カテゴリ:四旬節
いつも「ここにいる」
黄砂や花粉が飛び始めても、久留米の空はエルサレムのように澄み渡っています。
新緑の力強さが感じられる四旬節が始まりました。
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イエス様は、神から『わたしの愛する子、わたしのこころに叶うもの』と言われたのちすぐに悪魔の試みにあわれました。
「神様から愛され、我が子とまで呼ばれたのに、なぜ試されたのでしょうか。」
森山神父さまに質問してみました。
「イエス様もひとりの人間です。
わたしたちと同じように、苦しんだり悲しんだりする存在です。
人間とは、とかく独りよがり、自己中心に陥りがちで、神への信頼を忘れてしまいます。
旧約の民がそうであったように、イエス様でさえ、神にイニシアティブがあることを徹底的に教えられたのです。
わたしたち人間への徴として、イエス様にも試練が与えられたのです。」
6日のごミサのお説教では、宮﨑神父様がこうおっしゃいました。
「四旬節の四十日、四十年といった数字は、永遠の命への準備期間の象徴であり、わたしたちの人生そのものを指しているとも言えるでしょう。
人生では当然、試されたり試練に遭うこともあります。
イエス様も霊によって守られたのですから、どのような時も聖霊の導きに委ねるのです。」
わたしたちは、何か困難に遭った時にそれを「神からの試練」とはすぐに捉えられないものです。
苦しい時間を過ごし、神様に祈りながら(時には神様に文句も言いながら)時間の経過を耐え、物事が好転したり気持ちが落ち着いて後、「あぁ、あれは与えられた試練だったのだ」と振り返ることができるものでしょう。
その時のために、あらためて常に心に刻んでおかなければならないと、気持ちが引き締まりました。
今のわたしは、本当の永遠の命を得るために多くの試練を乗り越える必要があること、聖霊がいつもともにいてくださること。
悪魔はあらゆる試みを終えると、定められた時までイエスを離れた。
(ルカ4・13)
フランシスコ会訳聖書の注釈にはこうあります。
[「定められた時」はイエスの受難の時を指す。
その時には、悪魔はユダヤ祭司長や長老たちを使って、イエスに対して最後の攻撃を行う。]
マタイとマルコの並行箇所は、次のように書かれています。
そこで、悪魔はイエスから離れた。
すると、み使いたちが現れ、イエスに仕えた。
(マタイ4・11)
イエスは四十日の間そこに留まり、サタンによって試みられ、野獣とともにおられたが、み使いたちがイエスに仕えていた。
(マルコ1・13)
答唱詩編の詩編91・11〜12がこの箇所の根拠です。
神があなたのために使いに命じ、
あなたの進むすべての道を守られる。
神の使いは手であなたを支える。
「あなた」とは、わたしたちのことであると捉えると、とても心強く響いてきます。
お前たちの中の誰が、主を畏れ、その僕の声に聞き従うのか。
明かりを持たずに暗闇を歩いて、
なお主の名に信頼し、自分の神に頼るのか。
(イザヤ50・10)
まことに、お前たちの手は血で、指は悪行で汚れ、
唇は偽りを語り、舌は邪なことを発する。
彼らの働きは不正な働き、手にあるのは暴力。
彼らの足は悪に走り、罪なき者の血を流そうと急ぐ。
彼らの思いは不正の思い、その行く道にあるのは荒廃と破壊。
平和の道を彼らは知らず、巡りゆくその道筋に公正はない。
彼らは自分の行く道を曲げ、その道を歩む者は誰も平和を知らない。
(イザヤ59・3~8)
去年の今ごろは何が起きていただろう、と思い、気になった記事などをファイリングしているものを開いてみました。
ちょうどこの頃、パパ様はイラクを訪問されていました。
過激派組織によって長年苦しみ、宗教的にも政治的にも混乱が続くイラクへの教皇の歴史的な訪問は、冷ややかな姿勢で報道されました。
一昨年のこの頃には、イタリアで新型コロナウィルスが猛威を震い、多くの司祭・修道者が感染者に寄り添うために出かけて行き、命を落としました。
