約の世界を象徴し、現在読んでいる本が新約の世界を表す」
「救世主イエス・キリストの誕生を告げる受胎告知の場面において、マリアはそれまで読んでいた旧約聖書から新約聖書に目を移し、旧約聖書の教えを表す机上の蝋燭はたった今役割を終え、今度は新たに恩寵の教えを表す蝋燭に火が灯されることを暗示している」
4世紀のミラノの司教アンブロジウスは、「マリアは身体だけではなく精神においても純潔である。心は謙虚であり、話すときには厳粛で、慎重さを備え、言葉を慎み、最も熱心に読書に励んだ」とお説教で語ったとされています。
マリア様が聖書を手にする絵画が描かれるようになった背景には、12世紀ルネサンスとマリア崇拝の発展、女性の宗教生活の拡大、書き言葉がラテン語から自国語へと移り変わっていく動きと並行した識字率の向上など、が原因として挙げられるそうです。
民衆のマリア信仰の高まりが、マリア様を人々の信仰生活の模範とみなす伝統と連動し、それによってマリア様が知性においても優れていたことが強調されるようになった、ということです。
こうした絵画を目にしたことがあったから「マリア様は知的な女性だった」と思っているのでしょうか。
そうではない、気がしています。
福音書には、マリア様の暮らしや立ち居振る舞い、発言などはほとんど記されていません。
それでも、カトリックにおけるマリア信仰(崇拝ではなく、崇敬)には、確固たるものがあります。
羊飼いたちは、この幼子について告げられたことを、人々に知らせた。
羊飼いたちが語ったことを聞いた人々はみな不思議に思った。
しかし、マリアはこれらのことをことごとく心に留め、思い巡らしていた。
(ルカ2・17~19)
わたしはこの箇所が大好きです。
マリア様が知的で素敵な女性だったのだろう、とわたしが意識しているのはこの箇所からです。
フランシスコ会訳聖書のルカによる福音書の解説には、このように書かれています。
本福音書では女性が大きな比重を占めている。
冒頭の1~2章ではマリアとエリザベトに中心的な役割が与えられているが、同じ姿勢が福音書全体に一貫している。
こうした女性への視点は、ルカの強調する普遍的な救いが民族的な相違のみならず、男女の性差をも克服するものであることを示している。
女性の生き方など関心の対象ではなかったであろう旧約の時代でも、聖書に登場する女性はみな個性的で知的だと思いませんか?
7/6は母の命日でした。
母は、わたしたち3姉妹の教育にとても熱心でした。
娘たちがそれぞれの能力を生かして活躍することを願って、いつも後押ししてくれました。
美人で、誰からも好かれ、与えられた役割に誠実に向き合い、病弱でしたが常に明るい人でした。
わたしにとって、亡き母はいまの人生の指針でもあります。
我が家のマリア様、だったと感じています。
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「モナリザ・スマイル」で生徒役を演じる若手俳優たちは、全員が今ではトップ俳優です。
とても素晴らしい映画なので、おススメです!
:参考:
https://catholic-nishichiba.com/priest-preaching/1397/
https://www.cbcj.catholic.jp/faq/maria/
歴史の積み重ね
話題の映画「国宝」を観てきました。
歌舞伎鑑賞が趣味のわたしは、推しの俳優さんや気に入っている演目があると、歌舞伎座まで出かけていきます。
「先代の勘九郎さんはやはり素晴らしかった」
「音羽屋は次の代も安泰だ」
などと、偉そうなことを友人と語り合ったりもしますが、あまり深くその家の歴史について考えたことはありませんでした。
この映画は、血筋か生まれ持った才能か、が大きなテーマですが、伝統を継承して歴史を積み上げていくことの重みをひしひしと感じさせられました。
伝統芸能は守るべきものが明確です。
歌舞伎俳優は男性だけですので、息子がいない場合は同じ家系の男子に名前が受け継がれます。
その子に才能があるかどうか、ではなく、とにかく精進させるのです。
キリスト教、特にカトリックにおいては、教皇様が変わっても教えが変わることはありません。
父親から息子へ継承されるような伝統を受け継ぐのが教皇の役目ではなく、わたしたち信徒の現世での最高の導き手なのです。
29日のごミサで、宮﨑神父様はこうおっしゃいました。
「何がこの時代に必要なのかを教えてくださるのも教皇様です」
いま、教区100周年記念誌に掲載する久留米教会のページの原稿を書いています。
そのために、教会の歴史について振り返ってみると、様々な発見がありました。
ご自分の教会の歴史について、考えてみたことはありますか?
