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召命のきづき

今年はよく、召命ということについて考えています。

今年は船津司祭の叙階式に立ち会うことが出来、そのころから、このコロナ禍にあっての身近な召命について、思いを巡らせているのです。

 

 

何度かご紹介したことのある、カラヴァッジョの『聖マタイの召命』です。
みなさんは、どれがマタイなの?と考えたことはありますか?

わたしはずっと、左端の青年だと勝手に解釈していたのですが、美術研究者の間では「マタイ問題」というほどのテーマなのだそうです。

イタリアではおおむね、左から3人目のおひげのおじ様がマタイである、と主張されているとか。

どれがマタイなのかはともかく、このマタイの召命についての聖書の記述を見てみると、
マタイ9・9、マルコ2・14、ルカ5・27~28のいずれも非常に簡潔なものであり、イエス様の呼びかけにレビ(マタイ)が従ったというだけのエピソードで、まったくドラマチックでも何でもないのです。

レビが徴税人であった、というのが重要なポイントなのです。
当時は罪人と同意味であった徴税人、ユダヤ社会の憎まれ者をイエス様が弟子に召し出した、というのがこのお話のドラマです。
仕事やお金を捨て、世間のしがらみや葛藤を断ち切ってイエス様に従ったマタイは、放蕩息子のように救われました。

現代においての召し出しは、どのような人に、どのようなタイミングで与えられているのでしょう。

聖職者としての召し出しだけではなく、わたしたちそれぞれに与えられている呼びかけについて、キリスト者としてもっともっと思いを馳せて日々を丁寧に生きていかなければならない、そう思うのです。

召命、は英語ではcalling、イタリア語ではvocazione、ドイツ語ではBerufで、どの単語も職業や職務、広義で仕事という意味を持っています。

つまり「マタイの召命」は「マタイの仕事」という意味にもとれます。
人の仕事というのは自分で選んで従事するのではなく、神から与えられた使命である、という考え方ができます。 

 

 

youtubeで配信された、古市助祭の叙階式のスクリーンショットです。

久留米で司牧実習をしてくださっていた古市さんの召命が、一つのステップを上がったのです。

そして、この春からは、吉浦神学生が久留米に来てくれています。

彼も、自らが得た召命を生き、前に進んでいるのです。

船津司祭、古市助祭、吉浦神学生、こうして神様から特別な愛を注がれている方々が久留米教会に縁があるのは誇らしいことですね!

3人には、次号のみこころレター(12月号)に寄稿していただく予定ですのでお楽しみに!

 

 

 

船津亮太 司祭 叙階式

23日、久留米教会において、叙階式が執り行われ、船津司祭が誕生しました。

司祭叙階式は、一人の男性が「地に落ちて一粒の麦となる」緊迫した雰囲気であってほしいと思う、と来住神父さまがカトリック生活8月号の連載記事に書かれていました。

もし一粒の麦が地に落ちて死ななければ、
それは一粒のままである。
しかし、死ねば、豊かな実を結ぶ。

(ヨハネ12・24)

3月に予定されていた叙階式が延期となりました。

しかし、5月にはアベイヤ司教が着座され、お心遣いで久留米教会での開催となったという経緯は、わたしたち久留米教会の信徒にとっては大変光栄なことでした。

残念ながら招待者のみの参列ではありましたが、福岡教区のご尽力で初めて生中継され、まさに、厳粛でありながら、喜びに満ち溢れた叙階式でした。

今週末、25日(土)19時、26日(日)9時、11時、3回の主日のミサで船津司祭の初ミサが執り行われます。

 

 

 

最高の笑顔です。

亮太司祭の今後の歩みが愛と恵みに満たされるよう、祈りましょう。

 

 

「父になる」召命

19日のごミサは、6人の子どもたちの待ちに待った初聖体のお祝いでした。

 

 

 

 

6人中5人が男の子という、なんとも期待に胸が膨らむ(笑)初聖体の晴れの日のお祝いでした。

みんなでお揃いの、十字架の刺繍の入ったマスクを作ってもらったようで、晴れ晴れとした子どもたちの姿に、教会中が幸せと喜びに満ち溢れた、久しぶりに活気の戻った久留米教会でした。

 

ルカに書かれている放蕩息子のたとえ話は、福音書の中でも一般的によく知られたストーリーでしょう。

この物語は、次男坊に甘い父(よくある)、兄が弟より愛されておらず、弟よりも価値を認められていない、どうしようもない弟と妬む兄(あるある)、そういうことを言っているたとえ話ではありません。

