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続くことの意味
箱根駅伝、今年も素晴らしかったですね!
お正月の楽しみのひとつですが、近年はわたしの母校の選手も頑張っているので、箱根には余計に力が入ります。
「なぜ、このチームだけが、人がどれだけ入れ替わっても勝ち続けられるのか?」
青山学院大学の原監督は、この質問に次のようにお答えになっています。
「人が入れ替わっても勝ち続けられる組織であるために、日常生活を徹底的に見直したことが現在の成果につながっている」
夫婦で部員たちと寮に住みこみ、練習だけでなく生活も共にされていることは有名ですが、大切にされているのは日々の生活だということのようです。
「なぜキリスト教(カトリック)は2000年以上も受け継がれてきたのか」
そう質問されて、自信を持って答えられるでしょうか。
先に起こったことを、思い起こしてはならない。
以前のことを、思い巡らしてはならない。
見よ、わたしは新しいことを行う。
今にもそれが芽生えているのを、お前たちは知らないのか。
わたしはまさに荒れ野に道を、荒れ地に川を設ける。
(イザヤ43・18~19)
大学の部活は、4年で卒業する生徒(才能)を入れ替えながらも、指導(伝統)の賜物で成果を出し続けています。
*箱根駅伝は、毎年だいたい同じ学校の名前が並びますね。
教会は、帰天される方、受洗される方が毎年おられますが、数年でメンバーが全て入れ替わるなんてことはありません。
日本のカトリック信者が増加している、とは言えない現実を直視しつつも、基盤となる教えに加え、その教会(司祭・信徒)なりの導きの賜物の成果として、新しい奉仕者が少しづつ出てきているのを感じています。
*そのことに気づかない教会も多いのではないでしょうか。
聖霊の賜物による、ある種の召し出しなしでは、教会共同体がこれからも続くことはありません。
新年にNHKで放送されていた、菊池枢機卿と若松英輔さんの対談を観ました。
その中で、菊池枢機卿のいくつかのお話が大変印象に残っています。
*現代社会において、それは夢物語だと言われようとしても自分の信念・確信を持つことの大切さ
*「答え」をすぐに求めたがるのが現代の人々だ。宗教にもそれを求めている。
宗教は方向性を示すことはできるが、その道を生きるのはその人なのだ。
母の胎にいた時からわたしに担われてきた者たち、
腹にいた時からわたしに背負われてきた者たちよ。
お前が老いるまで、わたしはその者である。
白髪になるまで、わたしは担う。
わたしは造り、わたしは背負う。
わたしは担い、わたしは救う。
(イザヤ46・3~4)
主なる神は、教えを受ける者の舌をわたしに与えてくださった。
疲れた者を言葉をもって支えることを知るために。
主は朝ごとに呼び覚まし、
わたしの耳を呼び覚まし、
教えを受ける者のように聞くようにしてくださった。
主なる神は、わたしの耳を開いてくださった。
わたしは逆らわず、背を向けて退くことはなかった。
(イザヤ50・4~5)
宗教が続いてきたこと、これからも続いていくこと、の意味はここにある気がします。
*聖霊に導かれて生きる、という自分の信念を確認して確信にすること
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2025年、聖年の扉が閉じられました。
教皇フランシスコは、聖年の開始を告げる大勅書「希望は欺かない」の冒頭でこう述べられています。
「すべての人は希望を抱きます。
明日は何が起こるか分からないとはいえ、希望は良いものへの願望と期待として、ひとり一人の心の中に宿っています」
わたしたち一人ひとりの中に希望が絶えずあり続けること、キリスト教がこれからも続き、人々の指針であるために大事なことではないでしょうか。
賢く、素直に
素直じゃないなぁ、、、と思ってしまうこと、ありませんか?
