カテゴリ:聖書
熱い信仰
梅雨明けであって欲しい、そんな空です。
ジメジメとしているよりも、カラッと暑い季節が好きです。
以前、宮﨑神父様が「あなたの信仰がなまぬるいものでないか、自問してみてください」とお説教でおっしゃったのが、ずっと心に残っていました。
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信仰とは火を消してしまう水ではありません。
燃え上がる炎なのです。
ストレスにさらされている人のための鎮静剤でもありません。
信仰は、神を求めて恋をしている人のラブ・ストーリーなのです!
ですから、イエスは何よりも「なまぬるいこと」を嫌われるのです。
Faith is not water that extinguishes flames, it is fire that burns; it is not a tranquilizer for people under stress, it is a love story for people in love! That is why Jesus above all else detests lukewarmness (cf. Rev 3:16).
(教皇フランシスコ Twitterより)
最近は、この本と並行してヨハネの黙示録を読んでいます。
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黙示録は、旧約聖書の内容をベースに、独特の言い回しでさまざまなシンボルに例えて書いてあります。
わたしたち現代人にはそのシンボルを理解するのが難しく、とても難解で分かりにくい聖書の代表のように捉えてしまいます。
福音書の著者ヨハネではなく、ヨハネと言う名前の1世紀末の人物によって書かれたものだそうです。
自らを預言者であるとし、黙示録は典礼祭儀のなかで会衆に向けて朗読するための書である、と書いています。
この預言の言葉を朗読する者と、これを聞いて中に記されたことを守る者たちは、幸いだ。
時が迫っているからである。
(1・3)
会衆に向けられた書、ということで、わたしたちはもう少し気楽に読んでも良いのかもしれません。
『今おられ、かつておられ、やがて来られる方』という、黙示録独特の神様の呼び名が、1章に2回出てきます。(1・4&8)
これは、出エジプト記にある「わたしはある、わたしはあるという者だ」を分かり易くいいかえたものだ、と今道さんは書いておられます。
エジプトからの脱出、約束の地に導き、バビロン捕囚を通して民に自尊心を与え、主に忠実な民に立ち返らせてくださった神。
かつてこれほどのことをしてくださり、今わたしたちを支えてくださる神は、世界にキリスト教が広まることを通して深い意味でともにいてくださる方であり、終末にはキリストの再臨をもたらしてくださる神。
それが、『今おられ、かつておられ、やがて来られる方』なのです。
アーメンである方、忠実で信実な証人、神の創造の初めである方が、こう仰せになる、
わたしはお前の行いを知っている。
お前は冷たくもなく熱くもない。
むしろ、熱いか冷たいか、いずれかであればよいものを。
だが、このように、お前は熱くもなく冷たくもなく、生ぬるいので、わたしはお前を口から吐き出そうとしている。
(3・14~16)
『アーメンである方』という言い方も、黙示録特有のものです。
新約の中で、アーメンがキリストの属性として使われている唯一の例だそうです。
今道さんによると、わたしたちへの神の約束に対する忠実と、神の呼びかけに対する人間のポジティブな応えとしての「アーメン、はい」の両方を、一身に具現しているキリストを表すのが「アーメンである方」、ということです。
「むしろ、冷たいか熱いか、どちらかであってほしい」という表現、面白いと思います。
まるで恋人同士の会話のような、真摯な愛を求めるイエス様のみ心でしょう。
冒頭に紹介したパパ様のツイッターにある通り、信仰は、神を求めて恋をしている人のラブ・ストーリーなのです。
見よ、わたしは戸口に立ってたたいている。
もし、誰かがわたしの声を聞いて戸を開くなら、わたしはその人の所に入って、食事をともにし、その人もまたわたしとともに食事をする。
(3・20)
神様は、わたしたちが熱い気持ちで信仰を求める気持ちを期待されている、そういう感じが伝わってきます。
まだ3章までしか読み進めることができていませんが、今道さんの解説を同時に読みながら聖書をめくると、ヨハネの意図していたことが薄っすらと理解できるような気がしてきます。
わたしたちを満たすもの
「今日の聖書朗読」を読むのが習慣だという方、多いかと思います。
好きな箇所、特に旧約のお気に入りの箇所が出てくると嬉しくなり、満たされた1日を送ることができます。
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見よ、そのとき主が通り過ぎて行かれた。
主の御前には非常に激しい風が起こり、山を裂き、岩を砕いた。
しかし、風の中に主はおられなかった。
風の後に地震が起こった。しかし、地震の中にも主はおられなかった。
地震の後に火が起こった。しかし、火の中にも主はおられなかった。
火の後に、静かにささやく声が聞こえた。
(列王記上19・11~12)
19章では、エリヤが長距離の逃避行をします。
神のことばに従って、その通りに生きてきたと自負していたエリヤは、報われないと思っていました。
そして、アハブに命を狙われ、神の山ホレブへと逃げて洞窟に引きこもります。
神が激しい風を吹かせ、地震、火を起こしても、エリヤはそこから出てきません。
「静かにささやく声」(フランシスコ会訳では「かすかにささやく声』)で、神様の現存をようやく感じ、出てくるのです。
強制的にではなく、エリヤの自由意思に任せようという神様の優しさ、エリヤへの信頼なのだ、と教わりました。
英神父様は「神はささやく声で語りかける。静けさがないと聞こえない。心の静けさを大切にして、神のささやく声を聞こう。」とおっしゃっています。