「久留米の人は自分の街に誇りをもっている」
と、言われたことがあります。
適度に都会で、豊かな自然、山と川に囲まれ、農業が盛んで食べ物がおいしい。
歴史と伝統が街の随所に見られる。
水天宮の総本宮がある。
ブリヂストン発祥の地。
いくつも大学があるため若者も多く、大きな病院がいくつもあるので医療が充実している。
これが、久留米という街を語るときのモデル的説明文です。
医療の街のスタートには、カトリック教会が大きな役割を果たしていました。
久留米教会の歴史は、毛利秀包(ひでかね)が久留米領主であった時(1587~1600年)に始まります。
大友宗麟の七女を妻とし洗礼を受けた秀包は、宣教師の保護に努め、信者のために城のそばに教会堂を建立しました。
久留米地方のキリシタンは当時7000人に達していたと言われています。
浦上の信徒発見から13年後の1878年、大浦のプチジャン神父の命によりミカエル・ソーレ神父が久留米に赴任し、宣教を開始しました。
ソーレ神父は、仮教会だけでなく、信徒たちの病気治療のための診療所も併設しました。
神父の依頼で『マリアの宣教者フランシスコ修道会』のシスターが久留米に修道院を構え、診療所で働きながら、女性や障害者に生計の足しになるような手仕事を教えるようになりました。
次第に、病人の治療、子どもたちの信仰教育だけでなく、一般の病人や貧しい人も受け入れて、捨て子や孤児の面倒も見るようになっていきます。
このように、シスター方と信徒たちの診療所での働きは、地域に深く根差したものとなっていくのでした。
久留米市の医療、教育、福祉のまちが現在のように作り上げられていった一端は、こうした司祭、修道者、信徒の働きがあったからと言えるでしょう。
「わたしのこれらの言葉を聞き、それを実行する者はみな、岩の上に自分の家を建てた賢い人に似ている。
雨が降り、大水が押し寄せ、風が吹きつけ、その家を襲ったが、家は倒れなかった。
その家は岩の上に土台を据えていたからである。
しかし、これらのわたしの言葉を聞いても、それを実行しない人は、砂の上に家を建てた愚かな人に似ている。
雨が降り、大水が押し寄せ、風が吹きつけてその家に襲いかかると、家は倒れた。その倒れ方ははなはだひどかった」。
(マタイ7・24~27)
「雨が降り、大水が〜」という表現は、最後の裁きの日を表現しています。
久留米という街の根幹には、キリスト教という強固な岩のうえに積み重ねられた教会の歴史があることは間違いないのです。
街の歴史と信仰の歴史、ともに歩みを重ねてきたのだということを今回改めて知ることができ、とても満たされた気持ちになりました。
修道生活の真の完徳に輝いた聖なる教父たちの生きた模範を想い出しなさい。
そうすればわれわれは、われわれが行っていることが、どれほど小さく、ほとんど無に等しいことがよく分かるだろう。
彼らの生活に比べたら、われわれの生活がいったい何だろうか。
(「キリストを生きる」第1巻第18章1)
久留米教会は「至聖なるイエスのみこころ」に奉げられた教会です。
今年は27日(金)にお祝いのミサが執り行われ、春から聖マリア学院大学のチャプレンとして赴任されたケン神父様と一緒にお祝いすることができました。
(聖マリア病院には、大学も併設されています。)
久留米教会は、3名の司祭が導いてくださる、本当に恵まれた教会です。
キリシタンたちの信仰教育から始め、何もなかった地に教会を建て、地域のひとたちを巻き込みながら社会貢献を重ねていった先人たちの姿を思い浮かべています。
教会が、信仰の礎となった使徒の教えを受け継ぎ、その真理を世界にあかしすることができますように。
(29日の集会祈願より)
考える心
その人のことは、簡単なコミュニケーションからある程度わかるものです。
「コミュニケーションするということは、キリストが人間に対してしたように、身を低くすることです」
これは、前教皇フランシスコのお言葉です。
アメリカメジャーで活躍する大谷選手は、毎回打席に入る前に審判に挨拶する、唯一の打者だそうです。
多くの選手は最初の打席に入るときにキャッチャーに挨拶をしますが、大谷選手は毎回審判にも挨拶をするのだそうです。
さらには、相手チームのベンチにも試合前に挨拶をすると、アメリカのメディアが驚きをもって報じていました。
先週、デッドボールを受けた時、(監督は猛抗議で退場処分となりましたが)ベンチに向かって無事を強調し、「出てくるな」とばかりに手で制していました。
1塁に行き相手の選手と笑顔で会話する様子に、NHKの実況は「まるで親善大使のような」と表現していました。
大谷翔平選手、30歳です。
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福岡教区青少年委員会では、11月に仁川教区への訪問が予定されています。