いつも世界のどこかで、想像を絶する苦難や試練に遭っている人がいるのです。
ローマ教皇というお立場は、平和の象徴でもあると思っています。
わたしたちは、いつも困難に遭っている人々に寄り添われる教皇様を信頼し、その言動から神様がいつもそばにいてくださることを感じることができます。
この四旬節の間、食を断つ意味ではなく、本来の「断食」を続けましょう。
「御言葉はあなたの近くにあり、あなたの口、あなたの心にある。」
聖書にも、「主を信じる者は、だれも失望することがない」と書いてあります。ユダヤ人とギリシア人の区別はなく、すべての人に同じ主がおられ、御自分を呼び求めるすべての人を豊かにお恵みになるからです。
「主の名を呼び求める者はだれでも救われる」のです。
(ローマ10・8~13)
わたしは、わたしを尋ね求めなかった者にわたしを追い求めさせた。
わたしは、わたしを捜さなかった者にわたしを見出させた。
わたしは、わたしの名を呼ばなかった国に向かって、
『わたしはここにいる、わたしはここにいる』と言った。
(イザヤ65・1)
いないのは神様ではなく、人の心なのだ、ということです。
神様はいつも「ここにいるよ」と寄り添ってくださっていることを、誰もが忘れないように。
「断食」という言葉の本来の意味は、次のイザヤ書の言葉の通りである、と以前教わりました。
これこそ、わたしが選ぶ断食ではないのか。
不正の鎖を解き、軛の結び目を解き、
虐げられた人を開放して自由の身にし、
軛をすべて、打ち砕くこと。
飢える人にお前のパンを分かち与え、
家のない貧しい人々に宿を与え、
裸を見れば、着物を着せ、
お前の同胞に対して見て見ぬふりをしないこと。
その時、お前の光は暁のように輝き出で、
お前の癒しは速やかに生じる。
お前の正しさがお前の先を行き、
主の栄光が背後の守りとなる。
その時、お前が呼べば、主は応え、
叫べば、『わたしはここにいる』と仰せになる。
もし、お前の中から軛を除き、
指をさすことや中傷をせず、
飢える者のために尽くし、
虐げられる者の必要を満たすなら、
お前の光は闇の中に輝き出で、
お前の暗闇は真昼のようになる。
(イザヤ58・6~10)
2022年の四旬節を、断食の祈りと共に過ごしましょう。
希望の火
天皇陛下は、62歳の誕生日に際してのお言葉で、コロナ禍に対し「支え合う努力を続けることにより、この厳しい現状を忍耐強く乗り越えていくことができる」とおっしゃいました。
また、「つながりを大切にしながら、心に希望の火を絶やさずに」と呼びかけられました。
忍耐強く、希望の火を絶やさずに。
まもなく始まる今年の四旬節を前に、困難の最中にある人々へ心を向けることの大切さを再認識したいと思います。
四旬とは、試練・苦難の象徴である数「40」を意味します。
ウクライナの人々のことを思い、苦しい気持ちで過ごしています。
まさに聖書で言うところの「荒野の40年」のような状況に置かれているのかもしれません。
旧約のイスラエルの民と重なって見えます。
バビロン捕囚で苦しみ、外国勢力による支配で迫害を受け続けた彼らは、民族の救いと、救い主の到来を忍耐強く、希望の光を絶やさずに待ち続けたのでした。
40年という数字は、文字通りの年月ではなく、試練・苦難の象徴として使われます。
新しい秩序に向かうための時間であり、神に出会うために必要な時を表す数字です。
四旬節の教皇様のメッセージを皆様もお読みになったことでしょう。
「一人が種を蒔き、別の人が刈り入れる」(ヨハネ4・37)
他の人のために良い種を蒔きなさい。
この回心の時に、神の恵みと教会での交わりに支えを得て、たゆまずよい種を蒔きましょう。
断食は地を整え、祈りは地を潤し、愛は地を実らせます。
断食と祈りは一人でもできます。
それに比べ、地を実らせるための愛の実践はなんと難しいことでしょうか。
人のために良い種を蒔く、とはどういうことでしょう。
