カテゴリ:四旬節
自らのありようを選ぶ
四旬節が始まって聖堂が解放されているのと、宮﨑神父様のお顔も見たかったので、久しぶりに教会に行ってみました。
やはり、お御堂でお祈りすると心が落ち着き、一種のリフレッシュの効果があります。
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有名人であれば、言ったこと(たとえそれが過去の発言でも)、行動(何十年前のことでも)が「現代の規範からすると間違っている」と誰かが判断したら、瞬く間に世界中に広まり、見知らぬ多くの人から非難され、謝罪を要求され、精神的にも追い詰められ、仕事を失う。
それが現代社会です。
「過去であろうと過ちは絶対に許されない」のが今の世の中です。
たとえば、昨年のアカデミー賞授賞式の司会に決まっていた人は、何年も前にツイッターで人種差別的な発言をしていたことを掘り起こされ、司会者を辞退するまでに追い込まれました。
「今の自分は変わった。過去の失言を恥ずかしく思う。」そう謝罪しても時すでに遅し、でした。
周囲の人にしょっちゅう失言したり失礼な態度をとってしまうわたしは、その基準からすれば誰からも許してもらえなくなるのでは、、、。
「裁くな」「おが屑と丸太」「自分の量る秤」
1500年前からのこの教えは、今もまだ有効です。
キリスト者にだけ効力があるのではなく、これらのことが書いてある聖書の箇所を読んでみれば、聖書を初めて聞く人だれにでも分かり易い、至極当然のこととして理解してもらえると思います。
人を裁くな。あなたがたも裁かれないようにするためである。
あなたがたは、自分の裁く裁きで裁かれ、自分の量る秤で量り与えられる。
あなたは、兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太に気づかないのか。
兄弟に向かって、『あなたの目からおが屑を取らせてください』と、どうして言えようか。自分の目に丸太があるではないか。
偽善者よ、まず自分の目から丸太を取り除け。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目からおが屑を取り除くことができる。
(マタイ7・1~5)
どうして人は、こんなにも他の人に厳しいのでしょうか。
最近のSNSでの他者へのバッシングや誹謗中傷の問題を見聞きするたびに、この疑問が渦巻きます。
今年から、福音宣教を定期購読し始めました。
こうした疑問を解消したい、自分はどうあるべきか、そういう目的で読んでいると閃きのような文章が目に留まります。
(一番のお目当ては、聖書学者の本多峰子さんの神義論の連載を読むためです。
その内容についてはいつかゆっくり書いてみたいと思っています。)
3月号のシスター加藤美紀さんの文章にあったことを少しご紹介します。
著作「夜と霧」などで有名なヴィクトール・E・フランクルの考え方を紹介していらっしゃいます。
フランクルによると、ラテン語で「人格」を表すペルソナは、ラテン語の「響き渡る」を意味する単語に由来しています。
人間とは常に自らの良心の内に神の声が響き渡っている存在であり、その神からの呼びかけに応答して初めて、人間は実存の本質を生きることができるのだと、フランクルは主張しています。
その前提として、人間は根本的に自由な存在だからこそ、自らの意思で決断しながら責任をもって神様に応答できるのだ、と言います。
☆人生の意味への問いに対しては詮索や口先ではなく、正しい行為によって応答しなければならない。
☆この場合の「行為」とは、ある状況においてとる態度のこと、生き方をもって示すことを含意してる。
☆精神的な態度も含め、自らの行為によって意味を闘い取って人生の意味を実現させる。
他の誰も代わることのできないその人固有の生の意味は、本人が決断して選んだ行為(ありよう)によって初めて実現されることになるのです。
このフランクルの生き方のありようについての考え方にはとても心打たれました。
