久留米教会の歴史は、毛利秀包(ひでかね)が久留米領主時代(1587年~1600年)であった時に始まる。
秀包は黒田如水の仲介もあり、また大友宗麟の七女マセンチア引地を妻とし、彼らの勧めによって洗礼を受ける。
秀包は宣教師を保護し、信者のために城のそばに教会堂を建立する(イエズス会年報1600年)
復元模型. キリシタン瓦葺きの教会 ※久留米市役所2階ロビーに展示 |
久留米史文化財報告書(1996年)によると、現市役所の基礎工事の際、出土した遺構から十字架を持つキリシタン瓦が発見され、その鬼板瓦が毛利家の家紋に類似していることから、この建物は秀包が建造した教会だと考えられている。
秀包の庇護により、久留米地方のキリシタンは当時7000人に達していたと言われる。
しかし、関ヶ原の戦いにおいて、石田三成率いる西軍についた秀包は城を追われることになる。
やがて、徳川幕府による全国的キリシタン禁制により、迫害、潜伏の時代を迎える。
1865年、献堂されたばかりの大浦の教会に数名の浦上の信徒が現れ、「サンタマリアさまのご像はどこ?」とプチジャン神父に尋ねた。この信徒発見の出来事から13年後の1878年、同神父の命によりミカエル・ソーレ神父が久留米に赴任し、宣教を開始する。
ミカエル・ソーレ神父 | グスターブ・ロー神父 |
久留米における再宣教の始まりである。久留米教会は1978年に盛大に再宣教開始を祝っている。
ソーレ神父の後を継いだグスターブ・ロー神父は、日吉町(現駐車場)に時計台付きの赤煉瓦の教会を建立し、1921年に献堂された。この教会は、1945年 8月11日、米軍の空襲により焼失した。
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ロー神父が建立した教会 | 当時の天主堂の石 |
戦後1948年、久留米に赴任した棚町正刀神父は、新しい教会建築の必要性を痛感し、資金集めのために奔走し、ついに1955年5月15日、深堀仙衛門司教によって現聖堂の献堂式が盛大に執り行われた。
戦後、六ツ門に建設中の教会 | 当時のステンドグラス(1955年) |
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現教会の献堂式 |
また、教会敷地内には、幼きイエズス会が経営する聖心幼稚園があったが、62年には、御井町に移り信愛女学院付属の幼稚園となる。
青木保神父は移転した後の園舎を聖母幼稚園として続けた。レウツル神父時代に開園した(1937年)聖母幼稚園は、80年近くにわたって数多くの園児を送り出している。
現在の聖母幼稚園 |
1969年、牧山藤房神父の後を継いで主任司祭となった三村邦明神父は、第2ヴァチカン公会議の精神にのっとり、教会の共同体的性格を導入し、信徒に「自分たちが教会である」という姿勢を育てる。
1970年には納骨堂を完成させ、1975年には教会の内外装を終えて、平田司教のもと完成式が行われた。
聖堂内に作られた納骨堂 |
1978年牧山勝美神父は、一年がかりで宣教開始100周年記念行事を準備した。
全信徒の集い、グループ活動や信心会の充実に努め「旅する久留米教会」と題する宣教開始100周年記念誌を発行した。
11月3日には、平田三郎司教の司式により記念ミサが捧げられた。
宣教再会の100周年記念誌「旅する久留米教会」 | 100周年記念ミサ |
その後、山田正章神父の時代に聖堂は再び改修され(1994年)、ステンドグラスも取り換えられて、現在にいたっている。
改修前のステンドグラス | 現在のステンドグラス(1994年~) |
【カトリック久留米教会の主な出来事】
年月日 | 事項 |
1586年 |
妻 引地(霊名:マセンシア)のすすめにより、黒田如水(霊名:シメオ)の仲介により 久留米領主であった毛利秀包(ひでかね)(霊名:シメオン)洗礼を受ける |
1600年~ |
久留米では700人の信徒が一人の神父様から洗礼を受ける。 |
年月日 | 事項 | 神父様 |
1878年 | 仮教会を櫛原町一丁目に定め、宣教と司牧に従事 | 初代ミカエル・ソーレ神父様 |
1881年8月2日 | 木造教会を竣工 | |
1887年11月20日 | 信者数増加に伴い拡張工事後、完成式 | |