仁川教区の青年たちと共に交わり、分かち合い、信仰を強めることを目的とし、18~35歳までの信徒の募集を行っています。
久留米教会にも青年会があり、自主的にいろいろな取り組みをしています。
わたしが「青年」だったころには、そうした集まりはなかったように思います。
本当のことを言えば、その年代にはあまり教会に積極的に足を踏み入れてはいませんでした。
バチカン天文台のサマー・スクールに参加している若者たちとお会いになった教皇様は、学生たちに、「皆さんが体験することは、われわれ全体のためになるということを決して忘れないでください」と話され、自分が学んだこと、経験したことを、可能な限りできる方法で寛大に分かち合って欲しいと希望された、とバチカンニュースにありました。
[彼らは主から5つの能力の使用を授かった。
6番目として、知性が授けられ、7番目として、その働きを解く言葉が授けられた。]
主は彼らに判断力と舌と、目と耳とを与え、考えるための心をお与えになった。
主は知恵と知識で彼らを満たし、善と悪とを彼らに示された。
主は彼らの心に、ご自分への恐れを植えつけられた。
これはその業の偉大さを彼らに示すためである。
[主は人々にその不思議な業を代々に誇るようにさせられた。]
(シラ書17・5~8)
「今どきの若い者は、、、」という表現自体が死語ですが、わたしが20代だったころと今とではあまりにも社会の構造、価値観、生き方が違いすぎて、戸惑うことばかりです。
友人が自分の会社の広告原稿をChatGPTを使って作っている、と聞いて驚きました
ChatGPTでは、論文を要約させる、論文を解説させる、もちろん翻訳や書いた論文の校正もできます。
論文そのものを作成させることも可能、ということです。
・学会や大学によってはAI作成の論文は禁止されている
・下書きやサポート目的ならOK
なのだそうですが、自分で考えを巡らせて書き上げた論文なのか、コンピュータを駆使して創られた文章なのか、見極める先生方も大変なご苦労でしょう。
このページにこうして記事を書くときには、もちろんネットで情報を検索し、ネットのニュースも参考にします。
教皇様のXやインスタも見て、記事に織り込むこともあります。
そうやって、得た情報をもとに聖書を開き、心で感じたことを自分の頭で考えて書いています。
わたしは、自分の心で捉えたことを言葉にして書き留める、ことに喜びを感じます。
現代の学生たちが、自分の心と頭を十分に使えていない、とは思いません。
ただ、とても「控え目」な人が多い、と感じます。
一人1台のPCもスマホもなかったわたしが学生だった頃と比べて、心を鍛えて頭を働かせるチャンスがたくさん用意されています。
その機会を貪欲につかもうとするかどうか、なのでしょう。
神を知らない人々はみな、生まれつきの愚か者である。
彼らは目に見える善いものを通して、存在そのものである方を知ることができず、またその業に目を留めながら、その作者を認めなかった。
また、それらの力と働きに心を打たれる彼らであれば、それらを形づくられた方がどれほど力強い方であるかを、それらを通して悟ることができるはずではないか。
被造物の偉大さと美から推し量ることで、その造り主を認めることができる。
しかし、この人々の責めは軽い。
彼らは神を求め、見出そうと望みながら、迷っているのかもしれない。
彼らは神の業と慣れ親しんで、神を探し求める。
しかし、彼らは外観にだけ心を留める。
目に映るものがまことに美しいから。
(知恵の書13・1〜7)
目に見えない神を信頼し、見えない聖霊の働きを感じる わたしたちは、とても恵まれています。
「主は彼らに判断力と舌と、目と耳とを与え、考えるための心をお与えになった」
「被造物の偉大さと美から推し量ることで、その造り主を認めることができる」
自分の心で感じ取り、自分の頭で考え、行動することの大切さを忘れないようにしたいと思います。
初聖体を受けた時の気持ちを、彼らが忘れないでいてくれますように。
伝わる愛
宮﨑神父様の所属されている神言会の創立150周年を記念し、管区長のディンド神父様が久留米教会にミサを捧げにきてくださいました。
創立者である聖人の聖アーノルド神父と、聖ヨゼフ・フライナーデメッツ神父、お二人の聖遺骨が収められた十字架をお持ちになり、「神言会の司祭が働く教会に感謝するために訪問し、共にミサを」とおっしゃっていました。
ミサの司式中、言葉を発せられるたびに、正面ではなく全方向の信徒一人ひとりの方に目を向けてくださる様子にとても感動しました。
「愛とは何か。
トマス・アクィナスはいつものように簡潔に、『愛するとは、他者のために善を望むことである』と述べている。