必要以上に人に厳しくしてしまう気持ちが渦巻いてしまったら、「正しい行為の選択」と「自らの人生の意味を実現する過程に集中する」ことに心をシフトしたいと思います。
四旬節の間、わたしたちは「人を辱めたり、悲しませたり、怒らせたり、軽蔑したりすることばではなく、力を与え、慰め、励まし、勇気づけることばを使うよう」(回勅『Fratelli tutti』223)、いっそう気をつけなければなりません。
これは、パパ様の四旬節メッセージの一節です。
心に刻んでおきたい大切なことばです。
「人を辱めたり、悲しませたり、怒らせたり、軽蔑したりすることばではなく、力を与え、慰め、励まし、勇気づけることばを使うよう」
四旬節の始まりに、よい気づきを得られた気がします。
受難の主日
久留米教会は美しい。
久しぶりに訪れてみて、その威厳に満ちた佇まいを見て心からそう思いました。
5日日曜日は受難の主日(枝の主日)、イエス様のエルサレム入場を記念する日でした。
『集会祈願』
わたしたちが、主とともに苦しみを耐えることによって、復活の喜びをともにすることができますように。
久留米教会は、平日の午後のみ、皆さんの祈りの場として開放されています。
聖書と典礼も、4月分が置かれています。
以下、教皇フランシスコ 2020年3月27日新型コロナウイルスの感染拡大にあたっての「特別な祈りの時」でのことば(ローマと全世界へ)から抜粋しています。
この四旬節、あなたの差し迫った呼びかけが聞こえます。
「回心せよ」、「今こそ、心からわたしに立ち帰れ」(ヨエル2・12)。
主はこの試練の時を選びの時とするようわたしたちに求めておられます。
それはあなたの裁きの時ではなく、わたしたちの判断の時です。
何が重要で、何が一過性であるかを識別し、必要なものとそうでないものを見分ける時です。
人生が向かう方向を、あなたと他者に向けて定め直すときです。
主はわたしたちに呼びかけておられます。
この嵐の中で目覚めるよう、イエスはわたしたちに招いておられます。
そして何もかもが難破しそうに思える今このときに、堅固さと支えと意味を与えることのできる連帯と希望を促すよう呼びかけておられます。
「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか」。
親愛なる兄弟姉妹の皆さん、岩のように固いペトロの信仰を物語るこの場で、今夜わたしは皆さんを、嵐の海の星であり民の救いであるマリアの取り次ぎのもとに、主にゆだねたいと思います。
ローマと世界を抱きしめるこの広場から、神の祝福が皆さんに、なぐさめに満ちた抱擁として注がれますように。
主よ、世界を祝福してください。
人々のからだに健康をもたらし、心を慰めてください。
恐れてはいけないと呼びかけてください。
けれども、わたしたちの信仰は弱く、わたしたちは恐れてしまいます。
それでも主よ、どうか嵐のなすがままに、わたしたちを放っておかないでください。
もう一度「恐れることはない」(マタイ28・5)とおっしゃってください。
そうすれば、わたしたちはペトロとともに、「思い煩いを、何もかも神にお任せします。
神が、わたしたちのことを心にかけていてくださるからです」(一ペトロ5・7参照)。
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教会でミサに与れる日がいつまた訪れるのか分かりません。
ですが、祈りはどこででも、いつでもできます。
わたしたちは、祈りの力を信じています。
福岡教区では聖週間の過ごし方として、次の祈り方を薦めています。
新型コロナウィルス感染の終息と、これに苦しむ人々への慰め、そして主が自らのもとへ呼び寄せられた人々の永遠の救いを全能の神に祈願する人は、
ロザリオ、十字架の道行き、聖体訪問、聖体礼拝、最低30分の聖なる読書のうちのいずれかを行い、神への信仰と隣人へのいつくしみと愛をもって、次の祈りを唱える。
- 信仰宣言
- 主の祈り
- アヴェ・マリアの祈り
心をこめてわたしに立ち返れ。
お前たちの衣服ではなく、心を引き裂き、
お前たちの神、主に立ち返れ。
ヨエル2・12~13(フランシスコ会訳)