父は2人の息子を比較していません。

父が2人の息子を愛していることは明らかで、それぞれの置かれた立場に合わせて愛を表しています。

弟を迎えた父は祝宴を催し、畑から戻った兄を迎えた父は弟の帰還をともに喜んでほしいと願います。

 

ヨハネの14章のタイトルは『父への道であるイエス』

わたしの父の家には、住むところがたくさんある。

わたしが行って、あなた方のために場所を準備したら、
戻ってきて、あなた方をわたしのもとへ迎えよう。
わたしのいる所に、
あなた方もいるようになるためである。
(ヨハネ14・2~3)

神の子とされたわたしたちには、ひとりひとりに特別な場所が与えられています。
比較、嫉妬、ライバル心、競争心を捨て、父の愛にゆだねることを暗示しているのが、この放蕩息子のたとえ話です。

真に憐れみ深い父性が生き生きと描かれているのです。

このたとえ話の前には、見失った羊となくした銀貨の話があり、この3つを合わせた15章のタイトルは『憐れみの三つの喩えの序』です。

嘆き
赦し
惜しみなく

この3つのキーワードが秘められています。

祈りの多くは嘆きであり、それを受け止めてくださる父

心からの絶えざる赦しを与えてくださる父

父は自分のために何も取っておかず、子どもたちのために自分自身を注ぎ出します。
何のためらいもなく自分を与え尽くします。

その善良さ、愛、赦し、ケア、喜び、憐れみに何の限界も設けない神の存在が暗示されています。

わたしたちもキリスト者として、この父性に倣うべきところが大きいと思います。

大変難しいことですが、イエス様をとおして表された父の憐れみ深さを、いつも心に刻んでおかなければなりません。

あなた方の父が憐れみ深いように、
あなた方も憐れみ深い者となりなさい。
(ルカ6・36)

これは、神の子となるための根本条件なのです。

 

いよいよです。

神様がわたしたちに新しいお父さんをお与えくださる日が近づいてきました。

およそ父と名づけられるすべての父性の源である天の父(エフェソ3・14~15)の代理人の一人として、わたしたちの船津新司祭の誕生を祝う日が迫ってきました!

召命とは、よく耕された相互愛という畑で熟す果実です。
忘れないでください、召命はひとりでに生まれるものではありませんし、ひとりでに育つものでもありません。
召命は神のみこころを起源とし、信仰心の土壌で、兄弟愛を体験するなかで芽吹きます。
(教皇フランシスコ 世界召命祈願の日メッセージより)

叙階式の模様は、YouTubeでライブ配信される予定です。(23日午後2時より)

準備に余念のない宮﨑神父様と久留米の信徒たちです!

 

 

死者とのつながり

14日のミサでの第一朗読は申命記からでした。

主はあなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出し、炎の蛇とさそりのいる、水のない乾いた、広くて恐ろしい荒れ野を行かせ、硬い岩から水を湧き出させ、あなたの先祖が味わったことのないマナを荒れ野で食べさせてくださった。
(申命記8・14)

自分たちが他国で奴隷の身であったこと、苦難に耐えて生きてきたことを決して忘れるな。
だから、在留する他国の人、やもめや孤児を虐げてはならない。

度々書かれているこのくだりがとても好きです。

人種差別も性差別も、この観点でみなが生きるならばこれほど混乱した世界にはならなかったはずなのに、と思うのです。

昨日のごミサでは手話通訳が行われ、通訳者はフェイスシールドを着用しました。

 

 

人はこの世の命が終わったら、もう生者のために働くことはできないのか。

生者が死者のために祈ることには意味があるのか。

これは、身近な大切な方を亡くした経験のある人にとっては「とんでもない!」となる問いです。

 

ギリシャ語には「命」を表す2つの言葉があります。

「ゾエ」は永遠の命
「ビオス」は現世の命

ギリシャ語で書かれたヨハネの福音書では、この2つの単語が使い分けられています。

↓「ゾエ」バージョン

命を与えるのは霊である。
肉は何の役にも立たない。
わたしがあなた方に話した言葉は、
霊であり、命である。

(ヨハネ6・63)

↓「ビオス」バージョン

再びそれを得るために、わたしは自分の命を捨てる。
それ故、父はわたしを愛してくださる。
誰もわたしから命を奪いはしない。
わたしが自分から命を捨てる。
わたしは自由に命を捨て、また、再び自由に命を得る力を有している。
わたしはこの掟を父から受けた。 

(ヨハネ10・17~18)

 