体は一つ、霊は一つです。
それは、あなたがたが、一つの希望にあずかるようにと招かれているのと同じです。
主は一人、信仰は一つ、洗礼は一つ、
すべてのものの父である神は唯一であって、すべてのものの上にあり、すべてのものを通して働き、すべてのものの内におられます。
(エフェソ4・4~6)
体、霊、希望、主、信仰、洗礼、神
この7つはそれぞれ一つであり、同時に7つの共同体でもあります。
父と子と聖霊が、それぞれ独立したものではないのと同様です。
宮﨑神父様がお説教で、こうお話しされました。
「三位一体について説明するのはとても難しい。わたし自身も完全に理解しているとは言えない。
でも、大切なのは、理解することではなく信じること。」
ともし火をともして升の下に置く者はいない。燭台の上に置く。
そうすれば、家の中のものすべてを照らすのである。
そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。
人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである。
(マタイ5・15~16)
この箇所は、「ただで受けたのだから、ただで与えなさい。」(マタイ10・8)と同様に、わたしがとても大切に心に刻んでいる教えです。
自分のいただいている光が輝くような生き方をしたい、いつもそう思っています。
わたしたちは知っているのです、苦難は忍耐を、忍耐は練達(試練に磨かれた徳)を、練達は希望を生むということを。
希望はわたしたちを欺くことがありません。
わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです。(神の愛がわたしたちの心の中で溢れ出ているからです。)
(ローマ5・3~5)()はフランシスコ会訳
聖書はいつも、わたしの心を満たし、生活に潤いを与えてくれます。
それが、穏やかな日常、ストレスに負けない精神の基になっていると思っています。
アウグスティヌスの「告白」の一説です。
私たちはあなたから遠ざかったり近づいたりいたします。
しかし、けっして場所ではありません。
すべての人は、自分の聞きたいことをあなたにたずねます。
しかしかならずしも、聞きたい答えを、いただくとはかぎりません。
自分の聞きたいことをあなたから聞こうとするよりもむしろ、あなたから聞くことをそのままにうけとりたいと心がける人こそは、最良のあなたのしもべなのです。
(第10巻 第26章)
人生における苦しい局面も、聞きたくないような耳の痛い言葉も、避けて通ることばかりはできません。
苦難が希望へ繋がるという教えは、生きて行く上でとても大切なものです。
最後は、今週の読書で1番心に残った文章をご紹介します。
栄光は神である御父に、また万物の王である御子に。
栄光は最高の讃美をささげるべき至聖なるお方である聖霊に。
三位一体の唯一の神は、万物を創造し、天には天に住むものを、地には地に住むものを満たされた。
神は、海と川と泉を水に住むもので満たされ、ご自分の霊であらゆるものにいのちを与え、あらゆる被造物が、智慧あるその創造主を、つまり生き続け、いつまでも永らえる唯一の原因であるお方を讃美するようにされた。
理性を備える被造物(天使および人間)は、しかし、特に、常に神を大いなる王、善き父として讃美せよ
(ナジアンゾスの聖グレゴリオス)阿部 仲麻呂神父様 訳
自分の主張
先週から、宮﨑神父様が新しいミサ式次第の解説と練習をしてくださっています。
まだ全てを理解したわけではありませんが、とても心を動かされた変更箇所があります。
主よ、あなたは神の子キリスト、永遠のいのちの糧、
あなたをおいて、だれのところに行きましょう。
これが、↓
主よ、わたしはあなたをお迎えするのにふさわしい者ではありません。
おことばをいただくだけで救われます。
これは、マタイ8章の百人隊長のことばに基づいた文で、規範版ではこちらの式文が用いられてきたようです。
すると、百人隊長は答えた。
主よ、私はあなたをわが家にお迎えできるような者ではありません。
ただ、お言葉をください。そうすれば、私の子は癒やされます。
(マタイ8・8)
ただし、これまでのとおりに唱えてもよい、となっています。
控えめな態度、言葉が美しい箇所です。
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安息日に町の門を出て、祈りの場所があると思われる川岸に行った。
そして、わたしたちもそこに座って、集まっていた婦人たちに話をした。
ティアティラ市出身の紫布を商う人で、神をあがめるリディアという婦人も話を聞いていたが、主が彼女の心を開かれたので、彼女はパウロの話を注意深く聞いた。
そして、彼女も家族の者も洗礼を受けたが、そのとき、「私が主を信じる者だとお思いでしたら、どうぞ、私の家に来てお泊まりください」と言ってわたしたちを招待し、無理に承知させた。
(使徒言行録16・11~15)
この積極的な態度、面白いですね。
旧約、新約、どちらの聖書も、自分の主張をハッキリとさせるタイプの女性が多く登場します。
21世紀の現代とは違い、女性の社会的地位はとても低かったはずです。
自分の意見や意志をしっかりと持っていた女性が多くいたことよりも、そうした彼女たちの様子が聖書にイキイキと物語られていることに関心があります。
マルタとマリア姉妹のエピソードがあります。
イエス様が弟子たちとともに姉妹の家を訪問した際、食事を用意して給仕してせわしなく立ち働くマルタと、弟子たちに交じってイエス様の教えに耳を傾けるマリア。
そのことをイエス様に率直な言い方で「手伝うように、妹になんとか言ってください!」と迫るマルタ。
(ルカ10・39~42)
『マルタとマリアの家のキリスト』フェルメール作
『マルタとマリアの家のキリスト』ベラスケス作
兄のラザロが病気になったとき、人を遣わしてイエス様を呼びます。
