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生きる者のための祈り

11/2死者の日が主日と重なりました。

宮﨑神父様がおっしゃった、「今日は自分の死について考える日でもあります」というお言葉が心にこだましています。

死者の月、自分を大切にしてくれていた方々のために祈るよう推奨されますが、今年はいつもと少し違う気持ちです。

11月になると、アウグスティヌスの「告白」のこの個所を読み返します。

おそらく、以前記事にしたことがあるのですが、それは母モニカの死に際の箇所です。

「わが子よ、私はといえば、この世の中にもう自分をよろこばせるものは何もない。
この世でまだ何をすべきか、何のためにこの世にいなければならないか、知らない。
この世ののぞみはもう十分にはたしてしまったのですもの。
この世にまだしばらく生きていたいとのぞんでいた一つのことがありました、それは死ぬ前に、カトリックのキリスト者になったおまえを見たいということだった。
神さまはこの願いを十分にかなえてくださった。
おまえが地上の幸福をすてて、神さまのしもべとなったすがたまで私は見たのだもの。
もうこの世の中で何をすることがありましょう。」
(「告白」第9巻第10章)

「このからだはどこにでも好きなところに葬っておくれ。
そんなことに心をわずらわさないでおくれ。
ただ一つ、お願いがある。
どこにいようとも、主の祭壇のもとで私を想い出しておくれ。」
(「告白」第9巻第11章)

この場面には、いつも胸が熱くなります。

「告白」を初めて読んだのは、10数年前だったと思います。
当時、母を亡くし、日々の暮らしや会社のことで途方に暮れていたわたしは、母の死について神様が与えられた意味を模索していました。

そしてしばらくして、モニカのように、自分たちの死について妹たちと話すようになりました。
決して悲観的な意味合いからではなく、モニカと同じ気持ちだということをお互いに語り合いました。

父とわたしたち3姉妹は、いつも天国の母に心配をかけるような人生です。
でも、本当に聞こえるのです、母がどっしり構えてこう言っているのを。

「神様のお導きを信じなさい、大丈夫だから」

 

人は常に死者を心にとめ、自らの関心と気遣いと愛情を通して、彼らにいわば第二のいのちを与えようと努めます。
わたしたちはある意味で彼らの人生経験を残そうと努めます。
そして、わたしたちは逆説的にも、彼らがどう生き、何を愛し、何を恐れ、何を望み、何を憎んだかを、まさに墓地に集まって彼らを記念するときに見いだします

墓地を訪れて、亡くなった愛する人々のために愛情と愛をこめて祈るとき、永遠のいのちへの信仰を勇気と力をもって更新するよう招かれます。
そればかりか、この偉大な希望をもって生き、世にこの偉大な希望をあかしするよう招かれます。

これは、故ベネディクト16世のお説教でのお言葉の一部です。

モニカを亡き父の傍らに葬りたいと考えていたアウグスティヌスの気持ちは、母のためというよりも、「そうしてあげたい」という息子の愛の気持ちでした。

そして彼は、母の死に際して、彼女の生き方や愛、希望などについて思いを馳せる機会を与えられたのです。

死者のために祈ることは、生きる者のために祈っていることなのだ、と感じています。

死者の月にいつも以上に自分の死について考えています。
そして、それはすなわち、生かされている今をいかに大切にするか、ということだと痛感するのです。

 

 

本音の信仰

宮﨑神父様はよくお説教で、「行いの伴わない信仰」について喝を入れてくださいます。

『本音と建て前』を使い分けて隣人と関わっていないか、今一度よく考えてみなさい、と先日お話されました。

誰にでも「苦手な人」がいるかと思います。

以前、意見の食い違いがあり、わたしが一方的に嫌な気持ちになった人がいました。

それ以来、苦手な人だわと思っていた方と先日お会いする機会があったのですが、会ってすぐに「義足の調子が悪いですか?歩き方が前よりも悪くなっていませんか?」と声をかけてくださったのです。

あなたが馬鹿にされるとき、それは風となるのです。
あなたが怒るとき、それは波となるのです、
だから風が吹き、波が高まるとき、舟は危険に陥り、あなたの心は危険にさらされ、あなたの心は行ったり来たり激しく揺さぶられるのです。
馬鹿にされると、あなたは仕返しをしたいと思います。
しかし復讐は、難破という別の種類の災難をもたらします。
なぜでしょうか。
なぜなら、キリストはあなたの内で眠ったままだからです。
私は、あなたがキリストを忘れているということを言っているのです。
だから、キリストを目覚めさせなさい。キリストを思い出しなさい。
キリストをあなたの内に目覚めさせなさい。
キリストを心に留めなさい。
この方は一体どなたですか。風や波さえも彼に従うそのお方とは。
(アウグスティヌス『説教』より)

偶然、読んでいた本でこの箇所が目に留まりました。

(先週のyoutubeのビデオもそうですが、いつもこうして求めているものが与えられるのです!)