わたしはあなた方を遣わした。
自分で苦労しなかったものを、あなた方に刈り取らせるためである。
ほかの人々が苦労して、あなた方はその労苦のお陰を被っている。
(ヨハネ4・38)
種蒔く者に、種と食べるためのパンを与えてくださる方は、あなた方に蒔く種を与え、増やし、また、あなた方の慈しみが結ぶ実をますます大きくさせてくださいます。
(2コリント9・10)
わたしたちの人生全体が良い種を蒔く時だ、と教えてくださっています。
今日わたしたちが出会った人に、キリストの香りを振りまくことができたでしょうか。
霊という畑に種を蒔く者は、霊から永遠の命を刈り取ります。
倦まず弛まず善を行いましょう。
飽きずに励めば、時が来たとき、わたしたちは刈り取ることになります。
(ガラテヤ6・9)
わたしたちの日々の行いは、すべて種を蒔く行為なのだ、と考えることができます。
その言動は、良い実を結ぶのか。
いつもそう考えて人に接し、言葉を発する、とても難しいことかもしれませんが、少なくとも「あんなことを言わなければよかった」「もっと優しくすればよかった」などといった後悔の気持ちからは解放されます。
先日の宮﨑神父様のお説教にあったように、「教会に来て神父や信者の悪口を言うような日曜日を送ってはならない」のです。
荒野の40年は、あの時のイスラエルの民には必要な犠牲だったかもしれません。
ですが、今のウクライナが置かれている状況は耐えるべき苦難とは言い難いものです。
アメリカとドイツが、ウクライナへ地対空ミサイルや戦車といった武器の提供を決定した、と報道がありましたが、それは決して良い種ではないと思います。
ウクライナ正教会は、ロシア正教会から分離独立したという経緯があります。
宗派は違えど、キリスト教の教えを汲む東方正教会の一員である、ロシア正教とウクライナ正教。
少なくとも、多くのウクライナ人、ロシア人がキリスト者であるという事実も忘れてはならないでしょう。
宗教的にも政治的にも、自分が正しい、という驕りは良い実を結ぶ考え方ではありません。
経済制裁で直接的に影響を受けて苦しむのは、ロシアの一般国民です。
何が解決法なのか。
ウクライナの人々が希望の火を失わないように、全身全霊で祈ること、今わたしたちにできるのはこれしかありません。
犠牲になった人々、今困難の中にあるウクライナの人々、リーダーの行動のために不本意な迫害を受けているロシアの人々のために祈りを捧げることに注力するときです。
倦まず弛まず、飽きずに、世界中のキリスト者が一丸となって祈り続けるのです。
宮﨑神父様もおっしゃっていました、「ロザリオの祈りは世界を変える力を持っている」と。
教皇フランシスコは、ウクライナにおける状況に深い悲しみを表明され、次のように呼び掛けられています。
「信者の皆さん、そうでない皆さん、すべての人に呼びかけます。
暴力の悪魔的な無分別さに対して、神の武器、すなわち、祈りと断食をもって答えることをイエスは教えました。
来る3月2日、「灰の水曜日」を、平和のための断食の日とするよう皆さんにお願いいたします。
特に信者の皆さんが、その日を祈りと断食に熱心に捧げるよう励ましたいと思います。
平和の元后マリアが、世界を戦争の狂気から守ってくださいますように。」
過去との対話
わたしたちはそれぞれに『神様との歩みの歴史』を持っています。
わたしはいにしえの日々を思い起こし
あなたのなさったことをひとつひとつ思い返し
御手の業を思いめぐらします。
あなたに向かって両手を広げ
渇いた大地のようなわたしの魂を
あなたに向けます。
(詩編143・5~6)
フランシスコ会訳はまたニュアンスが違います。
わたしは過ぎし日をしのび、
あなたの行われたことをすべて思い巡らし、
あなたの手の業に思いを潜めます。
わたしはあなたに手を差し伸べ、
わたしの魂は乾ききった地のように
あなたを慕います。
5節を直訳すると