そういうことに惑わされて、負の感情に陥ることなく自分の心を守るためには、善悪を見分ける賢さが必要です。
守るべきものすべてにも増してあなたの心を保て。
命はそこから来る。
(箴言4・23)
「ところで、あなたたちはどう思うか。ある人に息子が二人いたが、彼は兄のところへ行き、『子よ、今日、ぶどう園へ行って働きなさい』と言った。
兄は『いやです』と答えたが、後で考え直して出かけた。
弟のところへも行って、同じことを言うと、弟は『お父さん、承知しました』と答えたが、出かけなかった。
この二人のうち、どちらが父親の望みどおりにしたか。」彼らが「兄の方です」と言うと、イエスは言われた。
「はっきり言っておく。徴税人や娼婦たちの方が、あなたたちより先に神の国に入るだろう。
なぜなら、ヨハネが来て義の道を示したのに、あなたたちは彼を信ぜず、徴税人や娼婦たちは信じたからだ。
あなたたちはそれを見ても、後で考え直して彼を信じようとしなかった。」
(マタイ21・28~32)
イエス様は、誰にでもわかるように、日常生活を喩えにして教えられました。
このマタイにある喩え話も、現代のわたしたちにもとても納得できる、「よくあること」ではないでしょうか。
ひねくれた人、返事は良い人、周りにもいます。
同じように、素直だと思っていた人が、心の中では全く逆の感情を持っていることが分かることも。
ある信徒の方から相談を受けました。
終活として、家の中のものを整理されているようで、「長年、全力をかけて」集めてきた本をどこかに寄贈したいので、考えて欲しい、とのことでした。
おそらく、よく知らない方々からは、「偏屈な風変わりな頑固者」だと思われている方です。
見た目も結構アレですし、、、、。
わたしは、その方が洗礼を受ける前から共に聖書の勉強会に参加していて、洗礼を受けることになる流れなども色々と知っていますし、一緒にイスラエル巡礼にも行きました。
「嫌です」、と答えたなら絶対に行かないタイプの方です。
「離れて暮らす娘がカトリック教会に行っていると聞いたので、どういう教えなのかを自分で確かめたいから」、と教会に通うようになり、聖書を勉強したという素直な方です。
随分年上の方ですが、わたしは信徒友だちだと思っています。
以前、わたしがここに書いた記事の内容に反論するような意見を言ってきた方がいました。
わたしはとても落ち込み、素直に「そういう考えもあるのだ」とは受け止められずに、うじうじと悩みの日々を過ごしたことがあります。
その時、その素直な信徒友だちのおじさまにどう思うか意見を聞いて、いろいろとやり取りをして、思慮深くよく考えてアドバイスをくださったことを思い出します。
わたしが数年前に初めてミサの先唱をした時も、「きれいな声で司会をされていて驚きました。とても素敵で、聡明で、ミサが楽しいひと時でした」と素直な感想メールをくれました。
絶対そんな素敵なメールをくれるような風貌ではないので、この話をしたら皆さん驚いていました。
あなたがたは蛇のように賢く、鳩のように素直になりなさい。
(マタイ10・16)
「賢く」と訳されている語は、原文のギリシャ語では「分別のある、思慮深い、賢明な」などの意味をもつ言葉です。
「蛇のように賢い」ことと、「鳩のように素直である」こと。
どちらか一方だけではなく、その両方が必要なのだとイエス様が教えてくださいます。
わたしの日々の生活に欠かせないのは、音楽。
心の底から素直に喜びを感じることができます。
先日バチカンで教皇様主催で開催された、マイケル・ブーブレのコンサート。
美しい歌声を、教皇様も多くの信徒と共に楽しまれていました。
良い降誕祭をお迎えください。
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みこころレター第16号を発行しました。
事情があり教会に来ることのできない信徒、カトリックに関心をお持ちのお知り合いなどにもお渡しください。
罪と罰
先日、洗礼を受けて間もない方に、「もうすぐ待降節ですから、初めての告解をしてみてください」とお伝えしたら、「どのような罪が告解に値するのかわかりません」とおっしゃいました。
告解するのは犯罪ではなく、日常生活で「あの時の自分は間違っていた」などといった『自分の罪』と感じたことでいいのですよ、とお答えしました。
それ以来、罪と赦しについて考えていました。
数日後、たまたま目にした新聞で、「死刑になる罪 国ごとに違う」という記事を読みました。
国際人権団体によると、2024年度に世界で施行された死刑の内、4割が薬物犯罪関連だったそうです。
そして、何を犯罪とするかは、その国の価値観を反映しているのです。
「現在の刑事司法制度は、国が加害者にどんな罰を科すか、という考え方=『応報的司法』が中心です。
しかし、わたしは被害の修復=『修復的司法』こそ必要だと考えています。
薬物犯罪には明確な被害者はいません。ではいったい誰のための死刑なのか。
国の秩序や体制の維持、つまりは為政者のためです。」
と、早稲田大学の高橋名誉教授が書いておられました。