声をかけてくださったこともですし、わたしの足のことを以前から気にかけてくださっていたこと、その変化に気づいてくださったこと、とても嬉しかったのです。

建て前で信徒としてのお付き合いをしていくのは嫌でしたので、帰り際に話しかけて、いろいろとお話してみました。

いまさらながら(当然のことだったのですが)、わたしは馬鹿にされていたわけではないと分かり恥ずかしくなりました。

 

「言葉は、あなたの近くにあり、あなたの口、あなたの心にある」。
これは、わたしたちが宣べ伝えている信仰を生み出す言葉です。

口で、イエスは主であると宣言し、心で、神はイエスを死者の中から復活させたことを信じるなら、あなたは救われるからです。
人は心で信じることによって義とされ、口で宣言することによって救われるのです。
(ローマの信徒への手紙10・8~10)

キリスト者であると自負し、毎週主日のミサに与っていたとしても、言葉と生き方に信仰が現れていないことが往々にしてあるのではないでしょうか。

言葉や行動に信仰がついていかない場合もあります。
クリスチャンらしい振る舞いはできても、心がそこに伴わないのです。

ミサ中に「主の平和」と笑顔で周囲とあいさつを交わすとき、本音で本心からそうしていますか?
福音書朗読の際に額・口・胸で十字をきるとき、頭と言動で福音書を賛美することは本音ですか?

 

「わが愛する子らよ、わたしは主においてあなたがたに挨拶を送る。
わたしは主に祈り求める。
主があなたがたをすべての災いから守ってくださるように。
主が、ヨブのような忍耐と、ヨセフのような恵みと、モーセのような優しさと、ヌンの子ヨシュアのような戦いにおける勇気と、士師たちのような優れた知識と、ダビデ王とソロモン王のような敵を屈服させる力と、イスラエルの民のような地に実りをもたらす力を、あなたがたに与えてくださるように。
主が、手足の萎えた体をいやしてくださったように、あなたがたのすべての罪をゆるしてくださるように。
主が、ペトロにしたようにあなたがたを荒波から助け、パウロや使徒たちにしたようにあなたがたを苦難から救い出してくださるように。
主があなたがたを、主のまことの子として、すべての災いから守ってくださるように。
そして、そのみ名によって、魂と体の益となるために、あなたがたが心から求めるものを与えてくださるように。アーメン」

ガザのバルサヌフィオス(パレスチナのバルサヌフィオスとも表記される)は6世紀に生きた隠者で、ガザの修道院の院長でした。
識別の知恵に優れていたので、修道士や聖職者、信徒が教えを乞うために訪れました。

上記の祈りは、ある一人の修道士が自分と仲間のために祈ってくれるように、バルサヌフィオスに願った際の答えです。

人のためにこのような気持ちで祈ることができるか、立ち止まって考えさせられる祈りのことばです。

 

守護天使

秋は一番好きな季節です。

この季節は窓を開けて、朝の澄んだ、ひんやりした空気を吸い込むと、それだけで「今日はいい日になる」気がします。

ここで何度か引用したことのある本、メアリー・ヒーリー「マルコによる福音書」の解説を翻訳したのは、東京大司教区の田中 昇神父様です。

その田中神父様は、日本で唯一のエクソシストです。

悪魔による憑依現象は現代ではほとんどが精神疾患とされていますが、それでもカトリック教会は人や場所への悪魔の憑依を認めています。

エクソシズムは、悪霊に取り憑かれた人、ないし悪霊の誘いを受けている人が、神の絶対的な支配を認め、信仰を荘厳に宣言するものであり、本来的には悪魔に誘惑されている人の心と身体、その人の全体を神に向け直すことを教会が助けることによって救いをもたらすものであると言えるのです。
(「エクソシストは語る-エクソシズムの真実」田中 昇神父 著より)

旧約聖書には、悪魔憑きのエピソードはありません。
その存在を感じさせるものは登場しますが、悪霊に憑かれた人や病気の原因が悪魔や悪霊のせいにされている例は描かれていないのです。

悪魔のねたみによって死がこの世に入り、悪魔の仲間に属する者が死を味わうのである。
(知恵の書2・24)

一方、新約聖書には、イエスが悪魔や悪霊を人から追い払うシーンが数多くあります。

ナザレのイエス、かまわないでくれ。
我々を滅ぼしに来たのか。
正体はわかっている。神の聖者だ。
(マルコ1・24)

イエス様が地上にやってきた以上は、この世はすでに神の支配が始まっていることを悪霊は理解していました。
イエス様を神だと認識しているのです。

弟子たちは当時、イエス様のことをまだよく理解していなかったのに、悪霊・悪魔のほうがイエス様の存在を恐れて命令に従っています。

田中神父様は本のなかで、「彼らはもともと神に近い存在、天使であったから」だと書いています。

悪魔ももともとは神が創った天使でした。
天使の本来の役割は、神への賛美と奉仕です。
しかし、あるときから高慢と嫉妬のために神に反逆する天使たちが現れました。
彼らは神に罰せられ、天界を追放されます。
その追放された天使たち、すなわち堕天使たちが悪魔や悪霊だとされています。

神は被造物である天使にも堕落し神に反逆する自由意志をあたえているのです。
(173頁)

バビロン捕囚期以後に、異国からの宗教感覚がユダヤ教徒に浸透していく中で、悪魔とその働きが信じられるようになっていったようです。

そして、イエス様が活動していた時代には、多民族からもたらされた悪霊に対抗する必要がある、とユダヤ民族は信じていたのです。

悪魔は、暴力によって人を傷つけるのではなく、人を欺き、そそのかして理性を狂わせ、神の愛と真理から遠ざけて破滅に向かわせるように誘惑する者のことです。

洗礼を受けたわたしたちは、キリストとともに悪魔に打ち勝った(1ヨハネ2・13)のですが、自らの不信仰・不従順によって悪魔に罪へと誘われないよう、いつも心がけておかなければなりません。

