カテゴリ:御ミサ
残りの日々の過ごし方
今年は特に何もしていない気がするのに、残り3か月となりました!
毎年秋になると、年初に計画したことや抱負をどのくらい達成したか自己検証し、悔いなく残りの日々を過ごせるように考えてみます。
今年はどうでしょう。。。
抱負として掲げたのが「去年のように、そして去年よりも素晴らしい一年にする」でした。
去年までは、ごミサに与り、時には朗読や答唱詩編を歌わせてもらい、みなさんと語らう。
これがわたしの日曜日でした。
今年は、6月にミサが再開されてからというもの、いつも座る席でじっと静かに手を合わせて祈る、ことはほとんどなく、裏方としていろいろとお手伝いをさせていただけるようになりました。
去年までよりも、わたしにとっては意味のある(絶対にサボることのできない)日曜日となっています。
第一朗読ではイザヤ5・1~7が読まれました。
7節にはこうあります。
イスラエルの家は万軍の主のぶどう畑、主が楽しんで植えられたのはユダの人々。
主は裁き(ミシュパト)を待っておられたのに、見よ、流血(ミスパハ)。
正義(ツェダカ)を待っておられたのに、見よ、叫喚(ツェアカ)。
(イザヤ5・7)
そのあとには、こうした言葉があります。
災いだ、悪を善、善を悪と言い、
闇を光、光を闇とし、
苦いものを甘い、甘いものを苦いとする者たちは。
災いだ、自らを知恵あるものとみなし、
自分一人で賢いと思っている者たちは。
(イザヤ5・20~21)
この箇所は性悪説の表現ですが、マタイ5・1~に書かれた性善説の真福八端との対比で読むことができる、と教わりました。
災いだ、わたしは破滅だ。
わたしは汚れた唇の者、汚れた唇の民の中に住んでいるのに、
わたしの目は、王である万軍の主を見てしまったのだから。
(イザヤ6・5)
そして、こう続くのです。
その時、わたしは主の声を聞いた、
「わたしは誰を遣わそうか。誰がわれわれのために行くだろうか」。
わたしは言った、
「ここに、わたしがおります。このわたしを遣わしてください」。
(イザヤ6・8)
これはルカ5章のペトロの召命に繋がっています。
「しかし、お言葉ですから、網を下ろしてみましょう」と、疑わず素直に召されていくシモンのように。
第2朗読は、わたしが大好きな暗記している箇所です。
皆さん、どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。
何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。
そうすれば、あらゆる人知を超える神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスによって守るでしょう。
終わりに、兄弟たち、すべて真実なこと、すべて気高いこと、すべて正しいこと、すべて清いこと、すべて愛すべきこと、すべて名誉なことを、また、徳や称賛に値することがあれば、それを心に留めなさい。
わたしから学んだこと、受けたこと、わたしについて聞いたこと、見たことを実行しなさい。
そうすれば、平和の神はあなたがたと共におられます。
(フィリピ4・6~9)
この前後にはこうあります。
主に結ばれた者として、いつも喜びなさい。
重ねて言います。喜びなさい。
あなた方の寛容さをすべての人に知らせなさい。
(フィリピ4・4~5)
わたしに力を与えてくださる方に結ばれていることによって、わたしはどんなことでもできます。
(フィリピ4・13)
神への従順は返事にではなく、実際の行動にあります。
神への信仰は、悪ではなく善を、虚偽ではなく真理を、利己主義ではなく隣人愛を、毎日繰り返し選択することを要求します。
教皇フランシスコ 9/27 バチカンでの正午の祈りより
残りの3か月の抱負が決まりました。
◆神様からの召し出し(それぞれの立場で与えられる役割)に忠実に生きる。
◆くよくよと思い悩まず、神様に明け渡して委ねる。
◆これまでの信仰生活で学んだことを、いつでもどこでもだれにでも実行するよう心掛ける。
こうして書きだして決意を新たにすることで、自分に刻み付けることができると思います。
手帳にも書きました。