『修復的司法』の例として、オーストラリア・ドイツ・カナダ・イタリアで制度化されている、被害者や加害者、両家の家族や友人らが集まって解決策を話し合う、「家族集団会議」という制度が紹介されていました。
見よ、主の手が短すぎて救えないのではない。
その耳が遠すぎて聞こえないのではない。
お前たちと神との間を隔てたのは、まさにお前たちの悪行、み顔を隠させ、聞かれなくしたのは、お前たちの罪なのだ。
まことに、お前たちの手は血で、指は悪行で汚れ、唇は偽りを語り、舌は邪なことを発する。
正しく訴える者もなければ、信じるに足る弁護をする者もなく、空虚なものに頼り、むなしい言葉を語り、労苦を孕み、不正を産む。
(イザヤ59・1~4)
わたしは自分の罪をあなたに告げ、罪咎を隠しませんでした。
わたしは言いました、
「いと高き方よ、ありのままに申します、主よ、わたしの咎を」。
そのとき、あなたはわたしの罪と咎を赦してくださいました。
(詩編32・5)
自分の過ちを隠す者が栄えることはない、
それを言い表して、それと手を切る人は憐れみを受ける。
(箴言28・13)
数年前に観た映画、「対峙」(原題:Mass)を思い出し、もう一度観てみました。
アメリカの高校での銃乱射事件後、加害者と被害者の両親が6年後に教会の一室で対話する様子を描いた作品です。
先ほど紹介した、「集団家族会議」の制度を利用したのです。
事件によって息子を失った両親、そして自殺した犯人の少年の両親が互いに向き合い、深い悲しみ、喪失を共有し、赦しに挑みます。
全編を通し、教会の談話室のような一室だけ、登場人物も(冒頭に教会の職員とコーディネーターが部屋を準備するために登場する以外は)二組の夫婦だけです。
最初は冷静だった被害者の両親は、加害者の両親を責め立てていきます。
観ているこちらまで、息が詰まるような苦しみを錯覚します。
そして次第に、加害者の両親も大切な息子を失った悲しみを抱え、喪失感、罪悪感だけでなく、世間からの非難にも苦しんでいることを理解し始めます。
とても重い内容の映画ですが、テーマは「赦し」と「和解」です。
「あなた方が残りの人生を苦しみのまま過ごす罰を与えたかった
でも、このままでは生きられない
わたしは心からお二人を赦します、そして、彼を赦します」
ラストシーンで教会から聞こえてくる聖歌隊の歌う聖歌の歌詞に、思わず涙がこぼれます。
わたし自身、告解すべきことがあり、心に棘として突き刺さっています。
近いうちに。
この↓noteの記事が、映画についてとてもよく伝わってきます。
https://note.com/kazuya2511/n/n446ce019c403
生きる者のための祈り
11/2死者の日が主日と重なりました。
宮﨑神父様がおっしゃった、「今日は自分の死について考える日でもあります」というお言葉が心にこだましています。
死者の月、自分を大切にしてくれていた方々のために祈るよう推奨されますが、今年はいつもと少し違う気持ちです。
11月になると、アウグスティヌスの「告白」のこの個所を読み返します。
おそらく、以前記事にしたことがあるのですが、それは母モニカの死に際の箇所です。
「わが子よ、私はといえば、この世の中にもう自分をよろこばせるものは何もない。
この世でまだ何をすべきか、何のためにこの世にいなければならないか、知らない。
この世ののぞみはもう十分にはたしてしまったのですもの。
この世にまだしばらく生きていたいとのぞんでいた一つのことがありました、それは死ぬ前に、カトリックのキリスト者になったおまえを見たいということだった。
神さまはこの願いを十分にかなえてくださった。
おまえが地上の幸福をすてて、神さまのしもべとなったすがたまで私は見たのだもの。
もうこの世の中で何をすることがありましょう。」
(「告白」第9巻第10章)
「このからだはどこにでも好きなところに葬っておくれ。
そんなことに心をわずらわさないでおくれ。
ただ一つ、お願いがある。
どこにいようとも、主の祭壇のもとで私を想い出しておくれ。」
(「告白」第9巻第11章)
この場面には、いつも胸が熱くなります。
「告白」を初めて読んだのは、10数年前だったと思います。
当時、母を亡くし、日々の暮らしや会社のことで途方に暮れていたわたしは、母の死について神様が与えられた意味を模索していました。
そしてしばらくして、モニカのように、自分たちの死について妹たちと話すようになりました。
決して悲観的な意味合いからではなく、モニカと同じ気持ちだということをお互いに語り合いました。
父とわたしたち3姉妹は、いつも天国の母に心配をかけるような人生です。
でも、本当に聞こえるのです、母がどっしり構えてこう言っているのを。
「神様のお導きを信じなさい、大丈夫だから」
人は常に死者を心にとめ、自らの関心と気遣いと愛情を通して、彼らにいわば第二のいのちを与えようと努めます。
わたしたちはある意味で彼らの人生経験を残そうと努めます。
そして、わたしたちは逆説的にも、彼らがどう生き、何を愛し、何を恐れ、何を望み、何を憎んだかを、まさに墓地に集まって彼らを記念するときに見いだします。