あなたが主を逃れ場とし、いと高き方を隠れ所とするなら、不幸はあなたに臨まず、災いはあなたの天幕に近づかない。
主の羽があなたを覆い、あなたはその翼のもとに逃れる。
主はみ使いたちに命じ、あなたの進むすべての道であなたを守らせる。
あなたの足が石につまづかないように、彼らは手であなたを支える。
(詩編91・4,9~12)

田中神父様は、神を信じているからこそ悪魔の存在も信じることができる、おっしゃっています。

わたしは、悪魔の誘惑を感じたことはありますが、天使の存在を感じたことはありませんでした。

みなさんはご自分の守護聖人をお持ちですか?

ザビエルがキリスト教布教の許可を得たのが1549年9月29日。
この日は聖ミカエルの祝日だったことから、ザビエルは大天使ミカエルを日本の守護聖人にしたそうです。
(そのザビエルを、日本は自分たちの守護聖人としたのです)

余談ですが、妹の洗礼名はミカエルで、結婚した相手(アメリカ人)はマイケルという名前です。

わたしは特別に守護聖人を意識したことはないのですが、先月末からのいくつかの心配事が立て続けに2つ解決に向かってきたのは、天使の守護があるのではないか、と感じているところです。

日々の祈り、神様と母の導きのお恵みだけでなく、聖霊が道を示し、わたしの周りを天使が守ってくれているような感覚があるのです。

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この本はタイトルがどうも引っかかっていて、(失礼ながら、出版社の売るため戦略に感じられて、、、)ずっとAmazonのカートに入れっぱなしでした。
ですが、やはり気になって購入して読んでみて良かった!

第1部は田中神父様のエクソシストとしての活動やエクソシズム、悪魔について、第2部としてご自身の召命と神学校時代、ローマ留学時代について、現在のキリスト教の問題点についてじっくりと書かれています。

読書の秋にお薦めの一冊です。

 

信仰は希望

めずらしく、気持ちの落ち込みと不安に覆われてしまっていた1週間でした。

月曜日に一つ目の心配事
水曜日に二つ目の心配事
金曜日にそれらがさらに悪化

人にアドバイスするときには、「心配してもしょうがないから、神様のお導きを信じて!」などと立派な声掛けをしているわたしですが、まれにかなり深みにハマって這い上がれないこともあります。

20代初めの頃、人生の方向性を模索して悩んでいた時、いつもこの聖句を心に留めていました。

だから、あなた方も用意していなさい。
思わぬ時に、人の子は来るからである。
(マタイ24・42)

だから、目を覚ましていなさい。
あなた方はその日、その時を知らないからである。
(マタイ25・13)

聖書をちゃんと学んでいなかったので、本来の意味するところを理解してはいなかったのですが、このみ言葉は当時のわたしにとって「いつか、きっと必ず神様が道を示してくださるから、自分にできる努力をしながら待ちなさい」という意味だと勝手に解釈していました。

そして、それは今でも変わらない気持ちです。

 

今わたしが抱えている不安は、祈り続ければ神様が解決してくださる、というようなことではありません。

わたしの人生に与えられた試練です。

「与えられた」というと神様の計らいのようですが、そして、「試練」というと神様に試されているようですが、こうした苦難はわたしたちが人生を歩むにあたって必要なことなのです。

痛みや苦しみ悲しみなどと対峙しながら人生を積み重ねる。
乗り越えられなくとも、その経験が人格を形成していく。

そして、日曜日に教会に行って、色々な方と言葉を交わし、担っている役割をいくつか実行し、 そうして神様からのメッセージを受け取りました。

兄弟のみなさん、わたしたちは、どんなに窮乏し、苦難の中にあっても、あなた方のお陰で励まされています。
あなた方の信仰のお陰です。
あなた方が主に結ばれてしっかりと立っているかぎり、わたしたちは、今、まさに生きていると実感するからです。
(1テサロニケ3・7〜8)

知っていたこと、わかっていたこと、つまり、神様は乗り越えられない試練は与えられないということ・そのために進むべき道をも同時に与えてくださるのだということを、日曜日に教会に行って思い出しました。

キリスト教でなくても、信仰という希望を持てることは最大の救いです。

月曜日から金曜日まで心配事に襲われても、日曜日には光を与えてくださる。
いつも、本当に不思議なのです。
日曜日に教会でいつもの席に座って祈り始めた途端に、神様と母がわたしに近づいてきてくれるのです。
毎週、わたしの横に座ってくれるのを感じるのです。

 

レオ14世教皇は、前教皇よりも説教の言い回しが少し難しく感じられますが、今回のこのお話は、今のわたしにとても深く刺さりました。

わたしたちも、御父のいつくしみ深いみ旨に身をゆだね、自分の人生を、与えられた善いものヘの答えとしていただけることを学ぼうではありませんか。
人生において、すべてをコントロールする必要はありません。
日々、自由をもって愛することを選択するだけで十分です。
試練の暗闇の中でも、神の愛がわたしたちを支え、永遠のいのちの実をわたしたちのうちで育ててくださっていることを知ること――これこそがまことの希望です。
教皇レオ十四世 2025年8月27日一般謁見演説より

