それぞれ、個性
先週は、イエズス会の中井 淳神父様がミサを司式してくださいました。
そして、昨日はイタリア留学を終えて帰国された船津 亮太神父様が、留学仲間のベトナム人の神父様と共に久留米教会に早速来てくださいました。
当然のことですが、わたしたちと同じように、神父様方も色々な方がいらっしゃいます。
(もちろん、それが嬉しいことです。だって、どの司祭も同じようなタイプだったらつまらない。。。。)
わたしはそんなに多くの神父様を存じ上げているわけではありませんが、これまでお話しする機会のあった神父様は、どなたもとても魅力的な、そして個性的な方ばかりです。
1番最初の大きな出会いは、大学生の時に参加したイエズス会の黙想の家で指導してくださった神父様です。
身体の大きなスペイン人のおじい様で、わたしのことを「わが子よ、わが子」と、それ以来ずっと気にかけてくださっていました。
イエズス会の黙想会は沈黙の時間を大切にするそうですが、ギハーロ神父様は、他の参加者が部屋に戻った後にわたしを呼び寄せて、「どうして参加したのですか」と話しかけてくださったのでした。
洗礼を受けて間もない頃でしたので、神父様にはこういう方もいらっしゃるのか!ととても嬉しくなりました。
洗礼は体の汚れを取り除くことではなく、
正しい思いを保つ約束を神にすることなのです。
(1ペトロ3・21)
若い頃は、人と同じように行動してあまりはみ出さないように、と頭の中では考えていました。
ですがやはり、わたしは個性が強すぎるのか、あまり上手に人と足並みを揃えることができないことが悩みでもありました。
今やっと、「このわたしの個性は与えられたお恵み」と思えるようになり、ようやく自分に自信を持って生きていると公言できる気持ちです。
先週の中井神父様も、かなり個性的な方でした!
お話しされていた時に突然、「あんなこといいな、できたらいいな」と聖堂内を歩き回りながらドラえもんを歌い出し、「どこまでもドア〜〜〜!!」と。(^_^;)
何事?!と唖然とするわたしたちに、
「イエス様はわたしたちをどこにでも、ではなく、どこまでも連れて行ってくれる、どこまでも付いてきてくれるんです。
だから、イエス様はわたしたちの『どこまでもドア』なんですよ!」
主よ、あなたは、すべてにおいてご自分の民を高め、彼らに栄光を与え、彼らを見捨てず、いつでもどこでも彼らの傍らに立っておられた。
(知恵の書19・22)
そして、昨日の船津神父様。
侍者が鳴らす9時のベルと同時に祭壇に登場された神父様を見て、とても驚きました。
「え、男っぷりが上がってる!」
失礼ながら昔から存じ上げているので、その表情と佇まいが自信に満ちているというか、キリッとしたイケメン(本当に失礼)になられている感じがして、思わず涙ぐんでしまいました。
「3年前の5月に久留米教会で共にミサを祝い、その翌日からローマに3年間留学しました。
わたしは文字通りに旅をしていたわけですが、皆さんもそれぞれに人生を旅しておられたことでしょう。」
そうお話しされる神父様は、やはり変わらず誠実で、キリッとした優しさの方で、その上に何か確固たるものを得てこられた自信を感じさせる様子でした。
宮﨑神父様も、ジュゼッペ神父様も、とても個性的で愛すべき方です。
こうして、色々な神父様方と信徒仲間たちとの時間を共有できる日曜日は、素晴らしいお恵みの時間です。