墓地を訪れて、亡くなった愛する人々のために愛情と愛をこめて祈るとき、永遠のいのちへの信仰を勇気と力をもって更新するよう招かれます。
そればかりか、この偉大な希望をもって生き、世にこの偉大な希望をあかしするよう招かれます。
これは、故ベネディクト16世のお説教でのお言葉の一部です。
モニカを亡き父の傍らに葬りたいと考えていたアウグスティヌスの気持ちは、母のためというよりも、「そうしてあげたい」という息子の愛の気持ちでした。
そして彼は、母の死に際して、彼女の生き方や愛、希望などについて思いを馳せる機会を与えられたのです。
死者のために祈ることは、生きる者のために祈っていることなのだ、と感じています。
死者の月にいつも以上に自分の死について考えています。
そして、それはすなわち、生かされている今をいかに大切にするか、ということだと痛感するのです。
本音の信仰
宮﨑神父様はよくお説教で、「行いの伴わない信仰」について喝を入れてくださいます。
『本音と建て前』を使い分けて隣人と関わっていないか、今一度よく考えてみなさい、と先日お話されました。
誰にでも「苦手な人」がいるかと思います。
以前、意見の食い違いがあり、わたしが一方的に嫌な気持ちになった人がいました。
それ以来、苦手な人だわと思っていた方と先日お会いする機会があったのですが、会ってすぐに「義足の調子が悪いですか?歩き方が前よりも悪くなっていませんか?」と声をかけてくださったのです。
あなたが馬鹿にされるとき、それは風となるのです。
あなたが怒るとき、それは波となるのです、
だから風が吹き、波が高まるとき、舟は危険に陥り、あなたの心は危険にさらされ、あなたの心は行ったり来たり激しく揺さぶられるのです。
馬鹿にされると、あなたは仕返しをしたいと思います。
しかし復讐は、難破という別の種類の災難をもたらします。
なぜでしょうか。
なぜなら、キリストはあなたの内で眠ったままだからです。
私は、あなたがキリストを忘れているということを言っているのです。
だから、キリストを目覚めさせなさい。キリストを思い出しなさい。
キリストをあなたの内に目覚めさせなさい。
キリストを心に留めなさい。
この方は一体どなたですか。風や波さえも彼に従うそのお方とは。
(アウグスティヌス『説教』より)
偶然、読んでいた本でこの箇所が目に留まりました。
(先週のyoutubeのビデオもそうですが、いつもこうして求めているものが与えられるのです!)
声をかけてくださったこともですし、わたしの足のことを以前から気にかけてくださっていたこと、その変化に気づいてくださったこと、とても嬉しかったのです。
建て前で信徒としてのお付き合いをしていくのは嫌でしたので、帰り際に話しかけて、いろいろとお話してみました。
いまさらながら(当然のことだったのですが)、わたしは馬鹿にされていたわけではないと分かり恥ずかしくなりました。
「言葉は、あなたの近くにあり、あなたの口、あなたの心にある」。
これは、わたしたちが宣べ伝えている信仰を生み出す言葉です。
口で、イエスは主であると宣言し、心で、神はイエスを死者の中から復活させたことを信じるなら、あなたは救われるからです。
人は心で信じることによって義とされ、口で宣言することによって救われるのです。
(ローマの信徒への手紙10・8~10)
キリスト者であると自負し、毎週主日のミサに与っていたとしても、言葉と生き方に信仰が現れていないことが往々にしてあるのではないでしょうか。
言葉や行動に信仰がついていかない場合もあります。
クリスチャンらしい振る舞いはできても、心がそこに伴わないのです。
ミサ中に「主の平和」と笑顔で周囲とあいさつを交わすとき、本音で本心からそうしていますか?
福音書朗読の際に額・口・胸で十字をきるとき、頭と言動で福音書を賛美することは本音ですか?
「わが愛する子らよ、わたしは主においてあなたがたに挨拶を送る。
わたしは主に祈り求める。
主があなたがたをすべての災いから守ってくださるように。
主が、ヨブのような忍耐と、ヨセフのような恵みと、モーセのような優しさと、ヌンの子ヨシュアのような戦いにおける勇気と、士師たちのような優れた知識と、ダビデ王とソロモン王のような敵を屈服させる力と、イスラエルの民のような地に実りをもたらす力を、あなたがたに与えてくださるように。
主が、手足の萎えた体をいやしてくださったように、あなたがたのすべての罪をゆるしてくださるように。
主が、ペトロにしたようにあなたがたを荒波から助け、パウロや使徒たちにしたようにあなたがたを苦難から救い出してくださるように。
主があなたがたを、主のまことの子として、すべての災いから守ってくださるように。
そして、そのみ名によって、魂と体の益となるために、あなたがたが心から求めるものを与えてくださるように。アーメン」
ガザのバルサヌフィオス(パレスチナのバルサヌフィオスとも表記される)は6世紀に生きた隠者で、ガザの修道院の院長でした。