わたしはわたしの前にある日々を思い出し、あなたのすべてのみ業を思う
となるそうです。
21(日)四旬節第5の主日の第一朗読はエレミヤ31・31~34でした。
見よ、わたしがイスラエルの家、ユダの家と新しい契約を結ぶ日が来る、と主は言われる。
この契約は、かつてわたしが彼らの先祖の手を取ってエジプトの地から導き出したときに結んだものではない。
わたしが彼らの主人であったにもかかわらず、彼らはこの契約を破った、と主は言われる。
神を「主」とあおいでいたイスラエルの民は、主との契約を反故にして周囲の大国と同じように「王」を望んだため主から見放されます。
その結果としてバビロン捕囚で神殿と王と土地を失った、エレミヤはそう嘆きます。
エレミヤは実際にバビロン捕囚の時代に生きた預言者です。
前週、第4の主日の第一朗読の歴代誌です。
神殿には火が放たれ、エルサレムの城壁は崩され、宮殿はすべて灰燼に帰し、貴重な品々はことごとく破壊された。
剣を免れて生き残った者は捕らえられ、バビロンに連れ去られた。
こうして主がエレミヤの口を通して告げられた言葉が実現し、この地はついに安息を取り戻した。
その荒廃の全期間を通じて地は安息を得、七十年の年月が満ちた。
(歴代誌下36・19~21)
神殿が破壊されバビロン捕囚で主だった人々が連れ去られたのに、「地は安息を得た」という表現がなされています。
歴代誌はエルサレムがバビロニア軍に破壊されたBC587年より140年ほど後に書かれたとされています。
こうしたイスラエルの過去の歴史を基礎としてユダヤ人が聖書を編纂していくわけですが、その過程においてもっとも重要なのは「後ろを振り返って過去を見ている」のではないという点です。
普通わたしたちは、自分の過去を記録に残そうとする際、たどってきた歴史を都合の良いように頭の中で編集してしまうものです。
しかし聖書を記したユダヤ人たちは、過去は神が導いてきた歩みとして自分の目の前に置いて、その意味を思い巡らしながら目標に達するべく人生の舵を取っているのです。
それが、冒頭の詩編に表れています。
「わたしはいにしえの日々を思い起こし
あなたのなさったことをひとつひとつ思い返し
御手の業を思いめぐらします。」
3.11を過去の歴史に埋もれさせてはならない、次世代に語り継いでいきたい、そういう思いで語り部として活動している若い世代の方々をテレビで観ました。
彼らの深い思いを簡単に理解したふりはできませんし、ここに表現することもできませんが、単に辛い経験を話していらっしゃるのが語り部ではないと思います。
前を向いて、未来のために過去と対話しながらその意味を深く考える。
わたしたちそれぞれの『神様との歩みの歴史』についても同じです。
宮崎神父様がおっしゃったように、四旬節は自らの信仰生活を振り返る時です。
自分のこれまでの人生、信仰生活を後ろに振り返るのでなはく、神様がお示しになったひとつひとつの意味と対話することが大切です。
自分のいたらなかった振る舞いも、忘れ去りたい嫌なこと辛いこともすべて、神様が共にいてくださった歴史だということを忘れずに前を向いて生きたいのです。
教皇様の巡礼の旅
教皇フランシスコが2019年11月の日本以来の海外訪問としてイラクを訪れたことは、メディアでも大きく取り上げられました。
わたしが読んだ新聞の記事は「ISの元支配地で紛争犠牲者に祈りをささげ宗教融和を演出」「カディミ政権の教皇受け入れは単なるプロパガンダ」などと、あまり好意的なものではありませんでした。
メディアリテラシーを発動すべき時ですね。
教皇様がどのような思いで、何のためにイラクを訪問されたのか、わたしたちはきちんと正しく理解しておく必要があると思います。
これまでローマ教皇がイラクを訪れたことはなく、今回の訪問が初となりました。
教皇の訪問の目的は、「イラクのキリスト教徒らを励まし、同国の復興と平和を祈り、諸宗教間の対話を育むことにある」とバチカンニュースは報じています。