1889年9月 | 仮教会は新町(現日吉町駐車場)へ。 その後、現教会の土地を購入。 この土地に『斯道院(しどういん)』という診療所を設立。 |
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1917年 |
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1918年 | 日吉町に時計塔付きの赤煉瓦の教会を建設 | 第2代グスターブス・ロー神父様 |
1929年 | 第3代ヨゼフ・ルイ・フレスノン神父様 | |
1930年9月 | 幼きイエズス修道会を招へいし、『斯道院』を修道院として使用。 幼きイエズス修道会が日吉町(現駐車場)の建物を利用し、幼稚園を開始。 |
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1931年 | 修道院の横に幼稚園(のちの聖心幼稚園)を新築。 | |
1936年 | 第4代フランソワ・レウツル神父様 | |
1937年9月20日 (正式の開所式は10月3日) |
戦時託児所(聖母託児所)を始める。 第3代目園長シスター川上の時、幼稚園に昇格し、現在の久留米聖母幼稚園に |
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1938年 | ||
1945年8月11日 |
戦争末期、外国から来た神父様方は時の政府により熊本県の収容所に集められ、軟禁状態にされ、教会は二カ月くらい放置。 |
第5代ジャン・ムルグ神父様 |
1945年12月23日 | 蛍川に仮教会完成 | 第6代アンジェロ・ベルナルディ神父様 |
1946年8月 | 戦災孤児を集め、世話と指導を。この施設は聖母園と呼ばれ、後に天使園と改名 | |
1946年9月 | 幼きイエズス修道会の修道女と共に、老人ホーム(久留米聖母園と呼ばれる)を始める。 | |
1948年 | 第7代ジャン・ムルグ神父様 | |
1949年 | フランシスコ・ザビエルの来日400年を記念し、 聖体を奉持し蛍川から明治通りを行列する聖体行列が挙行 |
第8代棚町正刀神父様 |
1955年5月15日 | 現在の六ツ門町に教会の献堂式 | |
1958年 | ||
1962年3月31日 | 教会敷地内の聖心幼稚園は御井町に移り、信愛女学院の付属幼稚園に | 第9代青木保神父様 |
青木神父様赴任期間中(1958年~1964年)に教会正門の建立 | ||
1964年 | 第10代牧山藤房神父様 | |
1966年4月1日 | 久留米聖母園は今村教会に移され、現在は社会福祉法人今村聖母園に | |
1969年 | ||
1970年5月 | 納骨堂完成 | 第11代三村邦明神父様 |
1975年11月16日 | 献堂20周年にあたり、未完成部分を含め教会の内外装の工事竣工 | |
1977年3月31日 | 二つに分かれていた園舎を教会横(現聖母幼稚園)に統合建築 | |
1978年 | 宣教開始100周年記念行事 | |
1986年 | 第12代山田成章神父様 | |
1992年 | 第13代平田敬神父様 | |
1998年5月5日 | 聖堂大改修 司祭館・信徒会館新築 落成記念 | |
1999年 | 第14代三村邦明神父様 | |
2004年 | 第15代浦川務神父様 | |
2014年 | 第16代森山信三神父様 | |
2017年 | 第17代宮崎保司神父 |
私たち久留米教会の教会旗および祭壇には流れ出る御血を飲むひな鳥の絵が描かれています。
聖トマス・アクィナスは聖体への讃歌Adoro te devote の中において「いつくしみ深いペリカン、主イエスよ、汚れた私をあなたの御血で清めてください」という祈りの歌詞を用いています。中世においてペリカンは自分の血でひなを養うと思われていたので、自己犠牲の、ひいてはいつくしみ深いキリスト御自身の象徴とされてきました。
久留米教会は「至聖なるイエスのみこころ」に奉げられた教会です。キリスト・イエスのいつくしみに生かされる日々を感謝し、わたしたちもイエス様にならって愛の実践を行えるよう主に祈りましょう。
みこころレター カトリック久留米教会誌 創刊号
教会を識ろう! (教会旗について)より