毎日を少しでも悔いなく(あれもできなかった、そうすればよかった、と思うことなく)生きたい、これはわたしの信仰生活の基本的な考え方なのです。
10/18の福音宣教の日に向けて、わたしたちそれぞれが「わたしがここにおります」と応えることができるような日々を重ねていきましょう。
わたしたちの『おきて』
季節は秋へと移ろい始めました。
13日から教会学校が再開され、子どもたちが教会に戻ってきてくれました。
侍者もいないごミサが続いていますので、子どもたちの姿に目頭が熱くなる思いがしたのはわたしだけでしょうか。
教会共同体が未来に繋がっていく実感が持てるのは、子どもたちの教会での様子を目にできるからだと思うのです。
13日の第一朗読のシラ書です。
滅びゆく定めと死とを思い、掟を守れ。
掟を忘れず、隣人に対して怒りを抱くな。
いと高き方の契約を忘れず、他人のおちどには寛容であれ。
(シラ28・6~7)
2200年前に語られたこの『おきて』は、当時の社会に起きていた様々な問題を正面から捉えて、それを踏まえての生き方を説いています。
いまの混迷の時代の最中にあるわたしたちにも迫ってくることばが多く、たくさんアンダーラインを引いているお気に入りの聖書の文書のひとつです。
預言書を除いて、旧約聖書のなかで著者の名前が判明している唯一のものです。
教父たちはシラ書のことを「パナレトス(最も優れた本)」や「パナレトス・ソフィア(最も優れた知恵)」と呼んでいました。
3世紀以降は「エクレジアスティクス(教会の本)」と呼ばれ、教理の教科書として用いられていたのです。
オリジナルのヘブライ語版が19世紀に入って発見され、カトリックでは正典として位置づけられます。
1964年にはイスラエルのマサダの城壁発掘の際に、ほぼ5つの章を含む巻物の写本が発見されています。
これが、マサダの城壁です。
この写真を撮影しているとき、携帯の気温計は46℃でした!
主は彼らに判断力と舌と、目と耳を与え、考えるための心をお与えになった。
主は知恵と知識で彼らを満たし、善と悪とを彼らに示された。
主はご自分と同じ力を彼らに帯びさせ、
彼ら一人ひとりに、隣人についての掟をお与えになった。
(シラ17・3~14抜粋)
先週ご紹介した、教皇様の説教集からのお話です。
感謝の心を持ち、自由で偽りなく、祝福する心を持った責任ある大人という存在であること
忠実で寛大で裏表なく、いのちを守り愛する者であること
教皇様は説教の中で「十戒で語られる生き方」について、こう語られています。
暗記したい、いや、これは暗記すべき『おきて』です。
キリスト者に限らず、この生き方を全ての大人が心がけるならば、若者や子どもたちに良い影響を与えることができるはずです。
また、「祈り」について語られたことにも触れておきたいと思います。
わたしたちの祈りの多くは、かなえられていないようだからです。
求めても得られなかったことがどれだけあったか。だれもが経験しています。
扉をたたいても、開かれなかった経験をどれだけ重ねたことか。
そうしたときにも、しつこく、決してあきらめてはならないと、イエスは忠告しています。
祈りによって必ず現実は変わります。必ずです。
たとえ周囲の状況が変わらなくとも、少なくともわたしたち自身が、わたしたちの心が変わります。
神はこたえてくださる、それは確信出来ます。
唯一不確かなのはその時期ですが、それでも神がこたえてくださることを疑ってはいけません。
もしかすると、生きている間ずっと待ち続けなければならないかもしれません。
それでも神はこたえてくださいます。
生きている間ずっと待ち続ける、という表現にはハッとさせられました。
聞き入れられないのではなく、待つことに意味があるとは。
これも、心に刻んでおくべき現代の『おきて』です。
わたしを始め、現代人はせっかちで、不安定で、脆い心を持った人が多いからです。
祈ってください。祈りは現実を変えます。
事態を変えるか、わたしたちの心を変えるか、どちらにしても必ず変えます。
パパ様がそうおっしゃるのです。
なんと心強いおことばでしょう。
わたしたちに与えられた十戒も、現代において教皇様が示してくださる新しいおきても、決してわたしたちをしばるものではありません。