2日目に、聖書にも記載のある古代都市、ウルを訪問されました。
ウルは、かつてメソポタミア南部に位置した古代都市。
旧約聖書の「創世記」には「カルデアのウル」と記され、父祖アブラハムの生誕の地とされています。
教皇様は、「アブラハムが生まれ、神の声に従い旅立ったこの場所から、共にアブラハムを父祖として尊ぶ、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教、そして他の宗教の人々が、互いを兄弟姉妹として、アブラハムと同じように天の星を見つめながら、平和の道を共に歩んでいけるように」と挨拶で話されました。
3日目にはモスルを訪問されました。
モスルは、2014年から2017年にかけて過激派組織ISに占領された街です。
占領から解放までの激動の期間、人命はもとより、家屋、市民生活、社会・経済機能、文化遺産など、膨大な犠牲をはらいました。
占領されている期間に、2004年に人口およそ185万人だったモスルから、キリスト教徒12万人以上を含む、約50万人の住民が他地域や国外に避難しました。
解放後の現在、モスル市民は国際社会の協力を得ながら復興という大きな挑戦に立ち向かい、難民となった人々の帰還のために努力しているのです。
(青字はVATICAN NEWSより参考)
https://www.vaticannews.va/ja/pope/news/2021-03/iraq-incontro-interreligioso-ad-ur-20210306.html
https://www.vaticannews.va/ja/pope/news/2021-03/iraq-mosul-preghiera-per-le-vittime-della-guerra-20210307.html
「真の宗教性とは、神を礼拝し、隣人を愛すること」
教皇様はおっしゃいました。
「人間は宗教によって兄弟であるか、あるいは創造によって平等である」
イラクのイスラム教シーア派最高権威、シスタニ師のおことばです。
84歳と90歳のお二人の2つのことばに、今回の訪問の目的の真実が表れていると思います。
教皇様は『演出』するために他宗教を持ち上げたりなされないことを、わたしたちは理解しています。
なぜなら、キリスト教徒もイスラム教徒も、隣人愛を重んじていることは不変の事実だからです。
ここで起きた非常に多くの破壊と残虐行為を悔やむ者として、天と兄弟姉妹にゆるしを請いに、そして平和の君、キリストの名において平和の巡礼のためにイラクに来ました。
どれほどイラクの平和を祈ったことでしょう!
神は聞いてくださっています。
神の道を歩むかどうかは、私たち次第なのです。
教皇様のツイッターです。
これが、教皇様の思いです。
帰国の際の機内でのインタビューで「今回の訪問は他の訪問より疲れた。84歳という年齢の波は、一気に来るのではなく、後から少しずつやってくる。」と語られたそうです。
帰りの飛行機の中でさえお働きになるのです。
教皇様はまだ訪れていない多くの国への訪問の希望を語られています。
そのひとつは、祖国アルゼンチンです。
今回のイラク訪問は、教皇様の側近もヴァティカン政府もみなが反対していたそうです。
テロの可能性、年齢的なこと、体力の問題、そしてコロナ禍でもあるからです。
「反対を押しての今回の訪問は、決して我がままではなく長い間に考え抜いたものだ」と語られていました。
聖霊に使命感を与えられているとこうもパワーがみなぎるものか、と驚くばかりです。
『ローマ教皇は最強の平和の使徒』なのだ、と単純な安易な言い方をするつもりはありませんが、パパ様の笑顔をまじかで見て力を得た信徒の一人としては、他宗教の方々も含めもっと多くのひとを勇気づけに ApostolicJourney 教皇様の平和の巡礼の旅に出かけていただきたいと願います。
苦難の折の祈りのことば
10年前の3月11日、どこで何をしていたか覚えていますか?