聖週間の過ごし方とお願い
聖週間は、以下の通り、非公開でミサが捧げられます。
信徒はミサに与ることは出来ませんが、同じ時間に各家庭にて心を合わせてお祈りください。
4月 5日(日)枝の主日 6:30
4月 9日(木)聖木曜日 19:00
4月10日(金)聖金曜日(大斎・小斎)19:00
4月11日(土)聖土曜日 19:00
4月12日(日)復活の主日 6:30
福岡司教区内で、公開のミサはすべて中止となっております。
世界中で、信徒が教会でのミサに与れない現状であるという現実についても思いを馳せ、ともに祈りましょう。
カトリック久留米教会
信仰を持つという強さ
ドイツのメルケル首相の16の講演とインタビューをまとめた一冊の本があります。
『わたしの信仰 キリスト者として行動する』
という素晴らしいタイトルがついています。
この本は、彼女のキリスト者としての信念を根底に置いた力強い指導力を垣間見ることができます。
現在、わたしたちは困難な時代の中にあると言えるのではないでしょうか。
そんなときに、メルケル首相のこの本を読んで、力づけられました。
「紀元前5世紀前半、イスラエルの歴史においては困難な時代でした。
でも、イスラエルとユダヤ民族の歴史において「困難」でなかったときがあるでしょうか。
何千年にもわたるイスラエルの歴史は、大きな苦しみの道でしかなかったようにも読めます。
平和で幸せな時期もごくわずかに混じっていますが、ほとんどは苦難と痛みと悲劇の連続のようでした。
ユダヤ人の何千年もの歴史のなかで、彼らの希望と生命力の強さを目の当たりにするならば、大いに畏敬の念に襲われるでしょう。
この民族は常に、神が歴史の本来の主であるという信仰の掟を守り続けたのです。
この世界が直面する脅威や不安、破滅の淵を目にして、日ごとにおかしくならずにいられるでしょうか。」
2020年の春、まさに世界がそのさ中にあります。
お前たちは、『神に奉仕するのはむなしいことだ』と言う。
『その戒めを守ったからといって、
万軍の主の前に慎んで歩んだからといって、何の益があるだろう。
(マラキ3・14)
人生の方向や価値観を見失いそうな深刻な危機のなかで、現代のわたしたちにとってもこのマラキの問いは縁のないものではありません。
メルケル首相は、マラキの関心は、神を思い出させることにあった、と言います。
方向を見失って分裂した社会において、神を想起するように促し、
よき人生の支えであり最終的に人生を決めるものでもある、人間の存在理由を考えるように呼び掛けたのだ、と。
しかし、わたしの名を畏れるお前たちには、
正義の太陽が輝き、その翼には癒やしがある。
お前たちは外に出て、肥えた子牛のように跳ね踊る。
(マラキ3・20)
彼女の政治家としての信念は、キリスト教的な人間観に基づいています。
あらゆる人(ドイツ人だけではなく)の尊厳を守ろうとし、「被造物」に対する責任を全うしようとする姿勢。
次世代の繁栄に配慮し、スピードを増していく社会変化に取り残される人のないよう気を配り、高齢化社会への努力を続ける誠実さ。
政治家がキリスト教の信仰に基づいて行動する、というのは日本人には違和感があるかもしれませんが、現代の困難に立ち向かうためには、彼女のような確固たる信仰、ぶれない信念があることは最大の強みなのかもしれません。
この状況を、イスラエルの歴史と重ねるのは強引だとわかっています。
それでも、どうしても感じるのです。
希望と生命力の強さは、信仰というゆるぎない信念からくるのだ、と。
日本にいると、いえ、久留米で生活していると、この今の、恐怖に飲み込まれそうな現実から遠い世界に生きているようにも思えます。
ニューヨークとカリフォルニアに住んでいる知り合いは、不自由な生活の中、不安な日々を過ごしています。
強い信仰心があっても、この危機から逃れられるわけではありません。
今こそ、神様への信頼を見失わないように、心を鍛えるときでしょう。
パパ様は3/20のビデオメッセージで、こうおっしゃっていました。(意訳しています)
「イースターを前に告解したくても、教会に行けない、神父はどこに?