これは、神様が与えてくださる『ことば』なのです。
神様はこれらのことばを通してご自身を伝えてくださり、わたしたちがそれに応えて生きていくことを望まれています。
安息日の過ごし方
6日のごミサでは、敬老の祝福が行われ、50名ほどの大先輩方をお祝いすることができました。
コロナ禍において初めての、久しぶりの教会行事でしたので、感染防止対策もいつも以上にしっかりと取り組み、お祝いのひと時を過ごすことが出来ました。
9/1はカトリック教会の「第6回環境保護のための世界祈願日」でした。
10/4までは被造物を保護するための祈りと行動の月間、「被造物の季節(Season of Creation)」がキリスト教諸教会と共に行われています。
特に「アースデイ(地球の日)」の誕生より50周年を迎えた今年は、この期間を「地球のジュビリー(祝年)」として記念されており、教皇様も特別のメッセージを寄せられました。
神は、大地と人々を休ませるために安息日を設けられたが、今日のわたしたちの生活スタイルは地球をその限界まで追いやり、絶え間ない生産と消費のサイクルは環境を消耗させている。
このジュビリーを「休息の時」とし、いつもの仕事の手を休め、習慣的な消費を減少させることで、大地を生まれ変わらせる必要がある。
現在のパンデミックは、ある意味で、わたしたちによりシンプルで持続可能な生活様式を再発見させることになった。
今こそ、無駄や破壊につながる活動をやめ、価値や絆や計画を育むべき時である。
安息日について、中央協議会から出版された最新の教皇講和集のなかの言葉もご紹介します。
十戒のおきてでいう休息とは何でしょうか。
それは思い巡らす機会であり、逃避ではなく賛美の時です。
現実を見つめ、生きるとはなんとすばらしいことかと、感嘆するのです。
現実逃避としての休息に対し、おきては休息を現実の祝福と受け止めています。
わたしたちキリスト者にとって、主の日、日曜日の中心は「感謝」を意味する感謝の祭儀(ミサ)です。
主日は、それ以外の日を忘れ去る日ではなく、それらの日々を思い起こし、感謝し、人生を肯定する日です。
安息日については、昨年のイスラエル巡礼の記事でも取り上げましたが、ユダヤ教徒とキリスト教徒では捉え方が全く違います。
ユダヤ教徒は、冷蔵庫の扉を開けることさえも労働ととらえ、金曜の午後のうちに土曜の夕食まですべて作り置きして並べておきます。
もし電気のスイッチを押す必要が生じたら、他の宗教の隣人を呼んで、目で合図してつけてもらうそうです。
(スイッチを押して、と頼むのも労働!)
わたしからすると「安らげない安息日」と感じてしまいます。。。
教皇様は、安らぎは偶然手に入るものではなく、自ら選び取るものだとおっしゃいます。
自分が目を背けてきたことがあるのならば、それとも和解し、自らのわだかまりを解消して得るものなのだ、と。
真の安らぎとは、自分の人生をあるがままに受け入れて、その価値を認めることなのだ、と。
今日のコロナ禍のわたしたちにとって、安息日はまた新たな役割を持ったと思います。
自分の置かれた今の境遇、社会・生活環境に押しつぶされそうになったり、不満や不安ばかりが募ることも少なくないでしょう。
ですが、日曜日には、安息日である主の日には、真に安らぎを自ら得る努力をしてみませんか。
1週間のうちにいくつかのつらいことがあるでしょう。
喜びや楽しいことばかりの毎日を過ごしている人はいないのです。
それら全てを肯定して、真の休息である『恵みと解放』のために、自らの人生に感謝を捧げる日にしたいものです。
わたしの魂は沈黙して、ただ神に向かう。
神にわたしの救いはある。
(詩編62・2)
祝「初ミサ」of 初ミサ
新司祭がその教会で初めて執り行うごミサを「初ミサ」と呼びますが、本当に初めてのごミサを久留米教会で上げてくださいました!
最初のごあいさつです。
「司祭に叙階されて4日目のわたしがミサをちゃんと捧げることができるのか?と不安に思われている方もいらっしゃるかもしれませんが、ご安心ください。
神様がわたしを通してミサを行ってくださるのです。」
(船津司祭らしい、誠実なお話しぶりです!)