わたしは知り合いからの電話でテレビをつけ、大きな地震が起きたことを知りました。
個人的に2011年は、苦難の毎日でした。
どうやって生活(食事や掃除洗濯など)していたか全く記憶がないほど全てのことが大変で、それ以前もそれ以後もあれほど苦しい年はありません。
東日本大震災で被災された方々は計り知れない苦難の日々を送られていたことと思います。
苦難の大小は比較できるものではありませんが、あの2011年はいまのコロナ禍とは全く違った苦しみの日々を送った大勢の方がおられました。
わたしは、あの日々があったからこそ今がある、と確信しています。
10年経った今は自信を持って「乗り越えた」と言える心境です。
2011年を何年もかけて乗り越えられたのは、間違いなく神様がずっとそばにいてくださったからです。
福音宣教3月号の中から、聖書学者の本多峰子さんの連載の要点を書き出してみます。
◆苦しみが本当に無効にされるには、その苦しみがより大きな善のひとつの原因となって、その苦しみがあったからこそもたらされるよいことが成就しなければならない。
◆つらい経験の後では、いままでは当たり前と思っていた幸せを何倍も強く、大切に感じることができるようになるということもある。
けれども、それは苦しみの目的ではなくて、結果だ。
神様はそのようなことのために苦難をお与えになるのではなく、むしろ、そのような苦難の中からさえも幸せをもたらしてくださる、ということ。
◆神様はわたしたちに、苦難を乗り越える力や助け合う力を与えて、助け合って成長してゆくことさえも可能にしてくださっている、ということが恵み。
◆苦難があるから至福があるのではなく、苦難があっても至福がある。
◆神様はわたしたちの成長のために苦難を与えるのだと考えるよりも、苦難の最中にあって神様はわたしたちを助け、わたしたちを成長させてくれる。
眠れないほどの苦難の最中にできることは、その現状に抗うことではなく、神様へのクレーム(「どうしてですか!?」「どうしたらいいのですか!?「なにをお望みですか!?」など)とともに祈ることしかできない、というのがわたしの経験です。
苦難の折に聖ヨセフへとりなしを願ってみることを勧めます。
聖ヨセフへの祈り
以前ご紹介したとおり、今年の12/8まで聖ヨセフ年となっています。
それに伴って新しい祈りのことばが発表されました。
聖ヨセフよ、わたしたちは苦難の中からあなたにより頼み、あなたの妻、聖マリアの助けとともに、あなたの保護を心から願い求めます。
あなたと汚れないおとめマリアを結んだ愛、幼子イエスを抱いた父の愛に信頼して、心から祈ります。
イエス・キリストがご自分の血によってあがなわれた世界をいつくしみ深く顧み、困難のうちにあるわたしたちに
力強い助けをお与えください。
聖家族の賢明な守護者よ、イエス・キリストの選ばれた子らを見守ってください。
愛に満ちた父ヨセフよ、わたしたちから過ちと腐敗をもたらすあらゆる悪を遠ざけてください。
力強い保護者よ、闇の力と戦うわたしたちを顧み、天から助けを与えてください。
かつて幼子イエスをいのちの危険から救ったように、今も神の聖なる教会を、あらゆる敵意と悪意から守ってください。
わたしたち一人ひとりを、いつも守ってください。
あなたの模範と助けに支えられて聖なる生活を送り、信仰のうちに死を迎え、天における永遠の幸せにあずかることができますように。
アーメン。
(2021年2月16日 日本カトリック司教協議会定例司教総会認可)
次にご紹介する祈りは、教皇フランシスコが40年以上毎日唱えられている、イエズス・マリア修道会の19世紀の祈祷書の中の聖ヨセフへの祈りです。
栄光に満ちた父祖、聖ヨセフ。
あなたは不可能なことを可能にできる力のあるかたです。
苦悩と困難にある今この時に、どうか助けに来てください。
深刻で困難な状況を、わたしはあなたにゆだねます。
あなたの保護のもとに引き受けてください。
そうして、よい解決策を得ることができますように。
愛する父よ。あなたを心から信頼します。
あなたにむなしく祈った、そうなることのないように。
あなたはすべてのことを、イエス、マリアとともに行われるのですから、あなたからの恵みが、あなたの力ほどに大いなるものであることを示してください。
アーメン
この祈りは、先ほど発行された新しい使徒的書簡「父の心で」に紹介されていました。
あの震災から10年。
心の傷が完全に癒えたとは感じられない方もまだ多くいらっしゃることでしょう。
コロナ禍の様々な規制によって苦難の最中にある方も多い今、「沈黙の聖人」と言われる聖ヨセフへの祈りが心の支えとなりますように。