識別の知恵に優れていたので、修道士や聖職者、信徒が教えを乞うために訪れました。
上記の祈りは、ある一人の修道士が自分と仲間のために祈ってくれるように、バルサヌフィオスに願った際の答えです。
人のためにこのような気持ちで祈ることができるか、立ち止まって考えさせられる祈りのことばです。
守護天使
秋は一番好きな季節です。
この季節は窓を開けて、朝の澄んだ、ひんやりした空気を吸い込むと、それだけで「今日はいい日になる」気がします。
ここで何度か引用したことのある本、メアリー・ヒーリー「マルコによる福音書」の解説を翻訳したのは、東京大司教区の田中 昇神父様です。
その田中神父様は、日本で唯一のエクソシストです。
悪魔による憑依現象は現代ではほとんどが精神疾患とされていますが、それでもカトリック教会は人や場所への悪魔の憑依を認めています。
エクソシズムは、悪霊に取り憑かれた人、ないし悪霊の誘いを受けている人が、神の絶対的な支配を認め、信仰を荘厳に宣言するものであり、本来的には悪魔に誘惑されている人の心と身体、その人の全体を神に向け直すことを教会が助けることによって救いをもたらすものであると言えるのです。
(「エクソシストは語る-エクソシズムの真実」田中 昇神父 著より)
旧約聖書には、悪魔憑きのエピソードはありません。
その存在を感じさせるものは登場しますが、悪霊に憑かれた人や病気の原因が悪魔や悪霊のせいにされている例は描かれていないのです。
悪魔のねたみによって死がこの世に入り、悪魔の仲間に属する者が死を味わうのである。
(知恵の書2・24)
一方、新約聖書には、イエスが悪魔や悪霊を人から追い払うシーンが数多くあります。
ナザレのイエス、かまわないでくれ。
我々を滅ぼしに来たのか。
正体はわかっている。神の聖者だ。
(マルコ1・24)
イエス様が地上にやってきた以上は、この世はすでに神の支配が始まっていることを悪霊は理解していました。
イエス様を神だと認識しているのです。
弟子たちは当時、イエス様のことをまだよく理解していなかったのに、悪霊・悪魔のほうがイエス様の存在を恐れて命令に従っています。
田中神父様は本のなかで、「彼らはもともと神に近い存在、天使であったから」だと書いています。
悪魔ももともとは神が創った天使でした。
天使の本来の役割は、神への賛美と奉仕です。
しかし、あるときから高慢と嫉妬のために神に反逆する天使たちが現れました。
彼らは神に罰せられ、天界を追放されます。
その追放された天使たち、すなわち堕天使たちが悪魔や悪霊だとされています。
神は被造物である天使にも堕落し神に反逆する自由意志をあたえているのです。
(173頁)
バビロン捕囚期以後に、異国からの宗教感覚がユダヤ教徒に浸透していく中で、悪魔とその働きが信じられるようになっていったようです。
そして、イエス様が活動していた時代には、多民族からもたらされた悪霊に対抗する必要がある、とユダヤ民族は信じていたのです。
悪魔は、暴力によって人を傷つけるのではなく、人を欺き、そそのかして理性を狂わせ、神の愛と真理から遠ざけて破滅に向かわせるように誘惑する者のことです。
洗礼を受けたわたしたちは、キリストとともに悪魔に打ち勝った(1ヨハネ2・13)のですが、自らの不信仰・不従順によって悪魔に罪へと誘われないよう、いつも心がけておかなければなりません。
あなたが主を逃れ場とし、いと高き方を隠れ所とするなら、不幸はあなたに臨まず、災いはあなたの天幕に近づかない。
主の羽があなたを覆い、あなたはその翼のもとに逃れる。
主はみ使いたちに命じ、あなたの進むすべての道であなたを守らせる。
あなたの足が石につまづかないように、彼らは手であなたを支える。
(詩編91・4,9~12)
田中神父様は、神を信じているからこそ悪魔の存在も信じることができる、おっしゃっています。
わたしは、悪魔の誘惑を感じたことはありますが、天使の存在を感じたことはありませんでした。
みなさんはご自分の守護聖人をお持ちですか?
ザビエルがキリスト教布教の許可を得たのが1549年9月29日。
この日は聖ミカエルの祝日だったことから、ザビエルは大天使ミカエルを日本の守護聖人にしたそうです。
(そのザビエルを、日本は自分たちの守護聖人としたのです)
余談ですが、妹の洗礼名はミカエルで、結婚した相手(アメリカ人)はマイケルという名前です。
わたしは特別に守護聖人を意識したことはないのですが、先月末からのいくつかの心配事が立て続けに2つ解決に向かってきたのは、天使の守護があるのではないか、と感じているところです。
日々の祈り、神様と母の導きのお恵みだけでなく、聖霊が道を示し、わたしの周りを天使が守ってくれているような感覚があるのです。
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この本はタイトルがどうも引っかかっていて、(失礼ながら、出版社の売るため戦略に感じられて、、、)ずっとAmazonのカートに入れっぱなしでした。
ですが、やはり気になって購入して読んでみて良かった!
