行事風景
危うい確信
Amazonプライムで配信が始まった映画「教皇選挙」を観ました。
この春に行われた実際のコンクラーベと相まって大ヒットしていましたので、ストーリーも結末も知っていたのですが、原作がゴシップ風のミステリー小説なので、実際のコンクラーベも枢機卿方もこうではないはず、、、というのがわたしの感想です。
菊池枢機卿が「現実とは違う」とブログに書いておられたのを思い出しました。
「ストーリーはちょっと荒唐無稽だなと思いますし、明らかに現実的ではないフィクションです」
https://bishopkikuchi.cocolog-nifty.com/diary/2025/05/post-7690d8.html
セットとして造られたバチカンの建物の迫力は圧巻でした。
それと、主演のレイフ・ファインズが演じる首席枢機卿が素晴らしく、演技だけでなく、役柄に秘められた落ち着きと責任感には救われました。
とても心に迫ったセリフがあります。
わたしは長年、教会にお支えしてきて、何より恐れるようになった罪が一つあります。
それは「確信」です。
「確信」は一致を拒む敵であり、寛容の大敵でもあります。
キリストさえ、最期には確信を持てず、十字架の上で叫びました。
信仰は生き物です。
疑念と手を取り合い、歩むものです。
もし「確信」だけで疑念を抱かねば、不可解なことは消え、信仰は必要なくなります。
あまりにも的を突いていて、忘れたくない、と書き留めました。
聖書の中で大好きな箇所(ヘブライ11・1)を思い返してみます。
信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。
(新共同訳)
信仰は、希望していることを保証し、見えないものを確信させるものです。
(フランシスコ会訳)
信仰とは、望んでいる事柄の実質であって、見えないものを確証するものです。
(聖書協会共同訳)
いつも思うのですが、この3種類の訳は微妙にニュアンスが違っています。
映画のセリフに1番ピッタリ当てはまりそうなのは、聖書協会共同訳のような気がします。
自分の信仰の弱さに落ち込み、告解したことを繰り返し、自分の望み(この世を旅する間は神様にいつも導かれてよりよく生きる)が叶えられると信じて祈り続ける。
望みは叶うとわかっていても、確信が持てずに祈り続ける。
これが、信仰なのではないでしょうか。
宗教学者の故・藤田富雄さんは、「信仰」の解説を次のように書いておられます。
信仰とは、自分にとって究極的な価値や意味をもっている対象と全人格的な関係を持ち、その対象に無条件に依存し献身する心的態度を言う。
経験できぬ不確実なものを主観的に確実であると思い込むことではない。
宗教的体験や儀礼を繰り返すことによって、しだいに人格の内部に一定の心的態度が信仰として形成される。
いわゆる無神論者とか、無宗教者と言われる人の中には、どのような宗教であれ、神を信じる人のことを「思い込み」だと決めつけている節があります。
無神論とは、神の存在を否定する立場で、つまりは神を意識しているのかも。
無宗教とは、神という問題に無関心な立場で、それでも儀式(葬儀、初詣など)はおざなりにしない人が多い。
映画「教皇選挙」では、数名の教皇候補と目される枢機卿たちの駆け引きが描かれています。
そこには、神様の存在も信仰も、別の次元に追いやられているかのようです。
まるで、信仰を持たない者がトップの座に就くことを最終目的としているような、水面下での権力闘争。
そして、そう描いた小説がヒットし、映画が世界的に評価されたということが何を意味しているのか。
つまり、その姿(高貴な聖職者でもやはり人間的野心に冒される)が多くの人の興味を掻き立てられる題材なのです。
興味深かったのは、主役の首席枢機卿が信仰の迷いを露わにしていたことでした。
冒頭に紹介したセリフにあるように、自分の信仰心に疑念を抱き続けている彼は、絶対に自分は教皇にはふさわしくないと言い続けますが、それでも、次々と候補者たちが脱落し、最後には自分に投票するのでした。
人間のもろさ、信仰の危うさという面を描いている点では、(偉そうな言い方ですが)この映画を評価することはできます。
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↓ とても客観的な映画評論ですので、ご参考になさってください。
https://hollywoodreporter.jp/movies/108792/
