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詩編で祈る

12日の第一朗読と答唱詩編にハッとさせられました。

まことに、天から雨や雪が降れば、地を潤し、これに生えさせ、芽を出させ、
種蒔く者に種を、食べる者に糧を与えずに、天に戻ることはないように、
わたしの口から出る言葉は、わたしが望むことを行い、
わたしが託した使命を成し遂げずにむなしくわたしに戻ることはない。
(イザヤ55・10~11)

あなたは地を訪れて、潤わせ、それを大いに豊かにされました。
天の水路には水が満ちています。
あなたは彼らに麦を用意されました。
あなたはこのように大地を整えられました。
畝間を豊かに潤し、土塊をならし、夕立で大地を柔らかにし、
芽生えたものを祝福されました。
(詩編65・10~11)

恵みの雨を降らせてくださる神に感謝する祈りの詩編です。

今この時だからこそ、この詩編を祈りとして唱えることが必要だ、と感じました。

 

 

黙想会に参加すると、(安易な表現ですが)心も身体もデトックスされたような気持ちになります。

「さあ、静かなところへ行ってしばらく休みなさい。」
マルコ6.31

黙想の家を、英語ではRetreat House(リトリートハウス)といいます。
Retreatには「退く」と言う意味があります。

日常生活からひとまず退き、離れ、独りになって静かに祈りの時を持つ。
そして、こころに語りかける神のことばに耳を澄まします。
(カトリック福岡黙想の家 ホームページより抜粋)

 

「詩編で祈る」 というテーマでの黙想勉強会に参加しました。

詩編についてこれほど深く考えたのは初めての経験でしたし、詩編が「使える」ことに目からウロコでした!

聖書は神から人への語り掛けですが、唯一詩編だけは、人間が神に語りかけている言葉、詩です。

 

自分のなかに渦巻く様々な思い、怒り、嘆き、痛悔、あるいは信頼、感謝、賛美といった思いを、神様に向かって、詩編にのせて「注ぎ出す」ことで、神様との関係が循環し、生き生きと生きることが出来るのです。

人間のあらゆる思い、それらを偏らずに祈ることによって、自分の心という畑をまんべんなく深く耕し、肥沃なものにしていくことができるのです。


神様には何を言っても大丈夫なのです。

怒りに任せて、祈りかどうかもわからず、不安や不満をぶちまけることさえも受け止めていただけます。

 

詩編には「嘆きの詩編」「怒りの詩編」などと呼ばれている詩があります。

たとえば、あなたが今苦難を抱えていて嘆き悲しんでいるとしたら、その詩編(ex.102)に乗せて嘆き抜いてみるとよいでしょう。

嘆きの詩編102は、こう神に語りかけます。

 

不幸なものが心挫け、その憂いを主の前に訴える時の祈り。
主よ、わたしの祈りを聞き入れ、
わたしの叫びをみ前に至らせてください。
わたしの悩みの日に、あなたの顔を隠さず、
わたしに耳を傾け、わたしが叫び求める日に速やかに答えてください。
(1~3)

父が子を憐れむように、主はご自分を畏れる者を憐れまれる。
主は、わたしたちの造られた有様を知り、
わたしたちが塵にすぎないことを想われる。
人の日々は草のようにはかなく、
その栄えは野の花のように短い。
風がその上を通り過ぎると跡形もなく、その場所さえ知る由もない。
しかし、主の慈しみは主を畏れる者の上に、とこしえからとこしえに。
(13~17)

 

このポケットに入るサイズの祈りの本は、数年前の御復活祭の時にプレゼントでいただいたものです。

 

バッグに入れて持ち歩き、ふとした瞬間に開くだけでお祈りが出来るという優れものです!

 

嘆いて嘆いて、嘆きの底までたどり着いて、その底に足がついたら蹴り上げて上昇するのだ。
底までいかずに途中で上昇しようとすると、中途半端な気持ちのままに嘆きがくすぶり続ける。
嘆きたいときは、神に嘆き尽くすほうがよい。

黙想を指導してくださった神父様がおっしゃっていました。

詩編65の恵みの雨に感謝する詩は、この水害の時だからこそ、唱えなければならないと思うのです。
雨は本来、神からの大地への、わたしたちへの恵みなのです。
そのことを、災害時には忘れてしまいます。
雨を、恵みとして降らせてください。
被災された方々に一日も早く心の平安をお与えください。

そう祈りたいと思います。

 