第1部は田中神父様のエクソシストとしての活動やエクソシズム、悪魔について、第2部としてご自身の召命と神学校時代、ローマ留学時代について、現在のキリスト教の問題点についてじっくりと書かれています。
読書の秋にお薦めの一冊です。
信仰は希望
めずらしく、気持ちの落ち込みと不安に覆われてしまっていた1週間でした。
月曜日に一つ目の心配事
水曜日に二つ目の心配事
金曜日にそれらがさらに悪化
人にアドバイスするときには、「心配してもしょうがないから、神様のお導きを信じて!」などと立派な声掛けをしているわたしですが、まれにかなり深みにハマって這い上がれないこともあります。
20代初めの頃、人生の方向性を模索して悩んでいた時、いつもこの聖句を心に留めていました。
だから、あなた方も用意していなさい。
思わぬ時に、人の子は来るからである。
(マタイ24・42)
だから、目を覚ましていなさい。
あなた方はその日、その時を知らないからである。
(マタイ25・13)
聖書をちゃんと学んでいなかったので、本来の意味するところを理解してはいなかったのですが、このみ言葉は当時のわたしにとって「いつか、きっと必ず神様が道を示してくださるから、自分にできる努力をしながら待ちなさい」という意味だと勝手に解釈していました。
そして、それは今でも変わらない気持ちです。
今わたしが抱えている不安は、祈り続ければ神様が解決してくださる、というようなことではありません。
わたしの人生に与えられた試練です。
「与えられた」というと神様の計らいのようですが、そして、「試練」というと神様に試されているようですが、こうした苦難はわたしたちが人生を歩むにあたって必要なことなのです。
痛みや苦しみ悲しみなどと対峙しながら人生を積み重ねる。
乗り越えられなくとも、その経験が人格を形成していく。
そして、日曜日に教会に行って、色々な方と言葉を交わし、担っている役割をいくつか実行し、 そうして神様からのメッセージを受け取りました。
兄弟のみなさん、わたしたちは、どんなに窮乏し、苦難の中にあっても、あなた方のお陰で励まされています。
あなた方の信仰のお陰です。
あなた方が主に結ばれてしっかりと立っているかぎり、わたしたちは、今、まさに生きていると実感するからです。
(1テサロニケ3・7〜8)
知っていたこと、わかっていたこと、つまり、神様は乗り越えられない試練は与えられないということ・そのために進むべき道をも同時に与えてくださるのだということを、日曜日に教会に行って思い出しました。
キリスト教でなくても、信仰という希望を持てることは最大の救いです。
月曜日から金曜日まで心配事に襲われても、日曜日には光を与えてくださる。
いつも、本当に不思議なのです。
日曜日に教会でいつもの席に座って祈り始めた途端に、神様と母がわたしに近づいてきてくれるのです。
毎週、わたしの横に座ってくれるのを感じるのです。
レオ14世教皇は、前教皇よりも説教の言い回しが少し難しく感じられますが、今回のこのお話は、今のわたしにとても深く刺さりました。
わたしたちも、御父のいつくしみ深いみ旨に身をゆだね、自分の人生を、与えられた善いものヘの答えとしていただけることを学ぼうではありませんか。
人生において、すべてをコントロールする必要はありません。
日々、自由をもって愛することを選択するだけで十分です。
試練の暗闇の中でも、神の愛がわたしたちを支え、永遠のいのちの実をわたしたちのうちで育ててくださっていることを知ること――これこそがまことの希望です。
教皇レオ十四世 2025年8月27日一般謁見演説より
応援する姿
15日のマリア様の被昇天の祝日、今年最後(希望)の40℃に迫る酷暑の朝でした。
この季節は、甲子園球児たちを応援するのが楽しみの一つです。
プロ野球も好きですが、大人の利害やスポンサーといったものがなく、純粋に野球に打ち込む彼らの姿は、本当に清々しくて気持ちの良いものです。
毎年、わたしがテレビで見て応援しているのは、グランドの選手だけでなく、スタンドで応援しているユニフォームを着た選手たちです。
スタメンに入れず、それでも満面の笑みを浮かべて全身全霊で応援歌を歌い踊る彼ら。
汗だく・泥だらけになってプレーする選手たちと同じように、彼らもまた、甲子園の舞台で精一杯に躍動しているのです。
さて、彼らは、ひたすら使徒たちの教えを守り、兄弟的交わり、パンを裂くこと、祈りに専念していた。
信じる人たちはみな一つになり、すべての物を共有にし、財産や持ち物を売り、それぞれの必要に応じて、みなにそれを分配していた。
また、日々、心を一つにして、絶えず神殿に参り、家ではパンを裂き、喜びと真心をもって食事をともにし、神を賛美していた。
彼らは民全体から好意を得ていた。
こうして、主は日々、救われる人々を仲間に加えてくださった。
(使徒言行録2・42〜47)
今年の甲子園でも色々と注目ポイントがありますが、話題として取り上げられているのが、県立岐阜商業の横山選手。
彼は、生まれつき左手の指が全て欠損しているのですが、レギュラーとして大活躍しています。
