行事風景
信じる者たち
あけましておめでとうございます。
元日のごミサでは、新成人の祝福がありました。
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小さい頃から知っている彼女が、こうして晴れやかな装いで二十歳のお祝いを迎えるなんて、宮﨑神父様だけでなくわたしたちみんな、感無量です。(涙)
そして、今年はどのような一年にしようか、と思いを巡らせながら主の公現のごミサに与りました。
ミラノ宣教会のフェルッチョ神父様も共に司式してくださり、新年から贅沢な時間となりました。
今年はどのようなことがあるでしょうか。
どのように過ごしましょう。
年末からずっと考えています。
この神秘は、福音がもたらされることによって、異邦人がキリスト・イエスに結ばれ、約束されたものの共同の相続者、一つの体にともに属する者、ともに約束にあずかる者となるということです。
わたしはこの福音のための奉仕者となりました。
神が、その力の働きかけによって、わたしに与えてくださった恵みとしての賜物に則してのことです。
(エフェソ3・6〜7)
宮﨑神父様が、お説教でこうおっしゃいました。
「自分が信仰を持っていることへの感謝を忘れないこと。
そして、それを次に伝える使命を持っていることも忘れてはなりません。」
教会に来なくなってしまった方たちのことを考えて、「信じる」と言うことは自分だけの問題なのか、と思いを巡らせています。
わたしたちは、それぞれにマルトゥリオン(証)を身に帯びています。
信仰の証、神秘を一度受けたことは、消えることはないはずです。
ある意味、異邦人であったわたしたちが、共に、一つの体、同じ約束にあずかる者となったのだ、と強く感じ、今年をスタートさせることができました。
今年も福音のための奉仕者として、神様が与えてくださったお恵みを日々見逃さずに生きようと決意を新たにしました。
人のちから
『対話型生成AI(人工知能)を使ってキリスト教プロテスタントの教義に身近に触れ、質問できる、「プロテスタント教理問答ボット(カテキズムボット)」を開発』というニュース(2025/12/19)がありました。
なんとも現代らしい取り組みです。
https://mainichi.jp/articles/20251218/k00/00m/040/095000c
聖書(イエス様)の教えについて神父様に質問したり、信徒仲間で分かち合って考える、このプロセスはとても大切なことだと思っています。
(こんなことを書いていいかどうか分かりませんが)カテキズムに書いてあることが誰にとっても正解である、とは思えません。
先日、友人と「洗礼を受けることになったきっかけと経緯」について語り合いましたが、成人洗礼の秘跡(聖霊の働き)は本当に人それぞれです。
聖書を読まなくても、自分の信仰体験を通じて感じることがなくても、試行錯誤して頭を使わなくとも、AIに質問すれば「答え」らしきものをすぐに教えてもらえる、というのはこのカテキズムボットに限ったことではありません。
わたしは、先日家のインターネットがつながらなくなり、chat GPTに質問して解決策を教えてもらいました。
友人は、今冷蔵庫にある食材をchat GPTに伝えて、今夜の食事のメニューを考えてもらっているそうです。
カトリックの信仰、教会に興味を持った人が、「どういう教えなのだろう?」とAIに聞いてから判断する、なんてことは避けたいものです。
ここにこうして記事を書くときは、聖書を開き、何日もかけて推敲していますが、近い将来、AIに聖書について質問して書いてもらうようになるのかもしれませんが。。。
「ウクライナ戦争、ガザ紛争によって、人類は自分で戦争を終わらせることはできないことがはっきり分かった気がします。」
「ガザの子供を殺すイスラエルが悪いと断定する人が圧倒的に多い。
私もそうですが、そう断定したからと言って問題が解決するわけではありません。」
来住神父様がnoteに書いておられました。
2026年になったら、この二つの戦争は終わりを迎えるでしょうか。
神様に祈り続けたら戦争が終わるわけではありません。
そして、来住神父様が書いておられる通り、わたしたち人間は自分たちが始めた戦争を終わらせることが出来ない、という恐ろしい現実を突きつけられています。
AIに、「どうしたらこの戦争を終わらせることができるのでしょうか」と聞いてみたい気もします。
今年の締めくくりに、来住神父様がnoteで紹介されていた本を読んでいます。
まだ途中ですが、改めて、自分の正論が他者の正論ではないことを痛感させられます。
「アリヤー」はヘブライ語で「上がること」という意味で、イスラエルへの移住を指す。
それはイスラエルの国是として掲げられてきた言葉でもある。
神が「約束の地」としてユダヤ人に与えたこの地に住み、守り続けることで「神聖な信託」を守ろうとする試みだ。
イスラエルにとどまり、働き、戦うことはすべてのユダヤ人の義務であるという世界観。
それは国家と国民の「契約」にも反映されると考える。
だがその「安住の地」イスラエルから、少なからぬユダヤ人が去り、新たな「離散」を重ねようとしている。
(「イスラエル人の世界観」大治 朋子著より)
イスラエルの歴史とこれまでの苦難が民族に与えてきた影響、それによって形作られている彼らのアイデンティティを理解することが出来る、良書です。
今年、やり残したことはありませんか?