 

 

応援する姿

15日のマリア様の被昇天の祝日、今年最後(希望)の40℃に迫る酷暑の朝でした。

この季節は、甲子園球児たちを応援するのが楽しみの一つです。

プロ野球も好きですが、大人の利害やスポンサーといったものがなく、純粋に野球に打ち込む彼らの姿は、本当に清々しくて気持ちの良いものです。

毎年、わたしがテレビで見て応援しているのは、グランドの選手だけでなく、スタンドで応援しているユニフォームを着た選手たちです。

スタメンに入れず、それでも満面の笑みを浮かべて全身全霊で応援歌を歌い踊る彼ら。

汗だく・泥だらけになってプレーする選手たちと同じように、彼らもまた、甲子園の舞台で精一杯に躍動しているのです。

 

さて、彼らは、ひたすら使徒たちの教えを守り、兄弟的交わり、パンを裂くこと、祈りに専念していた。
信じる人たちはみな一つになり、すべての物を共有にし、財産や持ち物を売り、それぞれの必要に応じて、みなにそれを分配していた。
また、日々、心を一つにして、絶えず神殿に参り、家ではパンを裂き、喜びと真心をもって食事をともにし、神を賛美していた。
彼らは民全体から好意を得ていた。
こうして、主は日々、救われる人々を仲間に加えてくださった。
(使徒言行録2・42〜47)

今年の甲子園でも色々と注目ポイントがありますが、話題として取り上げられているのが、県立岐阜商業の横山選手。
彼は、生まれつき左手の指が全て欠損しているのですが、レギュラーとして大活躍しています。

打席に立つたびにひときわ大きな歓声が上がり、投打に活躍する姿に大きな拍手が送られています。

「ハンデを持っているから注目されている。その分活躍したいし、勝利に貢献しなければいけない」とインタビューに答えていました。

 

以前も書いたことがありますが、教会とは、日曜日にミサに与るために来るだけのところではありません。

共同体を運営するために奉仕する、さまざまな役割を担う信徒の支えがあるからこそ、脈々と受け継がれてきたのです。

長年、お1人で納骨堂の管理をしてこられた方からその役割を引き継ぎ、今後の運営のあり方について打ち合わせをしました。

色々と提案をさせていただき、お話をする中で、「これまではお一人しか管理の仕方がわからなかったことも、こうしてわたしたちが引き継いで、そしてわたしもさらに引き継ぐ人を見つけていきますね」とお伝えしたところ、涙を浮かべて喜んでくださいました。

神を愛する人々、すなわち、ご計画に従って神に召された人々のために益となるように、すべてが互いに働き合うことをわたしたちは知っています。
(ローマ8・28)

わたしは与えられた恵みによって、あなた方1人ひとりに言います。
自分は当然このようなものだと思う以上に自分を過大に評価せず、神が各々に与えてくださった信仰の度合いに応じて自分を評価し、程よく見積もるようにしなさい。
(ローマ12・3)

わたしは植え、アポロは水をやりました。
しかし、成長させてくださったのは神です。
ですから、植える者も水をやる者も取るに足らず、成長させる神こそ大切な方なのです。
植える者も水をやる者も一致して働いていますが、それそれその働きに応じて自分の報酬を受けるのです。
わたしたちは神の協力者であり、あなた方は神の畑、神の建物なのです。
(1コリント3・6〜9)

レギュラーになれなくても応援する姿に感動し、その彼らを応援したい
ハンデがあるから余計に応援したい
これまで担ってこられた役割を引き継ぐわたしたちを、応援してくださる先輩方がいる

野球も教会も、ある意味チームプレイです。

心をひとつにし、仲間を増やし、働き合って成長する。
各々に与えられたお恵みをそれぞれが最大限に発揮して、互いに応援し合う。

ちょっと強引かもしれませんが、連日の甲子園の試合を応援していると、教会での役割についてもっと役立ちたいという気持ちになったお盆休みでした。

 

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17日のごミサは、イエズス会の中井神父様の司式でした。
その後に、ご自分の多岐にわたる活動についてのお話をお聞かせくださいました。

また改めて記事にしたいと思います。

 

祈りの時間

NYと横浜から帰省している妹たち家族と過ごしていました。
思い出深い夏になりましたが、、、聖書を開く時間も余裕もありませんでした。

それでも、寝る前に今日1日の感謝と、家族のことを導いてくださっていることへの感謝の祈りだけは欠かさないように努めています。

普段は、静かな落ち着いた生活ができているので、神様と天国の母に話しかけたり聖書を開いたり、日常のちょっとした隙間に、そうした時間を持てるのですが、今改めて、子どもの面倒を見ているお母さんたちの気持ちがよくわかります。

 

久しぶりにごミサに与りました。

贅沢にも、妹・姪たちと毎日遊び疲れて、どうしてもリフレッシュのため、心と身体を落ち着かせるために教会に行って、ミサだけでなく、信徒仲間たちと会って話したかったのです。

