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平和の本質
ミラノオリンピックでの選手たちの躍動に、連日胸が踊ります。
開会式では、俳優で国連平和大使のシャリーズ・セロンさんがスピーチをされました。
「平和とは、単に争いがない状態を指すのではありません。
平和とは、人種、肌の色、信条、宗教、性別、階級、カースト、あるいはその他いかなる社会的な違いに関わらず、すべての人が繁栄できる環境を築くことです。
今日、このメッセージはこれまで以上に重要な意味を持っているように思えます。
ですから、これらの大会が単なるスポーツの祭典以上のものでありますように。
それが私たちに共通する人間性を思い起こさせ、互いへの敬意を確認し、そして世界中に響き渡る平和への力強い呼びかけとなりますように。」
ネルソン・マンデラの言葉を引用しつつ「平和の重要性」を強調し、戦争や争いのない世界をつくること=平和の本質を理解することが大切だと訴えました。
アメリカのテキサスからワシントンまでの3700キロの道のりを、徒歩で平和を訴えているベトナムの僧侶たちの「ウォーク・フォー・ピース(Walk for Peace)」という活動が話題になっています。
道中は、キリスト教の教会や大学のキャンパスなどで宿泊しながら、各地の人々に温かく見守られ、声援を受けているようです。
「これは抗議活動ではない。憎しみを捨て、自分自身の心の平和を探し続けよう」とおっしゃっていました。
平和の本質は、根本的には日常生活の中にこそ確率されるべきものでしょう。
先日、友人が「月刊誌・福音宣教に考えさせられる記事があった」と教えてくれました。
それは、旧約聖書の創世記33章にある、エサウとヤコブの兄弟の争いと和解のくだりに関するものです。
ヤコブが目を上げると、エサウが四百人の者を引き連れて来るのが見えた。(1)
ヤコブはそれから、先頭に進み出て、兄のもとに着くまでに七度地にひれ伏した。(3)
エサウは走って来てヤコブを迎え、抱き締め、首を抱えて口づけし、共に泣いた。(4)
ヤコブは言った。「いいえ。もし御好意をいただけるのであれば、どうぞ贈り物をお受け取りください。
兄上のお顔は、わたしには神の御顔のように見えます。このわたしを温かく迎えてくださったのですから。
どうか、持参しました贈り物をお納めください。
神がわたしに恵みをお与えになったので、わたしは何でも持っていますから。」
ヤコブがしきりに勧めたので、エサウは受け取った。(10~11)
この兄弟の争い、わたしがエサウならヤコブのことを一生赦すことはできないと思ってしまいます。
福音宣教の記事(聖書学者の魯 恩碩(ロ・ウンソク)氏)では、10節の「兄上のお顔は神の御顔のように見えます」という表現は、和解の始まりの瞬間に敵の顔の中に「神の似姿」が見えたのだ、と解説されています。
そして、その後の聖書には、エサウがヤコブに「一緒に行こう」と言いますがヤコブは断る、という驚きの展開が続きます。
和解した兄弟は、元の仲の良い双子の関係に戻ったのではなく、互いに別の道を歩むことで次のステップ=それぞれの平和を実現するのです。
ジェームス・ティソ「エサウとヤコブの再会」
教皇レオ14世は、アッシジの聖フランシスコ没後800年にあたって、次のように述べておられます。
平和が神のすべての善の総和であり、いと高きかたから降るたまものだということです。
人間の力だけで平和を築けると考えることは、なんという幻想でしょうか。
平和は日々、受け入れ、生きるべき、積極的なたまものです。
https://www.cbcj.catholic.jp/2026/01/20/36321/
平和の本質について、わかりやすく、簡潔に心に訴えかけられるお言葉です。
「日々受け入れて生きる賜物」
わたしたち一人ひとりが平和を生きなければならないのです。
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ニューヨークのJewish museumで買ったこの画集、旧約聖書の物語を絵にしたジェームス・ティソの一連の作品集です。
旧約を振り返るときに見返す、わたしの宝物です。
僧侶たちのWalk for Peaceについては↓こちら
