「わたし」の祈り
WBC(野球)は日本が準々決勝で敗退してしまったため、国内は最後は微妙な盛り上がりになりましたが、決勝はなかなり白熱した試合でした。
ベネズエラvsアメリカで、しかもベネズエラが優勝しました。
記憶に新しい、1月初旬、米軍の作戦によりベネズエラのマドゥロ大統領が首都カラカスで拘束され、米国へ移送された事件がありました。
国際法の原則では「力による現状変更は許されない」とされていますが、今の世界には国際法など通用しないカオスが広がっています。
スポーツというある種フェアな場で、ベネズエラがスター軍団のアメリカを下したことに、なにか象徴的な意味を感じたのは「わたし」だけでしょうか。
あるいは、世界中の「みんな」がそう感じているでしょうか。
現代社会は、「わたしはこう思います」と声の大きい人が世界に発信することが簡単にできるようになりました。
一方で、まるで「みんな」がそう考えているのだ、大多数がその意見なのだ、と簡単に誤解されるようにもなりました。
そのとき、イエスはユダヤ人たちにお答えになった。
「わたしの父は今もなお働いておられる。だから、わたしもまた働く。
よくよくあなた方に言っておく。子は、父のなさることを見なければ、自分からは何事もできない。
父がなさることは何でも、子もまた同じようにする。
わたしの裁きは正しい。
わたしは自分の意志ではなく、わたしをお遣わしになった方のみ旨を果たそうとするからである」。
(ヨハネ5・17,19,30)
わたしの教えは、わたしのものではなく、わたしをお遣わしになった方のものである。
その方のみ旨を行おうとする人なら、わたしの教えが神からのものか、それとも、わたしが自分勝手に話しているのか、分かるであろう。
自分勝手に話す者は自分の栄誉を求める。
しかし、自分をお遣わしになった方の栄誉を求める者は、真実な人であり、その人には不義がない。
(ヨハネ7・16〜18)
「わたし」という言い方は、神ご自身のことば、イエス様のことばの中に多くみられます。
とても力強く、神様の確固たる思いが伝わってきます。
ミサの祈りでは、「わたしたちの祈りを聞き入れてください」とみなで一緒に唱えます。
ミサでは「わたし」も「みんな」も、心からそれを願っていると感じることができます。
「わたし」の祈りが世界中の信徒と繋がっている、そう思えることに幸せと喜びを感じます。
わたしは自分の罪をあなたに告げ、罪咎を隠しませんでした。
わたしは言いました、「いと高き方よ、ありのままに申します、主よ、わたしの咎を」。
その時、あなたはわたしの罪の咎を赦してくださいました。
それ故、あなたに忠実な者はみな祈ります。
正しい者よ、主の故に喜び踊れ。
すべて心のまっすぐな者よ、喜び歌え。
(詩篇32・5〜7)
あなたを信じる者(わたし)の祈りを聞き入れてください。
わたしは、わたしを尋ね求めなかったものにわたしを追い求めさせた。
わたしは、わたしを捜さなかった者に、わたしを見出させた。
わたしは、わたしの名を呼ばなかった国に向かって、
『わたしはここにいる、わたしはここにいる』、と言った。
(イザヤ65・1)
「わたし」はいつも、あなたを追い求め、見出し、時に見失って不安に陥ってはまた、捜し求めています。
「父よ、わたしの願いを聞いてくださったことを感謝します。
あなたがいつもわたしの願いを聞いてくださることを、わたしは知っておりました」。
(ヨハネ11・41〜42)
イエス様の信仰に倣い、わたしたちもこのようにいつも心を強く生きましょう。
+++++++
よく、何かを話題にする人が「みんなそう言ってるよ!」と言うのを耳にします。
そう言う時の「みんな」は、たいてい少数でしょう。
先週記事にした、天国からお手紙をくれた友人のお父様。
葬儀で流されたお別れのビデオもそうですが、3年ほど前(病気をされる前のお元気なころ)に準備されていたものでした。
ビデオの中で「みなさん、本当にお世話になりました」とおっしゃっていました。
心から、本当に文字通り「みんな」に感謝の気持ちが伝わってきて、葬儀なのに、見終わった時に会場には拍手が湧き起こりました。
わたしはこう考えます。
わたしはこう信じています。
毎週ここにこうして書いていますが、わたし個人の考えにすぎません。
宮﨑神父様から「(あなたを信頼しているから)好きなように書いていい」と言われてこうして毎週更新するようになり、8年ほどになりました。
読んでくださる「みなさん」が、ある信者の考え方だと大きな心で受け止めてくださっていると良いのですが。
+++++++
パリを旅行中の友人が、今のノートルダムの様子を送ってくれました。
修復工事はだいぶん進んでいるようです。