今までなぜか気づかなかったのですが、ガラス越しに見える青々と茂った緑の木々さえも、今日は美しく感じることができました。

「日曜日のミサに子どもを連れた親の姿が少ない」

そういう声は、どの教会でも聞かれることかと思います。
特に、夏休みの子どもたちは忙しい!、ということを実感しています。
一度も姪たちを教会に連れて行けませんでした。

今回の国政選挙の結果を見ていて、感じたことがあります。

人々は「わかりやすさ」を求めているようです。

カトリックの教えは、信仰を持たない人にとっては難しく、ハードルの高いものに感じられている気がします。

ですが、この夏の日々の中で痛切に実感しました。
わたしたちキリスト者の信仰は、シンプルに「祈り」に集約されるのではないでしょうか。

わたしたちには、「祈りの時間」が必要です。

今日のごミサでは、宮﨑神父様が「祈りの時間」の大切さについてお話になりました。

洗礼を受けただけの人、普段教会に来ない人、日常の中で祈らない人、そういう人(わたしの妹)のためにも祈りを続けなければと決意を新たにしました。

神父様は、祈りは霊的呼吸だ、とおっしゃいました。
神を信じる者の信仰生活は、祈りによって支えられていることを忘れてはならない、と。

いつもは、ミサ前には入り口に立って皆さんをお迎えし、色々とお声がけするのですが、今日はしばらくじっと座って祈り、ロザリオを唱えていました。

それだけで、心の中のスポンジに水が染み渡る気持ちでした。

さて、イエスはある所で祈っておられた。
祈りが終わると、弟子の1人がイエスに言った、「主よ、ヨハネも弟子たちに教えたようにわたしたちに祈りを教えてください」。
そこで、イエスは仰せになった、「祈る時には、こう言いなさい。
『父よ、み名が聖とされますように。

み国が来ますように。
わたしたちの日ごとの糧を、日ごとにお与えください。
わたしたちの罪をお赦しください。
わたしたちに負い目のある人をみな、わたしたちも赦します。
わたしたちを誘惑に遭わせないでください』」。
(ルカ11・1〜4)

主の祈りも、ルカのこの言い回しが心に染み透ります。

祈る=神様と天国のみなさんに語りかける、感謝の気持ちを伝える、家族を導いてくださるよう願う、、、そうした時間を毎日、何度も持つことが、どれほど自分にとって必要なひと時かを改めて実感する夏になりました。

 

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日本カトリック司教協議会が推薦する映画「長崎〜閃光の影で」が8/1から全国で公開されます。
久留米では、Tジョイでご覧になれます。 

 

 

思いやりの行動

トップページの画像を替えました。
少しでも涼しい気持ちになってもらえたら。

 

ディスレクシア(読字障害)という障害があります。
これは、知的能力や一般的な理解能力などに特に異常がないにもかかわらず、文字の読み書きに著しい困難を抱えるもので、学習障害の要因となることがあります。

トム・クルーズ、ジェニファー・アニストン、キアヌ・リーヴス、など、有名な俳優さんたちもこの障害を持つと告白している人が多くいます。

数々の大作を世に生み出してきたスティーブン・スピルバーグ監督は、60歳のころにディスレクシアと診断されたそうです。
文字が読めず授業についていけないため、小学校を2年遅れで卒業。
いじめを受け、「地獄のような幼少期」だったそうです。
今でも、脚本を読むのに人の2倍の時間がかかるそうです。

ブラッド・ピットは、相貌失認(そうぼうしつにん)や失顔症と呼ばれる、他人の顔が識別できない病気だそうです。
実際は会った人を覚えていたいのに、覚えられないことを恥ずかしく思っている、何度も会った人を認識できないので失礼な奴だと思われている、とインタビューで語っていました。

ディスレクシアや失顔症、いわゆる学習障害と言われる障害は、他者からは分からないものです。
社会生活に困難を感じるのは、身体に不自由があるからだけではないのです。

お前の友を虐げてはならない。
耳の聞こえない人を呪ってはならない。
目の見えない人の前につまずきとなる物を置いてはならない。
(レビ記19・13〜14)

 

忘れられない思い出があります。

昔、NYの地下鉄に乗って座っていたときに、見るからに身体が不自由そうな人が乗ってきました。
わたしはとっさに「ここに座ってください」とその人に席を譲ったのですが、わたしの動く様子から足が不自由だとわかったのか、離れたところに座っていた2人の人(別々のところに座っていた、どちらも若い人)が「わたしの席に座って!」と駆け寄ってきてくれたのです。

東京で電車に乗っていても、座っている人はとても疲れた様子で眠っているか、携帯を必死に見ていて気付いてもらえないかで、席を譲ってもらった経験はほとんどありません。
逆に、年配の女性から「若いんだから、座らないで席を譲って!」と怒られたことはあります。(笑)

外見でわかるかどうかに関わらず、ちょっとした気遣いが人の役に立つことを心に留めておきたいものです。
そして、いつも他者を思いやる行動ができれば、と思うのです。

寛大な人は満たされる。
人を潤す者は自分も潤される。
(箴言11・25)