https://www.jiji.com/jc/article?k=20260205048466a&g=afp
見送りのしきたり
大好きな大相撲が中日を迎えました。
国技である相撲には、さまざまなしきたりがあります。
番付によって、ある意味の格差が設けられています。
たとえば、土俵下で次の取り組みまで座って待っている力士は、それぞれの四股名が書かれたマイ座布団に座ります。
ですが、これは幕内力士にだけ許されたものであり、幕下以下は座布団は使えません。
また、土俵で取り組みを仕切る行司にも階級があり、幕下以下は素足、十両以上になると足袋を履いて、三役以上は草履を履くことが許されます。
今週、二人の友人のお父様が同じ日に亡くなられました。
「亡くなる」という言い方をしたのは、キリスト教の信者ではないからです。
「帰天」されたのよ、と友人を励ますために言うこともできたかもしれません。
「永眠」「逝去」「他界」といった表現が一般的です。
キリスト教では、神に与えられた命が神の御手に戻ることが死であると考え、「帰天」と表現しています。
人生の終わりが死ではなく、神のもとへ帰るという永遠の命の信仰があるからです。
仏式の葬儀では、お経が長い時間読まれます。
故人を偲び、遺族が心を整える時間をつくる役割があるそうです。
亡くなった方が迷わずに成仏できるように、故人の魂を安心させるためだけでなく、遺族や参列者の心を落ち着かせるために、低い調子で静かに読まれるのだ、ということです。
教会の葬儀では、聖書朗読と聖歌を歌い、ミサを捧げます。
あくまでも「帰天」を祝福する時間であり、悲しみを表現する(仏式の弔辞のような)ことは強調されません。
塵は元の大地に帰り、霊は与え主である神に帰る。
(コヘレト12・7)
わたしの言葉を聞いて、父が死者を復活させて、命をお与えになるように、子もまた自分が望む者に、命を与えるからである。
父は誰をも裁かず、すべての裁きを子に委ねられた。
すべての人が、父を敬うように、子をも敬うようになるためである。
子を敬わない者は、子をお遣わしになった父をも敬わない。
よくよくあなた方に言っておく。
わたしの言葉を聞いて、わたしをお遣わしになった方を信じる者は、永遠の命を持っており、裁かれることなく、すでに死から命に移っている。
よくよくあなた方に言っておく。
死者が神の子の声を聞く時が来る。
いや、今がその時である。
その声を聞いた者は生きる。
父はご自分のうちに命をもっておられるように、子にも自分の内に命をもつようになさったからである。
(ヨハネ5・21~26)
友人の自宅に、葬儀前にお線香をあげに伺いました。
我が家と同じく彼女も3姉妹で、わたしも含めた4人でお父様の御遺体の前で賑やかに思い出話しで盛り上がりました。
葬儀会社の方が御棺のお顔の部分の蓋を閉じようとしたとき、3人揃って「開けておいてください。」「わたしのときも閉めないでね!」と姉妹で言い合ったりもして。
賑やかなお見送りに、「父がそのへんにまだいて、うるさいなぁって言ってる気がする」と笑い合いました。
文字通り、「天寿を全う」されたお父様でしたので、悲しみに沈むことなく明るく「帰天」を見送ることができました。
悲しみに打ちひしがれるお見送りもありますが(わたしは母の葬儀ミサの間、ずっと泣いていましたし、、、)、故人がどのように見送ってもらいたいか、も大切にしたいと思うのです。
教皇レオ14世は、今年1月1日にスイス南部、クラン・モンタナで起きた火災の犠牲者の遺族らとお会いになった際に、このようにお話になりました。
「キリストの愛から、そして苦しまれている皆さんの愛する方々、亡くなられた愛する方々から、皆さんを引き離すものは何もありません(参照 ローマ8,35)。
わたしたちの内に宿る信仰は、人生で最も暗く、最も苦しい瞬間を、かけがえのない光で照らし、勇気をもって目的地に向かって歩み続ける力を与えてくれます」
同じ日に帰天された友人2人のお父様の安息を祈りながら、友人家族の1日も早い心の平安を願う、これが、わたしなりのしきたりです。
朝日に照らされて壁に映り込む十字架とステンドグラスの風景が大好きです。
続くことの意味
箱根駅伝、今年も素晴らしかったですね!