神様との約束
パレスチナ自治区ヨルダン川西岸にイスラエルが建設してきた入植地。
ガザでの戦闘が始まって以降、ユダヤ人入植者によるパレスチナ人への暴力が増え、イスラエル政府はさらに入植者住宅を建設すると発表しています。
先週は、ヨルダン川西岸にあるキリスト教徒の村で、イスラエルの入植者によって襲撃があったとの報道がありました。
テレビでも、入植者の一人が「わたしたちが神から約束された土地なのですから」、と発言していました。
「入植地」とは、パレスチナ人から奪った土地に造成されたユダヤ人専用住宅地のことです。
西岸での入植地建設は国際法上、一般的に違法とされているものの、イスラエルはこれに反論し続けており、入植地はイスラエルとパレスチナの間で特に激しい争点となっている問題の一つです。
(BBCニュースの記事より抜粋)
https://www.bbc.com/japanese/articles/clyvzkqwpgjo
2019年にイスラエルに巡礼に行った時の写真です。
ここは入植地ではありませんが、このようにイスラエルの土地では、いたるところで植林が進められていました。
誰も住んでいない土地でも、岩場に水道のパイプが張り巡らされ、土地の緑化が進められています。
聖書には確かに、神様がイスラエルの人々を「誰よりも小さい民族だから」選ばれたのだと書かれています。
「乳と蜜の流れる土地」への旅を通して、神様が人々に慈愛の心を示されたエピソードは、旧約の中でも美しく、わたしたちがいつも神様の愛に守られていることを想起させてくれます。
あなたは、あなたの神、主の聖なる民である。
あなたの神、主は地上のすべての民の中からあなたを選んで、ご自分の宝の民とされた。
主があなたたちに愛情を傾けて、あなたたちを選ばれたのは、あなたたちがほかのどの民よりも数が多かったからではない。
事実、あなたたちはすべての民の中で最も数の少ない民であった。
しかし、主はあなたたちを愛し、また先祖に立てた誓いを守られたので、主は強いその手であなたたちを導き出し、奴隷の家から、エジプトの王ファラオの手からあなたを贖われた。
(申命記7・6~8)
イスラエルの地を神様がユダヤ民族だけに与えられた、というのは間違っていると断言できるでしょうか。
あるいは、その通りだ、と断言できるでしょうか。
トランプ大統領、プーチン大統領の言動を見ていて、「嘘つきだ」「信じられない」と思うのですが、当の本人たちは、自分は間違っていないという強い確信と信念があるようです。
創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記はモーセ5書といい、ここに書かれた教えをユダヤ教徒は大切に守っています。
イスラエルの人々(全員ではないでしょうが)、特に熱心なユダヤ教徒は、聖書に書かれているのだから、この土地は神様が自分たちに約束されたものなのだ、と信じて疑わないのです。
それ故、あなたの神、主こそが神であることを知りなさい。
主は誠実な神であって、主を愛し、その命令を守るものには、契約を守り、慈しみを千代にまで施されるが、主を憎む者それぞれに報いて滅ぼされる。
主を憎む者それぞれに猶予なく報復される。
(申命記7・9~10)
続きには、このように書かれています。
フランシスコ会訳では「主を憎む者」となっている言葉は、共同訳では「御自分を否む者」です。
このことばが何を言わんとしているのか。
ガザでのジェノサイドも、一方的な(暴力を伴う)入植地開発も、人道上は許されるものではありませんが、神様との約束を妄信的に信じる人々には、こちら側の正論を押し付けても通じ合うことは無理なのでしょうか。
人道に反することこそが、神様を否むことではないでしょうか。
神様がわたしたちに約束されたのは、世の終わりまでいつもわたしたちとともにいてくださる(マタイ28・20)、ということです。
これは、キリスト教徒だけの教えではないと思います。
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ここにきて、「パレスチナを国家として承認する意向がある」と表明する動きが出ています。
フランス、イギリス、カナダの表明に続き、他に数か国も追随するようです。
これまでの歴史と複雑な国際情勢の故、とはいえ、民族の尊厳を守り独立を決めるのが軍事力を持った西欧諸国という現実を、どう受け止めればよいのでしょうか。
8/6~15は日本カトリック平和旬間となっています。