イエス様が来られた時、マルタは迎えに行きますが、マリアは家の中に座っています。
二人とも、同じ気持ちだったのでしょう。
「ここにいてくれたら、もっと早く来てくれたら、兄は死なずに済んだのに、、、」
マルタはそれを直接ことばにして伝えますが、マリアは沈黙のうちに抗議したのかもしれません。
有名な絵画にも、意図的に「口うるさい姉」と「観想的な妹」として表現されているとおり(ベラスケスの絵は明らかにふてくされた顔の姉)、古代から西洋世界ではマリアの方が優れた人間性の持ち主だという解釈がなされていたようです。
じつはわたしも、「長女は家のために働いて、だいたい口うるさいものよ。わたしみたいに、、、。妹は気楽でいいよね~。」と思っていました。
福音宣教6月号の本多峰子さんの連載に、こう書いてあります。
「マルタはイエスを敬愛し、イエスを精いっぱいもてなそうとしていますが、同時にイエスには、全く隔てのない近さで接しています。
これはマルタが、すべての思いを包み隠さず、イエスに完全に心を開いていることの表れです。」
「ほとんどイエスをとがめるような言い方をしています。
でも同時に、イエスに行動を求め、ラザロの救いをあきらめようとはしません。
これは、マルタの信仰の強さです。
マルタはとことんイエスに食い下がります。
イエスが神に願うことは何でもかなえられると信じるマルタは、同時に、自分が心からイエスに願うことをイエスはかなえてくれると信じているのです。」
気が強く、男性にも負けずに食い下がる女性。
昔も今も、こういう女性はめんどくさいと思われるかもしれません。
「先生方、救われるためにはどうすべきでしょうか。」二人は言った。
「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたも家族も救われます。」
そして、看守とその家の人たち全部に主の言葉を語った。
まだ真夜中であったが、看守は二人を連れて行って打ち傷を洗ってやり、自分も家族の者も皆すぐに洗礼を受けた。
この後、二人を自分の家に案内して食事を出し、神を信じる者になったことを家族ともども喜んだ。
(使徒言行録16・22~34)
真夜中なのに、洗礼を授けてもらい、家に連れて帰って食事まで。
やや強引とも思える行動です。
信仰を持つ、ということは、ときには「強引に」自分を主張してもよいのだ、とも思えます。
めんどくさいくらいに自分の主張を神様にぶつけることも、時には必要でしょう。
リディアのように積極的で、マルタのように意志が強く、妹のマリアのように秘めた強さを持ち、
「はいはい、わかりました」
そう神様に言われるくらいまで、強い信仰を貫いて生きて行ってもいいのです。
奇跡物語が語るもの
中庭の春の装いが、小雪の舞うなかとても美しい日曜日でした。
宮﨑神父様のお説教にとても心を打たれました。
「ウクライナのために祈っていますか?」と問われ、気になってはいるものの、それは「戦争が始まるかも」というニュースとしてに過ぎなかった自分が恥ずかしくなりました。
遠い国のニュースではなく、隣人が戦争と隣り合わせの現実に直面していることを忘れずに、みなさん祈りましょう。
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マタイ、マルコ、ルカの3つの共観福音書には、同じ出来事や教えが書かれている箇所があります。
福音書を読んでいると、注釈でその並行箇所が示されているので、同じ話を他の2人も書いていることを知ることが出来ます。
全く同じエピソードが、福音記者によっては詳しく書かれていたり、短かったり、時には全く違った趣旨で書かれていることがあります。
話の大筋はだいたい同じなのですが、当然3人にはそれぞれに伝えたいポイントがあって、よく読むとわたしたちに訴えていることが違うことが分かります。
エリコの盲人、バルテマイが癒される奇跡物語があります。
(その道の)道端に座っていたバルテマイという盲目の物乞いが、何度黙らせようとされても「ダビデの子イエスさま、わたくしをあわれんでください」と叫び続けます。
イエスが「何をわたしにしてもらいたいのか」とお尋ねになると、盲人は、「先生、見えるようにしてください」と言った。
そこでイエスは仰せになった。
「行きなさい。あなたの信仰があなたを救った」。
するとたちまち、盲目の人は見えるようになり、(その道を)イエスに従った。
(マルコ10・46~52)
イエスは立ちどまり、彼らを呼んで、「何をしてもらいたいのか」とお尋ねになった。
二人は「主よ、わたくしたちの目を開けてください」と言った。
イエスは哀れに思い、その目に手をお触れになると、彼らはすぐに見えるようになった。
そして、イエスについて行った。
(マタイ20・29~34)
そこで、イエスが「見えるようになれ。あなたの信仰があなたを救った」と仰せになった。
すると、盲人はたちどころに見えるようになり、神をほめたたえながら、イエスについて行った。
これをみて、民は皆、神を賛美した。
(ルカ18・35~43)
3人の福音記者たちの意図はそれぞれ違うところにある、と雨宮神父様の本にあります。
マルコ
■「見えるようにしてください」と、物事を見抜く視力の回復が願われている。
■(その道の)という言葉が本来のギリシャ語原文には書かれていて、エルサレムに向かう途上で盲人に会っている。
■奇跡そのものよりも、イエスに叫んだ者が十字架への道=苦難を通って救いへと至る道に招き込まれたことを表現。
■わたしたち読者にも、どうすればイエスによる救いの道へ入れるのかを教えている。
マタイ
■「目を開けてください」と、ごく実質的な願いがなされている。
■盲人の目が開かれた、という奇跡物語を語ることに主眼がある。
ルカ
■奇跡を通して働く神の力への賛美。
■イエスが神として顕現し、叫び求める者に救いを与えるという教え。
『なぜ聖書は奇跡物語を語るのか』
雨宮 慧 神父 著より
ひとりで聖書を開いても、ここまで深く意図を読み取ることはできません。