「叙階にあたり、多くの方からお手紙をいただきました。そのなかにはお会いしたことのない方からのものもありました。
全く知らない方からの本当の祈り、願いが込められたお手紙をいただきました。
『この手紙の目的は、あなた様に叙階のお祝いを申し上げるためです。
今日から司祭のための祈りを始めます』と書いてありました。この手紙はわたしにとって、宝です。」
宮﨑神父様が昨年イタリアで買ってきてくださったカリスを、久留米教会の信徒からの贈り物としてお渡ししました。
新司祭からの祝福は、全免償が与えられるとされています。
最後のごあいさつでは、こうおっしゃいました。
「神様の呼びかけに耳を澄まし、それに応えて生きていく。
わたしの司祭としての道もそう、皆さんひとりひとりもそうです。
あなた方の光を人々の前に輝かせなさい、というマタイの教えを忘れないでください。
10数年前にこの久留米教会から寺濱神父様が誕生したとき、『わたしの願いは、次の10年で新しい司祭がこの教会から生まれることです』とおっしゃっていました。
わたしも同じことを祈りたいと思います。」
イエスがご自身の貧しさで豊かにしてくださらなければ、司祭はもっとも貧しい者です。
イエスが友と呼んでくださらなければ、司祭はもっとも役に立たないしもべです。
ペトロにしたようにイエスが忍耐強く説いてくださらなければ、司祭はもっとも無知な者です。
よい羊飼いが羊の群れで強くしてくださらなければ、司祭はもっとも脆弱なキリスト者です。
私が聖職者でいるのは、神が私の小さに「目を留めてくださったからです」(ルカ1・48)
その小ささのなかに、私たちは喜びを見出します。
私たちの小ささのなかにある喜びを!
(教皇フランシスコの説教より)
幸せな喜びとお恵みに満ちた、この活気ある久留米教会をこれからもともに前に進め、新司祭のご活躍を祈りたいと思います。
視点を変えてみる
29日の聖ペトロの祝日に併せ、宮﨑神父様の霊名をお祝いしました。
ジュゼッペ神父様がお祝い(?)の演奏を披露してくださいました!
いよいよ来月23日には、この久留米教会において、久留米教会出身の船津亮太助祭の司祭叙階式が行われます。
今、久留米教会は喜びとお恵みに満ちています。
先日、ある神父様とじっくりお話をする機会に恵まれました。
その神父様の「キリスト者とはなにものか」というお考えが面白いのです。
もし、わたしが「信者ってどういうひと?どういう生活?」と聞かれたら、うまく説明できないと思うのです。
「どうせ、信仰を持っていない人には理解できないだろうなぁ、、。神に祈りを捧げる生活をしている人とか言ったら引かれるかも、、、」と思ってしまいます。
神父様は『しょっちゅう、イエス・キリストという人とおしゃべりしている人』と表現されました。
なるほど!!と目からウロコでした。
何事も、ちょっとずらして考えてみると、違った見え方がしてくるものです。
宗像の黙想の家のこのご像、素晴らしいですね。
ローマ兵に連行されていくイエス様の様子が表現されています。
でも、わたしには「小さな存在にすぎない弱い人間を全てから守る存在」に見えます。
どうですか?!
そう言われてから見ると、そう見えませんか?!
手をつなぎ、信頼のあかしに肩に触れている、小さき我ら
そう見えます。
前々回の記事、「死者とのつながり」を読んでくださったある神父様からメールをいただきました。
わたしたちが死者のために祈ることについて、書いた記事でした。
神父様からのメールには、
「むしろ死者がわたしたちを生かしている。
生ける者の教会は、亡き者の教会によって支えられている。」
「死者は生きていて、今を生きるわたしたちを生かす。
わたしたちが死者に向かうというよりは、死者の方がわたしたちを生かしている。」
そう、本当にそうです、そうなのです。
「亡き母を天国で安らかに過ごさせてください」と毎晩祈るわたしを動かしているのは、亡くなった母とイエス様なのだ、と日々、いつも感じます。
この世の生(ビオス)は永遠の命(ゾエ)に照らされ、守られ、支えられ、導かれているのです。
視点を少し変える。
何事も真正面からだけとらえて考えるのではなく、少し横から眺めたり、一歩引いて考えてみると見えてくるものがあります。
フランシスコ教皇が昨年秋に来日された際の、東京での青年たちとの集いでのお説教の一説です。
なんのために生きているかに焦点を当てて考えるのは、それほど大切ではありません。
肝心なのは、だれのために生きているのかということです。