お正月の楽しみのひとつですが、近年はわたしの母校の選手も頑張っているので、箱根には余計に力が入ります。
「なぜ、このチームだけが、人がどれだけ入れ替わっても勝ち続けられるのか?」
青山学院大学の原監督は、この質問に次のようにお答えになっています。
「人が入れ替わっても勝ち続けられる組織であるために、日常生活を徹底的に見直したことが現在の成果につながっている」
夫婦で部員たちと寮に住みこみ、練習だけでなく生活も共にされていることは有名ですが、大切にされているのは日々の生活だということのようです。
「なぜキリスト教(カトリック)は2000年以上も受け継がれてきたのか」
そう質問されて、自信を持って答えられるでしょうか。
先に起こったことを、思い起こしてはならない。
以前のことを、思い巡らしてはならない。
見よ、わたしは新しいことを行う。
今にもそれが芽生えているのを、お前たちは知らないのか。
わたしはまさに荒れ野に道を、荒れ地に川を設ける。
(イザヤ43・18~19)
大学の部活は、4年で卒業する生徒(才能)を入れ替えながらも、指導(伝統)の賜物で成果を出し続けています。
*箱根駅伝は、毎年だいたい同じ学校の名前が並びますね。
教会は、帰天される方、受洗される方が毎年おられますが、数年でメンバーが全て入れ替わるなんてことはありません。
日本のカトリック信者が増加している、とは言えない現実を直視しつつも、基盤となる教えに加え、その教会(司祭・信徒)なりの導きの賜物の成果として、新しい奉仕者が少しづつ出てきているのを感じています。
*そのことに気づかない教会も多いのではないでしょうか。
聖霊の賜物による、ある種の召し出しなしでは、教会共同体がこれからも続くことはありません。
新年にNHKで放送されていた、菊池枢機卿と若松英輔さんの対談を観ました。
その中で、菊池枢機卿のいくつかのお話が大変印象に残っています。
*現代社会において、それは夢物語だと言われようとしても自分の信念・確信を持つことの大切さ
*「答え」をすぐに求めたがるのが現代の人々だ。宗教にもそれを求めている。
宗教は方向性を示すことはできるが、その道を生きるのはその人なのだ。
母の胎にいた時からわたしに担われてきた者たち、
腹にいた時からわたしに背負われてきた者たちよ。
お前が老いるまで、わたしはその者である。
白髪になるまで、わたしは担う。
わたしは造り、わたしは背負う。
わたしは担い、わたしは救う。
(イザヤ46・3~4)
主なる神は、教えを受ける者の舌をわたしに与えてくださった。
疲れた者を言葉をもって支えることを知るために。
主は朝ごとに呼び覚まし、
わたしの耳を呼び覚まし、
教えを受ける者のように聞くようにしてくださった。
主なる神は、わたしの耳を開いてくださった。
わたしは逆らわず、背を向けて退くことはなかった。
(イザヤ50・4~5)
宗教が続いてきたこと、これからも続いていくこと、の意味はここにある気がします。
*聖霊に導かれて生きる、という自分の信念を確認して確信にすること
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2025年、聖年の扉が閉じられました。
教皇フランシスコは、聖年の開始を告げる大勅書「希望は欺かない」の冒頭でこう述べられています。
「すべての人は希望を抱きます。
明日は何が起こるか分からないとはいえ、希望は良いものへの願望と期待として、ひとり一人の心の中に宿っています」
わたしたち一人ひとりの中に希望が絶えずあり続けること、キリスト教がこれからも続き、人々の指針であるために大事なことではないでしょうか。
賢く、素直に
素直じゃないなぁ、、、と思ってしまうこと、ありませんか?