この本を読んで、まさにわたしも「目が開かれた」気持ちです。
聖書は、歴史的な出来事を客観的に書いている本ではない、ということはご存じのとおりです。
聖書を書いた人々が伝えたかったのは、その出来事の背後にひそんでいた意味なのだ、と雨宮神父様が書いておられます。
「そして、聖書が出来事を叙述するとき、詩や戯曲の表現方法を駆使し、シンボルや詩的表現を使って把握した意味を伝えようとしています。
イメージを限りなく広げる言葉が好まれるのです。読むほうもそのつもりで読む必要があります。」
歴史書は出来事を正確に客観的に叙述して真理を追求するに対して、新約聖書は復活体験が根本になって、知りえた真理からさかのぼって出来事をとらえているのです。
イエス様が行われた奇跡に立ち会った弟子たちでさえ、その時にはその本来の意味を理解できていなかったのす。
復活体験によってイエス様の神性を知り、宣教活動を通してその真理を理解した彼らは、そのことを以前の出来事のなかに確認しながら書き記したのです。
ですから当然、一つの奇跡物語にいくつもの強調したい真理がうまれるわけです。
聖書を読む時にこのことを分かっていて読むかどうかで、心に訴えてくることが変わるはずです。
このことを踏まえたうえで以下の箇所を読んでみてください。
わたしは、以前とは違う景色が見えた気がしました。
「まだ、分からないのか。悟らないのか。心がかたくなになっているのか。目があっても見えないのか。耳があっても聞こえないのか。
覚えていないのか。わたしが五千人に五つのパンを裂いたとき、集めたパンの屑でいっぱいになった籠は、幾つあったか。」弟子たちは、「十二です」と言った。「七つのパンを四千人に裂いたときには、集めたパンの屑でいっぱいになった籠は、幾つあったか。」「七つです」と言うと、イエスは、「まだ悟らないのか」と言われた。
(マルコ8・14~21)
イエス様の方を向く
宮﨑神父様にゆるしの秘跡をしていただきました。
自分のおかした罪を認め、告白し、アドバイスをいただき、神様に代わって赦しをいただく。
もう同じ過ちをおかさないように、心に、そして神様に誓う。
これは、「悔い改め」なのか「回心」なのか。
南山大学の名誉教授でもあった故 浜口神父様の論文に、以下のように書かれています。
教会は最初の回心を思い起こして、再び神に立ち返る方途と機会を保持している。
それが「ゆるしの秘跡」である。
罪に陥った信者が再び神と和解することができるという神の無限の憐れみを宣言するのは、「再回心(re-conversio)」である。
真に罪を痛悔する者は、たとえその痛悔が不完全なものであっても、真にキリストに向かっているのである。
「改め」、だと「改心する」という言葉のように、罪を認めて心を入れ替える意味になります。
Googleで「かいしん」と検索するとわかりますが、「回心=キリスト教で神の道に心を向けること」と表示されます。
新約聖書で「悔い改め」の意味で使われるメタノイア( meta・noia /μετανοια )は、古いギリシャ語を起源とする言葉で、直訳すると「視座の転換」という意味となるそうです。
悔い改めなさい。
めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。
そうすれば、賜物として聖霊を受けます。
この約束は、あなたがたにも、あなたがたの子供にも、遠くにいるすべての人にも、つまり、わたしたちの神である主が招いてくださる者ならだれにでも、与えられているものなのです。
(使2・38~39)
また、マルコ福音書の中で最初にイエス様が口を開く場面でおっしゃった、
「時は満ち、神の国は近づいた。
悔い改めて福音を信じなさい」
(マルコ1・15)
この「悔い改め」にあたる単語がメタノイアです。
本田哲郎神父様は、「『時は満ち、神の国はすぐそこに来ている』から、『低みに立って見直しなさい』(メタノエイテ)という。悔い改めなさいではありません。」とおっしゃっています。
メタノイアに対応するヘブライ語はニッハムという単語で、「痛み、苦しみを共感・共有する」という意味だそうです。
「つまり、メタノイアとは、人の痛み、苦しみ、さびしさ、悔しさ、怒りに、共感・共有できるところに視座・視点を移すこと」と本田神父様の著書にあります。
ムリリョ「パウロの回心」
以前、HPの記事に以下のように書きました。
E.P.サンダースの著書「イエス その歴史的実像に迫る」によると、
「ルカと使徒行伝の著者が悔い改めを強調することをとりわけ好んだ。
そして、それはイエス自身の教えの重要なテーマではなかった。
イエスは悔い改めに関心を持つ改革者ではなかった。」
福音書に語られる「悔い改め」の概念は、旧約時代にはもっといろいろな意味を持つ曖昧なものでした。
いくつもの単語がそれにあたるとされていますが、もっとも多く出てくるヘブライ語の単語の意味は、「道を変える」「引き返す」「立ち戻る」というものだそうです。
つまり、悪から遠ざかって神に向かう姿勢を意味し、「生き方を変えて生活全体を新しい方向に向ける」ということです。
エレミヤは、繰り返し「立ち返れ」と民に呼びかけています。(エレミヤ書3章)
契約の神の愛に立ち戻りなさい、と言うのです。
つまり、旧約時代の教えをイエス様の新しい言葉で問われたのが、この「悔い改めなさい」というものなのではないかと思うのです。
神の教えを確かなものとして受け入れ(アーメン)、自分の凝り固まった考え方、惰性に陥った生活、そうしたものの視点を変えなさい(回心)。
神の方に今一度、自分を向き直しなさい。
それが、「回心=悔い改め」なのだ。
そう、この一週間で学びました。
キリストに出会う前のサウロのように、わたしたちも方向を変え、習慣になっていることや楽な道から戻る必要があります。
それは、主がわたしたちに示される、謙遜ときょうだい愛と祈りの道を見出すためです。
1/26教皇フランシスコTwitter
悔いない毎日
今年、ゆるしの秘跡をお受けになりましたか?