祈りに求めるものは何でしょうか。

「安らぎ」が得られる祈りができることは、喜びでしょう。

ご自分のもとに来る者を「休ませて」くださると、イエスは言います。
キリストが疲れた者、重荷を負う者に与える「安らぎ」は、単なる心理的な慰めでも、施しでもありません。
それは、福音を知り、新しい人類の構築者となった、貧しい人たちの喜びです。
イエスご自身があたえる喜び、それが安らぎです。

(7/5 教皇フランシスコのお説教より)

 

神様からの質問

ミサが再開されて3週間。土日3回の主日のミサはいずれも100名前後の参列者です。

 

第2朗読の一説に心を惹かれました。

実にアダムは、来るべき方を前もって表す者だったのです。
(ローマ5・14)

 

神様がアダムとイブ、カインに質問をされている場面は、わたしたちに対する問い掛けと読むと面白いものです。

神様はアダムに質問されます。

「あなたはどこにいるのか」

アダムは答えます。

「園の中であなたの歩まれる音を聞き、わたしは裸だったので、恐れて身を隠したのです」
「あの女が、木からとってくれたので、(仕方なく)食べたのです」

神様はイブに問い掛けます。

「あなたは、なんということをしたのです」

イブは答えます。

「へびがわたしをだましたのです。」

 

2人とも、人のせい(へびのせい)にしています。


カインに質問されます。

「弟アベルはどこにいますか」

カインは答えます。

「知りません。わたしが弟の番人でしょうか」

今でいう、逆ギレのようです。

 

「なぜ神様はアベルの捧げものを好まれたのでしょうか」と2人の神父様に質問してみました。

おひとりの神父様のお答えは、
「コヘレトにあるように、神の思いを知ろうとしても無駄。
人の考えることと神の考えはかけ離れているのだ。
納得できないこと、理不尽なことは世の中に多くあるものです。」

もうお一方の神父様のお答えは、
「昭和天皇に園遊会で、『陛下、こちらのカインさんがお持ちになったのは精魂込めて作られた新種の米でございます』とお米を献上したら、陛下が『ほぉ、どのような品種改良をされたのですか?』と興味を示される。
次に『陛下、こちらはアベルさんで、最高級の肉をお持ちになりました』、陛下は『あっそ』。
そんなもんです。相手がこちらの期待通りに反応するとは限らないのが世の常です。」

面白い例え話だと思いませんか!?


アダムとイブは神の禁じた実を食べ、楽園を追放されました。
そして、2人の息子を産み、一心不乱に働きますが、弟は兄に殺され、兄は遠くの地に追放されます。
アダムとイブは2人の子どもを一度に失うのです。
その子はさらに、親たちの住む土地からも、神に追われます。

神に対する不従順と傲慢の結果です。

 

三浦綾子さんの本に、こう書いてありました。

「あなたはどこにいるのか」という問いは、永久に神が人々に問い続けている言葉である。
「あなたはどこに立っているのか」
「あなたの立場はいったいどこなのか」
「何に属しているのか」
という問いだ。

「わたしはいつも神の前に立っています」
「わたしは救い主キリストに属しています」
と、いつ、どこででも、誰に対しても明確に答え得るものは幸いである。

アダムとイブのように、神を避けて、隠れていてはならないのだ。人間はなぜ神に答え得ないか。
それは答え得ぬ生活をしているからである。

 

来住英俊神父様の本にはこう書いてあります。

「お前はどこにいるのか」神は知っているはずです。それでも質問するのはなぜか。
世々にわたって人間たちがこの質問に答えるためです。
私は結局、いま、どういう状態にあるのか、ということです。
折に触れて、「お前はどこにいるのか」という質問を神から受けて、自分の人生、いま到達している地点について思いをめぐらすことが大事なのです。 


誰に対しても「キリストに属しています」と答えるのは難しいですが、「信仰をもって生活しています」と言うことはできるのではないでしょうか。

「信仰を持っていてよかった」とおっしゃるご高齢の方の言葉を何度も聞いたことがあります。

わたしも将来、そうありたいと思ったものです。

 

神はどこに?