心に引っかかったままのことはありませんか?
できることならば、新しい年が来る前に済ませておきたいと思います。
来る年も今年のようでありますように。
あなたの上に、平安がありますように。
あなたとあなたの家、あなたのすべてのものに平和がありますように。
(サムエル上25・6)
良いお年をお迎えください。✝️
主の御降誕おめでとうございます
24日の夜半の2回のミサは、どちらもお座りになれない方が多くいらしたほどの参列がありました。
わたしが特に心に残ったのは、1回目のミサでは、聖体拝領の信徒よりも司祭の祝福をいただくために並ばれた方の方が多かったような気がしたことでした。
「クリスマスには教会に行ってミサに与ってみよう」
そういう方が多かったのは、教会にとって素晴らしいお恵みだと思います。
教会の前の大通りは、地元の高校生がデザインしたイルミネーションで彩られています。
今年は、聖マリア学院大学に着任されたケン神父様もお越しくださいました。
青年会のメンバーがハンドベルの演奏を披露してくれました。
陽気なアメリカ人、ケン・スレイマン神父様です。
友人が「夜の教会を裏から見たステンドグラスが美しい」、と写真を送ってくれました。
今年一年のお恵みに感謝が沸き起こるクリスマスです。
皆様も、よい一日をお過ごしください。
賢く、素直に
素直じゃないなぁ、、、と思ってしまうこと、ありませんか?
そういうことに惑わされて、負の感情に陥ることなく自分の心を守るためには、善悪を見分ける賢さが必要です。
守るべきものすべてにも増してあなたの心を保て。
命はそこから来る。
(箴言4・23)
「ところで、あなたたちはどう思うか。ある人に息子が二人いたが、彼は兄のところへ行き、『子よ、今日、ぶどう園へ行って働きなさい』と言った。
兄は『いやです』と答えたが、後で考え直して出かけた。
弟のところへも行って、同じことを言うと、弟は『お父さん、承知しました』と答えたが、出かけなかった。
この二人のうち、どちらが父親の望みどおりにしたか。」彼らが「兄の方です」と言うと、イエスは言われた。
「はっきり言っておく。徴税人や娼婦たちの方が、あなたたちより先に神の国に入るだろう。
なぜなら、ヨハネが来て義の道を示したのに、あなたたちは彼を信ぜず、徴税人や娼婦たちは信じたからだ。
あなたたちはそれを見ても、後で考え直して彼を信じようとしなかった。」
(マタイ21・28~32)
イエス様は、誰にでもわかるように、日常生活を喩えにして教えられました。
このマタイにある喩え話も、現代のわたしたちにもとても納得できる、「よくあること」ではないでしょうか。
ひねくれた人、返事は良い人、周りにもいます。
同じように、素直だと思っていた人が、心の中では全く逆の感情を持っていることが分かることも。
ある信徒の方から相談を受けました。
終活として、家の中のものを整理されているようで、「長年、全力をかけて」集めてきた本をどこかに寄贈したいので、考えて欲しい、とのことでした。
おそらく、よく知らない方々からは、「偏屈な風変わりな頑固者」だと思われている方です。
見た目も結構アレですし、、、、。
わたしは、その方が洗礼を受ける前から共に聖書の勉強会に参加していて、洗礼を受けることになる流れなども色々と知っていますし、一緒にイスラエル巡礼にも行きました。
「嫌です」、と答えたなら絶対に行かないタイプの方です。
「離れて暮らす娘がカトリック教会に行っていると聞いたので、どういう教えなのかを自分で確かめたいから」、と教会に通うようになり、聖書を勉強したという素直な方です。
随分年上の方ですが、わたしは信徒友だちだと思っています。
以前、わたしがここに書いた記事の内容に反論するような意見を言ってきた方がいました。
わたしはとても落ち込み、素直に「そういう考えもあるのだ」とは受け止められずに、うじうじと悩みの日々を過ごしたことがあります。
その時、その素直な信徒友だちのおじさまにどう思うか意見を聞いて、いろいろとやり取りをして、思慮深くよく考えてアドバイスをくださったことを思い出します。
わたしが数年前に初めてミサの先唱をした時も、「きれいな声で司会をされていて驚きました。とても素敵で、聡明で、ミサが楽しいひと時でした」と素直な感想メールをくれました。
絶対そんな素敵なメールをくれるような風貌ではないので、この話をしたら皆さん驚いていました。
あなたがたは蛇のように賢く、鳩のように素直になりなさい。
(マタイ10・16)
「賢く」と訳されている語は、原文のギリシャ語では「分別のある、思慮深い、賢明な」などの意味をもつ言葉です。
「蛇のように賢い」ことと、「鳩のように素直である」こと。
どちらか一方だけではなく、その両方が必要なのだとイエス様が教えてくださいます。
わたしの日々の生活に欠かせないのは、音楽。
心の底から素直に喜びを感じることができます。
先日バチカンで教皇様主催で開催された、マイケル・ブーブレのコンサート。
美しい歌声を、教皇様も多くの信徒と共に楽しまれていました。
良い降誕祭をお迎えください。
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みこころレター第16号を発行しました。
事情があり教会に来ることのできない信徒、カトリックに関心をお持ちのお知り合いなどにもお渡しください。
目覚めのタイミング
降誕祭まで10日となりました。
心穏やかに過ごせる日々に感謝しています。
(最大の理由は、赦しの秘跡を受けたから!)