わたしたちにとって戦後80年、ではありますが、世界では戦争は終わっていません。
教皇様の8月の意向は、「共存のために」です。
この祈りのことばが本当に素晴らしく、毎日全世界で唱えることができれば、と心から願います。
+基本の祈り
「共存することがより困難に見える社会が、民族的、政治的、宗教的、またイデオロギー的な理由による対立の誘惑に負けませんように。」
+黙想のための祈り
イエスよ、わたしたちの歴史の主よ、誠実な友、生ける現存よ、疲れを知らずわたしたちに会いに来られる方、あなたの平和を必要とするわたしたちがここにいます。
わたしたちは恐れと分裂の時代に生きています。
まるで自分たちしかいないかのように振る舞い、互いを隔てる壁を築き、自分たちが兄弟姉妹であることを忘れています。
主よ、あなたの霊を遣わしてください。
互いに理解し合い、耳を傾け合い、尊敬と思いやりをもって共に生きる望みをわたしたちの中に再び燃え立たせるために。
対話の道を模索する勇気をお与えください。
対立に兄弟愛の態度で答え、違いを恐れることなく他者に心を開く勇気をお与えください。
わたしたちを橋を架ける者としてください。
国境やイデオロギーを乗り越え、心の目で他者を見つめ、一人ひとりの中に侵すことのできない尊厳を認められるようにしてください。
希望が花開くことができる場所、多様性が脅威ではなく、わたしたちをより人間らしくする豊かさとなる場所を創造できるようにお助けください。
アーメン。
祈りの時間
NYと横浜から帰省している妹たち家族と過ごしていました。
思い出深い夏になりましたが、、、聖書を開く時間も余裕もありませんでした。
それでも、寝る前に今日1日の感謝と、家族のことを導いてくださっていることへの感謝の祈りだけは欠かさないように努めています。
普段は、静かな落ち着いた生活ができているので、神様と天国の母に話しかけたり聖書を開いたり、日常のちょっとした隙間に、そうした時間を持てるのですが、今改めて、子どもの面倒を見ているお母さんたちの気持ちがよくわかります。
久しぶりにごミサに与りました。
贅沢にも、妹・姪たちと毎日遊び疲れて、どうしてもリフレッシュのため、心と身体を落ち着かせるために教会に行って、ミサだけでなく、信徒仲間たちと会って話したかったのです。
今までなぜか気づかなかったのですが、ガラス越しに見える青々と茂った緑の木々さえも、今日は美しく感じることができました。
「日曜日のミサに子どもを連れた親の姿が少ない」
そういう声は、どの教会でも聞かれることかと思います。
特に、夏休みの子どもたちは忙しい!、ということを実感しています。
一度も姪たちを教会に連れて行けませんでした。
今回の国政選挙の結果を見ていて、感じたことがあります。
人々は「わかりやすさ」を求めているようです。
カトリックの教えは、信仰を持たない人にとっては難しく、ハードルの高いものに感じられている気がします。
ですが、この夏の日々の中で痛切に実感しました。
わたしたちキリスト者の信仰は、シンプルに「祈り」に集約されるのではないでしょうか。
わたしたちには、「祈りの時間」が必要です。
今日のごミサでは、宮﨑神父様が「祈りの時間」の大切さについてお話になりました。
洗礼を受けただけの人、普段教会に来ない人、日常の中で祈らない人、そういう人(わたしの妹)のためにも祈りを続けなければと決意を新たにしました。
神父様は、祈りは霊的呼吸だ、とおっしゃいました。
神を信じる者の信仰生活は、祈りによって支えられていることを忘れてはならない、と。
いつもは、ミサ前には入り口に立って皆さんをお迎えし、色々とお声がけするのですが、今日はしばらくじっと座って祈り、ロザリオを唱えていました。
それだけで、心の中のスポンジに水が染み渡る気持ちでした。
さて、イエスはある所で祈っておられた。
祈りが終わると、弟子の1人がイエスに言った、「主よ、ヨハネも弟子たちに教えたようにわたしたちに祈りを教えてください」。
そこで、イエスは仰せになった、「祈る時には、こう言いなさい。
『父よ、み名が聖とされますように。
み国が来ますように。
わたしたちの日ごとの糧を、日ごとにお与えください。
わたしたちの罪をお赦しください。
わたしたちに負い目のある人をみな、わたしたちも赦します。
わたしたちを誘惑に遭わせないでください』」。
(ルカ11・1〜4)
主の祈りも、ルカのこの言い回しが心に染み透ります。