もう、紫陽花の季節になりました。

わたしたちの新しい生活が進むにつれ、季節も神様が与えられたその時を知っていて、前に進んでいるのですね。

 

「神はどこにいるのか」という問いは、人類がこれまで繰り返し問うてきたように思います。

特に、困難な時代、戦争、大規模な自然災害の際には、神はどこに?とつい思うのが人間でしょう。

神がそれらの困難を引き起こしているのではない、我々人間の仕業、傲慢な生活の末に我々自身が引き起こしているのだ、ということについては以前ここに書きました。

今日は、違う視点から考えてみます。

 

モーセは荒野の山の麓で、燃える柴の中から神の声を聞きます。

「わたしの民イスラエルの子らをエジプトから導き出せ」出エジプト3・10)

「わたしは必ずお前とともにいる」3・12)

「わたしは『ある』ものである」 3・14)

「これは永遠にわたしの名、これは代々にわたってわたしの呼び名である。」3・15)

 

古代の神々には、名前があるのが普通でした。

黄泉の神イシス、太陽の神ラー、嵐の神バアル、などです。

ですからモーセは、あなたの名前を教えてください、と言ったのでしょう。

その答えが「わたしは『ある』もの」とは、なんと面白い答えでしょう。

(ちなみに、共同訳聖書では「私はいる、という者である。」)

英語の聖書では、 "I am who I am." となっています。

 

今回読んだ本で初めて知ったのですが、原典の古代ヘブライ語には過去形、現在形、未来形という考え方は存在しないのだそうです。

著者によると、「ある」の部分は「あるだろう」となるのだというのです。

「わたしはあるだろう、わたしがあるであろうように」

と訳するのが妥当なのだと。

「ある」というなら、(さらに言えば、共同訳の「私はいる」ならば)神はすでに「存在している」ことになります。

ですが、「あるであろう」となると、「将来あるだろう」「いつか姿を現すだろう」、つまり「今はまだいない者」となるのです。

 

「わたしは今はいない。

 だが、いつか出てくるだろう。
 わたしがあろうと望んだ時に。

 あるであろう者、それがわたしの名」

 

わたしたちは神様を「存在」としてとらえようとするとき、「神はどこに?」と考えているのです。

神様は「時間」のなかに姿を現されるのだ、というのがこの著者の考え方です。

神様は自分の好きな時に、好きなところで、好きなようにわたしたちに触れてこられるのです。

人間が、好きな時に自分の都合で神様を引っ張り出してきて「どこに?」というから、「求める時にいない」などと思ってしまうのでしょう。

神様は「体験」する対象なのだ、と目からうろこでした。

 

ところで、 水を入れた容器の中心に強力な磁石を入れると水が左右へと分かれる現象が生じることを、『出エジプト記』のモーセにちなみモーゼ効果 (英語で Moses Effects) とよばれていると、ご存じでしたか!?

 

「神様がわたしの肩に触れてくださった」ような気がした、ガリラヤ湖畔を歩いた日を思い出しています。

 

 

去年は、夏にイスラエルに巡礼に行くことが出来、秋にはパパ様のごミサに与ることができ、神様の愛を全身に浴び続けた日々を過ごしていました。

今年は、教会に行くことができず、仲間たちと集まって教会の行事の準備をすることすら出来ない日々が続いています。

 

だからと言って、今はなかなか「神様を感じられない」なんてことはありません。

神様は、今日、今という時間にもわたしたちに触れてくださっているのを感じるようになりました。

教会に行けないから、ミサに与れないから、感覚が鋭くなっているのかも?!

 

「愛」にまつわる言葉

「愛」「愛する」という言葉は、口にすると少し気恥しい気がしますが、最近いくつかの「愛」にまつわる言葉を目にしたので、書いてみたいと思います。

5/17「世界広報の日」にあたっての教皇様のメッセージの一文です。

わたしたちを造り、救ってくださった愛を思い起こすなら、日々の物語の中に愛を差し込むなら、日常の筋書き〔横糸〕をあわれみで織るなら、そのときわたしたちは、ページをめくっているのです。

主とともに、ほころびや裂け目を修繕しながら、いのちの織物を再び織り上げることができるのです。

 

パパ様のメッセージはいつも愛に満ちていて、読んでいて涙が溢れそうになります。

 

1コリント13章は、パウロの愛の賛歌とでも言えるもので、とても好きな箇所です。

たとえ、わたしが人間の異言、み使いの異言を話しても、
愛がなければ、わたしは鳴る銅鑼、響くシンバル。
たとえ、預言の賜物があり、あらゆる神秘、あらゆる知識に通じていても、
たとえ、山を移すほどの完全な信仰があっても、
愛がなければ、わたしは何ものでもない。
(13・1~3)

「その時」引き続き残るのは、信仰、希望、愛、この三つ。
このうち最も優れているのは、愛。
(13・13)

フランシスコ会訳聖書の解説にはこうあります。

「愛」はあらゆる「特別な恵み」(カリスマ)に本質的に伴うものであり、「愛」がなければ、賜物はそれを与えられて行使する人にとって無意味なものになる。
「愛」は「信仰」「希望」とともに人を神と直接に結び付けるが、この2者にさえも勝るものである。