したがって、神を自分の人生の絶対的な中心に据えることは、自分の人生を愛に適合させることを意味する。
あなたが贈り物として受け取ったものは、贈り物として与えなければならない」
ミネソタ州ウィノナ・ロチェスター教区バロン司教は、ご自分の出身校でもあるアメリカ・カトリック大学(CUA)卒業生へのメッセージでこうおっしゃいました。
アメリカだけではく、世界中の国が「自国を守るため」という間違った愛国心からくる政策を次々と打ち出しています。
先週は、ロサンゼルスで不法移民の摘発に抗議するデモ隊が治安部隊と衝突し、政府が州兵、さらには海兵隊まで派遣したことで事態がより悪化しました。
不謹慎な表現かもしれませんが、武装した警察や州兵が自国民に催涙弾を投げ、一部の暴徒化した人々が放火や略奪する様子を映像でみて、去年の映画『シビルウォー』が現実になったような錯覚を覚えました。
NYに住む姪(アメリカ国籍)の外国人のボーイフレンドは、トランプ政権の数々の政策(不法移民でなくとも強制送還された事例がありました)におびえ、旅行だとしてもアメリカから出国できずにいます。
教皇レオ14世は6/8、聖霊降臨祭のミサで行った演説で、世界各地でナショナリズムを助長してきたとする「排他的な思想」を拒絶するよう信者らに呼びかけました。
「心と思考の国境を開く」
「聖霊は境界を開放する」
「教会は人と人の間の国境を開き、階級や人種による壁を打ち破らなければならない」
などと述べられました。
パトリオティズムとナショナリズムは、根本的に全く違うものです。
ナショナリズムは、一国の文化、伝統、価値を重んじ、その国の利益と主権を最優先する思想です。
国の自主性と独立を強調し、外部からの干渉や影響を拒否します。
パトリオティズムとは、国や国民への敬愛の感情や態度を表し、他国への敵意や優越感を持たず、愛と尊敬の表現です。
ヨハネはイエスに言った、「先生、お名前を使って悪霊を追い出している人を見ました。その人はわたしたちの仲間ではないので、やめさせようとしました」。
イエスは仰せになった、「やめさせてはならない。わたしの名によって奇跡を行いながら、すぐにわたしをののしる者はない。
わたしたちに反対しない者は、わたしたちの味方である」。
(マルコ9・38~40)
この箇所は、信仰共同体の中においても外においても、他者に対して寛容であることの重要性を教えています。
ヨハネのように特権意識を抱くことは、信仰共同体にとって危険です。
イエスは、排他的な態度を改めるよう弟子たちに教え、信仰の多様な表現を受け入れる寛容さを促しました。
神の働きは私たちの枠を超えているという事実を認め、他者の信仰や行いを尊重する心を育てましょう。
サンパウロのホームページに寄稿されている福音解説には、このように書いてありました。
自国愛=排他的な愛国心、ナショナリズムによる世界のリーダーたちの政策が当たり前になりつつある現実は、キリスト教の精神からかけ離れています。
冒頭にご紹介した、トマス・アクィナスの『愛するとは、他者のために善を望むことである』という言葉を、いまこそ多くの人に伝えたい、そう思います。
サンパウロの神父様のコラムはこちら
https://www.sanpaolo.jp/category/column
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カンボジアから一時帰国している中島 愛さんが、現地での活動報告をしてくれました。
彼女の現地での様子がとてもよく伝わるプレゼンで、多くの信徒が耳を傾けていました。
共同祈願として、とても素敵な文面で祈りを捧げることができ、リンドー神父様と愛さん、お二方の愛を心の芯まで受け取ることができた日曜日でした。
様々な国で宣教をしている神言会の司祭、修道者のために祈ります。
これからも、それぞれの場所で創立者の精神を生き、み言葉を述べ伝えることができますように。
また、カンボジアでの宣教から一時帰国している中島 愛さんのために祈ります。
これからも健康のうちに現地の人々と、神様のみ手の中で過ごすことができますように。
この道を歩む
フランシスコ教皇の病状について、先週は「午前中は治療を受けられ、午後は個室に付属した礼拝堂で祈り、聖体を拝領された。そして仕事上の作業に専念された。」という表現が続いていましたが、週末には人工呼吸器を装着されるまでに病状が進行しました。
山火事が広範囲で発生した岩手県大船渡市だけでなく、山梨県大月市、静岡県函南町でも山で火災が起き、甚大な被害が広がっています。
教皇様のためには「苦しみを少しでも早く取り除いてください」、山火事のことについては「地域の人々の不安を少しでも早く取り除いてください」と祈り続けています。