そういうことに惑わされて、負の感情に陥ることなく自分の心を守るためには、善悪を見分ける賢さが必要です。
守るべきものすべてにも増してあなたの心を保て。
命はそこから来る。
(箴言4・23)
「ところで、あなたたちはどう思うか。ある人に息子が二人いたが、彼は兄のところへ行き、『子よ、今日、ぶどう園へ行って働きなさい』と言った。
兄は『いやです』と答えたが、後で考え直して出かけた。
弟のところへも行って、同じことを言うと、弟は『お父さん、承知しました』と答えたが、出かけなかった。
この二人のうち、どちらが父親の望みどおりにしたか。」彼らが「兄の方です」と言うと、イエスは言われた。
「はっきり言っておく。徴税人や娼婦たちの方が、あなたたちより先に神の国に入るだろう。
なぜなら、ヨハネが来て義の道を示したのに、あなたたちは彼を信ぜず、徴税人や娼婦たちは信じたからだ。
あなたたちはそれを見ても、後で考え直して彼を信じようとしなかった。」
(マタイ21・28~32)
イエス様は、誰にでもわかるように、日常生活を喩えにして教えられました。
このマタイにある喩え話も、現代のわたしたちにもとても納得できる、「よくあること」ではないでしょうか。
ひねくれた人、返事は良い人、周りにもいます。
同じように、素直だと思っていた人が、心の中では全く逆の感情を持っていることが分かることも。
ある信徒の方から相談を受けました。
終活として、家の中のものを整理されているようで、「長年、全力をかけて」集めてきた本をどこかに寄贈したいので、考えて欲しい、とのことでした。
おそらく、よく知らない方々からは、「偏屈な風変わりな頑固者」だと思われている方です。
見た目も結構アレですし、、、、。
わたしは、その方が洗礼を受ける前から共に聖書の勉強会に参加していて、洗礼を受けることになる流れなども色々と知っていますし、一緒にイスラエル巡礼にも行きました。
「嫌です」、と答えたなら絶対に行かないタイプの方です。
「離れて暮らす娘がカトリック教会に行っていると聞いたので、どういう教えなのかを自分で確かめたいから」、と教会に通うようになり、聖書を勉強したという素直な方です。
随分年上の方ですが、わたしは信徒友だちだと思っています。
以前、わたしがここに書いた記事の内容に反論するような意見を言ってきた方がいました。
わたしはとても落ち込み、素直に「そういう考えもあるのだ」とは受け止められずに、うじうじと悩みの日々を過ごしたことがあります。
その時、その素直な信徒友だちのおじさまにどう思うか意見を聞いて、いろいろとやり取りをして、思慮深くよく考えてアドバイスをくださったことを思い出します。
わたしが数年前に初めてミサの先唱をした時も、「きれいな声で司会をされていて驚きました。とても素敵で、聡明で、ミサが楽しいひと時でした」と素直な感想メールをくれました。
絶対そんな素敵なメールをくれるような風貌ではないので、この話をしたら皆さん驚いていました。
あなたがたは蛇のように賢く、鳩のように素直になりなさい。
(マタイ10・16)
「賢く」と訳されている語は、原文のギリシャ語では「分別のある、思慮深い、賢明な」などの意味をもつ言葉です。
「蛇のように賢い」ことと、「鳩のように素直である」こと。
どちらか一方だけではなく、その両方が必要なのだとイエス様が教えてくださいます。
わたしの日々の生活に欠かせないのは、音楽。
心の底から素直に喜びを感じることができます。
先日バチカンで教皇様主催で開催された、マイケル・ブーブレのコンサート。
美しい歌声を、教皇様も多くの信徒と共に楽しまれていました。
良い降誕祭をお迎えください。
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みこころレター第16号を発行しました。