 

昨日の聖書朗読はヨハネの福音書でした。

「わたしの掟を自分のものとし、それを守る人、その人は、わたしを愛する者である。
わたしを愛する者は、わたしの父に愛される。
わたしもその人を愛し、わたし自身をその人に現す。」
(ヨハネ14・21)

さらに15章には、

父がわたしを愛してくださったように、わたしもあなた方を愛してきた。
わたしの愛のうちに留まりなさい。
(15・9)

 

ドン・ボスコの言葉です。

「若者たちを愛するだけでは十分ではない。
若者たちに『愛されている』とわからせることが必要だ」

信頼関係を築き、若者の生きづらさを取り除くには「愛する」だけでは不十分で、それを分かってもらえる努力をしなければならない、ということだそうです。

 

竹下節子さんの本にはこうありました。

「愛する」とは愛する「相手をリスペクトすること」と、「相手のためにだけとってある時間や場所があること」とが組み合わさったものである。
誰かを愛するというのは、自分の生きる努力の中に、スケジュール帳の中に、心の中に、愛する人のためにだけ取り出せる「空き」があるということだ。
だから、「自分は愛されている」と子どもたちにわかってもらうには、言葉だけでは十分ではない。
子どもたちに必要とされるときに、いつも応える用意があることを伝えること、全身全霊を投入して世話したり本気でともに遊んだりすることが必要だ。

 

もう一人、竹下さんと同様にわたしが尊敬する若松英輔さんの言葉です。

神が私に愛を注いでくれるということは、
この世界全体の根源である神が、私自身を肯定してくれていることに他ならない。
そして、神から肯定されているという事実を受け入れることによって、
自己を自分自身によって肯定することができる。
これが自己愛の出発点になる。

(これは、わたしの手帳に書き留めてあります。)

 

一方で、信仰についての心打たれる表現を見つけました。

1998年のヨハネ・パウロ2世の教書の中の言葉です。

「信仰と理性は、人間の精神が真理の黙想へと飛翔するための二つの翼である」

 

わたしの今日の結論は、パウロの言葉に行きつきます。

最後に残るのは、信仰、希望、愛、この三つ。

 

最後にもう一文、世界広報の日のパパ様メッセージより。

聖書は、神と人間との壮大なラブストーリーです。
その中心にはイエスがおられます。

イエスの物語は、神の人間への愛を完成させ、同時に、人間の神へのラブストーリーも完成させます。

是非、全文を読んでみてください。

https://www.cbcj.catholic.jp/2020/04/30/20698/

命のパン

ロザリオを手に、マリア様への祈りの毎日です。

ベツレヘムで買ったロザリオとマリア像です。

これがあるので、無敵の気分です。


そして、昨日の母の日の久留米教会の様子です。

 

ガリラヤ湖畔の小さな集落、タブハというところに、その名も『パンと魚の奇跡の教会』があります。

4つ全ての福音書に書かれている、5つのパンと2匹の魚で5000人の男性(女性と子どもはカウントされていないので、膨大な数の人々、という意味)の飢えを癒した奇跡を記念した教会です。

英語名は、Church of Multiplication of the Loaves and the Fishes

昨年の巡礼で訪れた際の写真です。(ピンボケですみません。。。) 

 

 

よく見ると、魚にはなく、パンにだけ十字架のしるしがあるのがご覧いただけると思います。

わたしが命のパンである。
わたしの所に来る者は、決して飢えることがなく、
わたしを信じる者は、もはや決して乾くことがない。
(ヨハネ6・35)

わたしは天から降ってきた、生けるパンである。
コのパンを食べる人は永遠に生きる。
(ヨハネ6・51)

わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む人は永遠の命を得、
わたしはその人を終わりの日に復活させる。
(ヨハネ6・54)

生きておられる父がわたしをお遣わしになって、
わたしが父によって生きているように、
わたしを食べる人もわたしによって生きる。
(ヨハネ6・57)

 

イエス様の教えがどんどん発展していくのが分かります。

イエス様の行ったパンと魚の奇跡については、「パンだけがイエス様との関係がある」というように昔の人々が受け取っていたことが、この床のモザイクに表されているのです。

 

 

命のパン

イエス様のことであり、御聖体を指していることは言うまでもありませんが、御聖体拝領ができる日は近いうちに来るでしょうか。

今日は、現実の御聖体拝領ができなくとも命のパンをいただき続けることが出来ること、そのご経験から得た祈りの仕方、今を生きるということ、について書かれた本をご紹介します。