家から出れないのにどうすれば?
そういう人の声を聞きます。
いまこそ、神様と直接向き合いなさい。」
ミサ、信徒の役割
イエズス会の英(はなふさ)神父様の本に、こういうくだりがありました。
日本の教会はすでにイエスの口から吐き出されてしまったのだろうか。
主任司祭が不在になっている教会は多い。
そのとき、信者さんの心配はただ一つだけである。
日曜日のミサはどうなるのか。
もちろんそれは大きな問題だが、日曜日のミサさえあれば、それで教会と言えるだろうか。
もちろん日曜日のミサは中心的なものだが、それだけで教会が成り立っているわけではない。
今こそ、教会のメンバーすべてが目を覚ますように、主から望まれているのではないだろうか。
イエスは次のように語っている。
わたしは愛する者を皆、叱ったり、鍛えたりする。
だから、熱心に努めよ。悔い改めよ。
(黙示録3,19)
四旬節という、わたしたちキリスト者にとって最も大事なシーズンに入った途端にミサができない事態となりました。
この本は、今のコロナウィルスによる影響について書かれているわけではなく、カトリック教会全体の今置かれている危機的状況について書かれたものです。
ですが、今のわたしたちへのメッセージとも受け取れないでしょうか。
前イエズス会総長のアドルフォ・ニコラス神父様は、上智大学の講演で以下のように話されています。
「キリストの体の秘跡とは、聖櫃の中に安置されている聖体のことではありません。
キリストの体の秘跡とは、ホスチアだけではなく、ともに食べ、ともに飲む「おこない」としての感謝の祭儀です。
教会がミサを祝うと同時に、ミサが教会を作るという相互関係を、司祭も信徒も皆が意識していなければなりません。
ここに私たちのアイデンティティがかかっています。」
弟子たちとともにする食事のなかに、イエス様はその生涯の究極の意味を表現されています。
愛する弟子たちに、これまでのご自分の生き方を集約し、これからの十字架の死を先取りする表現として、この食事を祝っています。
最後の晩餐に限らず、イエス様は何度も何度も貧しい人々とともに食事をした姿が福音書に描かれています。
特に、罪びと、徴税人など社会の中でつまはじきにされていた人たちとともに食事をし、神の国の宴への招きを示したのです。
また、どこに座るか、だれを招くか、どのようにふるまうかなど、イエス様の大切な教えの場でもありました。
あなたがたのうちで一番偉い者は年下の者のようになりなさい。
上に立つ者は、給仕する者のようになりなさい。
食卓に着く者と給仕する者とでは、どちらが偉いか。食卓に着く者ではないか。
しかし、わたしはあなた方の中で、給仕する者のようになっている。
(ルカ22・26~27)
さらにペトロは説教の中で、イエス様の復活の証人を、
「前もって神に選ばれた証人、つまり、イエスが死者の中から復活したあと、ご一緒に食事をした私たち」
(使徒言行録10・41)
と呼んでいます。
キリストとしてのイエス様を証しするのは、ペトロたちだけではなく、キリストともに食事をするすべての人々です。
現代のわたしたちも、その証しする人々なのではないでしょうか。
見よ、わたしは戸口に立ってたたいている。
もし、誰かがわたしの声を聞いて戸を開くなら、わたしはその人の所に入って、食事をともにし、
その人もまたわたしとともに食事をする。
(黙4・20)
ニコラス神父様によると、ミサは個人の信心ではなく、教会にとってそのアイデンティティを表す表現です。
つまり、教会の自己表現、教会の生きる場である、というのです。
ミサを祝うことによって、私たちはキリストとの交わり、またお互い同士の交わりを新たにしてるのです。
お二人の神父様のお言葉から、ミサの意義、そのなかでの信徒の担う役割と責任について、とても考えさせられました。
久留米教会のお二人の神父様、「Mr.なごみ神父」と「Mr.癒し助祭」です。