命には、この世での命と霊的次元での命がある、ということなのだそうです。

使徒信条の中に、「聖徒の交わりを信じます」とあります。
これは、死者との交わりのことも意味しています。

死者との交わりについて、女子パウロ会のホームページにはこう書いてありました。

亡くなられた方々も、イエス・キリストの神秘体に属する人々です。
教会は、その最初の時代から、死者の記念を行い、死者に尊敬を払っていました。
そして、亡くなられた方にもし罪が残っていたとするならば、彼らがその罪から解かれるように、祈ってきました。
このような死者のための私たちの祈りは、死者を助けることになるのです。

 

先日、教会に信者さんではない方が入ってこられ、
「質問があります。
洗礼を受けていたのか分かりませんが、この教会によく行っていた、という知り合いが亡くなりました。
きちんと教会で葬儀をしていないのですが、その場合、浮かばれないのでしょうか。
11月にお盆のような死者の月があると聞いたのですが、その時に供養すればいいのでしょうか。」

わたしなりのお考えを少しお話しました。そして、
「ぜひ、宮﨑神父様にご相談してみてください。
希望されるのであればきっと、追悼のごミサを執り行ってくださるかと思います。
あなたが洗礼を受けていなくても、その方のためにこの聖堂でお祈りされてもいいですし。」

亡くなられた方のことを思い出されたのか、少し涙を浮かべられた様子でした。
この問いの答えを知りたくて、ここ数か月、何度も教会に足を運ばれたそうです。
ようやく教会の扉が開いているのを見て、入ってこられたのです。
こうした方々のお気持ちを大切にしなければならない、と痛感した出来事でした。

 

たまに母が夢に出てきて、何かのメッセージをくれます。

「ミサに行きたいけど、いいかな?」と言うので
「ダメよ!あそこでお葬式したのに、連れていけるわけないでしょ!?」
と焦る夢を見たことがあります。

よく見るのです、実は母は亡くなっていなくてどこかに暮らしている、という夢を。

いつも近くに寄り添っていて家族を守っているのよ、というメッセージだと信じて疑いません。

 

命とは、この世で肉体とともにあったものだけではないのです。

イエス様に「恋する」

久留米教会の敷地では、いつも美しい神様の愛を感じることができます。

 

27日のごミサでは幼児洗礼式が執り行われ、3名の子どもたちが受洗しました。

子どもたちの目がキラキラしていました。

嬉しい光景です。

 

8月に出版された新しい使徒的勧告「キリストは生きている」には、とても生き生きとした表現でイエス様の姿が、特に若者に向けて表されています。

(ここでご紹介したいと思って付けた付箋がたくさん!)

 

 

130
神はあなたを愛している、キリストはあなたの救い主である、このかたは生きている―
この3つの真理には、父なる神が登場し、イエスが登場します。
御父とイエスがおられるならば、そこには聖霊もおられます。
裏方をしておられるかたです。
このメッセージを受け入れるために心を整えさせ、開いてくださる方です。
救いの体験を鮮やかに保たせてくださるかたです。
あなたがこのかたに働いていただくようにすれば、この喜びを膨らませるよう助けてくださるかたです。

 

132
美しい詩「恋しなさい」が語っているとおりです。
「神に出会うこと、つまりは、決定的に熱烈に、神と恋に落ちること
これ以上に大切なことはない。
あなたが恋しているかたは、あなたが思い描くことすべてに映り、そうしてすべてにその痕跡が刻まれる。
朝、床から出るのはそのかたのため、夕べもそのかたのためにあり、週末はそのかたのために使う。
読み取るものはそのかた、感じ取るものはそのかた、そのかたのために心を砕き、そのかたへの喜びと感謝で打ちのめされる。
恋しなさい。愛に浸っていなさい。
すべてが違ってくるでしょう。」
神へのこうした愛によって、生活のすべてを情熱をもって過ごせるようになります。

 

158
主を求め、そのことばを大切にし、生活をもってそれにこたえようと努め、徳を磨く、
こうして若者の心は強くなるのです。
そのためにはイエスとの「接続」を保ち、イエスと「オンライン」でいなければなりません
あなたの力と、あなたの知識だけでは、幸福も聖性も高めることはできないからです。
インターネットにつながらないことを心配するのと同じく、主との接続を確保しておきなさい。
つまり、対話をたやさず、主に耳を傾け、自分のことを主に伝え、どうしたらいいか分からないときには主に尋ねなさい。
「イエス様、あなただったらどうなさいますか」。

 

まだまだたくさん、素晴らしいと思って付箋を付けたページがあります。

本や神父様のお話は、その方が置かれている状況やその時の心境で、入ってくる内容が違うかと思います。

ぜひ、お読みいただいて自分へのメッセージを受け取ってみてください。

 

 

この子どもたちが久留米教会で生き生きとした信仰生活を送っていけますよう、お祈りしてください。