その名も、 『5つのパンと2ひきの魚』

2002年にお亡くなりになった、ベトナム出身のトゥァン枢機卿

1975年に当時のベトナム共産党政権に不当に逮捕され、13年もの間、拘留、監禁、独房生活を送られました。

ですが、その間も決して希望を失わず、イエス様という命のパンを噛みしめながら耐え抜かれました。

その記録です。

揺るがないことば

通常(去年まで)のGWは、多くの方がお仕事、学校がお休みとなり、家族が帰省して賑やかだったことでしょう。

今年は、静かに新しい連休の過ごし方を楽しんでいるところです。

その一つが、最近よくご紹介しているインスタグラムの楽しみ方です。
世界中の美術館が、おしみなく素晴らしい作品をどんどん紹介してくれています。
バチカン美術館は、日々の聖書朗読の箇所に関連した作品をあげてくれています。
パパ様のアカウントでは毎日、その優しいお顔やお声に触れることが出来ます!

 

 

ヨハネ・パウロ2世の、1997年のワールドユースデイでのメッセージです。

「わたしたちは、激変する世界の中で生きています。
絶対と思われたイデオロギーも、終わりを迎えようとしています。
地球上の多くの国の国境線を引き直さなければなりません。
全世界の人々は、うろたえ、怯え、不安を感じています。
(マタイ9・36)
しかし、主のみ言葉は消え去ることはありません。
歴史を読み返すとき、各時代は絶えず栄枯盛衰を繰り返してきましたが、主のみ言葉は、揺らぐことなく輝いています。
(マタイ24・35)
教会の信仰は、唯一の救い主、主イエス・キリストの上に、昨日も、今日も、そしてこれからも永遠に築かれていくのです。」

 

1997年は、香港が中国に返還された年です。

また、イギリスのダイアナ妃、マザー・テレサがお亡くなりになった年でした。

 

群衆が牧者のいない羊のように疲れ果て、倒れているのを見て、憐れに思われた。
(マタイ9・36)

天地は過ぎ去る。しかし、わたしの言葉は決して過ぎ去ることはない。
(マタイ24・35)

 

23年も前のお言葉ですが、たまたまこの箇所が紹介された本を読んでいて、とても驚きました。

まるで、昨日、教皇が世界中の信徒に向けて発せられたメッセージのようです。

その時代を反映した、その時々の場所と相手を想定して語られる歴代のパパ様のお言葉は、いつの時代も古びることなく、わたしたちの心を深く揺らします。

 

決して消えない、揺るがずに輝き続ける祈りの言葉、みなさんも自分の気に入ったものをいくつか心にお持ちだと思います。 

キリストによって、
キリストとともに、
キリストのうちに、
聖霊の交わりの中で、
全能の神、
父であるあなたに、

すべての誉れと栄光は、
世々にいたるまで。
アーメン

(書きながら思わず歌ってしまいました。)

 

どうか、すべてのものを一つにしてください。
父よ、あなたがわたしのうちにおられ、
わたしがあなたのうちにいるように、
彼らもわたしたちのうちにいるようにしてください。
(ヨハネ17・21)

 

聖なる神の御母よ、御保護に寄りすがり、御助けを求めます。

わたしたちは、あなたにより頼みます。
あなたはわたしたちの歩みを救いと希望のしるしとして照らしてくださいます。
いつくしみ深き、慈悲あふれる、優しきおとめマリアよ。

アーメン。
(パパ様のロザリオの月にあたっての書簡より)

 

祈りの言葉は、こうした揺るぎない聖書のことばを唱えるだけでいいのです。

祈る人ほど強い人はいない、と思うのです。
主はすべてを与えると約束してくださいました。
わたしたちが心を一つにして祈るとき、主はわたしたちのあいだにおられます。
(マタイ18・19~20)

心にエネルギーが湧いてくるような、元気な気分になる新しいお気に入りの祈りのことばを、聖なる読書や聖書のなかから見つけてみませんか。

 

我が家でも甥たちが帰省できないGWですが、ご近所に元気をお裾分けする意味で鯉のぼりを上げました。

 

 

聖書の成り立ち

日曜日にはミサに与り、一堂に会し、感謝をささげ、御聖体をいただく。

これまで当たり前だったことが、これほどの喜びだったとは、、、と多くの方が感じられでいるのではないでしょうか。

パパ様は「ミサで集まることができなくても、ウィルスに感染している方、そのために働く医師、看護師、ボランティアで対応する方、そのご家族のために特に祈りを捧げてください。」とビデオメッセージでおっしゃっていました。