祈りの力を信じたい。
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わたしとてみなと同じく死すべき者である。
土で形づくられた最初の人の子孫であり生まれ出で、同じ空気を吸い、同じ土の上に生み落とされ、みなと同じ産声をあげ、産着と心遣いに包まれて育てられた。
王の中でも、これと異なる出生の初めをもつ者はいない。
すべての人にとって命への入り口は一つであり、出口もただ一つである。
(知恵の書7・1〜6)
知恵の書は、紀元前2世紀ごろにエジプトで書かれた書である、とされています。
ユダヤ教徒、キリスト教のプロテスタントでは正典とは見なされていませんが、カトリックでは典礼にもたびたび用いられ、大切にされています。
「同じ土の上に生み落とされ」とは、誰が生まれ落ちても土のほうでは同じように感じる、という意味だとフランシスコ会訳聖書の注釈に書いてあります。
同じような産声をあげ、産着を着せられ、親だけでなく祖父母や兄妹などの心遣いに包まれて育つ子どもは、生まれた時はみな愛され、幸せな存在であってほしい。
そう、強く思います。
先日の教会委員会で「子どもたちが教会に来るようにするにはどうしたらよいか」という議題がありました。
結論は一つです。
家族が連れてくるしかないのです。
成人洗礼の信者は自らの意思で教会に行きますが、幼児洗礼の子どもたちの信仰は、ある程度の年齢までは親(家族)が導かなければならない、それは義務とも言えるのではないでしょうか。
アレクサンドリア生まれのアポロというユダヤ人が、エフェソにやって来た。
彼は雄弁家で、聖書に精通していた。この人は、主の道の教えを受け、霊に燃えて、イエスのことについて詳しく語り、かつ教えていた。
このアポロは、会堂で、大胆に語り始めた。それを聞いていたプリスキラとアキラは、彼を招き入れて、神の道をさらに正確に説明した。
アポロは神の恵みによってすでに信仰に入っていた人々の大きな助けとなった。
(使徒言行録18・24〜27)
アポロは、パウロの宣教を助けた大切な人物だと教わりました。
わたしたちがこの道、「主の道・神の道」=「キリスト教の信仰」を成熟させていくためには、助けてくれる人の存在が欠かせません。
わたしのために祈ってくれる人の存在、とも言えるでしょう。
「子どもたちが家族に連れられて教会に来てくれますように」という祈りは、なくてはならないものです。
昨日のごミサでは3人の男の子が侍者を務めてくれました。
侍者になりたい、と立候補してくれている子どもが数名いる、と聞いています。
ですが、ミサに与っている子どもの姿はほとんどありません。
しっかり腰を据え、またどっしり構え、絶えず主の業に励みなさい。
主と一致していれば自分の労苦は無駄ではないと、あなた方は知っているのですから。
(1コリント15・58)
先日、ある方が「教会に行くと信徒の皆さんがなんとなく微笑をたたえている、という姿がいい教会だと感じます」とおっしゃいました。
子どもたちにとっても、同じです。
主の道を歩む大人がその姿を見せること、良いものを入れた心の倉から良いものを出す(ルカ6・45)生き方をいつも心がけること。
子どもが来ない、と諦めずに、次世代の子どもたちのために教会=木の手入れの上手下手は実で分かる(シラ27・6)ことを肝に銘じ、手入れを怠らないようにしたいものです。
傲慢という自由
受験生の合格発表の様子をニュースで見ました。
姪はネットで発表を確認しているので、てっきりそれが主流かと思っていましたが、西南学院大学の発表はキャンパスの掲示板に合格者の番号が張り出されていました。
飛び上がったり泣いたりして喜びを表している受験生の姿、微笑ましくて。
わたしの合格発表は、郵送されるのが待ちきれなくて、東京にいる知人に大学まで見に行ってもらったことを思い出しました。
努力の成果を素直に喜べたあの頃が懐かしい。
毎日の聖書朗読の箇所、21日金曜日にはバベルの塔のくだりが読まれました。
この箇所は単に、人間の傲慢さと神の怒りが書かれている、と思っていました。
全地は同じ発音同じ言葉を用いていた。
東のほうから移り住んでいるうちに、シンアルの地に平野を見つけ、そこに住みついた。
彼らは互いに言った、「さあ、煉瓦を造ってよく焼こう」。
彼らは石の代わりに煉瓦を、漆喰の代わりにアスファルトを用いた。
(創世記11・1~3)
改めて、当時(紀元前3000年くらい?)の技術革新には驚きます。
フランシスコ会訳聖書の解説には、このように書かれています。
創世記の第一部は人類の起源を述べると同時に、人類に対する神の摂理を示している。
この型は歴史を通じて繰り返されることになる。