ミサで先唱したり、質問を受けたり、初めての方をご案内したり、といつもお役目をいただいています。

「ごくろうさま。いつもありがとう。」

今まで何度、いろいろな方にこう言ってもらったことか。
ちょっとした気遣いを行動に移したことで、人から感謝(=気遣い)の言葉をもらえると、心が潤されます。

人は、その口から出る言葉によって、善いものに満ち足りる。
また、人は、その手の働きによって、報いを受ける。
(箴言12・14)

年齢のせいか、ときおり自分でも意味不明なイラ立ちが湧き上がることがあります(・・;)

そういうとき、「今日これから出会う人全員に優しく丁寧に対応する」と決めて過ごすようにしてみます。
そうすると、不思議なくらい相手からも気持ちの良い態度が返ってくるのです。

これはお薦めのリフレッシュの方法です。

 

もし、キリストに結ばれていることによって、それがあなた方にとって励ましとなり、また、神に愛されていることが慰めとなり、あなた方に、霊による交わりがあり、人に対する思いやりの心があるなら、どうか、互いに同じ思いを抱き、同じ愛をもち、心を合わせ、思いを一つにして、わたしを喜びで満たしてください。
各々、自分のことだけでなく、他人のことにも目を向けなさい。
(フィリピ2・1~4)

飛行機から見る空が1番好きです。

心が洗われる思いがします。

 

女性の生き方

早くも夏真っ盛りです。
夏の暑さは嫌いではありません。空が本当に綺麗ですから!

映画鑑賞も趣味のひとつで、これまでの人生でトップ3の映画のうちのひとつが「モナリザ・スマイル」(2003)です。

1953年、アメリカでもっとも保守的と言われる名門女子大で、ジュリア・ロバーツ演じる新任の教師は彼女たちに自立心を育てる教育をしようと奮闘します。
ですが、もともとエリートとの結婚が幸せだと信じて疑わない生徒たちは、その方針に反発します。

『Mrs.Degree』(ミセス学位)という言葉を聞いたことはありますか?
Mrs. Degreeとは、1950年代前後のアメリカ社会で、勉強やキャリアのためではなく結婚相手を探すために大学へ進学したとされる女性たちを揶揄する言葉です。

これは死語ではなく、超保守の男性にとっては、いまだに存在している概念なのです。

イエス様の時代、女性は数に数えられることもないほどの扱いでした。

それにも関わらず、マリア様は知的な女性として認識されていると思いませんか?

受胎告知の絵画では、ルネサンス期には聖書を手にする(読んでいる)マリア様の姿が好んで描かれました。

 

ロベール・カンパン《メロード祭壇画》

この絵の解説で、こう書いてあるものを見つけました。

「マリアが読むのを止めたテーブルの上の本が旧約の世界を象徴し、現在読んでいる本が新約の世界を表す」
「救世主イエス・キリストの誕生を告げる受胎告知の場面において、マリアはそれまで読んでいた旧約聖書から新約聖書に目を移し、旧約聖書の教えを表す机上の蝋燭はたった今役割を終え、今度は新たに恩寵の教えを表す蝋燭に火が灯されることを暗示している」

4世紀のミラノの司教アンブロジウスは、「マリアは身体だけではなく精神においても純潔である。心は謙虚であり、話すときには厳粛で、慎重さを備え、言葉を慎み、最も熱心に読書に励んだ」とお説教で語ったとされています。

マリア様が聖書を手にする絵画が描かれるようになった背景には、12世紀ルネサンスとマリア崇拝の発展、女性の宗教生活の拡大、書き言葉がラテン語から自国語へと移り変わっていく動きと並行した識字率の向上など、が原因として挙げられるそうです。

民衆のマリア信仰の高まりが、マリア様を人々の信仰生活の模範とみなす伝統と連動し、それによってマリア様が知性においても優れていたことが強調されるようになった、ということです。

こうした絵画を目にしたことがあったから「マリア様は知的な女性だった」と思っているのでしょうか。
そうではない、気がしています。

福音書には、マリア様の暮らしや立ち居振る舞い、発言などはほとんど記されていません。

それでも、カトリックにおけるマリア信仰(崇拝ではなく、崇敬)には、確固たるものがあります。

羊飼いたちは、この幼子について告げられたことを、人々に知らせた。
羊飼いたちが語ったことを聞いた人々はみな不思議に思った。
しかし、マリアはこれらのことをことごとく心に留め、思い巡らしていた。
(ルカ2・17~19)

わたしはこの箇所が大好きです。
マリア様が知的で素敵な女性だったのだろう、とわたしが意識しているのはこの箇所からです。

フランシスコ会訳聖書のルカによる福音書の解説には、このように書かれています。

本福音書では女性が大きな比重を占めている。
冒頭の1~2章ではマリアとエリザベトに中心的な役割が与えられているが、同じ姿勢が福音書全体に一貫している。
こうした女性への視点は、ルカの強調する普遍的な救いが民族的な相違のみならず、男女の性差をも克服するものであることを示している。

女性の生き方など関心の対象ではなかったであろう旧約の時代でも、聖書に登場する女性はみな個性的で知的だと思いませんか? 

7/6は母の命日でした。

母は、わたしたち3姉妹の教育にとても熱心でした。
娘たちがそれぞれの能力を生かして活躍することを願って、いつも後押ししてくれました。
美人で、誰からも好かれ、与えられた役割に誠実に向き合い、病弱でしたが常に明るい人でした。
わたしにとって、亡き母はいまの人生の指針でもあります。
我が家のマリア様、だったと感じています。

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「モナリザ・スマイル」で生徒役を演じる若手俳優たちは、全員が今ではトップ俳優です。

とても素晴らしい映画なので、おススメです!