打席に立つたびにひときわ大きな歓声が上がり、投打に活躍する姿に大きな拍手が送られています。
「ハンデを持っているから注目されている。その分活躍したいし、勝利に貢献しなければいけない」とインタビューに答えていました。
以前も書いたことがありますが、教会とは、日曜日にミサに与るために来るだけのところではありません。
共同体を運営するために奉仕する、さまざまな役割を担う信徒の支えがあるからこそ、脈々と受け継がれてきたのです。
長年、お1人で納骨堂の管理をしてこられた方からその役割を引き継ぎ、今後の運営のあり方について打ち合わせをしました。
色々と提案をさせていただき、お話をする中で、「これまではお一人しか管理の仕方がわからなかったことも、こうしてわたしたちが引き継いで、そしてわたしもさらに引き継ぐ人を見つけていきますね」とお伝えしたところ、涙を浮かべて喜んでくださいました。
神を愛する人々、すなわち、ご計画に従って神に召された人々のために益となるように、すべてが互いに働き合うことをわたしたちは知っています。
(ローマ8・28)
わたしは与えられた恵みによって、あなた方1人ひとりに言います。
自分は当然このようなものだと思う以上に自分を過大に評価せず、神が各々に与えてくださった信仰の度合いに応じて自分を評価し、程よく見積もるようにしなさい。
(ローマ12・3)
わたしは植え、アポロは水をやりました。
しかし、成長させてくださったのは神です。
ですから、植える者も水をやる者も取るに足らず、成長させる神こそ大切な方なのです。
植える者も水をやる者も一致して働いていますが、それそれその働きに応じて自分の報酬を受けるのです。
わたしたちは神の協力者であり、あなた方は神の畑、神の建物なのです。
(1コリント3・6〜9)
レギュラーになれなくても応援する姿に感動し、その彼らを応援したい
ハンデがあるから余計に応援したい
これまで担ってこられた役割を引き継ぐわたしたちを、応援してくださる先輩方がいる
野球も教会も、ある意味チームプレイです。
心をひとつにし、仲間を増やし、働き合って成長する。
各々に与えられたお恵みをそれぞれが最大限に発揮して、互いに応援し合う。
ちょっと強引かもしれませんが、連日の甲子園の試合を応援していると、教会での役割についてもっと役立ちたいという気持ちになったお盆休みでした。
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17日のごミサは、イエズス会の中井神父様の司式でした。
その後に、ご自分の多岐にわたる活動についてのお話をお聞かせくださいました。
また改めて記事にしたいと思います。
祈りの時間
NYと横浜から帰省している妹たち家族と過ごしていました。
思い出深い夏になりましたが、、、聖書を開く時間も余裕もありませんでした。
それでも、寝る前に今日1日の感謝と、家族のことを導いてくださっていることへの感謝の祈りだけは欠かさないように努めています。
普段は、静かな落ち着いた生活ができているので、神様と天国の母に話しかけたり聖書を開いたり、日常のちょっとした隙間に、そうした時間を持てるのですが、今改めて、子どもの面倒を見ているお母さんたちの気持ちがよくわかります。
久しぶりにごミサに与りました。
贅沢にも、妹・姪たちと毎日遊び疲れて、どうしてもリフレッシュのため、心と身体を落ち着かせるために教会に行って、ミサだけでなく、信徒仲間たちと会って話したかったのです。
今までなぜか気づかなかったのですが、ガラス越しに見える青々と茂った緑の木々さえも、今日は美しく感じることができました。
「日曜日のミサに子どもを連れた親の姿が少ない」
そういう声は、どの教会でも聞かれることかと思います。
特に、夏休みの子どもたちは忙しい!、ということを実感しています。
一度も姪たちを教会に連れて行けませんでした。
今回の国政選挙の結果を見ていて、感じたことがあります。
人々は「わかりやすさ」を求めているようです。
カトリックの教えは、信仰を持たない人にとっては難しく、ハードルの高いものに感じられている気がします。
ですが、この夏の日々の中で痛切に実感しました。
わたしたちキリスト者の信仰は、シンプルに「祈り」に集約されるのではないでしょうか。
わたしたちには、「祈りの時間」が必要です。
今日のごミサでは、宮﨑神父様が「祈りの時間」の大切さについてお話になりました。
洗礼を受けただけの人、普段教会に来ない人、日常の中で祈らない人、そういう人(わたしの妹)のためにも祈りを続けなければと決意を新たにしました。
神父様は、祈りは霊的呼吸だ、とおっしゃいました。
神を信じる者の信仰生活は、祈りによって支えられていることを忘れてはならない、と。
いつもは、ミサ前には入り口に立って皆さんをお迎えし、色々とお声がけするのですが、今日はしばらくじっと座って祈り、ロザリオを唱えていました。
それだけで、心の中のスポンジに水が染み渡る気持ちでした。
さて、イエスはある所で祈っておられた。