この型の循環は神から出る本来の善、人間から出る破滅的罪悪、神の善と慈悲による救いである。
この型は創世記全体を通じて展開され、イスラエル人がエジプトにおける奴隷の状態から解放される出エジプトの出来事の前置きともなっている。
第一部が現代的な意味において「歴史」として格付けられないことは確かであるが、神話でもないことも確かである。
主は人の子らが建てた町と塔を見るために降ってこられた。
そして主は仰せになった、「見よ、彼らはみな同じ言葉を持つ一つの民である。これは彼らの業の初めにすぎない。これからも彼らが行うと思うことで、成し遂げられないものはないであろう。さあ、われわれは降りていって、あそこで彼らの言葉を乱し、互いの言葉が分からなくなるようにしよう」。
(11・5~6)
「神から出る本来の善、人間から出る破滅的罪悪、神の善と慈悲による救い」という循環は歴史を通じて繰り返される、という解説には深く頷かされます。
善き者として造られた人間は自由意志で神に背き、罪を繰り返し、それでも見捨てない神、という循環です。
先日観に行った歌舞伎のストーリーは、簡単に書くと次のような感じです。
戦場で兵士の死体から金品を盗んで生計を立てていた主人公ライは、朧の森の精霊たちに「なんでも願いを叶えてやろう」と持ち掛けられます。
「王になりたい」というライに、「お前の命と引き換えに叶えてやる」と精霊たちが答え、ライは悪事の限りを尽くして王に上り詰めますが、、、。
人間の欲、傲慢さがこれでもか、と盛り込まれた演目です。
主人公は自分だけを信じていて、他者はあくまでも利用価値のある存在としてしか見ていません。
18歳の頃の自分には、傲慢さはなかったように思います。
神様に顔向けできないような罪も犯してはいませんでした。
信じられる対象(それは友人であり、カトリックの信仰であり)が次第に確立されていく過程、大人になるにしたがって少しづつ傲慢さを蓄えてしまったように感じています。
生活の知恵が増すに伴って、上へ上へと欲望を増していったバベルの人々のように。
人が信仰を持つようになるのは神様の働きかけによるものか、それとも人の自由意思によるものなのか、というキリスト教神学の「恩寵論」について、読んでいる本で知りました。
古代の教父たちは、神に似せて創られた人間の力を強調し、恩寵のみではなく、自由意志に基づく善の選択を説いています。
一方で、宗教改革をおこなったルターは「恩寵のみ」を力説し、人間の救済には神の働きしか作用しない、としました。
そしてトマス・アクィナスは、「恩寵と自由意志」がともに働くことで、神と人間の深い協働関係が構築されていくという立場でした。
トマスの研究で知られる山本芳久さんは、トマスの主張を次のように解説されています。
「人間が生まれつき固有に持っている『自然』だけでは、無限な幸福に対するあこがれは実現するのが難しい。
むしろ、実現する力は神の『恩寵』によって与えられる。
人間は幸福への憧れのようなもの、そして『恩寵』と協働する力ももともと持っているけれど、自分一人で実現するだけの力は持っていない。
信じられないほどの『恩寵』に参与させられることで、心底追い求めていたものが自らの思いを超えた仕方で現れ、実現する。」
歌舞伎の主人公ライは、自分のもともと持っていた能力しか信じておらず、神も仏も仲間すらも切り捨て、自分の命と引き換えに人生を上り詰めようとしました。
王になることこそが、自分にとっての最高の幸せだと信じて疑わなかったのです。
わたしたちキリスト者は、最高の幸せを求める信仰を生きています。
それは、究極には「永遠の命」のことですが、この世を生きる上での幸せは、神様からのお恵みという「恩寵」を絶えず受け取ることです。
傲慢なわたしをいつも見捨てず、「また!?」と思いながらも正しい方向へ導いてくださる神様の愛に、今日も甘えます。
進歩していく教会
書きたいことが溢れてきて、でも一旦落ち着かなければと思い適当に聖書を開いたら、この言葉が最初に目に留まりました。
「心を騒がせてはならない。
あなた方は神を信じなさい。
そして、わたしをも信じなさい」。
(ヨハネ14・1)
そして、昨日のごミサでは、宮﨑神父様の力強いお言葉にとても励まされました。
「わたしたちにとって、本当の幸せとは何か。
それは、神への信頼という信仰に満たされること。
つまり、諦めず、絶望しない生き方をすることです。」
この1週間は、心がざわざわする日々を過ごしていました。
人々の中に偏見や対立、旧態然とした考え方があることは、どの教会、いえ、どの組織にもあることなのかもしれません。
先日、歌舞伎を観に行きました。
歌舞伎といっても、演劇と融合した、全く新しいスタイルの演目です。