 

ミサのない日々でも、こうして花壇のお手入れをしてくださっている方がいらっしゃることを心に留めてください。

 

「なぜ、新約聖書はギリシャ語で書かれたのか。」

という質問を、ある神父様にしてみました。


◆アレクサンドロス大王(在位BC336~323)の東方遠征以降、「コイネー」と呼ばれるギリシャ語が、地中海沿岸全域で共通語として用いられた

広く多くの人々に教えを広めるためには、バビロン捕囚後、異邦人世界に離散したユダヤ人たちの言葉であるヘブライ語ではなく、ギリシャ語で書くことが最善策であった。
(移住先での暮らすユダヤ人たちは次第にヘブライ語を理解できる人が少なくなり、ギリシャ語など移住先の言葉を習得していく。)

◆新約聖書の著者たちが、ヘブライ語にこだわることなく、すべての人の救いという普遍性の観点から70人訳と呼ばれるギリシャ語旧約聖書(BC3世紀頃)を重視し、新約に引用していること。


イエス様の死後、非ユダヤ人キリスト教徒が増えると同時に、聖書(律法)を軽んじる傾向が芽生えていきます。
エルサレムを中心とした初代教会の使徒たちが、割礼、食物規定などの旧約の律法の規定にこだわっていたのに対し、掟にしばられずにキリストの弟子となる人々が増えてきたのです。

「私は律法を廃止するためではなく、完成するために来た」(マタイ5,17)

と言われたイエス様の教えに従って、使徒たちはその基本的スタンス、聖書(律法の文字ではなく精神を)重んじる態度を受け継ぎながら、イエス様の愛と無条件のゆるしを説くようになります。

そして自分のためにも、聞き手のためにも、イエス様の宣教内容を要約して書き留めていく作業が必要となってきました。

遠く離れた信徒を指導するために、手紙と言う形態で宣教することも必要となります。

時間的にもイエス様から離れるようになるに従い、その言葉と活動を集め、書にして後世に残すことも必要です。

このように、イエス様の言葉として伝えられた口伝えの伝承が文書化されていくようになり、これらが編集されたのが新約聖書です。


聖書はすべて、神の霊感によるもの で、人を教え、戒め、誤りを正し、義に導く訓練をするために有益です。
(2テモテ 3,16)

聖書のなかで、聖書の霊感について書かれている唯一の箇所だそうです。


何よりも心に留めておくべきことは、聖書のすべての預言は勝手に解釈すべきではないということです。
預言は決して人間の意志によってなされたものではありません。
聖霊に動かされた人々が、神からの言葉を語ったのです。
(2ペトロ 1,20~21)


福音書は、もちろん当時は「聖書」としての扱いではありませんでした。
ですが、徐々に「聖書と同じように」イエス様の言葉である福音書が意識されていくのです。

毎週のごミサで、旧約と新約、両方の聖書の箇所が読まれる意味は、ここにあります。

聖書は、イエス様が大事にされていた聖書(旧約)と、それを根底に置いたうえでイエス様が教えられたことを記した聖書(新約)を並べて読むことに意味があると言えるでしょう。

 

よく、宮﨑神父様が「聖書を声に出して読みなさい」とおっしゃいます。

聖ベネディクトゥスの戒律によれば、修道者が「聖書を読む」というのは、
声を出して読み、心に銘記し、暗誦し、黙想し、実行に移すことを意味するそうです。

そこまでは、、、。

ですが、試しに声に出して読んでみてください。

目で字を追うのとはまた、全然違った発見があります。

主の山に備えあり

久留米教会の春の風景です。

 

 

「自分の信仰が弱い」と感じることがあります。

強弱で表すのはおかしな言い方かもしれませんが、
ふとしたとき、つい神様への信頼を忘れかけたとき、「あぁ、なんと弱いことか」とへこむのです。

おなか一杯に夕食を食べた翌朝、ものすごい空腹感で目覚めるように、
恵まれた日々に幸せと感謝を感じた翌日には、つまらないことで落ち込むことがあります。

 

聖書の中で、神様への信仰と従順の究極の逸話と言えば、真っ先に思い浮かぶのはアブラハムとイサクのストーリーでしょう。

アブラハムは100歳の時に、とうに諦めていた子ども、一人息子のイサクを思いがけなく授かります。

数年後、神様はアブラハムを試みられます。
「お前の愛するひとり子のイサクを焼き尽くす捧げものとしてささげよ」

聖書には、驚き慌てた、とも妻に相談した、とも記されていません。
翌朝、粛々と準備をし、供を連れてイサクとともに3日も歩き続けます。
歩いていた3日の間に、葛藤や怒りが渦巻いた様子もありません。