事情があり教会に来ることのできない信徒、カトリックに関心をお持ちのお知り合いなどにもお渡しください。
罪と罰
先日、洗礼を受けて間もない方に、「もうすぐ待降節ですから、初めての告解をしてみてください」とお伝えしたら、「どのような罪が告解に値するのかわかりません」とおっしゃいました。
告解するのは犯罪ではなく、日常生活で「あの時の自分は間違っていた」などといった『自分の罪』と感じたことでいいのですよ、とお答えしました。
それ以来、罪と赦しについて考えていました。
数日後、たまたま目にした新聞で、「死刑になる罪 国ごとに違う」という記事を読みました。
国際人権団体によると、2024年度に世界で施行された死刑の内、4割が薬物犯罪関連だったそうです。
そして、何を犯罪とするかは、その国の価値観を反映しているのです。
「現在の刑事司法制度は、国が加害者にどんな罰を科すか、という考え方=『応報的司法』が中心です。
しかし、わたしは被害の修復=『修復的司法』こそ必要だと考えています。
薬物犯罪には明確な被害者はいません。ではいったい誰のための死刑なのか。
国の秩序や体制の維持、つまりは為政者のためです。」
と、早稲田大学の高橋名誉教授が書いておられました。
『修復的司法』の例として、オーストラリア・ドイツ・カナダ・イタリアで制度化されている、被害者や加害者、両家の家族や友人らが集まって解決策を話し合う、「家族集団会議」という制度が紹介されていました。
見よ、主の手が短すぎて救えないのではない。
その耳が遠すぎて聞こえないのではない。
お前たちと神との間を隔てたのは、まさにお前たちの悪行、み顔を隠させ、聞かれなくしたのは、お前たちの罪なのだ。
まことに、お前たちの手は血で、指は悪行で汚れ、唇は偽りを語り、舌は邪なことを発する。
正しく訴える者もなければ、信じるに足る弁護をする者もなく、空虚なものに頼り、むなしい言葉を語り、労苦を孕み、不正を産む。
(イザヤ59・1~4)
わたしは自分の罪をあなたに告げ、罪咎を隠しませんでした。
わたしは言いました、
「いと高き方よ、ありのままに申します、主よ、わたしの咎を」。
そのとき、あなたはわたしの罪と咎を赦してくださいました。
(詩編32・5)
自分の過ちを隠す者が栄えることはない、
それを言い表して、それと手を切る人は憐れみを受ける。
(箴言28・13)
数年前に観た映画、「対峙」(原題:Mass)を思い出し、もう一度観てみました。
アメリカの高校での銃乱射事件後、加害者と被害者の両親が6年後に教会の一室で対話する様子を描いた作品です。
先ほど紹介した、「集団家族会議」の制度を利用したのです。
事件によって息子を失った両親、そして自殺した犯人の少年の両親が互いに向き合い、深い悲しみ、喪失を共有し、赦しに挑みます。
全編を通し、教会の談話室のような一室だけ、登場人物も(冒頭に教会の職員とコーディネーターが部屋を準備するために登場する以外は)二組の夫婦だけです。
最初は冷静だった被害者の両親は、加害者の両親を責め立てていきます。
観ているこちらまで、息が詰まるような苦しみを錯覚します。
そして次第に、加害者の両親も大切な息子を失った悲しみを抱え、喪失感、罪悪感だけでなく、世間からの非難にも苦しんでいることを理解し始めます。
とても重い内容の映画ですが、テーマは「赦し」と「和解」です。
「あなた方が残りの人生を苦しみのまま過ごす罰を与えたかった
でも、このままでは生きられない
わたしは心からお二人を赦します、そして、彼を赦します」
ラストシーンで教会から聞こえてくる聖歌隊の歌う聖歌の歌詞に、思わず涙がこぼれます。
わたし自身、告解すべきことがあり、心に棘として突き刺さっています。
近いうちに。
この↓noteの記事が、映画についてとてもよく伝わってきます。
https://note.com/kazuya2511/n/n446ce019c403