カテゴリ:復活節
必要な助け
雨の季節が始まったような日も多くなってきました。
大相撲、今場所もかなり盛り上がり、毎日楽しませもらいました。
押し出しなどで力士が二人とも土俵から落ちた時、どちらかの力士が相手のことを気遣って手を差し伸べることがあります。
そこまで押さなくても、というくらい突き飛ばし、勝ち誇って興奮した様子の力士もいる中で、手を貸そうとする様子を見るととても嬉しくなります。
わたしは足が不自由なので、得することが多くあります。
どなたもすぐにわたしのことを覚えてくださる、どこでもどなたかが席を譲って座らせてくださる、など本当にたくさんあります。
旅行する際も、空港の方に駐車場まで車いすで迎えに来てもらい、搭乗口までスムースに移動でき、いつもとても助かっています。
助けが必要そうな人を見かけたら、躊躇しますか?
すぐに動くことはできますか?
自分が人の助けを必要としているとき、素直にそう伝えていますか?
わたしは自分がいつも周囲から助けられていることを実感していますので、そういうサインをかなり敏感に感じ取ることがあります。
その日、ある人々がユダヤから下って来て、「モーセの慣習に従って割礼を受けなければ、あなたがたは救われない」と兄弟たちに教えていた。
それで、パウロやバルナバとその人たちとの間に、激しい意見の対立と論争が生じた。
ファリサイ派から信者になった人が数名立って、「異邦人にも割礼を受けさせて、モーセの律法を守るように命じるべきだ」と言った。
そこで、使徒たちと長老たちは、この問題について協議するために集まった。
議論を重ねた後、ペトロが立って使徒たちと長老たちに言った。
「兄弟たち、ご存じのとおり、ずっと以前に、神はあなたがたの間でわたしをお選びになりました。
それは、異邦人が、わたしの口から福音の言葉を聞いて信じるようになるためです。
人の心をお見通しになる神は、わたしたちに与えてくださったように異邦人にも聖霊を与えて、彼らをも受け入れられたことを証明なさったのです」。
(使徒15・1~8抜粋)
先週の朗読箇所のこの部分を読んでいて、「救い」とは「必要な時に与えられる助け」のことだ、と感じたのです。
割礼を受けて、律法を守った生活をしたうえでなければ信者として認められない、ということが議論されたと書かれています。
洗礼を受けていなければ救われないのか、という質問を受けることがあります。
そうではありません。
救いは、救われたと「信じる」から与えられたことが分かるものです。
神様が自分の祈りを聞き入れてくださったのだ、と素直に自然に受け入れることができる、それが信仰なのだと思っています。
救いは魔法のようにではなく、恵みと信仰が互いに織り成す神秘から来ます。
神が先に愛してくださることへのわたしたちの信頼と自由意志からの従順によっているのです。
教皇レオ14世 5/21のX(旧Twitter)
わたしが言いたいことを、偶然にもパパ様がXで明確にお伝えくださっているのを見つけました!!
神はわたしたちを救い、また聖なる招きをもって招いてくださいましたが、これは、わたしたちの業によるのではなく、神ご自身の計画とその恵みによるものです。
この恵みは、キリスト・イエスに結ばれているわたしたちに、永遠の昔から与えられ、今、私たちの救い主キリスト・イエスの現れによって明らかにされたものです。
わたしは信じてきた方をよく知っており、また、その方は、わたしに委ねたものを、「かの日」まで守ってくださる力があると確信しているからです。
(2テモテ1・9〜10、12)
必要な時に必要な助けの手が差し伸べられる、という神様への従順な信頼、それが信仰の恵みであることを忘れないようにしましょう。
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万博に行った友人がリアルタイムで写真を送ってくれ、わたしも一緒に観ているように感じることができました。
1602~1604年制作のカラヴァッジョ「キリストの埋葬」
16世紀にミケランジェロが手掛けた石像「キリストの復活」
この2つが今回の万博で共に展示されていることに、深い意味を想います。