「二人はともに進んでいった」

と2回、記述があります。
創世記22・6~8

イサクも、父への信頼の中で、ともに進むことを恐れていないようです。
縛られて祭壇の上に置かれる際にも抵抗した様子はありません。

「その子供に手を下すな。
何もするな。
今こそわたしは、お前が神を畏れ、
お前のひとり子さえもわたしのために惜しまないことが分かった」

アブラハムが目を上げて見ると、角をやぶに引っ掛けている一匹の雄羊がいた。
アブラハムは行ってそれを捕らえ、息子の代わりに焼き尽くす捧げものとしてささげた。
アブラハムはその場所を「主は備えてくださる(ヤーウェ・イルエ)」と名付けた。

それで今日でもなお、
「主の山には備えがある」と言われている。

22・12~14


神への信頼
親への尊敬
従順な祈り
絶対的な愛

そうした信仰を歩んでいれば、主は必ずそれに応え、備えておいてくださるのです。

とても真似できることではありませんが、
神様への信仰の基本は、「信頼と愛」であることを痛感させられます。

 

アブラハムは若者たちの所に戻った。
彼らは、ともにベエル・シェバに向かった。
アブラハムはベエル・シェバに住んだ。

22・19

 

ベエル・シェバは、現在の地図で見てもそのままの名前で存在する町です。
イスラエル12氏族の住む土地の南端だったことから、
北端のダンと併せて「ダンからベエル・シェバまで」という言葉がイスラエルの民の住む土地の意味で聖書に登場します。
ダンはヨルダン川上流にある、現在のテル・エル・カディ。

アブラハムがベエル・シェバに住んでいたのです!
こういう記述を見ると、4000年以上前の彼らの姿が目に浮かぶようです。

創世記を読み返しています。

今週も、お恵みを見逃しませんように。

 

芸術の中の聖書

偉大な芸術作品に聖書を題材にしたものが多いことは、以前も記事にしました。
現代においても、絵画、音楽、映画、小説の中に聖書の物語が意外とちりばめられています。

その聖書の箇所を知っているのと知らないのとでは楽しみ方も違ってきます。

 

昨年、19世紀フランス象徴主義の画家ギュスターヴ・モローの展覧会が福岡市美術館で開催されました。

一番のお目当ては、洗礼者聖ヨハネとサロメにかかる作品群でした。
それだけでもおよそ30作品が展示されていました。

 

 

展覧会の出口には、こうして撮影可能な巨大な作品の写真がありました。
この作品も、ヨハネとサロメのストーリーを知らなければ鑑賞を満喫できません。

そんな中でもわたしが一番衝撃を受けた作品は、
象徴主義性の集大成的な傑作『人類の生』です。

 

(この写真は2種類ある作品うちの一つで、今回展示されていたものとは違います。)
 写真引用 http://www.salvastyle.com/menu_symbolism/moreau_hummanite.html

1870年代末には構想が練られていたことが判明している作品で、
聖書中の主題や神話の逸話から9つの場面を選定し
人類の3つの時期を表した祭壇画形式の大作です。

9つに分割される場面は、左から右に朝、昼、晩という時間的経過を表していて、
上段には旧約聖書の『アダム』の物語、
中段にはギリシア神話に登場する吟遊詩人『オルフェウス』の物語、
下段には旧約聖書の『カイン』の逸話が、
画面最上部の半円形の画面には、人類が至る終着地として「贖主イエス」の姿が描かれています。

「人類が至る終着地」という表現は、作品の解説にあったものですが、
実際にはイエス様の死は、わたしたち信徒にとっては、終着地ではなく始まりです。

同時に、イエス様が贖い主として今もこれからも人類の救いのために生きておられるということも表されているように思いました。

 

モローは聖書とギリシャ神話を題材とした絵を多く書いていますが、
この『人類の生』という作品には、タイトルからもわかるとおり、彼の人生観が表れているのではないでしょうか。

モロー展では他にもサムソンとデリラの物語など、旧約聖書から題材を得た作品が多くありました。

 