30年ほど前でしたでしょうか、テレビで、亡くなった勘三郎さんが息子たち(当時の勘太郎・七之助兄弟)に所作の指導をしているところを見たことがあります。
父から教わった後、勘太郎くんが「オッケーです!」と答えたところ、大きな張り手が飛んできました。
「古典芸能の稽古をしている時に、オッケーですとは何事か!!」と。
今回観に行った歌舞伎は、松本幸四郎さん(52歳)が座長です。
稽古風景の写真では、幸四郎さんは髪を赤く染め、歌舞伎役者の皆さんはジャージ姿でした。
インタビューで幸四郎さんが、「昔は役者が髪を染めたり、浴衣ではない姿で稽古をするなんて考えられなかった。歌舞伎界も柔軟になったなぁ、と思います。」とおっしゃっていました。
ユダヤ人たちは、イエスを迫害し始めた。
安息日にこのようなことをしておられたからである。
ところが、イエスは彼らにお答えになった、「わたしの父は今もなお働いておられる。だから、わたしもまた働く」。
このために、ユダヤ人たちはますますイエスを殺そうと狙うようになった。
イエスが安息日を破ったばかりでなく、神をご自分の父と呼んで、ご自分を神と等しいものとされたからである。
(ヨハネ5・16〜18)
イエス様は、当時は相当な異端児であったでしょう。
ユダヤ教徒の指導者たちが必死に守って、民衆にも厳しく教えてきたことを、簡単に破ったのです。
新しいもの、新しいやり方が必ずしも良いこととは限りません。
良いかどうかは、新しさにあるのではなく、柔軟な発想と行動力の中に現れるのではないでしょうか。
群衆の間では、イエスのことがいろいろと取りざたされていた。
「善い人だ」と言う者もいれば、「いや、群衆を惑わしている」と言うものもいた。
しかし、ユダヤ人たちを恐れて、誰もイエスについて公然と話す者はいなかった。
(ヨハネ7・12〜13)
キリスト教という宗教、カトリック教会という組織は、2000年以上前に確立されたものではありません。
罪深い歴史も、多くの失敗もありながら、今なお進歩し続けていると感じます。
特に、フランシスコ教皇になってからの時代は(情報が誰でも簡単に手に入るようになり)、現代社会と向き合う姿勢が内部の反発を招く様子も見てとれます。
慎重でありながらも、内外の課題に目をつぶらず、時には世界政治を動かすほどの影響力を発揮される教皇様は、信仰面だけでなく、リーダーとしてわたしたちの手本ではないでしょうか。
他の教会のある年配の信徒の方とお話ししていたら、「教会のことをいろいろ一人でしていて大変だ。青年向けの事業をやっても、うちの教会には若者はいないので誰も参加できない。」とおっしゃいました。
確かに、高齢の信徒が多い教会なのかもしれません。
ですが、本当に、誰も後任がいないのでしょうか。
一人も若い信徒はいないのでしょうか。
変わることを拒絶しているだけかもしれない、と考えてみる必要はないでしょうか。
久留米教会では、長年、納骨堂の管理を一人の信徒(80代後半)に任せきりでした。
「誰か若い人に代わってもらいたい」とおっしゃり、何人かの方に依頼してみました。
先日、ようやく「やります」と言ってくれたのは、20代の女性2人でした。
本当に、とても嬉しい出来事でした。
わたしたち強い者は、強くない人たちの弱さを担うべきであり、自分の満足を求めるべきではありません。
わたしたち一人ひとりは、互いにキリスト者として造り上げられるのに役立つように、隣人を満足させるべきです。
忍耐と励ましの源である神が、あなた方に、キリスト・イエスに倣って互いに同じ思いを抱かせてくださいますように。
それは、心を合わせ声をそろえて、わたしたちの主イエス・キリストの神であり父である方をたたえるためです。
(ローマ15・1〜2、5〜6)
失敗を恐れず、前に進むために、与えてもらった役割に責任を持つ。
教会のために、集うキリスト者のために、そして、自分自身のために働く。
そうしたことができるのは、聖霊が背中を押してくれているからなのだ、と強く再認識した1週間でした。
人間の本質
見なければいいのに、つい見てしまうのが「ネットニュース」と「SNS」
報道という言葉とは程遠い、質の低い(取材に基づかず、噂と想像と憶測とが入り混じっている)内容を見聞きするたびに、これは一種のいじめに近い気がするのです。
「いじめ」には、言葉、態度、精神的、暴力など、いろいろな種類があると定義されています。
判断基準は非常にシンプルで、「身体的・精神的にかかわらず、いじめられた本人が苦痛を伴うかどうか」です。
そして、被害者がいじめを受ける「きかっけ・動機」はあるものの、「原因」は見当たらない(少なくとも本人に心当たりはない)という特徴が、多くの場合に言えることです。