祈る=神様と天国のみなさんに語りかける、感謝の気持ちを伝える、家族を導いてくださるよう願う、、、そうした時間を毎日、何度も持つことが、どれほど自分にとって必要なひと時かを改めて実感する夏になりました。
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日本カトリック司教協議会が推薦する映画「長崎〜閃光の影で」が8/1から全国で公開されます。
久留米では、Tジョイでご覧になれます。
思いやりの行動
トップページの画像を替えました。
少しでも涼しい気持ちになってもらえたら。
ディスレクシア(読字障害)という障害があります。
これは、知的能力や一般的な理解能力などに特に異常がないにもかかわらず、文字の読み書きに著しい困難を抱えるもので、学習障害の要因となることがあります。
トム・クルーズ、ジェニファー・アニストン、キアヌ・リーヴス、など、有名な俳優さんたちもこの障害を持つと告白している人が多くいます。
数々の大作を世に生み出してきたスティーブン・スピルバーグ監督は、60歳のころにディスレクシアと診断されたそうです。
文字が読めず授業についていけないため、小学校を2年遅れで卒業。
いじめを受け、「地獄のような幼少期」だったそうです。
今でも、脚本を読むのに人の2倍の時間がかかるそうです。
ブラッド・ピットは、相貌失認(そうぼうしつにん)や失顔症と呼ばれる、他人の顔が識別できない病気だそうです。
実際は会った人を覚えていたいのに、覚えられないことを恥ずかしく思っている、何度も会った人を認識できないので失礼な奴だと思われている、とインタビューで語っていました。
ディスレクシアや失顔症、いわゆる学習障害と言われる障害は、他者からは分からないものです。
社会生活に困難を感じるのは、身体に不自由があるからだけではないのです。
お前の友を虐げてはならない。
耳の聞こえない人を呪ってはならない。
目の見えない人の前につまずきとなる物を置いてはならない。
(レビ記19・13〜14)
忘れられない思い出があります。
昔、NYの地下鉄に乗って座っていたときに、見るからに身体が不自由そうな人が乗ってきました。
わたしはとっさに「ここに座ってください」とその人に席を譲ったのですが、わたしの動く様子から足が不自由だとわかったのか、離れたところに座っていた2人の人(別々のところに座っていた、どちらも若い人)が「わたしの席に座って!」と駆け寄ってきてくれたのです。
東京で電車に乗っていても、座っている人はとても疲れた様子で眠っているか、携帯を必死に見ていて気付いてもらえないかで、席を譲ってもらった経験はほとんどありません。
逆に、年配の女性から「若いんだから、座らないで席を譲って!」と怒られたことはあります。(笑)
外見でわかるかどうかに関わらず、ちょっとした気遣いが人の役に立つことを心に留めておきたいものです。
そして、いつも他者を思いやる行動ができれば、と思うのです。
寛大な人は満たされる。
人を潤す者は自分も潤される。
(箴言11・25)
ミサで先唱したり、質問を受けたり、初めての方をご案内したり、といつもお役目をいただいています。
「ごくろうさま。いつもありがとう。」
今まで何度、いろいろな方にこう言ってもらったことか。
ちょっとした気遣いを行動に移したことで、人から感謝(=気遣い)の言葉をもらえると、心が潤されます。
人は、その口から出る言葉によって、善いものに満ち足りる。
また、人は、その手の働きによって、報いを受ける。
(箴言12・14)
年齢のせいか、ときおり自分でも意味不明なイラ立ちが湧き上がることがあります(・・;)
そういうとき、「今日これから出会う人全員に優しく丁寧に対応する」と決めて過ごすようにしてみます。
そうすると、不思議なくらい相手からも気持ちの良い態度が返ってくるのです。
これはお薦めのリフレッシュの方法です。
もし、キリストに結ばれていることによって、それがあなた方にとって励ましとなり、また、神に愛されていることが慰めとなり、あなた方に、霊による交わりがあり、人に対する思いやりの心があるなら、どうか、互いに同じ思いを抱き、同じ愛をもち、心を合わせ、思いを一つにして、わたしを喜びで満たしてください。
各々、自分のことだけでなく、他人のことにも目を向けなさい。
(フィリピ2・1~4)
飛行機から見る空が1番好きです。
心が洗われる思いがします。
女性の生き方
早くも夏真っ盛りです。
夏の暑さは嫌いではありません。空が本当に綺麗ですから!