「悔い改める」という言葉について、ここのところずっと考えています。
受講している神学のオンライン講座で、教授が「イエスは悔い改めよとは言っていない。ルカが追記したのだ。」とおっしゃいました。
以前、聖書百週間の講義の中でも神父様から、「ルカに度々出てくる悔い改めという言葉は、ルカが付け加えた編集句です。」と教わりました。
例えば、マタイとマルコでは、イエス様が徴税人たちと会食することの正当性について語るとき、自分は罪人たちを呼び集めるためにやって来たと述べますが、それに対してルカでは、罪びとたちに「悔い改め」を呼びかけるためにやって来たと述べています。
このように、並行個所のうちルカだけに結論として「悔い改め」が追記されている箇所がいくつもあります。
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あなたがたも気をつけなさい。
もし兄弟が罪を犯したら、戒めなさい。
そして、悔い改めれば、赦してやりなさい。
一日に七回あなたに対して罪を犯しても、七回、『悔い改めます』と言ってあなたのところに来るなら、赦してやりなさい。
(ルカ17・3~4)
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E.P.サンダースの著書「イエス その歴史的実像に迫る」によると、
「ルカと使徒行伝の著者が悔い改めを強調することをとりわけ好んだ。
そして、それはイエス自身の教えの重要なテーマではなかった。
イエスは悔い改めに関心を持つ改革者ではなかった。」
ということになるようです。
罪人に悔い改めを要求するのは洗礼者ヨハネの教えであり、イエスはかつての徴税人・罪人ではなく、実際の徴税人・罪人たちの友人でした。
イエスは罪深いと思われていた人々と関わり、飲食を共にし、神はとりわけ彼らを愛してくださること、神の国がすぐそこまで迫っていることを告げます。
「今こそ悔い改めよ、さもなく滅ぼされる」はヨハネの教えで、「神はあなたがたを愛してくださる」とイエスは教えたのです。
イエスは、自分に従う人々は、たとえ聖書の要求すること(犠牲の供物とともに神殿で赦しを乞う)を行わなくても神の選びに属している、と考えていました。
その具体的逸話として、思い出してください。
王が披露宴の客を集める時、僕たちが「通りへ出て来て、彼らの見つけた人々はすべて悪人の善人も集めてきた。こうしてその婚宴は来客者でいっぱいになった」(マタイ22・10)
僕たちは、初めにすべての悪人たちに善人になるように求めたわけではなく、とにかく彼らを中に連れてきたのです。
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『悔い改めなくても大丈夫』という話ではありません。
聖書思想辞典によると、
洗礼によって一つの実を結ぶ悔い改めの行為は、一回限りのものであり、これを繰り返すことは不可能である。
ところが、洗礼を受けた者もふたたび罪に陥ることが可能である。
ちょっと笑ってしまいました。
福音書に語られる「悔い改め」の概念は、旧約時代にはもっといろいろな意味を持つ曖昧なものでした。
いくつもの単語がそれにあたるとされていますが、もっとも多く出てくるヘブライ語の単語の意味は、「道を変える」「引き返す」「立ち戻る」というものだそうです。
つまり、悪から遠ざかって神に向かう姿勢を意味し、「生き方を変えて生活全体を新しい方向に向ける」ということです。
福音書の並びは書かれた順ではありません。
おおまかな年表で表すと、
30 イエスの処刑
44 パレスチナ全土が再びローマの支配下に
64~67皇帝ネロによるキリスト教迫害
ペトロ、パウロがローマで殉教
66~70第一次ユダヤ戦争
70 マルコ福音書成立
エルサレム神殿が炎上し陥落
71~74ローマによりマサダなどが陥落
79 ベスビオ火山噴火によりポンペイ滅亡
80 ルカ福音書成立
85 マタイ福音書成立
マルコとルカの間の10年に、悲劇的な出来事が続いたことがわかります。
旧約の著者たちが、第一神殿の破壊、バビロン捕囚を自らの神への不誠実な行いが原因であり、「神に立ち返れ」と自分たちを律したように、ルカも「神を信じて悔い改めよ」と追記したのではないでしょうか。
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悔い改めなければ、告解しなければ罪は赦されない、と考えるよりも、
「しまった!」と思ったその日のうちに、すぐに軌道修正して、「神様に胸を張って生きる毎日を送りたい」というのが、今のところわたしがたどり着いた答えです。
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可愛い子どもたちの七五三の祝福がありました。
この子たちには「悔い」も「赦し」もありません。
素直にすくすくと、毎日を神様に守られながら育ってほしいと、心から願います。
コヘレトの空
「わたしたちの生活をコロナ前に戻す」といった発言を最近よく耳にします。
戻るのでしょうか。
全てが元通りになることを期待しますか?