絵画はこうして「目で見る」のでわかりやすいのですが、
音楽となると言葉の壁もあり、ピンと来ないことが多いかもしれません。

マーラーの交響曲第4番をご紹介しましょう。

交響曲の中に、ドイツ語で歌われているパートがあります。

天上の生活「少年の魔法の角笛」より

我らは踊り、そして、飛び跳ねる。
我らは跳ね回り、そして、歌う。
それを天のペテロ様が見ていらっしゃる。

ヨハネは仔羊を小屋から放して、屠殺者ヘロデスはそれを待ち受ける。
我らは寛容で純潔な一匹のかわいらしい仔羊を死へと愛らしいその身を捧げ、犠牲にする。
聖ルカは牛をためらいもなく、犠牲にさせなさる。
天上の酒蔵には、ワインは1ヘラーもかからない。
ここでは天使たちがパンを焼くのだ。

すべての種類の良質な野菜が天上の農園にはある。
それは良質のアスパラガスや隠元豆や、その他欲しいものは我らが思うがままに鉢皿一杯に盛られている!
良質な林檎や梨や葡萄もこの農園の庭師は何でも与えてくれる。
牡鹿や兎やみんなそこの辺りを楽しそうに走り回り、獣肉の断食日がやって来たらあらゆる魚が喜んでやって来る!
ペテロ様が網と餌とを持って天上の生け簀(す)へといそいそといらっしゃる。
マルタ様が料理人におなりになるのだ。

(Wikipediaより)

ペテロにヨハネ、ヘロデ、ルカ、天使がパンを焼き、ペテロが魚を獲り、マルタが料理をする!

こんな歌詞で歌われていると知ってから聞くと、また全然違って楽しめる気がしませんか?

 

「今日」という日について

先週は司教館の青木神父様、昨日はジュゼッペ神父様がごミサに来てくださいました。

毎週違った神父様のお話を聞くことができる、というのも贅沢なものです。

 

 


先週のごミサと今週のごミサが違うものであるように、
昨日と今日は、まったく別のものです。

以前ある神父様が、遠方の町の教会にミサに呼ばれ高速道路で帰る際についうとうとしてしまった、というお話をされました。

「片道2時間ほどかかる道中、睡魔に襲われ、高速道路の壁に激突してしまいまいた。
幸い、前後に他の車はおらず、自分のケガも大したことはなかったけれど、
さっき司式した今日のミサが自分の司祭生活の最後のミサになっていたのかもしれない。
心を込めて務めただろうか。
次からは、毎回『今日のミサが人生最後』と思って務めよう、と心に誓った。」

 

今日、という日は今この瞬間のことでもあります。

24時間という時間軸ではなく、神様を感じたそのときが、今日となるのです。

御ひとり子は人となられ、
きょう神殿に捧げられました。
わたしたちも聖霊の光に従い、罪のやみを捨て、
みずからをあなたにささげることができますように。

昨日の集会祈願のことばを聞いて
パパ様が「キリストは生きている」とおっしゃっている意味がよくわかりました。

 

今日、ダビデのまちに救い主が生まれた

今日、この家に救いが訪れた

今日、あなたは楽園にいる


これらの「今日」は、単にそのことが起きた日を指すと読むのではなく、いつでも起こりえる「今日」と考えられます。

社会的に弱い立場の人を受け入れたとき
人の嫌がる仕事を喜んで引き受けたとき
自分の罪を悔い改め心から神に祈るとき
他者のために自分を犠牲にして働くとき
家族友人と心を一つに神を賛美するとき

そのとき、それがイエス様が生まれた「今日」となり、
救いが訪れる「今日」、イエス様とともに楽園にいる「今日」となりえるのです。

 

『われらの日用の糧を、こんにちわれらに与えたまえ』

マタイ6・11では「今日与えてください」、
ルカ11・3では「毎日与えてください」となっています。
マタイ福音書では、きょう一日神の恵みによって生きるという幸せを願い求めており、
ルカ福音書では、神の恵みが永遠に続くことを願い求められていると理解できるそうです。

 

パパ様は先週の一般謁見で、山上の垂訓に関するお話しをされました。

「メッセージは弟子たちに対するものであったが、その背後には群衆の姿があったように、
これはすなわち全人類に向けたものであった。」

弟子たちに向けて教えられたその2000年前のある日は、
全世界のわたしたちに向けて語られた現代のある日でもあるのです。

事実、その教えは、聖書を開いて読んだその日、そのときにわたしたちに語りかけてきませんか?

 

朝起きて一番に祈るとき
「今日も一日よろしくお願いします」と唱えます。

寝る前に祈るとき
「今日も一日ありがとうございました」とつぶやきます。

わたしたちの人生は「今日」という日の積み重ねであり、明日が与えられる保証はありません。

今日、わたしたちのところにイエス様がお生まれになりますように。
今日、救いが訪れますように。
今日、楽園にいるお恵みが与えられますように。