祈りが終わると、弟子の1人がイエスに言った、「主よ、ヨハネも弟子たちに教えたようにわたしたちに祈りを教えてください」。
そこで、イエスは仰せになった、「祈る時には、こう言いなさい。
『父よ、み名が聖とされますように。
み国が来ますように。
わたしたちの日ごとの糧を、日ごとにお与えください。
わたしたちの罪をお赦しください。
わたしたちに負い目のある人をみな、わたしたちも赦します。
わたしたちを誘惑に遭わせないでください』」。
(ルカ11・1〜4)
主の祈りも、ルカのこの言い回しが心に染み透ります。
祈る=神様と天国のみなさんに語りかける、感謝の気持ちを伝える、家族を導いてくださるよう願う、、、そうした時間を毎日、何度も持つことが、どれほど自分にとって必要なひと時かを改めて実感する夏になりました。
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日本カトリック司教協議会が推薦する映画「長崎〜閃光の影で」が8/1から全国で公開されます。
久留米では、Tジョイでご覧になれます。
思いやりの行動
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少しでも涼しい気持ちになってもらえたら。
ディスレクシア(読字障害)という障害があります。
これは、知的能力や一般的な理解能力などに特に異常がないにもかかわらず、文字の読み書きに著しい困難を抱えるもので、学習障害の要因となることがあります。
トム・クルーズ、ジェニファー・アニストン、キアヌ・リーヴス、など、有名な俳優さんたちもこの障害を持つと告白している人が多くいます。
数々の大作を世に生み出してきたスティーブン・スピルバーグ監督は、60歳のころにディスレクシアと診断されたそうです。
文字が読めず授業についていけないため、小学校を2年遅れで卒業。
いじめを受け、「地獄のような幼少期」だったそうです。
今でも、脚本を読むのに人の2倍の時間がかかるそうです。
ブラッド・ピットは、相貌失認(そうぼうしつにん)や失顔症と呼ばれる、他人の顔が識別できない病気だそうです。
実際は会った人を覚えていたいのに、覚えられないことを恥ずかしく思っている、何度も会った人を認識できないので失礼な奴だと思われている、とインタビューで語っていました。
ディスレクシアや失顔症、いわゆる学習障害と言われる障害は、他者からは分からないものです。
社会生活に困難を感じるのは、身体に不自由があるからだけではないのです。
お前の友を虐げてはならない。
耳の聞こえない人を呪ってはならない。
目の見えない人の前につまずきとなる物を置いてはならない。
(レビ記19・13〜14)
忘れられない思い出があります。
昔、NYの地下鉄に乗って座っていたときに、見るからに身体が不自由そうな人が乗ってきました。
わたしはとっさに「ここに座ってください」とその人に席を譲ったのですが、わたしの動く様子から足が不自由だとわかったのか、離れたところに座っていた2人の人(別々のところに座っていた、どちらも若い人)が「わたしの席に座って!」と駆け寄ってきてくれたのです。
東京で電車に乗っていても、座っている人はとても疲れた様子で眠っているか、携帯を必死に見ていて気付いてもらえないかで、席を譲ってもらった経験はほとんどありません。
逆に、年配の女性から「若いんだから、座らないで席を譲って!」と怒られたことはあります。(笑)
外見でわかるかどうかに関わらず、ちょっとした気遣いが人の役に立つことを心に留めておきたいものです。
そして、いつも他者を思いやる行動ができれば、と思うのです。
寛大な人は満たされる。
人を潤す者は自分も潤される。
(箴言11・25)
ミサで先唱したり、質問を受けたり、初めての方をご案内したり、といつもお役目をいただいています。
「ごくろうさま。いつもありがとう。」
今まで何度、いろいろな方にこう言ってもらったことか。
ちょっとした気遣いを行動に移したことで、人から感謝(=気遣い)の言葉をもらえると、心が潤されます。
人は、その口から出る言葉によって、善いものに満ち足りる。
また、人は、その手の働きによって、報いを受ける。
(箴言12・14)
年齢のせいか、ときおり自分でも意味不明なイラ立ちが湧き上がることがあります(・・;)
そういうとき、「今日これから出会う人全員に優しく丁寧に対応する」と決めて過ごすようにしてみます。
そうすると、不思議なくらい相手からも気持ちの良い態度が返ってくるのです。
これはお薦めのリフレッシュの方法です。
もし、キリストに結ばれていることによって、それがあなた方にとって励ましとなり、また、神に愛されていることが慰めとなり、あなた方に、霊による交わりがあり、人に対する思いやりの心があるなら、どうか、互いに同じ思いを抱き、同じ愛をもち、心を合わせ、思いを一つにして、わたしを喜びで満たしてください。
各々、自分のことだけでなく、他人のことにも目を向けなさい。
(フィリピ2・1~4)
飛行機から見る空が1番好きです。
心が洗われる思いがします。