聖堂中に聖歌の歌声が響き渡る日は、いつでしょうか。
この2年近くの間の日常、信仰生活も含め、確かにいろいろな制約がありましたが、悪かったことばかりではありません。
わたしの場合、かなりよく聖書を開くようになりました。
教会に行けない月日が長くあったので、ミサや行事風景をお伝え出来ませんでした。
ですので、ここを読んでくださる方ともっと聖句を分かち合いたいと思って取り組むようになりました。
それまで以上に、聖書に関係する本もよく読んでいます。
良かったこと、というと語弊があるかもしれませんが、人々が一堂に会したり、わざわざ遠方まで出向かなくてもオンラインでできることが多い、ということが実証されたことは、多くの方が納得されているかと思います。
実はわたしも、先月から大学のオンライン講座を受講し始めました。
以前でしたら、「学びたいけど平日の夕方に大学まで通うのは無理」と諦めていたでしょう。
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二人は一人に勝る。
もし一人が倒れると、その仲間が助け起こす。
二人が一緒に寝れば暖かい。
もし、襲われたとき、一人なら負けるが、二人ならともに立ち向かうことができる。
「三本縒りの紐は、たやすくは切れない」。
(4・9〜12)
コロナ禍にあって、友人や家族がどれだけ大切な存在であるか、わたしたちは痛感させられました。
頼ることのできる友人がいること、互いを心配し合う家族がいること、それがどれほどの幸せか。
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順境の日には喜び、
逆境の日には反省せよ。
あれも、これも、神のなさることである。
それは、将来、何が起きるか、人には見通せないからである。
(7・14)
明日のことを知る人はいません。
今を、毎日を大切に生きること。
日常の小さなことの中に喜びを見出し、自らの至らなさを素直に認めることができますように。
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あなたは正しすぎてはならない。
知恵がありすぎてもならない。
なぜ、自分で自分を滅ぼそうとするのか。
あなたは悪すぎてはならない。
愚かすぎてもならない。
自分の時がまだ来ないのに、なぜ、死のうとするのか。
(7・16〜17)
生きることは、自分一人の力でできることではないということを忘れてはいけないのです。
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あなたの生涯の空しいすべての日々の間に、
あなたは愛する妻とともに楽しめ。
神がこれらの空しいすべての日々を、
日の下であなたに与えてくださった。
それが、あなたがこの世にあって受ける分であり、
日の下で苦労するあなたが受ける分である。
(9・9)
わたしがこの世にあって「受ける分」、これは先日書いた主の祈りのことにも通じます。
わたしたちの日ごとの糧をお与えください。
日ごとの糧、生きていくのに必要な、わたしたちに神様から与えられた賜物のことです。
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あなたのパンを水の上に投げよ。
長い年月の後に、あなたはそれを見出すであろう。
あなたの持っている物を、七つ、否、八つに分けよ。
(11・1〜2)
寛大な施しは、後日、その報いを受けるだろう、という旧約の一般的な教えです。
施しに限らず、喜び楽しみも、人と分かち合うことでお恵みは7倍8倍になって帰って来た、という経験がわたしにもあります。
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コヘレトは言う。空の空。
空の空。一切は空。
(1・2)
紀元前250〜200の時代に書かれた、コヘレト。
人間が極端に走り、到達不可能な目的をいたずらに追求するのを諫めています。
ひたすら幸福だけを把握し続ける人間の空しい努力を否定します。
(フランシスコ会訳聖書の解説より)
「空」という言葉はヘブライ語で「へベル」といい、日本語の「空しい」という言葉の持つニュアンスとは厳密には開きがあるようです。
この本によると、「空」は「束の間」という意味が適切であろう、ということでした。
この本を読んで、久しぶりにコヘレトを読み返し、今心に留まった箇所を抜粋してみました。
間違いなく、2年前に読んだ時とは違った箇所がわたしを捉えました。
コロナ以前の生活に戻りたい、という人間の希望は「空」のように感じます。
わたしたちが求めるべきものは、そこではないと思うのです。
箴言30・7〜8も、コヘレトと同じようにわたしたちを諭します。
わたしは二つのことをあなたにお願いします。
わたしが死なないうちに、それをかなえてください。
わたしを不実と偽りから遠ざけてください。
わたしに貧しさも富も与えないでください。
ただ、わたしに割りあてられたパンだけで、わたしを養ってください。
この世で与えられた「束の間」を生きるわたしたちにとって、その生きる意味を見出すことは使命です。
コヘレトは「死」があるから「生」に意味があるのだ、と言います。
11月は死者の月です。
わたしも毎年、「死」についてよく考えを巡らせる月です。
今月は、特に今年天に召された方々のために、日々の祈りを捧げましょう。
スケープゴート
秋晴れの、美しい、気持ちの良い季節です。
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家のあちこちに、十字架、マリア像を置いています。
寝る前に祈るときも、小さな手の中に納まるサイズの十字架を握りしめています。
みなさんもそうではないでしょうか。
つい、お気に入りの十字架やマリア像の前で手を合わせて祈ってしまう、そういう習慣が身に付いている信徒は多いかと思います。
以前、ある神父様がお説教でおっしゃいました。
「イエスの十字架は、首から下げるダイヤモンドの入ったアクセサリーではない。」
教皇は訪問先のスロバキア東部プレショフで、十字架や(キリストの)磔刑像はしばしばキリスト教徒によって表面的に使用されていると講話した。
欧州では、東欧の複数の極右政党を含む多数の政党が、十字架を党旗やシンボルに取り入れている。
教皇は、多くのキリスト教徒が十字架を首にかけたり、家の壁にかけたり、自動車やポケットの中に持つなどしているが、実際にイエスとつながっていないと指摘。
「十字架上のイエスを見つめるために立ち止まり、キリストに心を開くのでなければ、何の意味があるだろう。
十字架を奉献の対象におとしめるのはやめよう。
ましてや、政治のシンボルや、宗教・社会的地位の表彰としてはならない」と述べた。
(9/14ロイター配信ニュースより)
スケープゴートという言葉をご存知でしょう。
簡潔にいうと「多くの人の罪を負わされた人」という感じでしょうか。
アロンは生かしておいたその山羊の頭に両手を押しあて、イスラエルの子らのすべての咎とすべての背き、すなわち、彼らのすべての罪をその山羊の上に告白し、それらをその頭に置き、係の者の手で荒野に送り出される。
その山羊は彼らのすべての悪を担って、不毛の地へ行く。
係の者はその山羊を荒れ野に送り出す。
(レビ16・21〜22)
最近はスケープゴーティング(罪を着せる行為、報道)が頻繁に目につく気がします。
例えば、音楽イベントの集客が多くお酒の提供もあった、と報道があると、「主催者」「参加者」「出演者」「許可した行政」=悪だ罪人だ、と囃し立て、「参加者に感染者が多く出たらしい」=「ほら見たことか、当然の報いだ」
すべてのことにおいて、このような考え方が蔓延ってきてはいないでしょうか。
以下、イザヤ書の53章を抜粋します。
彼は主の前で若枝のように、
乾いた土地の中から生え出た。