わたしは不毛の高原に大河を開き、
谷あいの野に泉を湧き出させる。
荒れ野を湖とし、乾いた地を水の源とする。
荒れ野に杉やアカシヤ、ミルトスやオリーブの木を植え、
荒れ地に糸杉、樅、つげの木を共に茂らせる。
彼らはこれを見て、悟り、互いに気づかせ、目覚めさせる。
主の御手がこれを成し遂げ、
イスラエルの聖なる神がこれを創造されたことを。
(イザヤ41・18~20)聖書協会共同訳
友人の言動に、ハッとさせられ、学びと気づきを得ることがあります。
先日、友人の担当する仕事でミスが分かり、落ち込んでいるだろうなと思って連絡をしました。
彼女からの返答は、
「とてもとても嬉しく、カトリック信者同志の絆を感じ、幸せな気持ちでいっぱいになります。
でも、それに慣れたくはないので、もうしばらくどっぷり落ち込んで、しっかり頭にたたき込まないと!ね。」
別の友人は、自分の子どものこと、実家の両親のこと、仕事のこと、いつもたくさんの悩み(問題)を抱えています。
頻繁に話しを聞くのですが、いつも全く落ち込む様子がなく、「とにかく何とかするわ!」と言うのです。
果たして、わたしが彼女たちの立場だったとして、こんな風に応えることができるだろうか、と考えさせられます。
この友人二人に共通して感じるのは、会って話すと元気をもらえる、ということです。
すべてにおいて神様からの気づきの機会だと捉え、与えられたお恵みに満ちた境遇を常に悟ることの大切さを、イザヤ書の言葉に感じました。
アッシジの聖フランシスコはこう言いました。
「悪魔が何より喜ぶのは、神の僕から心の平安を盗み取るときだ」
なにがあっても、不安や悩みに支配されることなく、神様への信頼と心の平安を自分の中に落ち着かせておけばよいのだ、と忘れかけていた大切なことを思い出しました。
先月、神父様にお時間を取っていただいて赦しの秘跡に与りました。
心の中の棘が取れ、それ以来ずっと穏やかな落ち着いた心で過ごしてきたのですが、今朝、仕事のことで心が騒ぐ(腹の立つ)ことがありました。
心の中で「だめだめ、悪魔を喜ばせてなるものか!」と、息を飲み込みました。
怒りや苛立ちが湧き上がる時が、目覚める絶好のタイミングです。
イエスは言われた。
「なぜ、取り乱しているのか。どうして、心に疑いを抱くのか」。
(ルカ24・38)
イエス様は、わたしたちみなの間、わたしたち一人ひとりの中におられ、いつもわたしたちのことを想ってくださっています。
先週ご紹介したブレナン・マニングの本、5月27日のページにはこうあります。
正しい人には闇の中にも光が昇る
恵みに満ち、憐れみ深く、正しい光が。
(詩編112・4)
主イエスの栄光は、主の弱さともろさ、一見すると失敗に見えることの中にあります。
失敗に見えることとは、私たち主の弟子に「私に付いて来なさい」と言ったことです。
主は私たちに、十字架を背負って主の後を追い、主の十字架の死を自らも体験することを求めます。
つまり、憐れみ深く生きることを命じているのです。
5月28日のページには、ハッとさせられました。
苦しむ人の日々はつらいもの
喜ばしい心は常に宴。
(箴言15・15)
「40歳を過ぎたら自分の顔に責任を持たねばならない。」
顔は、機嫌を写す鏡です。
40年も生きれば、感情を制し、穏やかな表情を保つことができるまでに成熟しているはずです。
私がこんなことを書いているのは、ある人に今朝「どうしてそんなに不機嫌なの?」と尋ねられたからです。
時々、携帯を触っていて、間違って自撮りモードになったときに見た自分の顔に驚くことがあります。
「心穏やかに過ごしている」と思っていても、表情が伴わなければ無意味ですね!
今年が終わるまでの後2週間あまり、穏やかな心と表情を保つようにしたいと決意を新たにしました。
前夜からの冷たい雨の後、澄んだ空気の中に、綺麗な虹に向かってミサに向かうことができた日曜日でした。