映画鑑賞も趣味のひとつで、これまでの人生でトップ3の映画のうちのひとつが「モナリザ・スマイル」(2003)です。
1953年、アメリカでもっとも保守的と言われる名門女子大で、ジュリア・ロバーツ演じる新任の教師は彼女たちに自立心を育てる教育をしようと奮闘します。
ですが、もともとエリートとの結婚が幸せだと信じて疑わない生徒たちは、その方針に反発します。
『Mrs.Degree』(ミセス学位)という言葉を聞いたことはありますか?
Mrs. Degreeとは、1950年代前後のアメリカ社会で、勉強やキャリアのためではなく結婚相手を探すために大学へ進学したとされる女性たちを揶揄する言葉です。
これは死語ではなく、超保守の男性にとっては、いまだに存在している概念なのです。
イエス様の時代、女性は数に数えられることもないほどの扱いでした。
それにも関わらず、マリア様は知的な女性として認識されていると思いませんか?
受胎告知の絵画では、ルネサンス期には聖書を手にする(読んでいる)マリア様の姿が好んで描かれました。
ロベール・カンパン《メロード祭壇画》
この絵の解説で、こう書いてあるものを見つけました。
「マリアが読むのを止めたテーブルの上の本が旧約の世界を象徴し、現在読んでいる本が新約の世界を表す」
「救世主イエス・キリストの誕生を告げる受胎告知の場面において、マリアはそれまで読んでいた旧約聖書から新約聖書に目を移し、旧約聖書の教えを表す机上の蝋燭はたった今役割を終え、今度は新たに恩寵の教えを表す蝋燭に火が灯されることを暗示している」
4世紀のミラノの司教アンブロジウスは、「マリアは身体だけではなく精神においても純潔である。心は謙虚であり、話すときには厳粛で、慎重さを備え、言葉を慎み、最も熱心に読書に励んだ」とお説教で語ったとされています。
マリア様が聖書を手にする絵画が描かれるようになった背景には、12世紀ルネサンスとマリア崇拝の発展、女性の宗教生活の拡大、書き言葉がラテン語から自国語へと移り変わっていく動きと並行した識字率の向上など、が原因として挙げられるそうです。
民衆のマリア信仰の高まりが、マリア様を人々の信仰生活の模範とみなす伝統と連動し、それによってマリア様が知性においても優れていたことが強調されるようになった、ということです。
こうした絵画を目にしたことがあったから「マリア様は知的な女性だった」と思っているのでしょうか。
そうではない、気がしています。
福音書には、マリア様の暮らしや立ち居振る舞い、発言などはほとんど記されていません。
それでも、カトリックにおけるマリア信仰(崇拝ではなく、崇敬)には、確固たるものがあります。
羊飼いたちは、この幼子について告げられたことを、人々に知らせた。
羊飼いたちが語ったことを聞いた人々はみな不思議に思った。
しかし、マリアはこれらのことをことごとく心に留め、思い巡らしていた。
(ルカ2・17~19)
わたしはこの箇所が大好きです。
マリア様が知的で素敵な女性だったのだろう、とわたしが意識しているのはこの箇所からです。
フランシスコ会訳聖書のルカによる福音書の解説には、このように書かれています。
本福音書では女性が大きな比重を占めている。
冒頭の1~2章ではマリアとエリザベトに中心的な役割が与えられているが、同じ姿勢が福音書全体に一貫している。
こうした女性への視点は、ルカの強調する普遍的な救いが民族的な相違のみならず、男女の性差をも克服するものであることを示している。
女性の生き方など関心の対象ではなかったであろう旧約の時代でも、聖書に登場する女性はみな個性的で知的だと思いませんか?
7/6は母の命日でした。
母は、わたしたち3姉妹の教育にとても熱心でした。
娘たちがそれぞれの能力を生かして活躍することを願って、いつも後押ししてくれました。
美人で、誰からも好かれ、与えられた役割に誠実に向き合い、病弱でしたが常に明るい人でした。
わたしにとって、亡き母はいまの人生の指針でもあります。
我が家のマリア様、だったと感じています。
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「モナリザ・スマイル」で生徒役を演じる若手俳優たちは、全員が今ではトップ俳優です。
とても素晴らしい映画なので、おススメです!
:参考:
https://catholic-nishichiba.com/priest-preaching/1397/
https://www.cbcj.catholic.jp/faq/maria/