彼は、わたしたちの背きの故に刺し貫かれ、
わたしたちの悪の故に打ち砕かれた。
彼の上に下された懲らしめが、わたしたちに平和をもたらし、
彼の傷によってわたしたちは癒された。
わたしたちはみな、羊のように迷い、
それぞれ自分の道に向かったが、
主はわたしたちみなの悪を彼に負わせられた。
もし彼が自らを賠償の捧げ物とするなら、
彼は末永く子孫を見るだろう。
主の望みは彼の手によって成し遂げられる。
彼は、多くの者の罪を担い、
彼らの背きのために執りなした。
彼=scapegoat です。
彼=メシアのことを予言しているのだ、と当時の人々は捉えていました。
このイザヤ書に呼応する形で書かれたのが、ペトロの手紙の次の箇所です。
わたしたちが罪に死んで義に生きるため、キリストは十字架の上で、わたしたちの罪をその身に負われました。
その傷によって、あなた方は癒されました。
あなた方は、羊のように迷っていましたが、今は、魂の牧者であり、監督者である方の元に帰ってきたのです。
(1ペトロ2・24〜25)
同時に理解しておきたいのは、イエス様は「大勢の罪人の罪を背負って死のう」と思っていらっしゃったわけではない、ということです。
イザヤ書の予言していた彼(メシア)はイエス様なのだ、と亡くなられてご復活された姿を見てようやく理解して納得した弟子たちが、「わたしたちの罪のために(代わりに)死んでくださったのだ!」と後になって言ったのです。
イエス様を信じる人が多くなり、このままでは祭司たちの尊厳が危うくなると危惧した大祭司のカイアファは、「一人の人間が民に代わって死に、国民全体が滅びないほうが、あなた方にとって得策である」と言ってイエス様を殺そうと決意しました。(ヨハネ11・50)
この考え方、代理死、贖罪死も、ある種のスケープゴート的なものでした。
わたしたちの信仰は、イエス様がわたしたちの罪の代わりに死んでくださったからではないはずです。
人々のために生き、小さき弱き者、虐げられた人々をも導き、自分自身には罪はなく正しい人であったのに、十字架につけられたのです。
十字架を身に纏うことで信仰が篤いと満足し、わたしたちの罪を担ってくださったイエス様はわたしたちの罪を赦してくださると自分勝手な理解をし、他人の罪を勝手に判定して「わたしは違う」と息を巻く。
そのようなキリスト者であってはならない、と最近とても考えています。
みなさまは、どう思われますか?
ミサもなく、教会で集って語り合えないこの日々、みなさまとこうしたお話もしたいのです。
隣人愛のかたち
4回目の緊急事態宣言となり、久留米教会も教区の決定に則り、公開ミサが中止となりました。
「宣言には意味がない」という意見があるようですが、そのように不満を抱いてもなにも状況は変わりません。
わたしたちはいま自分にできることを粛々と、そして、感染しない・させない対策を徹底的に行うのみです。
そんな中、パパ様のお言葉がまた心にとまりました。
神は、日々生じる問題から、私たちを解放するために来られるのではありません。
愛の欠如という本質的な問題から、私たちを救うために来られます。
愛の欠如は、私たちの個人的、社会的、国家間、また環境の問題の根本原因です。
自分のことしか考えないことは、すべての悪の始まりなのです。
God does not come to free us from our ever-present daily problems, but to free us from the real problem, which is the lack of love.
This is the main cause of our personal, social, international and environmental ills.
Thinking only of ourselves: this is the father of all evils.
8/17教皇フランシスコ Twitter
夏の甲子園、2回戦を目前に辞退した宮城県代表の東北学院の主将のインタビュー、お聞きになりましたか?
監督と選手たちの話し合いで、「感染した人のことはみんなで守ってあげようという話があった」と報道されていました。
高校生のことばです。
わたしたち大人も、彼らを見習い、恥じない言動をとらなければならないなと身が引き締まる思いがしました。
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何度も書いていますが、今回もお伝えしたいことです。
◆「人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい。」
(マタイ7・12)
この教えは、姪たちが小さいころから彼女たちにも度々言い聞かせてきました。
「おなじように、自分がされたくないことは人にしてはいけないのよ。」とも。
この黄金律は、イエス様の時代よりずっと以前から、ユダヤ人の間で律法全体の要約として語られていたことでした。
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◆「あなた自身にとっていやなことは、あなたの隣人に対してもしてはならない。
それは律法全体であって、あとのものはそこから推し計られるものにすぎない。」
◆「あなたの隣人を裁いてはならない。あなた自身が隣人の立場にならないためである。」
◆「あなたがたは自分の量る秤で量り返される」
これらもすべて、福音書に書かれる遥か昔からユダヤ人の間では格言として知れ渡っていたことばでした。
イエス様も、黄金律はモーセの律法の要約だと考えていたようです。
◆「自分自身を愛するように隣人を愛しなさい」
(ㇾビ19・18)
古いアラム語の訳では「あなたの隣人を愛しなさい。あなたを不快にさせることはどんなことでも、隣人にしてはならない!」となっているそうです。
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そのとき、ファリサイ派の人々は、イエスがサドカイ派の人々を言い込められたと聞いて、一緒に集まった。
そのうちの一人、律法の専門家が、イエスを試そうとして尋ねた。
「先生、律法の中で、どの掟が最も重要でしょうか。」
イエスは言われた。「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』これが最も重要な第一の掟である。
第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』
律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている。」
(マタイ22・34~40)
イエス様はユダヤ人であり、ユダヤ教の教えのもとに育ち、暮らしておられました。
福音書に記されている教えの重要な箇所からも、イエス様が旧約の教え、律法をとても大切にされていたことが分ります。
黄金律と隣人を愛することの戒めは、その最たる例でしょう。
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隣人愛の実践に尽くし、「これはキリスト教に限った教えではなく、遥か昔からの格言なのよ」と、わたしたちが周りの人にも伝えていくのです。
何かが変わっていくかも、という希望を持って。
少しずつ、秋の気配が。
自分なりの実り
毎年、8月になると台風が接近し、猛暑を少し和らげるという自然の営み。
地球が温暖化しているとはいえ、このサイクルが日本の季節を作っていることには驚きます。
被害がなければ良いのですが、台風がいくつか通り過ぎてくれると、過ごしやすい夏になります。
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もしも無人島に何か2つ(ひとつではない)持っていけるとしたら?