:参考:

https://catholic-nishichiba.com/priest-preaching/1397/

https://www.cbcj.catholic.jp/faq/maria/

 

 

 

歴史の積み重ね

話題の映画「国宝」を観てきました。

歌舞伎鑑賞が趣味のわたしは、推しの俳優さんや気に入っている演目があると、歌舞伎座まで出かけていきます。

「先代の勘九郎さんはやはり素晴らしかった」
「音羽屋は次の代も安泰だ」

などと、偉そうなことを友人と語り合ったりもしますが、あまり深くその家の歴史について考えたことはありませんでした。

この映画は、血筋か生まれ持った才能か、が大きなテーマですが、伝統を継承して歴史を積み上げていくことの重みをひしひしと感じさせられました。

伝統芸能は守るべきものが明確です。
歌舞伎俳優は男性だけですので、息子がいない場合は同じ家系の男子に名前が受け継がれます。
その子に才能があるかどうか、ではなく、とにかく精進させるのです。

キリスト教、特にカトリックにおいては、教皇様が変わっても教えが変わることはありません。
父親から息子へ継承されるような伝統を受け継ぐのが教皇の役目ではなく、わたしたち信徒の現世での最高の導き手なのです。

29日のごミサで、宮﨑神父様はこうおっしゃいました。
「何がこの時代に必要なのかを教えてくださるのも教皇様です」

 

 

いま、教区100周年記念誌に掲載する久留米教会のページの原稿を書いています。

そのために、教会の歴史について振り返ってみると、様々な発見がありました。

ご自分の教会の歴史について、考えてみたことはありますか?

「久留米の人は自分の街に誇りをもっている」

と、言われたことがあります。

適度に都会で、豊かな自然、山と川に囲まれ、農業が盛んで食べ物がおいしい。
歴史と伝統が街の随所に見られる。
水天宮の総本宮がある。
ブリヂストン発祥の地。
いくつも大学があるため若者も多く、大きな病院がいくつもあるので医療が充実している。

これが、久留米という街を語るときのモデル的説明文です。

医療の街のスタートには、カトリック教会が大きな役割を果たしていました。

久留米教会の歴史は、毛利秀包(ひでかね)が久留米領主であった時(1587~1600年)に始まります。
大友宗麟の七女を妻とし洗礼を受けた秀包は、宣教師の保護に努め、信者のために城のそばに教会堂を建立しました。
久留米地方のキリシタンは当時7000人に達していたと言われています。

浦上の信徒発見から13年後の1878年、大浦のプチジャン神父の命によりミカエル・ソーレ神父が久留米に赴任し、宣教を開始しました。

ソーレ神父は、仮教会だけでなく、信徒たちの病気治療のための診療所も併設しました。
神父の依頼で『マリアの宣教者フランシスコ修道会』のシスターが久留米に修道院を構え、診療所で働きながら、女性や障害者に生計の足しになるような手仕事を教えるようになりました。
次第に、病人の治療、子どもたちの信仰教育だけでなく、一般の病人や貧しい人も受け入れて、捨て子や孤児の面倒も見るようになっていきます。
このように、シスター方と信徒たちの診療所での働きは、地域に深く根差したものとなっていくのでした。

久留米市の医療、教育、福祉のまちが現在のように作り上げられていった一端は、こうした司祭、修道者、信徒の働きがあったからと言えるでしょう。

「わたしのこれらの言葉を聞き、それを実行する者はみな、岩の上に自分の家を建てた賢い人に似ている。
雨が降り、大水が押し寄せ、風が吹きつけ、その家を襲ったが、家は倒れなかった。
その家は岩の上に土台を据えていたからである。

しかし、これらのわたしの言葉を聞いても、それを実行しない人は、砂の上に家を建てた愚かな人に似ている。
雨が降り、大水が押し寄せ、風が吹きつけてその家に襲いかかると、家は倒れた。その倒れ方ははなはだひどかった」。
(マタイ7・24~27)

「雨が降り、大水が〜」という表現は、最後の裁きの日を表現しています。

久留米という街の根幹には、キリスト教という強固な岩のうえに積み重ねられた教会の歴史があることは間違いないのです。
街の歴史と信仰の歴史、ともに歩みを重ねてきたのだということを今回改めて知ることができ、とても満たされた気持ちになりました。
 

修道生活の真の完徳に輝いた聖なる教父たちの生きた模範を想い出しなさい。
そうすればわれわれは、われわれが行っていることが、どれほど小さく、ほとんど無に等しいことがよく分かるだろう。
彼らの生活に比べたら、われわれの生活がいったい何だろうか。
(「キリストを生きる」第1巻第18章1)

久留米教会は「至聖なるイエスのみこころ」に奉げられた教会です。
今年は27日(金)にお祝いのミサが執り行われ、春から聖マリア学院大学のチャプレンとして赴任されたケン神父様と一緒にお祝いすることができました。
(聖マリア病院には、大学も併設されています。)

久留米教会は、3名の司祭が導いてくださる、本当に恵まれた教会です。

 