わたしも子どもの頃、心当たりなくいじめのようなことをされた経験があります。
いじめは、子どもの社会にだけある問題ではありません。
大人の社会のほうがむしろ、陰湿でしつこく、凶暴性を帯びているように思います。
イエス様の公生活は、苦難の日々だったと言えると思います。
ご自身が、「人々は理由もなく私を憎んだ」と言われています。
「これは一種のいじめ状態だったのだ」、とプロテスタントの牧師さんが書いておられるコラムがありました。
イエス様は「理由もなく憎まれ」、ユダヤ社会という閉塞集団の中で「いじめによる殺人」のような状況に追い詰められたのだ、そんな状況でも、イエス様が閉塞感や絶望感に蝕まれなかったのは、上の世界を見ておられたからなのだ、と。
わたしたちのように、目に見える世界に翻弄されることなく、この世界を創られた、神だけに目を向けておられたのです。
神よ、わたしを救ってください。
水はわたしの首にまで達しました。
わたしは泥の深みに沈み、そこには足を掛ける所もありません。
わたしは水の深みにはまり、渦に巻き込まれました。
わたしは叫び疲れ、喉は嗄れました。
わたしの神よ、目は待ちわびて衰えました。
故なくわたしを憎む者は髪の毛よりも多く、わたしを欺く者は頭の毛よりもおびただしい。
(詩編69・2〜5)
だまし打ちを仕掛ける敵を喜ばせず、故なくわたしを憎む者が、目くばせし合うことのないようにしてください。
彼らは平和を語らず、国のうちに穏やかに住む者を欺こうと企みます。
(詩編35・19〜20)
ほかの誰も行わなかったような業を、わたしが彼らの間で行わなかったなら、彼らには罪はなかったであろう。
だが、今、彼らはその業を見たうえで、わたしとわたしの父を憎んでいる。
しかし、これは、『人々は理由なしにわたしを憎んだ』と彼らの律法に書かれている言葉が成就するためである。
(ヨハネ15・24~25)
人を憎んだり恨んだりするのは、ある種、人間の本質的なものかもしれません。
ガザで起きている惨劇は、ジェノサイドです。
ハマスから奇襲攻撃を受けたイスラエルがガザ攻撃を激化させたのに伴って、欧州や北米、オーストラリアなどでイスラエルへの批判とともに、反ユダヤ主義の動きが目立つようになっています。
また、アメリカ大統領の「ガザを所有」「住民を全員他国に一時的に移住させる」といった、トンデモ発言が新たな火種となっています。
実行されることはないでしょうが、この発想自体がジェノサイドです。
わたしがあなたと争う時に、正しいのは、主よ、あなたです。
それでも公正について、わたしはあなたと話したい。
なぜ、悪人の道が栄え、不忠実の極みの者がみな、安穏としているのですか。
あなたが彼らを植えられ、彼らは根を張り、成長して実を結びます。
あなたは彼らの口には近いのですが、腹には遠いのです。
主よ、あなたがわたしを知り、わたしを見、わたしを試みられると、わたしの心があなたとともにあることがお分かりになります。
(エレミヤ12・1〜3)
アウシュビッツの解放から1/27で80年となり、各国の首脳を招いた式典が開かれました。
当時を語ることができるホロコーストの生存者が減り、記憶の継承が課題となる一方、若者の間ではSNSを通じて「否定論」(ホロコーストは実際にはなかった、という考え)が広がっているそうです。
現在でもフランス語やスペイン語の聖書で、「焼き尽くす捧げ物」がホロコーストと表記されているものもあります。
奉納者が内臓と四肢を水で洗うと、祭司はその全部を祭壇で燃やして煙にする。
これが焼き尽くす献げ物であり、燃やして主にささげる宥めの香りである。
(レビ記1・9)
生存者の方の訴え、「人間は忘れる。だからわたしは何度も言う。二度と同じ悲劇を繰り返すなと」「憎しみは憎しみを生むと警告する義務がある」という言葉は、非常に重いものでした。
人を憎み、恨み、相手を傷つけ、そして報復する。
負の連鎖が繰り返される中で、祈りの力はどこまで立ち向かえるでしょうか。
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詩編13『痛みに耐えかねた人の祈り』
主よ、いつまでですか、とこしえにわたしをお忘れになるのですか。
いつまでみ顔をお隠しになるのですか。
いつまでわたしは魂を悩ませ、心に痛みを抱けばよいのですか。
いつまで敵がわたしについて勝ち誇るのですか。
わたしの神、主よ、わたしを顧みて、わたしに答え、目に光を与えて、死の眠りに就かせないでください。
「わたしは勝った」と敵に言わせず、わたしの倒れるのを見て、敵を喜ばせないでください。
わたしは、あなたの慈しみに寄り頼み、わたしの心は、あなたの救いを喜びます。
わたしは歌います、主に。
恵みを与えてくださった主に向かって。