わたしは迷わず、聖書とワイン一箱(一本ではない)を選びます!
聖書を選んだのは、何も真面目で敬虔な信者だからとかではなく、純粋に読むのが面白いからです。
聖書とワインさえあれば、退屈することはありません。
旧約にはぶどうの木、ぶどう園のたとえが数多く語られています。
それに呼応するように、新約でもぶどうに関する記述があります。
旧約には直球で「飲み過ぎ注意!」という記述も結構あるのですが、多くは「役に立たない、神に背いたものの象徴」「実を結ばなければ価値のないもの」として語られます。
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詩篇80のタイトルは「荒らされたあなたのぶどう園を元どおりに」
あなたはぶどうの木をエジプトから移し、異邦の民を追い出して、これを植えられました。
あなたは前もって地を整え、その木を根づかせ、生い茂らせました。
万軍の神よ、立ち返ってください。
天から見下ろし、目を留めて、このぶどうの木を顧みてください。
(9〜10、15)
BC722年のアッシリア軍侵攻による北イスラエル王国滅亡の直前の自分たちを、ぶどうの木にたとえています。
イザヤ書5章のタイトルは「ぶどう園の歌」
さあ、エルサレムに住む者とユダの人よ、わたしとわたしのぶどう園の間を裁け。
ぶどう園になすべきことで、わたしがしなかったことがまだ何かあるか。
わたしは善い実が結ぶのを期待したのに、なぜ、酸っぱいぶどうが実ったのか。
まことに、万軍の主のぶどう園とは、イスラエルの家。
主が喜んで植えられたのはユダの人。
(3〜4、7)
イザヤという人はユダ王国の貴族で、エルサレムに暮らしていたとされています。
北王国イスラエルが南王国のユダに攻め入った戦争とその後のアッシリアのユダ侵略が背景にあるのが、本人が書いたとされる第一イザヤ(1〜39章)です。
エゼキエル書15章のタイトルは「無用のぶどうの木」
人の子よ、ぶどうの木はほかの木、すなわち森の木々の間に生える木の枝より優れているだろうか。
その木で何かを作ろうとするだろうか。
それでものを掛ける木釘が作れるだろうか。
それどころか、薪として火にくべられるだけである。
その両端は火で焼き尽くされ、その芯は黒焦げになる。
それが何かに役立つだろうか。
そのままの時でも役に立たないのに、火に焼け、黒焦げになってしまえば、いったいなんの役に立つというのか。
(2〜5)
先ほどのイザヤ書の箇所と同様に、イスラエルが神に背き続け、不忠実であったことへの神の裁きを表現しています。
このように旧約では、救いようのないぶどうの木を神が見放した=エルサレムの崩壊、が語られ、ひたすらに「神に立ち返ること」の重要性が書かれてます。
一方で、新約におけるぶどうの木のたとえは「苦しみのシンボル」であると同時に、「希望の象徴」でもあります。
ヨハネ15章のタイトルは「イエスはまことの〈ぶどうの木〉」
わたしはぶどうの木であり、わたしの父は栽培者である。
わたしにつながれていて、実を結ばない枝はすべて、
父がこれを切り取られる。
しかし、実を結ぶものはすべて、もっと豊かに実を結ぶように、
父がきれいに刈り込んでくださる。
わたしのうちに留まっていなさい。
そうすれば、わたしもあなた方のうちに留まる。
ぶどうの枝が木につながれていなければ、枝だけで実を結ぶことはできない。
それと同じように、あなた方も、
わたしのうちに留まっていなければ、実を結ぶことはできない。
わたしはぶどうの木であり、あなた方は枝である。
人がわたしのうちに留まっており、わたしもその人のうちに留まっているなら、
その人は多くの実を結ぶ。
(1〜5)
できない、ダメなことだけでなく、どうすれば実のるか、どうすれば多くの実を結ぶことができるかが書かれているのが新約のイエス様の言葉なのです。
わたしたちは、この言葉に象徴されるような信仰心を日々鍛えることが必要だと思います。
実を結ぶ、それぞれにとってその意味は違うかもしれません。
わたしにとっての実りとは、
1番大切に思っている家族のためによりよく生きること。
1番大切にしている教え「何事につけ、人にしてもらいたいと思うことを、人にもしてあげなさい。」を努めて毎日行うこと。
自分なりの実を豊かに結ぶことのできるよう、日々を大切にしたいと思っています。
余談:ワインといえばフランス、というイメージの方が多いかと思いますが、イスラエルの北部は肥沃な土地で、ワイン栽培が盛んです。もちろん今でも多くのワイナリーがあり、とても美味しいワインを作っています。
カルメル山という名前はへフライ語で「神のぶどう園」という意味です。
買ってきたコーシャーワイン(ユダヤ人のみが栽培から収穫、瓶詰めまで全ての工程を行なったワイン)が我が家にまだありますが、現地で飲むのとはやはり味わいが違います。。。
イスラエルが恋しい!