 

キリシタンたちの信仰教育から始め、何もなかった地に教会を建て、地域のひとたちを巻き込みながら社会貢献を重ねていった先人たちの姿を思い浮かべています。

教会が、信仰の礎となった使徒の教えを受け継ぎ、その真理を世界にあかしすることができますように。
(29日の集会祈願より) 

 

 

考える心

その人のことは、簡単なコミュニケーションからある程度わかるものです。

「コミュニケーションするということは、キリストが人間に対してしたように、身を低くすることです」

これは、前教皇フランシスコのお言葉です。

アメリカメジャーで活躍する大谷選手は、毎回打席に入る前に審判に挨拶する、唯一の打者だそうです。
多くの選手は最初の打席に入るときにキャッチャーに挨拶をしますが、大谷選手は毎回審判にも挨拶をするのだそうです。
さらには、相手チームのベンチにも試合前に挨拶をすると、アメリカのメディアが驚きをもって報じていました。

先週、デッドボールを受けた時、(監督は猛抗議で退場処分となりましたが)ベンチに向かって無事を強調し、「出てくるな」とばかりに手で制していました。
1塁に行き相手の選手と笑顔で会話する様子に、NHKの実況は「まるで親善大使のような」と表現していました。

大谷翔平選手、30歳です。

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福岡教区青少年委員会では、11月に仁川教区への訪問が予定されています。
仁川教区の青年たちと共に交わり、分かち合い、信仰を強めることを目的とし、18~35歳までの信徒の募集を行っています。

久留米教会にも青年会があり、自主的にいろいろな取り組みをしています。

わたしが「青年」だったころには、そうした集まりはなかったように思います。
本当のことを言えば、その年代にはあまり教会に積極的に足を踏み入れてはいませんでした。

バチカン天文台のサマー・スクールに参加している若者たちとお会いになった教皇様は、学生たちに、「皆さんが体験することは、われわれ全体のためになるということを決して忘れないでください」と話され、自分が学んだこと、経験したことを、可能な限りできる方法で寛大に分かち合って欲しいと希望された、とバチカンニュースにありました。

 

[彼らは主から5つの能力の使用を授かった。
6番目として、知性が授けられ、7番目として、その働きを解く言葉が授けられた。]
主は彼らに判断力と舌と、目と耳とを与え、考えるための心をお与えになった。

主は知恵と知識で彼らを満たし、善と悪とを彼らに示された。
主は彼らの心に、ご自分への恐れを植えつけられた。
これはその業の偉大さを彼らに示すためである。
[主は人々にその不思議な業を代々に誇るようにさせられた。]
(シラ書17・5~8)

「今どきの若い者は、、、」という表現自体が死語ですが、わたしが20代だったころと今とではあまりにも社会の構造、価値観、生き方が違いすぎて、戸惑うことばかりです。

友人が自分の会社の広告原稿をChatGPTを使って作っている、と聞いて驚きました

ChatGPTでは、論文を要約させる、論文を解説させる、もちろん翻訳や書いた論文の校正もできます。
論文そのものを作成させることも可能、ということです。

・学会や大学によってはAI作成の論文は禁止されている
・下書きやサポート目的ならOK
なのだそうですが、自分で考えを巡らせて書き上げた論文なのか、コンピュータを駆使して創られた文章なのか、見極める先生方も大変なご苦労でしょう。

このページにこうして記事を書くときには、もちろんネットで情報を検索し、ネットのニュースも参考にします。
教皇様のXやインスタも見て、記事に織り込むこともあります。

そうやって、得た情報をもとに聖書を開き、心で感じたことを自分の頭で考えて書いています。
わたしは、自分の心で捉えたことを言葉にして書き留める、ことに喜びを感じます。

現代の学生たちが、自分の心と頭を十分に使えていない、とは思いません。
ただ、とても「控え目」な人が多い、と感じます。

一人1台のPCもスマホもなかったわたしが学生だった頃と比べて、心を鍛えて頭を働かせるチャンスがたくさん用意されています。
その機会を貪欲につかもうとするかどうか、なのでしょう。

神を知らない人々はみな、生まれつきの愚か者である。
彼らは目に見える善いものを通して、存在そのものである方を知ることができず、またその業に目を留めながら、その作者を認めなかった。
また、それらの力と働きに心を打たれる彼らであれば、それらを形づくられた方がどれほど力強い方であるかを、それらを通して悟ることができるはずではないか。
被造物の偉大さと美から推し量ることで、その造り主を認めることができる。
しかし、この人々の責めは軽い。
彼らは神を求め、見出そうと望みながら、迷っているのかもしれない。
彼らは神の業と慣れ親しんで、神を探し求める。
しかし、彼らは外観にだけ心を留める。
目に映るものがまことに美しいから。
(知恵の書13・1〜7)

目に見えない神を信頼し、見えない聖霊の働きを感じる わたしたちは、とても恵まれています。

「主は彼らに判断力と舌と、目と耳とを与え、考えるための心をお与えになった」
「被造物の偉大さと美から推し量ることで、その造り主を認めることができる」

自分の心で感じ取り、自分の頭で考え、行動することの大切さを忘れないようにしたいと思います。
初聖体を受けた時の気持ちを、彼らが忘れないでいてくれますように。